9240万キロメートル
もうすぐ日付が変わろうかという時刻にもかかわらず、休日の池袋は人で溢れかえっていた。
門田は、先ほど仕事を終えて池袋に帰ってきたところだった。今日の仕事場は都内のとある刑務所で、そこの浴場の壁の修繕依頼だった。贅沢さなど望むべくもない刑務所の浴場は、風呂場として必要最低限の機能のみを備えたまったく味気のないものであったが、門田は物理的にあるいは目に見えないものに縛られた受刑者たちの心が入浴の時間だけでも解き放たれるようにと、落ち着いた深いブルーのタイルを丁寧に張り替えた。自分でも満足のいく出来栄えだったが、それが受刑者たちの心に届くかどうかは、彼ら次第だと思っている。
休日などない刑務所での仕事だったので、駆け足気味のハードスケジュールだった。報酬の割はよかったが、さすがに少し疲れた。門田は早く家に帰ろうと足を急がせた。
派手な化粧をした若い女、それをナンパする金髪の男、こんな時間にうろうろしていたら補導されてもおかしくないような年端もいかぬ子供たち、人目も憚らず路上でキスをするカップル、酔っ払って道端に蹲る大学生らしき青年、たむろして大きな笑い声を上げる不良たち。
決して上品とは言えぬ池袋の街を、人を縫うようにして歩きながら門田は思う。
(平和だな)
カラーギャングだの首無しライダーだの妖刀だの、ファンタジーもかくやと言わんばかりの摩訶不思議な出来事がこの街を跋扈していたのはほんの少し前の話だ。
今、カラーギャングはすっかり鳴りを潜め、黒バイクは噂だけを残して姿を消し、生ける伝説と言われる平和島静雄も近頃はめっきりおとなしくなった。それもこれも、この街から、一人の男が消えたからだ。
(あいつがいなくなった途端こうして池袋が『普通の』街になって、改めて感じるな。あいつがいかにこの街を、人を、引っ掻き回していたかってこと)
門田はやれやれと、凝り固まった肩を回した。街が平和なのはいいことだ。門田は、この美しいとは言い難い混沌の街が好きだった。
五月とは言え、深夜にもなると少し肌寒い。門田はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。と、そのタイミングを見計らったかのように、ポケットの中の携帯電話が震えた。しばらくポケットの中で携帯電話を握りしめたまま待ってみるが、二回、三回と振動が続くのでメールではなく電話と知れた。
(こんな時間に誰だ?)
残念ながら、こんな時間帯に電話を掛けてくる非常識な友人に数名心当たりがないわけでもない。狩沢か? カズターノか? と携帯電話を取り出してみると、そこには十一桁の知らない番号が表示されていて、門田は再び首を傾げた。
(誰だ?)
少し警戒しつつも門田には微かな予感があって、留守番電話に切り替わる直前に通話ボタンを押した。
「もしもし?」
電話の相手は黙ったままだ。
「臨也か?」
わずかな沈黙を挟んで、彼は答えた。
「……ドタチン」
電話越しの声は少し遠く頼りなくて、門田は受話器をぐっと耳に押しつけた。
「……ドタチンって言うな」
門田がお決まりの文句を言うと、電話の向こうで声もなく笑う気配がした。
「ドタチン、久しぶり」
「ああ、久しぶり。元気か?」
「それなりに。ドタチンは?」
「元気だよ」
ぎこちなく言葉を繋いでいく。
「怪我、酷いんじゃなかったのか」
不機嫌になるかと思いながらも確かめずにはいられなくて尋ねると、臨也は案外あっけらかんと答えた。
「まあね。さすがに今回は死ぬかと思ったけど。周りが死なせてくれなかったよ、何故かね」
「悪運の強い奴め」
半ば呆れながら悪態をつくと、臨也は今度は声を上げてケラケラと笑った。ひとまず元気そうで安堵する。
「今、どこにいる?」
「んー……」
臨也は言葉を濁すように何か口の中でもごもごと言った後、ひどく曖昧な声で答えた。
「北の方だよ」
ずーっとずーっと北の方。
門田は耳を澄ました。電話の向こうは静かで、物音も、人の声も気配もしない。門田は静けさの中にある臨也の音を聞き取ろうと、一層受話器に耳をぴたりとつけた。門田の耳に直接息を吹きこむように、臨也が囁いた。
「ああ、人の音がするね」
臨也も、受話器にぴたりと耳を押し当てて、こちらの音を聞いているのだろう。
浮かれきった大学生たちのぎゃははという笑い声、客引きをする水商売の女の声、若いカップルの派手な喧嘩、誰かの怒鳴り声、店のBGM、クラクション、人の行き交う気配。
門田が縫い歩き通り過ぎていく池袋の音を、臨也は一心に聞いている。彼が愛した混沌の街に暮らす人々の音。門田は少し遠回りをして帰ることにした。
臨也のいる北の地に思いを馳せる。街灯はない。家の明かりもない。ただ黒々とした大地が延々と続いていて、臨也は人気のないそのただ広い場所に立ち竦んでいる。夜空にはきっと満天の星が輝いているだろうが、臨也はそんなことにはまったく目もくれず、ひたすら人のいないことに絶望している。
門田は、池袋の街明かりに照らされた空を見上げた。白く靄がかった空に星を見つけることは難しかったが、ただ一つ、ビルの頭に引っ掛かるように赤く輝く明るい星が見えた。
「火星だなぁ」
独り言のように呟くと、臨也も空を見上げたようだった。
「たくさん見え過ぎてわかんないよ」
「南の空だぜ。仰角50度ぐらい」
しばらく探しているような間があり、「ああ~、あれね」と、興味のなさそうな声が聞こえた。
「なんか、変な感じだな」
「何が?」
「お前は今、池袋から遠く離れたどこか俺の知らねぇ土地にいるんだろうに、こうして同じ星を眺めていると、この頭の上に見えている空はお前の頭の上まで繋がっているんだなぁ、とか」
「ドタチンって、そんなロマンチックな奴だったっけ?」
臨也は呆れたように言った。
「あの星は、今地球から約9240万キロメートルも離れたところにあるんだよ。同じものを見ているから近くにいるんじゃなくて、見ているものが遠くにあるから同じものが見えるんだ」
わかるかなぁ、この違い。と、臨也は子どもに言い聞かせるような口調で言った。
それに、と臨也は続ける。
「同じ空の下にいる者がみんな繋がっているとして、それでも君は俺の顔を見ることはできないし、俺は君のいる池袋の街に立つことはできない。物理的な距離は、どんなロマンチックな空想でも埋めることはできないのさ」
臨也はここで少し黙り、そして寂しそうに笑った。
「ここは人が少ないよ」
「帰ってこいよ」
自然とそう口をついて出た。自分でもそんなことを思っているなんて知らなかったので、門田は少し動揺した。そんな門田の動揺を知ってか知らずか、臨也は「そうだなぁ……」と呟いたきりだった。
彼らしくもない煮えきらない返事に、やはり変なことを言ったと後悔した門田が、「みんな心配しているぞ」と取ってつけたように加えると、途端に臨也は弾かれたように笑った。
「傑作だ!!」
みんな……心配してるって……!!
ひぃひぃと噎せるまで笑う声が、受話器から漏れ出して池袋の雑踏の音と溶け合った。目を閉じると、まるで臨也がこの街に、門田のすぐ隣に立っているような気がして、臨也にはやっぱりこの街がよく似合うと思った。
目を開けてふと顔を上げると、交差点に建つビルの電光掲示板の時計が、0時に変わったところだった。
(ああそうか、今日は)
「臨也、誕生日おめでとう」
臨也はピタリと笑いを止め、しばらくの沈黙の後、
「君のそういうとこ嫌いだよ」
と悔しげな声で言った。
「俺はお前のそういう人間らしいところ、結構好きだぜ」
死ねよ、とか、バカ、とか、二言三言悪態をつかれて通話は切れた。
門田はパタリと携帯電話を閉じて、くっくっと肩を震わせて笑った。
(あいつ、あれで案外わかりやすいんだよなぁ)
通りすがりの人が数人怪訝な顔をしてこちらを見たが、門田は気にせずニヤけた顔のまま空を仰ぎ見た。
揺らぎもせず輝く赤い星は臨也の瞳に似ていて、じっと池袋を見下ろしている。
「9240万キロは、ちっと遠いぜ、臨也」
呟いた声は、薄明るい夜空に溶けて消えていった。この空は間違いなく臨也の頭上まで繋がっているのだと思うと、門田は無性に楽しくなった。
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