半分の涙
ある晩、門田は新宿での仕事を終え、池袋への帰路をのんびりと歩いていた。冷夏のせいか、七月半ばになってもなお朝晩は涼しく、秋の入りのような季節感を錯覚させた。
心地良い夜風が渡る空の下、道を行き交う人々の足取りは軽い。門田も例外なく良い気持ちで、このまま池袋の自宅まで歩いて帰ろうか。晩飯は、途中で飯屋に入ってもいいし、コンビニでビールを買って家でゆっくり一杯してもいい。などとつらつら考えながら歩道橋を渡る。
新宿の街明かりで空は赤く霞掛かっていたが、東の方角にぽつりぽつりと取り残されたような星が見えた。あれは夏の大三角形というやつだったかなあと、中学時代の記憶を辿っていると、
「ドタチーン」
ふいに、後ろから声が掛かった。
世間から数センチ浮き上がったような爽やかな声で自分のことをドタチンと呼ぶ失礼な人間には、一人しか心当たりがなかった。
「臨也」
振り返ると果たして、夏でもファーコートの黒尽くめの男が陽気に手を振っていた。
「よお」
門田も軽く手を上げる。
臨也は急ぐでもなく、右手をひらひらさせながら近付いてきた。
「やあ、奇遇だねぇ。今日はこっちで仕事だったの?お疲れさま」
「まあな。お前も仕事帰りか?」
臨也の仕事に勤務時間などあるのだろうかと思いながら、社交辞令的に門田は尋ねた。臨也はくすぐったそうに首をすくめ、
「そう、仕事帰りだよ。…なんかそうやって聞かれるの新鮮でいいね」
と、ふふふと笑い声をもらした。
しばらく二人並んで無言で歩く。人の波に軽やかに乗り、臨也は鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌だ。
やっぱり電車で帰るかなぁ。新宿駅が目に入り、門田はそう思った。じゃあ俺はこっちだから、またな。と言おうとした矢先、臨也がくるりとこちらに向き直った。
「ねえドタチン、せっかくだからうちで飲もうよ。久しぶりに来神の級友同士、杯を酌み交わそうじゃないか」
臨也は自宅である高級マンション前のコンビニで、缶ビールや缶酎ハイを片っ端からかごに入れた。門田が財布を出そうとすると、いいよぉ、今日は俺が誘ったんだから。と、さっさと支払を済ませてしまった。
せめてとばかりに、臨也の部屋までの短い距離を、缶ビールや缶酎ハイの詰まったビニール袋を提げて行く。臨也はつまみの入ったビニール袋を振り回して歩く。
この高級マンションには何度か所用で訪ねたことはあったが、友人として招かれたのは初めてだった。余計な装飾はほとんどないが殺風景ということはなく、程よく人間の生活臭が漂っている。門田の好みからすると少々片付きすぎているきらいはあるが、なかなか居心地の良い空間だった。高校時代の臨也の部屋は今のこの部屋より雑然としていたものの、どこか無機質で人間臭さの感じられない部屋だったので、これは臨也が変わったのか、それとも優秀な美人秘書のお陰かと考えて、門田の胸は一瞬、チリ、と焼けた。
床より一段下がった所に誂えたローテーブルに所狭しと缶ビールと缶酎ハイとつまみを並べ、門田と臨也は乾杯をした。缶と缶のぶつかる間抜けな音は高級マンションに不釣合いで、二人は顔を見合わせて笑った。
臨也のペースは早かった。そんなに酒に強い方ではなかったと思うのだが、上機嫌でどんどん新しい缶を開けた。酒が入ると、いつもよく回る臨也の口はますます滑らかになって、高校の同級生のあの子が結婚しただの粟楠会の下っ端構成員に俺に気がある奴がいるだの池袋の妖刀がどうしただの、あることないことを止め処なく紡いでいく。内容についてはさして興味もなかったので、いつもの戯言と大半を聞き流し、ただ臨也の声はBGMには心地良いと思いながら門田も新しいプルタブを開けた。
と、カセットの停止ボタンを押したように、唐突に臨也の声が止んだ。見ると、臨也が泣いている。片手に缶酎ハイを持ったまま、少し俯いて、ぽろぽろと涙を零している。
「臨也?どうした」
門田は驚いて体を起こした。臨也は答えようと口を開いたが、しゃくりあげるような吐息が漏れるばかりで言葉にならない。
「腹でも痛いのか?」
そんなことではないと思いながらも聞いてみると、臨也はふるふると首を横に振り、右手を上げて、ちょっと待ってのポーズを取った。口はわななきながらも苦笑いを浮かべている。
「いい、いい。焦んなよ」
門田がそう言って頭にポンと手を置いてやると、臨也はこくこくと頷いて、一層激しく喉を震わせた。
門田は臨也の頭を撫でながら、缶ビールを一口飲んだ。
臨也の泣いているところは初めて見た。しゃべれないほど涙を流しているにも関わらず、顔を歪めることもなく、瞳の色は冷静だ。いつも通りの赤茶色の瞳に、薄い涙の膜が張って揺らめいている。何故か、涙を流しているのは右目だけだった。右目からだけ、湧き出す泉のように絶え間なく涙が盛り上がっては、目の縁に留まりきらずポロポロと零れ落ちていく。
不思議なもんだなぁ。
門田はそれを眺めながら、臨也の頭を撫で、また缶ビールを一口飲む。
どのくらいそうしていただろうか。門田は缶を一つ空け、ローテーブルにカコンと置いた。臨也は少し落ち着いたのか、時折すんすんと鼻を鳴らすだけになっていた。右目からは変わらず涙が流れ続けている。
「時々…」
鼻声で臨也がしゃべった。
「ん?」
門田は促すように髪を梳いた。
「時々ね、こうして、俺の半分だけが、泣くんだ」
一言しゃべってはしゃくりあげ、また落ち着いたらぽつりと言葉を落としていく。子どものようにたどたどしい臨也の言葉を、門田は零さないように丁寧に受け止めた。
「こんな風に…はぁ…右目からだけ、涙が」
「うん」
門田は短く相槌を打つ。臨也はまたこみ上げてきたのか、唇を噛んで肩を震わせた。門田はじっと、臨也の言葉が零れ落ちてくるのを待った。ふ、と息をついて、臨也が一つまばたきをした。一際大きな涙の粒が、コロンと右目から転がり落ちた。
「何で涙が出るのか、わ、わからない。わからないんだよ」
臨也は門田の肩に額を押し付けた。門田は黙って臨也の肩を抱いた。しゃくりあげる体を、宥めるように優しく抱いた。
臨也にはきっと、言葉にできない言葉の部分があるのだと思う。日頃流れるように紡ぐ虚偽真実悪意善意の数々や、叫んだり或いは慈しむように囁いたりする人間愛は臨也の心のほんの半分で、もう半分に、臨也自身も理解しきれない心の堆積物がある。それは臨也がいらないと判断したものだったり、忘れてしまったものだったり、気付きたくなかったものだったり、もっと無意識の内に排除されたものだったりして、臨也は見て見ぬふりをしている内に、その堆積物を言葉に変える術を忘れてしまった。堆積物はふとした弾みで掻き乱されて、舞い上がる。そんな時、臨也のもう半分の心は、言葉にできない言葉を涙に変えて流すのだ。
臨也の、言葉になれなかった言葉たちが、門田の服に染み込んでいく。温かい涙は空気に触れ、すぐに冷たくなった。
これを舐めたら、臨也のすべてを理解することができるんだろうか。
門田は、臨也の顎を持ち上げた。臨也の瞳の泉に、門田が映っている。門田は、右頬に流れる涙の痕に唇を寄せた。しょっぱい味しかしなかった。
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