愛のアンダンテ
大晦日の夕方、高尾は宮地の住む学生アパートのインターフォンを鳴らした。程なくしてドアが開き、暖かそうな半纏を着た宮地が顔を出す。
「よお。入れよ」
「宮地さん、ちわース。お邪魔します!」
大学生になった宮地は、実家から数駅離れた土地で一人暮らしをしている。最寄りの駅から徒歩十五分、大学まで自転車で二十分。このくらい少し不便な方が、友人たちの溜まり場にならなくていいらしい。「いつでもお前呼べるようにしときたいしな」と、なんてことないように言われた日には、口をあんぐり開けて宮地の顔を見、それからぼっと音が出そうな勢いで赤面してしまった。大体において照れ屋で恰好つけのくせして、こうして時々無自覚に恥ずかしいことを言うから困る。
もっとも、部活で忙しい高尾がこの家にやってくるのは、これでやっと三回目だ。そして、今日は初めてのお泊まりだったりする。
去年まで年越しは毎年家族と過ごしていたので、外泊したいとは少し切り出しにくかったが、親は案外あっさりと了承してくれた。ただ妹がぐずったのが心苦しくもかわいかったと宮地に言えば、「妹バカ」と呆れられ、「その妹バカが好きなんでしょう?」とにひひと笑うと、今度こそ本気で「バカ」と言って頭を叩かれた。
今日は朝から家の大掃除を手伝ってきたので、こんな時間になってしまった。しかしこれから、日付どころか年まで跨いで一緒にいられるのだと思うと、高尾の気分はふわふわと上昇した。ちなみに明日は、木村や大坪、緑間たちと初詣に行く約束をしている。
「母ちゃんが御節持たせてくれたんで、明日の朝食べましょうね」
「おおマジか、悪いな。ありがとうございますって、伝えといて」
宮地は受け取った紙袋を覗き込んで、嬉しそうだ。
今晩は、テレビを見ながらたこ焼きの予定だ。大晦日らしくないが、手軽だし美味しいし、少しずつ焼けばゆっくり長く食べていられる。高尾は家から持参したたこ焼き器を、小さな机の上に据えた。
狭いアパートの一人暮らしだというのに、宮地の家には贅沢にもこたつがある。それにホットカーペット。寒がりのくせにエアコンの熱気が苦手な宮地は、バイト代をつぎ込んでこの暖房器具を揃えたらしい。
一辺一メートルほどしかない小さなこたつに、L字型に潜り込む。
熱くなったたこ焼き器に生地を流し込んだところで、紅白歌合戦が始まった。若者らしく、紅白の裏でやっているプロレスやお笑い、はたまた借りてきた映画DVDを観るでもなく、公共放送にチャンネルを合わせているのは、言うまでもなくみゆみゆの所属するアイドルグループが出演するからだ。今年はトップバッターらしく、たこ焼きを焼くのは高尾任せにして、宮地は真剣にテレビを注視している。
大きな歓声を受けて、華やかな衣裳に身を包んだ少女たちが飛び出してきた。アップチューンな曲のメドレーで、彼女たちは笑顔で激しいダンスを踊っている。
高尾はアイドルにはとんと疎かったが、宮地と一緒にいる内にみゆみゆの顔ぐらいはわかるようになった。さらさらの黒髪を高く結った、大きな目が印象的なはつらつとした美少女だ。
「宮地さん、第一弾焼けましたよ」
ソースをかけて、かつお節と青のりを振って、つまようじを刺して、至れり尽くせりの状態で宮地の前に出してやる。
「サンキュ」
どんなにみゆみゆに夢中でも、ちゃんとこっちを見て礼を言ってくれる。宮地のそんなところが、高尾は好きだ。
「あ、あふ。うめぇ」
早速かぶりつき、はふはふ言いながらまたテレビに視線を戻す。
高尾もたこ焼きを一つ頬張った。ほんのり焼き色のついた薄い皮が破れて、熱々の生地がとろりと口の中に広がった。中身はシンプルに、小さく切ったタコと紅しょうが、それと少しのネギ。
「んめぇ」
たこ焼きの湯気の向こうで少女たちがポーズを決めた。
「かわいかったっスね」
宮地は「うん」と簡潔に答え、退場の瞬間まで真面目くさった顔で見守っている。その様子にくくくと笑いを漏らしていると、こたつの中で足を蹴られた。
「いてぇースよ」
蹴られたついでに足をくっつけにいくと、宮地は一瞬戸惑ったように高尾を見て、それからふんと鼻を鳴らし、視線を逸らした。足はくっついたままだ。
「チャンネルはこのままだかんな。演歌歌手のバックで踊ったりするから、変えんなよ」
「へいへい、仰せのままに~」
高尾は、テレビの方を向いてしまった宮地の頭を、斜め後ろからこっそり盗み見た。耳が赤い。このイケメンでぶっきら棒で頭が良くていかにもモテそうな部活の先輩が、意外と恋愛ごとにオクテだと知ったのは、二人が恋人同士になってからだ。
付き合い始めて間もない頃、木村に耳打ちされたことがある。
「ほっといたらあいつ、一人で空回ってなんも進展しねーからな。お前が上手いこと操縦してやってくれよ」
その時は、「まさかぁ~」と言って笑い飛ばしたが、木村の心配は杞憂でもなんでもないとすぐに判明した。初めて手を繋いだ時、初めてキスをした時、初めてセックスした時、その度に見せる照れと戸惑いとぎこちなさ。高尾だってそんなに恋愛経験が豊富というわけではないが、折々、宮地のこういう初心な反応を見せられたら、男として張り切ってしまうというものだ。
きゅんとする。かわいいなと思う。時々、堪らない気持ちになる。最初の頃は「手を繋ぎたい」とすら言えなくて、高尾が察するまで指をもじもじさせながらこちらを窺っていた宮地が、あの日高尾に告白したというのは、どれほど彼にとって勇気のいることだったか。想像するにつけ、いつも少し感動する。
高尾がまたその時のことを反芻していると、むずむずした変な表情になっていたらしく、「何だよ」と怪訝な顔をされた。
「うん、なんか……いや、やっぱ何でもないっス!」
へへへと笑って誤魔化すと、
「変なヤツ」
と言いながら、頭をわしわしと撫でられた。
幸せだなあと思う。去年の今頃は、宮地とこんなことになるなんて思いもしなかった。けれどこの春、あの卒業式の日、涙ながらの「好きです。付き合ってください」の言葉は、びっくりはしたけど不思議とすとんと高尾の心に落ちてきた。元々その言葉が入る隙間があったみたいにすっぽりと収まって、そうして完成された自分の気持ちに、高尾はああなるほどと思ったのだ。恋愛感情なんて多分その瞬間まで持ってなかったのだけど、恋に変わる感情の種は、少しずつ自分の中で育っていたのだと思う。ちょっと怖いけど、かっこよくて憧れだった先輩のなりふり構わぬアタックに、その種が弾けたのだ。
たこ焼きを平らげ、みかんを剥き、買い溜めていたお菓子をだらだら食べながら、テレビを見たり、くだらない会話で笑ったり、うとうとしたり。傍から見れば、ただの仲の良い先輩後輩に見えるかもしれない。だが、こたつの中で触れ合ったままの足、時折向けられる甘い色の瞳、気の抜けた、いつもより少し丸まった背中、それらの全てが二人は恋人と告げており、高尾はくすぐったい気持ちになった。
紅白歌合戦が終わり、テレビの中からゴーンと除夜の鐘が鳴り響いた。チャンネルはそのままに、宮地は年越しそばを作りに台所へ立った。高尾は、行く年来る年を見るともなしに眺めながら宮地を待つ。
「高尾、そば一人前食う?」
「うす」
宮地は手際よく、そばを鍋に放り込んだ。やがて、丼鉢を二つ抱えて戻ってきて、
「詰めて」
と言いながら無理矢理高尾の座っている隣に潜り込んだ。
「ちょ、狭いって」
「胴体が寒いから」
バレバレの口実に、高尾はぶはっと噴き出し、
「汚ねぇ、轢くぞ」
とお決まりの文句をもらった。宮地の「轢くぞ」は、もうちっとも怖くない。
照れ隠しか尖らせた口に、高尾は伸び上がって軽くキスをした。
「!!」
途端に宮地は真っ赤になり、高尾も釣られて赤くなる。キスはもう結構したし、それ以上のことだってやっているのに、未だに宮地はこういった不意打ちに弱い。そして高尾は、そんな宮地にめっぽう弱い。
「そば、ありがとうございます。冷めない内に食いましょう」
二人して赤い顔で、狭いこたつにぎゅうぎゅうに並んで、黙々とそばを啜った。
高尾の右腕と宮地の左腕、こたつの中で重なり合った互いの太もも。その温もりを、二人で黙って共有する。
ゴーン、ゴーン。
テレビから、除夜の鐘が聞こえてくる。雪の積もったお寺では、新しい年への希望に満ちた人々が行列を作り、白い息を吐きながら、真剣な表情で手を合わせている。
来年は、どんな年になるだろうか。わからないけど、急いた恋の似合わない二人、自分たちのテンポでゆっくり歩いていけたらいいと高尾は思う。ヘタレのくせに恰好つけなこと、案外屈託なく笑うこと、感動屋ですぐに泣くこと。憧れ、走って追い掛けていた背中と並んで歩くようになって、宮地の知らなかった顔がたくさん見えるようになった。
ゴーン、ゴーン。
「高尾」
宮地が、そばを啜りながら言った。
「ありがとな」
高尾はそばを掬い上げた箸を止めて、きょとんと宮地を見た。宮地は箸を置いて、高尾に向き直った。
「去年の今頃は、お前のこと諦めようと必死になって、メール来ないのも来るのも辛くて、受験もあって、なんかもういろいろグチャグチャだった。木村に後押ししてもらってお前に告って、本当に、もうそれっきり、俺の恋は終わりだと思っていたんだ。だから、今こうしてお前と一緒にいられて、マジもう……俺、幸せだ」
宮地の瞳が潤んだ。
「ありがとう、ありがとな」
そのまま、涙を隠すように、高尾の肩に額を押し当てた。
なんなんだ、この人は。もう、まったく、なんなんだ。
高尾の胸は、熱いもので満たされた。震える息を吐き、熱を逃がそうと試みる。
「宮地さん」
肩に乗る、宮地の蜂蜜色の髪に指を通した。
「宮地さん」
そのまま頬に手を滑らせて、両手で彼の顔を挟みこみ、そっと持ち上げた。濡れた瞳が、部屋の電球を映してゆらゆらと揺れている。
「ねえ、宮地さん、俺も、あんたにたくさんありがとうあるよ。かっこいい先輩でいてくれたことも、勇気出してくれたことも、情けねぇとこ見せてくれたことも、全部嬉しかった。ありがとう。けど、俺、それだけで終わりたくないです。今年はありがとう。そんで、来年もたくさんありがとう言えるように、よろしくお願いします」
宮地の大きな瞳がゆっくりと瞬きをして、透明な涙が一粒、ころころと音を立てるように転がり落ちた。そして宮地は微笑んだ。
「もちろん、来年も……」
『明けまして、おめでとうございま~す!!』
テレビから、アナウンサーの明るい声が響いた。
二人で顔を見合わせて笑う。
「今年もよろしく!」
Happy Birthday on 31 Dec.
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