廿日月
廿日頃の月が好きだ。人間の臓腑のような歪な楕円が、茫洋と輝いているのが好きだ。
折原臨也は、新宿の雑居ビルの屋上に一人いた。時折明滅する蛍光灯が、コンクリートの足下に薄い影を作る。
彼にとって、美しい自然も幻想的な天体模様もそれらに心を動かされる人間を観察するための一事象に過ぎなかったが、この不格好でほの暗い月が昇る時には、必ず空を仰いで呆然とした。今、月は、地平を覆い夜空を浸食するビルヾの谷間から頭を覗かせたところであり、夜更けのいっそう明々とした白い煌めきの中で、巨大な赤い染みのように沈んで見えた。
彼は常に浮かべている酷薄な笑みを消し、無表情に月を眺めた。
「誰も、あんたを見ていない」
彼は月に向かって真面目くさって告げ、それから可笑しくなって少し笑った。
新宿の狭い夜空を廿日月が渡っていくのは、決まって人々が寝静まる頃で、こんなに巨大な異形が頭上を通過しようとしているのに、人々は気にも止めないでいる。彼にはそれが可笑しくて仕方がなかった。
「暢気なもんだねぇ、君たちは」
彼は薄笑いを浮かべたまま、視線を下界に移した。
薄暗い雑居ビルの屋上からだと、新宿の街は眩しすぎて人の姿まで見ることは叶わなかったが、彼には、日付が変わるギリギリまで働くサラリーマンや、今夜彼女を家へ泊めようと画策する青年や、子どもを寝かしつけてほっとテレビを付ける母親が、手に取るように想像できた。
そうして、それらの人間に思いを馳せるにつけ、彼の心臓は不規則に跳ね上がった。跳ね上がった後恥じらうように収縮し、細やかな空泡が堪えきれずふつふつと血液中へ放たれた。泡は血流に乗って体中を駆け巡り、歓喜の言葉をまき散らす。全身の細胞が共鳴し、声を震わせて歌う。彼は、己の体内にじっと耳を澄ませた。
幼い頃から人間が好きだった。保育所や近所の子どもたちが犬や猫や車に興味を示すのを横目に、彼が手を伸ばそうとするのは決まって人間だった。周りの大人たちは人懐こい子だと彼をかわいがったが、「人間が好き」という彼の言葉には、笑うばかりで一向に取り合おうとしなかった。
彼は注意深く人間を観察したので、程なくしてそれが「普通」ではないことに気付いた。そして、「普通」ではない人間は日常を生きにくいことも観察によって知っていたので、彼は殊更「普通」の人間のように振る舞った。
なぜ人間すべてを愛することが「普通」ではないのだろう。犬が好き、猫が好きという人は、犬猫という種全体を愛して許されるのに、どうして人間という種全体を愛してはいけないのだろう。
(それは、俺が、人間だから)
三月の下旬とは言え、深夜も近付くとまだ肌寒い。彼は身震いをし、コートの前を掻き合わせた。
人が犬猫を愛するように彼が人間を愛でるには、彼が人間でなくなる必要があった。彼は「普通」に振る舞うことを止めた。己の体から湧き上がる歓喜の声に忠実になり、衝動に任せて人間愛を叫んだ。
しかし、どんなに彼が「普通」を逸脱しようと彼はあくまで人間であり、単なる「普通でない人間」にしかなりえない。人間すべてを愛することは、そこに自己が含まれていては完成しないのに、彼にはそれができないのだ。
彼は再び廿日月を見上げた。頭上近くに昇った月は、変わらず茫洋として下界を見下ろしている。月にとっては彼も彼の愛する人間も、等しく地球上の一事物に過ぎない。
一際大きな瞬きの後、蛍光灯が消えた。異形の月は、彼の羨望と絶望を受け止め、一層赤黒く煌めいて見えた。
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