夏の終わり

 夏休みも終わりに近付いた日のことだった。その日は来神高校の登校日で、厳しい残暑の太陽が、まだ日の高い内にそぞろ帰る生徒たちを容赦なく突き刺した。
 あちーだりーアイス買って帰ろうぜー。
 長く続いた夏休み中の登校日は、いい加減遊びも出尽くし蔓延する退屈を過ごしていた生徒たちの一つのアクセントとなる。彼らは気だるげな言葉を吐きながらも、その声は弾んで青空によく似合っていた。
 門田はそんなざわめきを抜けて、一人図書室へ向かう道を歩いた。夏休みに入る前に借りた大量の本はすでに読み終えてしまい、残り一週間ほどの休日を過ごすための新たな本を探したかったのだ。
 図書室のある棟は特別教室ばかりが入っており、今日のように授業のない日は閑散としている。生徒たちの喧噪が遠のき、決死の覚悟でラストスパートをかける蝉の声が、一際大きくわんわんと門田に降りそそいだ。
 濃い緑が影を落とすコンクリートの渡り廊下を歩くと、いくつか蝉の死骸が転がっていた。使命を全うしたのか果たせずに死んだのかはわからないが、天に向かって微かに手を合わそうとするその姿は、己を神に捧げる敬虔な信者のようで、見る者を厳かな気持ちにさせた。
 門田は、蝉の死骸を丁寧に避けながら歩いた。転がった背中から、規則正しく蟻の行列が続いていた。

 ふと、熱風の中に一片の冷気を感じ、門田は顔を上げた。水蒸気のように微細な水しぶきが、瞬間、体を通り抜けていく。門田は誘われるように風の来た方を見た。
 臨也だった。臨也は少し離れた中庭で、庭木用の緑のホースを振り回し、一人遊んでいた。
 ホースの口をつぼめたり開いたり、緩急自在に大気中に水の曲線を描き、かと思えば、ひたすら勢いよく水を噴き出して乾いた土を抉った。軽やかにステップを踏みながらホースと水を操る姿は異国の宗教の踊りのようで、門田はしばらく呆然とそれを見ていた。
 不意に足下で水が跳ね、門田は我に返った。
「ドタチン!」
 門田を見つけた臨也が、無邪気に手を振っていた。遠くに飛ばそうと目一杯つぼめたホースの口から、容赦なく鋭い水が噴き出している。
「えーい」
 脳天気な掛け声で、臨也は門田の足下に水の攻撃を仕掛けてきた。
「おい!止せ!」
 思わず横っ飛びに飛び退き、その弾みで蝉の死骸を踏んだ。クシャリと、何の抵抗もなく門田の靴の下で蝉の腹が潰れた。あ、と思ったのも束の間、ホースの水が再び襲い、蝉の死骸を押し流した。蝉はずずずと数センチ動いた後呆気なく横倒しになり、合掌していた左手がもげた。蝉の背中から一糸乱れぬ行進をしていた蟻たちは、慌てふためいてその場でくるくる回った。
「あはは!」
 己が神だと言わんばかりの傍若無人さを見せながら、臨也の笑い声は突き抜けたように明るかった。
 笑い声が、蝉のわんわんという声と共に、門田の脳内でこだまする。くらくらした。腹を砕かれ片手を失った蝉の死骸が、真っ黒な目で門田を見ていた。敬虔な信者の姿はもうどこにもない。あるのはグロテスクな虫の殻だけだ。
「暑いねえ」
 いつの間にか、すぐ近くまで臨也が来ていた。今は勢いを弱め力なくたらたらと水を流し続けるホースを、おもむろに己の頭上に掲げた。
 止める間もなく、臨也が濡れていく。透明な水が、彼の黒い髪を濡らし、日に焼けた赤い頬を濡らし、真っ白なシャツに染みを作った。
 臨也は水の膜の向こうで門田を見ている。
「暑いねえ、ドタチン」
 わんわんわんと、警鐘が鳴る。横倒しになった蝉の死骸のように、くるくる回る蟻の群れのように、臨也の視線の前ではすべてが剥きだしで真実の姿だ。門田とて例外ではなかった。
 子どもよりも無邪気に微笑む邪気のかたまりが、確信を持って門田に迫る。赤茶色の瞳が門田を捉えた。
「臨也」
 門田は臨也に手を伸ばした。夏の終わりのことだった。


back