ハードミントの恋

 もう何時間も会話をしていない。新宿の高級マンションには、外界のサーッという雨の音と、臨也がパソコンのキーボードを叩く音と、波江がファイルを持って移動する衣擦れの音だけが、内緒話のようにひそやかに、切れ目なく続いていた。それは、このおしゃべりな雇い主のいる事務所においては珍しいことだった。
 しかし、だからと言って波江は、「どうしたの」と尋ねることなどしない。今彼女が考えていることと言えば、与えられた仕事を最大限に無駄なく片付けるための順序を組み立てること、いつの間にか仕事の一環となってしまった雇い主の夕食の献立と冷蔵庫の中身のこと、あの忌々しい首のこと、それから。
(誠二……)
 頭を巡らせながらも休みなく動き続けていた彼女の手が止まった。
 彼女のただ一人の、愛しい弟。いや、愛しいという言葉には収まらない。彼女の愛は、肉親に向けるにはあまりに激しく、生々しいものだった。弟を思うと心臓が沸騰したようで、喉元から子宮までがふつふつと落ち着かなく湧き上がるのを感じた。じんわりと体の芯に点った熱を持て余して吐く熱い吐息すら、弟を思う紛れもない気持ちの表れだと思うと誇らしく、すぐにでも彼の元へ飛んでいって、その形のいい耳に吹きかけたいと思うのだった。
 私が彼の一番いいところを知っていて、一番駄目なところも知っていて、その駄目なところでさえ私は誰よりも深く、真実愛せる。その自尊心が、彼の物理的な一番の隣にいられない彼女を慰めた。
 ふと、キーボードを叩く音が聞こえなくなっていたことに気付いて、雇い主の男を見やった。彼は、ぼんやりとパソコンの画面を見つめたまま動きを止めていた。黒尽くめの服を身にまとった痩身の男は、背後に大きく取られた窓に映る雨の闇に溶け込んで、まるで境目がわからなかった。
 あまりに輪郭が薄らいで、本当にそこにいるのか不安になったので、波江は「臨也」と声を掛けた。臨也は黙って、ゆっくりと顔を上げた。闇の中に、彼の白い顔だけがはっきりと浮かび上がった。彼の赤茶色の瞳が濡れて見えた。波江は気付いた。彼も、恋をしているのだ。思っても仕方のない人を思って、どうしようもない気持ちを、熱を、持て余しているのだ。
 その気付きは、彼女の心象に些かの変化ももたらさなかったが、彼のいる場所と彼女のいる場所とで遠く隔たっていた空間が、その瞬間、一つに合わさったのを感じた。
 同じ部屋にいて、別々の人を思う。思う人も思い方も違うけれども、ほんの少しの共感で、二人の世界は繋がっている。そうやって、この部屋、この街、この国、この宇宙が一つに合わさって廻っているのだ。彼女は、静かな雨のささやきをBGMに、男の薄い瞳を見つめ返しながら、そう思った。


back