図書室の罠
臨也が図書室に来たのは、静雄との追いかけっこに少々飽きてきたからだ。それに、実を言うと、追いかけっこの際に強かに打ちつけた左膝が痛まないでもない。臨也は人気のない夕刻の図書室に身を滑らせ、扉を閉めてほっと息を吐いた。
彼が来神高校の図書室にやってくるのは、今日が初めてだった。小中学校の頃は図書室の本を読み尽くす勢いで通っていたというのに、それもこれも、新羅が余計な友人と引き合わせてくれたお陰だ。新羅と共に来神高校へ入学して一ヶ月。あの化物と出会ってからこの方、一日として退屈したことはないが、命懸けのチェイスゲームがこうも続くとさすがにうんざりしてくる。
久しぶりの古びた本の匂いを、臨也は深く吸い込んだ。この匂いは、嫌いじゃない。
心理学、宗教、歴史、地理、経済、自然科学、工学、美術……
人間の智と権威と顕示欲と誇りが、ひっそりと息を潜めてうずくまる書架の海を、臨也は鼻歌を歌いながら泳いだ。
突然、バフ、カタタン、と、本を閉じて棚に戻す音が聞こえた。無人かと思いきや、人がいたらしい。少々わざとらしく大きな音だったのは、臨也の鼻歌を聞いて、人がいることを知らせたのかもしれない。構うもんか、どれこのまま近付いて、どんな顔をするか見てやろうと、臨也は鼻歌を止めずに音のした方へと向かった。
人の気配のする棚にひょいと顔を覗かせると、学ランにオールバックの強面の学生と目が合った。彼は気まずそうに、再び書架の本を手に取った。
「一年三組、門田京平くん」
臨也はにこやかな笑顔を作って呼び掛けた。不意を突いたつもりだったが、彼は片眉を軽く上げただけだった。この年頃の日本人男子にしては、嫌みなく様になっている。
「驚かないの?」
「知ってる人は知ってるからな」
大人びているのに澄ましたところのない表情になぜか反発心が芽生えて、臨也は嫌味たらしく言った。
「確かにね。入学するなり不良の先輩たちに目を付けられたが、返り討ちにして早々に来神高校の番長に認定された君だから、知らない人の方が少ないかもしれない」
「どうだろうな」
それきり門田は会話に飽きたように本のページに視線を戻してしまって、臨也は面白くなくなった。自分は彼を多少なりとも知っていて、知っている分彼に対して優位に立っているはずだ。しかし、彼はそれを許したばかりか臨也に名前を尋ねようともしない。他人に知られていようが知られていまいが、優位に立っていようが立たれていようが、彼の専らの関心は手に持った読みかけの文庫本で、いきなり声を掛けてきた胡散臭い男にかけらほどの興味も持ち合わせていないのだ。
まあいいさ。
どこか拗ねたような気持ちで踵を返した臨也に、後ろから「おい」と声が掛かる。
「折原」
「……名前、知ってたんだ」
「一年二組、折原臨也。知ってる人は知っている」
こともなげにそう言った門田は、本をまた書架に戻しながら、それより、と言った
「それより足、見せてみろよ。痛めたんだろ」
驚いた。びっこを引いていたわけでもないし、当然、彼の前で痛い素振りなど見せなかったはずだ。
「……よくわかったね」
「それなりに、ケンカの場数は踏んでいるもんでな。甚だ不本意だが。……ほれ」
門田は図書室の板張りに無造作にあぐらをかき、前の床をポンと叩いてみせた。臨也は素直にそこに腰を下ろした。
門田は臨也の左足首をぐいと掴み、上靴を脱がせて自分の膝に乗せた。するりとズボンが膝まで捲り上げられる。臨也の骨張った白い足が露わになった。
「細ぇな。ちゃんと食ってるのか」
つぶやきながら、門田の男らしい無骨な指がむこう脛を辿る。少しくすぐったい。
真剣な顔で自分の足を触る男を、臨也は観察した。同じ年頃の男子たちと比べれば格段に大人びて、落ち着いて見える。図書室の床に座り込んで同級生の足を触っているという異常な状況で、些かも表情を揺るがせない。
かさついてめくれた豆の皮が、臨也の薄い皮膚を擦る。白く引っかいたような傷が、手のひらの後を追うように走った。
ケンカの時は固く握り締めた拳に隠される手のひらが、図書室では小さな文庫本を丁寧に掬い上げる手のひらが、今、臨也の皮膚を滑り、皮膚のすぐ下の骨の形を確かめている。その感触は思いのほか甘美で、腰の奥にじんわりと火が点った。
門田の手のひらは、膝まで行き着いて動きを止めた。
「うん、大丈夫そうだな。しかし素人の見立てだから、痛むようなら医者に行けよ」
そう言ってつるりと膝を一撫でし離れていこうとした門田の手を、臨也は捕まえた。訝しげに臨也を見る門田ににこりと微笑んで、そのまま手のひらに唇をつける。
「お、折原!?」
慌てて引っ込めようとする門田の手を強く握り、臨也はさらに舌を這わせた。さっきまで、自分の骨を辿っていた手のひら。薄い皮膚を透かして感じた感触そのままに、小さなささくれが臨也の舌をかすめて刺激した。
上目遣いに門田を見やると、真っ赤な顔をして口をパクパクさせている。その表情がようやく年相応でおかしくて、臨也は思わず笑ってしまった。
「折原! いきなり何すんだ!」
「臨也だよ。い、ざ、や。ねえ門田、なんかドキドキしてきたじゃないか!」
潜めた声での密やかな応酬は、まだ春の寒さの残る放課後の図書室に閉じ込められて、古い埃と共にゆっくりと舞い上がった。
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