ブラックコーヒーにミルク

 たまに、新羅の家に行く。治療や、運び屋への依頼以外でだ。

運び屋のいない日、川越街道沿いの新羅のマンションを訪ねる。呼び鈴を鳴らすと、新羅が出てくる。彼は、やあ、と言ったきり、黙って俺を家に上げる。そういう時、何しに来たのと聞かれたことはない。
新羅はコーヒーを二人分入れ、俺と並んでソファに腰を掛ける。俺のコーヒーには角砂糖を一つ、自分のコーヒーはブラック。いつも一緒だ。
いつ作ったのか、新羅のコーヒーカップには自身の似顔絵が描かれていて、それとペアで運び屋のカップがあることを俺は知っている。俺に出してくれるカップは真っ白な無地の何の特徴もない陶器で、きっといくつも同じ物がある内の一つだ。
俺は、甘いコーヒーを苦々しい気持ちで飲む。新羅は涼しい顔でブラックのコーヒーを啜る。
日頃よく口の回る俺と新羅が二人でいたら、丁々発止のやりとりが繰り広げられることを皆想像するだろうが、俺たちは二人でいる時、意外なほどに喋らない。
俺が黙って携帯を弄っている隣で、新羅はさして難しい顔もせず小難しいドイツ語の医学書を読んでいる。下界の車の音も入らない高層マンションの最上階で、俺が携帯を打つカチカチという音、新羅がページをめくる紙のこすれる音、時折コーヒーカップをテーブルに置くカチャリという音だけが静かに響く。
俺は携帯を弄りながら、全神経を新羅に向ける。新羅は目の前の医学書だけに意識を向けている。
新羅、新羅、新羅。
 携帯を弄る指を止めずに、心の中で新羅の名前を呼ぶ。
 新羅、新羅、新羅。
 彼はきっと気付いているが、特に何の反応を示すでもない。彼にとって、運び屋以外の何者が彼の名前を呼ぼうが、分厚い医学書のページをめくる何の妨げにもならないし、ブラックコーヒーの苦みを和らげるミルクにもならない。声に出そうが出すまいが、俺の気持ちが新羅に届くことは永遠にないのだ。だから新羅は気付いていても気付かないふりをし、俺は、気付かれていることに気付いていないふりを続ける。
 俺は空になったコーヒーカップをテーブルに置いた。
「ごちそうさま。帰るよ、新羅」
 新羅は医学書から顔を上げ、俺を見てニコリと笑う。
「ああ、またおいで」

 新羅は、運び屋がコーヒーを飲めなくとも彼女専用のカップを作り、彼女が彼の名前を呼ばなくとも愛の言葉を紡ぐ。俺はそれを確かめに、またこの家を訪れるのだろう。


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