赤黄色の金木犀
ラジオで、アナウンサーがリスナーからのはがきを読み上げている。
「今年も、金木犀の花が咲きました。我が家の庭は、秋の香りに包まれています」
折原臨也は、コーヒーカップを片手に窓を開けた。すっきりと高い空の遥か上空を、ちぎれちぎれに雲が行く。少しひんやりとした朝の空気を吸い込むと、確かに、赤黄色のまったりとした香りが、高層マンションの最上階にも届いた。
臨也は、コーヒーにも口をつけず、ぼんやりと下界を見下ろした。ここからだと、小ぢんまりと葉を茂らす低高木の姿を見極めることは難しい。しかし、生き物のように存在感を放つその芳香は、どこまでも追いかけてきては纏わりつき、鼻腔を潜り、額の裏を通り、直接前頭葉に語りかけた。鼻から脳までを占領されると、臨也の頭はもう、あの日のことばかり思い出してしまうのだった。
高校二年生の秋、金木犀の花の下、門田と初めてキスをした。
門田とは、来神高校の二年目で同じクラスになり、程なくして付き合うようになった。正確には、付き合っているとは言わなかったかもしれない。互いに好きと伝えたことはなかったし、付き合おうと宣言したわけでもなかった。ただ、気付いたら二人でいることが多くなり、屋上で一緒に昼食を食べ、放課後一緒に図書室へ行き、気が向いたら手を繋いで帰った。それだけだった。
10月に入ったというのに、その日は夏が戻ったように蒸し暑く、高い空から遮られることなく降り注ぐ太陽が、二人の首筋に照りつけた。いつものように、臨也は学校で起こった(若しくは彼が引き起こした)出来事を面白おかしく語り、門田はそれに適当に相槌を打ちながら、合間に、最近読んだ本の話などをした。いつものように、話し飽きた頃、臨也は門田の指に自分の指を絡ませた。いつものように、門田は遠慮がちに、臨也の指先を包み込んだ。照りつける太陽のせいか、近付いた体はいつもより熱かった。
黙った二人の鼻腔を、あの、赤黄色の香りがくすぐった。
「あ、」
金木犀、咲いたねぇ。
そう続けようとした臨也の手を、門田が強く引っ張った。金木犀の木の下に引き込まれ、何を考える間もなく唇が重ねられた。弾みで木にぶつかり、パラパラと零れた花が一際強く香った。濃厚な香りに酩酊したように、二人は何も考えられず、ただ本能のままに唇を吸い合った。すがりついた門田の学ランが、太陽の熱を帯びて温かかった。合わさった心臓が、どちらのものともわからずただ脈々と血液を送り出しているのを感じた。視界は赤黄色一色だった。太陽の熱と高い体温とで立ち上る蒸気も赤黄色だった。このまま二人、境目も何もなくなって、溶けて、蒸発して、永久に分離できない粒子に変わってしまうのではないかと思った。
思考まで溶けてわからなくなった頃、ようやく二人は唇を離した。酸素が足りないのか匂いに酔ったのか、偏頭痛のように右後頭部がズキズキと脈打っている。隠しようのない熱が、欲望が、門田の全身から滲み出しており、臨也はきっと自分も似たような様子なのだろうと自覚して、居たたまれない気持ちになった。
抑えきれない熱に流されるまま、その日の内にセックスをした、痛くて気持ちよくて幸せだったはずなのに、その時のことは実はあまりよく覚えていない。その後も何度か体を重ねたが、臨也が繰り返し思い出して狂おしい気持ちになるのは、あの金木犀の花の下でのキスのことだった。
付き合い始めは曖昧だったが、二人の別れは明瞭だった。来神高校の卒業式の日、臨也は門田に「じゃあね」と言った。
門田は一呼吸置いて、
「ああ」
と答えた。それで十分だった。
以来、たまたま門田と街で出会うことはあっても、他愛のない挨拶を交わすのみの関係だ。互いに飽きた訳でも嫌いで別れた訳でもないから、気まずくなることはない。臨也が門田に別れを告げたのは、タイミングと、これから道を分かって生きていくという自覚と、ほんのちょっぴりの逃げだった。門田にはわかっていただろう。
臨也はコーヒーに一口も口をつけないまま、テーブルの上にカップを置いた。ラジオを消し、携帯電話を取り上げる。
情報屋の仕事に休日などあってないようなものだが、今日は一日ノープランだ。幸い世間でも日曜日だし、門田も休みだといいと思った。そして、門田も、この金木犀の香りにあの日のことを思い出しているといいと思った。臨也は携帯電話のボタンを押した。
呼び出し音を数える間、細く、長く、深呼吸をする。
「……もしもし」
金木犀の香りが胸を満たす。それに励まされるように、臨也は口を開いた。
「もしもし、ドタチン。うん、久しぶり。あのさ、今日…」
フ/ジファブリック 「赤/黄色の金木犀」
back