月に馬鹿野郎

「何してんだお前」
 門田は、路地裏に転がる黒い塊に、呆れた声を投げかけた。
 最近めっきり日の落ちるのが早くなり、街灯の途切れた路地裏は薄ぼんやりとして見えにくい。その中で、通りすがりにも目に留まるほどそれは黒く、染みのようにじわりと存在感を醸し出していた。
 黒い塊はもぞりと動いて言った。
「お月見だよ」

 ふうんと声を漏らして、門田は仰向けに寝転がる臨也の側にゆっくりと近付いた。臨也はゴホっと軽く咳をして、苦しそうに顔を顰めた。よく見ると、頬が擦れて血が滲んでいる。きっと、体中痣だらけになっているのだろうと想像がつく。
「なんだ、立てねえのか」
 臨也はふんと鼻を鳴らした。
「立てるよ。だからさ、お月見だって」
「ああ、今日は」
 中秋の名月だったなあ。と夜空を見上げた。月は、路地裏から見上げる狭い夜空にちょうど顔を出したばかりのようだった。雲はなく、空はどこまでも深い。そこに瞬いているはずの星々は、今宵は満月の光に遠慮したかのようにその姿を消していた。濃紺の空に、炯々と輝く月がただ一つ。
「いい月だな」
 門田が呟くと、臨也はなぜか自慢げに、
「そうだろう」
と口の端を上げた。
 しばらく二人で黙って月を眺める。時折表通りを車が走り過ぎる音が聞こえたが、別の世界の出来事のように遠くに感じた。こちらの世界にあるのは、濃紺の空と、空に浮かぶ月と、隣に寝転がる黒い男だけだ。その世界を守るように、秋の虫の音が取り囲んでいる。
 フィーフィーフィー、リーリーリー、チンチンチン。
 コオロギ、スズムシ、カネタタキ。
 門田は無意識に秋の虫の名前を思い浮かべる。月が輝けば輝くほど、立ちのぼる虫の音は厚みを増し、この世界を完璧なものにした。
 ふいに臨也が大声を上げた。
「シズちゃんの馬鹿野郎!」
 月に向かって、少し掠れた声で怒鳴る。
「シズちゃんの、馬っ鹿野郎!!」
 月明かりに青白い陰影を浮かべる臨也の整った顔は、言葉とは裏腹に楽しげで、うっすらと笑みさえ浮かべている。
 濃紺の空と、空に浮かぶ月と、隣に寝転がる黒い男と、そして自分と。虫の音に囲まれて守られた完璧な世界が邪魔されたような気がして、門田は面白くなかった。
 なので、門田も月に怒鳴った。
「静雄の馬鹿野郎!!」
 臨也が驚いてこちらを見る気配がしたが、気に留めずもう一度叫ぶ。
「大馬鹿野郎!!」
 ふはっと、臨也が吹き出した。
「いいねドタチン」
 そして彼ももう一度叫ぶ。
「馬鹿野郎!!」
 おかしくなって、顔を見合わせて、二人で大きく吹き出した。あっはっはと腹を捩じらせて笑う。笑って笑って、笑い疲れた頃、顔を寄せ合ってキスをした。


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