青い月のせい
『花宮ぁ元気かー。ちゃんと飯食うとるかー』
電話口から聞こえる能天気な関西弁に、花宮はちっと舌打ちをした。
五月の空は真っ青に晴れ渡り、色味を濃くした木々の緑に太陽の光が惜しみなく降り注いでいる。広々とした大学のキャンパスを行き交う学生たちはすでに薄いシャツや半袖姿になっており、まだ日焼けをしていない剥き出しの腕が、白く眩しく輝いている。
そんな申し分のない爽やかな初夏の光景を、花宮は木陰になった薄暗いベンチにぐったりと腰を下ろして忌々しげに眺めていた。
『花宮~?』
返事がないのを訝しむように再び電話口から名前を呼ばれ、花宮は聞こえがよしにはぁっとため息を吐いた。
「元気ですよ、この上なく。なので放っておいて……」
「なんや、やっぱりくたばっとるやん」
ふいに背後に人の立つ気配がし、花宮は思わず肩を揺らした。通話はとっくに切れている。
「今吉さん……」
何の因果か、花宮と今吉は今同じ大学に通っている。もっとも、今吉のことだからT大を受験しているのではないかという予感はあったが、今吉がいるかもしれないと言って自分の希望進路を曲げるのも癪だったし、仮に本当にいたとして、学年が違えばこの広いキャンパス内で遭遇する確率は限りなく低い――と高を括っていた。ところが蓋を開けてみればどうだ。入学式の日、特に驚いた様子もなく今吉が、嫌というほど見慣れたへらへら顔で肩を叩いてきたのだ。あの時ばかりは花宮も、自分の読みの甘さを呪った。そうだ、自分に彼がここに来ていることを予測できたのなら、自分がここに来ることは、彼にとってそれ以上に想像の容易いことだった。
結局それ以来、今吉はしょっちゅうこうしてキャンパスで花宮を見付けては絡んでくるため、花宮は大学生活の大半を彼と共に過ごすようになっていた。そして毎回突然背後に現れる今吉に、花宮はいつまで経っても慣れることができない。
「だから急に出てくんなっつってんだろ妖怪め」
口の中で小さく悪態をつくと、今吉は白々しく「なになに~?」と言いながら、ベンチの背もたれに手をついて花宮の顔を覗き込んできた。
「案の定や。食うてへんやろ。ちょっと痩せたんちゃう?」
花宮は反論する元気もなく、「いつものことなんで」と再び深いため息を吐いた。
冬生まれだからかどうかは知らないが、花宮は暑いのが苦手だ。いっそ真夏になってしまえば体が慣れてくるのか大丈夫なのだが、この暑くなり始める初夏の頃はどうにも駄目だった。急に上がる気温と強い日差し、朝夕の寒暖の差と不安定な気候に、体がついていかなくなる。きつい紫外線が黒髪を容赦なく突き刺して、脳が不必要に温められるような感じがするのも不愉快で嫌いだった。日頃体調管理には割と気を遣う方だが――弱っているところを見られたくないので――、こればかりは体質のようなものでどうしようもない。高校の頃、毎年五月に食欲を落としては、「こんな季節に夏バテとか、紫外線が嫌だとか、花宮モヤシっ子だなー。つか女子?」と原に笑われていたのを腹立たしく思い出す。
(そういや、中学の時はこの人がさりげなく助けてくれてたんだよな)
よく冷えたタオルを首筋に当ててくれたり、温めのドリンクを用意してくれたり、食の進まない花宮でも食べられるようなゼリー状の栄養補給食を買ってきてくれたり、当時は余計なお世話だとイライラしたが、今となっては感謝していないこともない。そして、大学生になった今も今吉は当時のことを覚えていて、この時期は何くれと花宮に親切にしてくれる。
花宮は、自分を覗き込む糸目の男を上目遣いにちらりと見上げた。
「なに? 喉乾いたん? あかんで~冷たいもんばっか飲んどったら。余計食欲落ちるからな」
「わかってんよ。つか俺そろそろ次の講義始まるんで行きますね。今吉さんは?」
「今日はもう授業ないねん。四回生は卒論に集中できるよう、三回生までに単位詰め込んだからな。必修科目しかないから楽なもんやで。後の時間は図書館で卒論の下調べでもしよかな~」
就職もなんとか決まったしな、と悠々と伸びをしている今吉は、流石と言うべきか、つい先日大手企業に内定を決め、首尾よく卒業論文に取り掛かっている。「大学生の鑑だな」と、担当教諭の覚えもめでたいと聞く。
「あんた、背後には注意しろよ」
やれやれと立ち上がった花宮の背中を、今吉が呼び止めた。
「花宮、今日は何限までなん?」
「四限と五限で終わりです。何で?」
「ほな六時過ぎには終わるな。飯食いに行こ」
え~? とあからさまに面倒そうな顔をした花宮を気にも留めず、「終わる頃迎えに行くわー」と手を振る今吉に、花宮は特に返事もせずに踵を返した。嫌だと言ってもどうせ、講義の終わる頃出口で待ち構えているのだ。この男にはムキになるだけ無駄だと、遥か昔に諦めている。
五限目は量子宇宙論の講義だった。花宮の専門ではないが、興味があったので履修している。そんな調子で、専門科目の間を縫うように文理問わず様々な科目を選択しているので、ゼミの仲間には「ハーマイオニーみたいだな」と笑われている。
花宮はこの学舎での生活をそれなりに楽しんでいた。わからないことがたくさんあって、それを知っていく過程はとても楽しい。必要ないと思う知識もとりあえず一通りはさらっておくというのが花宮のポリシーで、彼にはそういう知識収集癖のようなものがあった。本を読むのが好きなのもその一環だ。この大学は知識の宝庫で、飽きることがない。
人間も、それなりに頭の回転の速い者が集まっていたし、中には花宮でも舌を巻くほどの明晰さを見せる者もいたが、花宮は今のところ、特定の誰かとつるんだりする気はさらさらなかった。彼氏が、彼女が、バイトが、サークルが、飲み会が、合コンが。学生たちの話すそれらの言葉は少しも花宮の興味を引かなかったし、くだらないとさえ思っていた。もはや条件反射のような猫の皮を被り、極力特定のグループに巻き込まれないようにして過ごしている。大学での時間を隙間なく講義で埋めてしまうのには、こういう利点もあった。
だが、何かと人の目を引きがちな花宮を、周りの方が放っておいてくれない時もある。
「花宮くーん!」
講義室を出ようと腰を浮かせかけたところで、後ろから華やいだ声に呼び止められた。
(ジャンル違いすぎるから、この講義に同じ学部のやつはいねぇと思ってたんだけど)
内心ちっと舌打ちをして、とりあえず笑顔で振り返る。専攻は違うが、演習で度々一緒になったことのある女子だった。それほど関わりがあったわけではないが、花宮の優秀な記憶力はちゃんと名前まで憶えていた。
「川本さん。どうかした?」
名前を呼ばれた彼女は、嬉しそうに頬を染めた。
「あ、うん、ごめんね急に。ちょっとさっきの講義でわかりにくいところあったんだけど、花宮くん受講してるの気付いたから教えてもらおうと思って。今、大丈夫? それかあの、もしこの後空いてるんだったら一緒にご飯食べながらでも……」
「すまんなぁ川本さん、花宮はこれからワシとご飯行くねん」
彼女の言葉を遮るように、突然背後から伸びてきた手が花宮の肩にのしかかった。近すぎる距離に花宮は顔を引き攣らせ、怪訝な顔をする彼女に、「あ、いや、先輩で……」と弁解するように言い添える。
「ほなな」
今吉は勝手に彼女に別れを告げ、「ほれ、行くで花宮」と、まるで猫でも連れていくかのように襟元をくいくいと引っ張った。花宮は眉間に皺が寄りそうになるのを必死で押し留めて、なんとか微笑んだ。
「ごめん、そういうわけだから。またね」
あっけに取られた風の彼女を置いて、腕を引きずられるようにして教室を出る。
「……おい」
しばらく黙々と早足で歩くのに耐えかねて、未だに掴まれたままの腕を引っ張った。
「ん? ああ、すまん。痛かった? ほな恋人繋ぎしよかー」
「アホか!」
ぶんっと腕を振りほどき花宮が怒鳴ると、今吉は手のひらをひらひらさせておーこわ、と笑った。
「すまんなぁ、嫉妬したわ」
何の衒いもなくそう言ってのける今吉に、花宮はぐっと唇を噛んだ。あんた俺のこと好きなのかよとか、恋人でもねぇだろうとか、嫉妬する前に言うことあんだろとか、いろいろな言葉が喉元まで出かかったが、意地やプライドや照れ臭さに邪魔されて、結局どれも形になることなく消えていった。
ちっと舌打ちをして、
「早く行こうぜ」
とだけ言うと、今吉はなぜかご機嫌になって「おう」と答えた。
大学生になって一緒に過ごす時間が増える内に、二人は手を繋いだりキスをしたり、まるで恋人同士のような戯れをする仲になっていた。「好きだ」と言われたことも「付き合おう」と言われたこともなく、いつからどうしてそうなったのか定かではない。疑問を抱かないでもなかったが、花宮は今吉の前では何も取り繕ったりせずにいられて楽だったし、不思議と嫌な気もしなかったので、犬がじゃれてくるぐらいの感覚で気にも留めていなかった。ただ、たまに今吉が見せるこういう嬉しそうな顔には、調子を狂わされて困った。
「で? 今日はどこ行くんですか?」
「久しぶりに飲みに行こうや。花宮あんま飲まんの知ってるけど、ちょっと酒飲んだ方が食べやすいやろ思ってな」
「あー……まあ、別にいいですよ。飲まないっつっても、多分そんなに弱いわけではないんで」
「あ、そうなん? 二十歳になった後もあんま飲んでるイメージなかったから、弱いんかと思ってたわ。二人で飲むんも、お前の誕生日にワシがビール買うてって宅飲みした時以来やろ? あん時もちみっとしか飲んでへんかったもんな」
花宮が合法的に飲酒できる年齢になってから三ヶ月ほど経つが、積極的にアルコールを摂取しようという気も起きず、まだ数えるほどしか飲んだことはない。
「嫌いって言うか、嫌なんだよ。別に酔っ払ってなくても、酒が入ると多少なりとも頭がふわふわするだろ。自分の脳みそを完璧にコントロールできねえのって気持ち悪ぃじゃん」
「あー、まあな。わからんでもないけど、たまにはええもんやで。とにかく今日は、しっかり飲んでしっかり食べや。ワシと二人なんやし、そんな気ぃ張ることもないやろ」
あんただから余計に嫌なんだけど、と思わなくもなかったが、多少飲んだ方が食の通りがよくなるのは確かにそのとおりだ。体力の落ちているのは自覚しているため、ここは素直に従って、夜の下町に繰り出すことにした。
「はぁ~、食った食った」
満足気に腹を撫でながら居酒屋を後にする今吉は、結構な量を飲んでいたかと思うのに、まったくと言っていいほど顔色が変わっていない。
「酒、強いんですね」
「そこそこな。まあ自分の分量知ってるだけや。てか花宮もほんま、弱いわけやないんやな」
「そんなに飲んでませんし」
「うん。けど、ちょっと食べられたみたいでよかったわ」
そう言って優しく笑うので、花宮はどんな顔をすればいいのかわからなくて、今吉からふいと視線を逸らした。なんだかんだ言ってこの人に心配され、大切にされているのだと思うと、どうにも居たたまれなかった。
「なぁ、まだいけそうなんやったらもう一軒行かへん? この近くにお勧めのバーあんねん」
不思議なもので、一たび酒を飲むと呼び水のように、もう少し飲みたい、まだ飲めるだろうという虫が起こってくる。まだどちらも冷静だし、我を失うまで飲むような二人でもないので、花宮はいいですよ、と頷いた。
この辺りは一本路地を中に入ると個人経営の小さな居酒屋やバーが雑然と並んでおり、大学が近いせいか、店構えの割に学生が入りやすい雰囲気の店も多い。今吉は来慣れているらしく、複雑に入り組んだ道を迷うことなく歩いていく。
「花宮、あんまバーとか行ったことないんちゃうん?」
「高校生の頃はよくダーツバーに出入りしてましたがね。もちろん酒は飲んでねぇけど。最近はダーツも家でちょっとやるぐらいだし、確かにあんま行ってねぇな」
「マセガキやなぁ」
まあここにはダーツないけど、勘弁してな。そう言いながら今吉は、一軒の古い雑居ビルの狭い階段を登り、二階に上がったすぐ目の前の、フライヤーやポスターがベタベタと貼られた扉をぐっと押し開いた。途端に中から、ズンと腹に響くようなベースの音と、フランク・シナトラの甘い歌声が溢れ出した。
「いらっしゃい」
グラスを磨いていたマスターが、今吉を認めて軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「今日は珍しくお友達連れて来たんだ。いつも一人なのにね」
「後輩やねん。よろしゅう頼むわ」
「いらっしゃい、後輩くん」
感じのいい四十絡みのバーテンダーに、花宮も会釈を返す。
「こんばんは」
店内は然程広くはなかったが、余計な物がなく、色調が統一されているので窮屈な感じはしなかった。客は二人の他に一組の男女と男が一人で、それぞれ等間隔に間を開けてカウンタースツールに腰を掛けていた。今吉と花宮は一番奥まった席に座り、カウンターの中できびきびと動くマスターの姿を眺めた。
「花宮、何がええ?」
「俺、カクテルあんま知らないんで今吉さんに任せます。そんな甘いのでなければ」
せやな〜と悩む内にフランク・シナトラのレコードが終わり、マスターはカウンター内の棚にずらりと並べられたレコードの中から、少しだけ悩んで一枚を選び出した。そっと針を落とすと、しばらくレコード特有のちりちりとした音が聴こえた後、温かで柔らかな男性ボーカルが歌い始めた。ディーン・マーティンのブルームーンだ。
「ベタでもええ?」
今吉は少し照れ臭そうに花宮に問うて、
「マスター、ソルティドッグと……ブルームーンで」
マスターは意味あり気に眉を上げ、かしこまりました、とグラスを用意し始めた。
控えめなピアノとギターの伴奏に乗せて流れる伸びやかな歌声を、二人は肩を並べて黙って聴いた。マスターは無駄のない動きでカクテルを仕上げていく。すっと腕を伸ばしてシェイカーを構えたかと思うと、キレ良く上下左右にシェイクする。シェイカーの立てるカチカチという音は少しも音楽の妨げにはならず、まるでそれもレコードの一部であったかのように調和し、溶け込んだ。見惚れている間に、マスターはシェイカーを傾け、魔法のような軌道で細いグラスにカクテルを注いだ。
「お待たせしました。ソルティドッグと、ブルームーンです」
花宮は、滑るように眼前に差し出されたカクテルを見て息を飲んだ。美しく透きとおったバイオレットブルー。その幻想的な紫は、非現実の世界のようであり、艶めいた俗世の夜のようでもあった。顔を近づけると、微かな柑橘系の香りに混ざって、薬草を思わせる不思議なにおいが鼻を掠める。口に含むと、深い森のような味がした。
「どや?」
今吉はカウンターに肘をついて、カクテルを飲む花宮を楽しそうに眺めている。
「美味しいです。けど、ちょっとロマンチックすぎやしませんか」
軽く睨むようにすると、今吉はせやなーと照れたように頬を掻いた。ソルティドッグを一口舐め、
「けどな、たまにはええやろ。ワシ、花宮のこと好きやねんもん」
花宮はまじまじと今吉の顔を眺めた。微妙に顔を逸らす今吉の耳がほんのりと赤い。酒のせいではないだろう。
「そうだったんですか」
「見すぎや。あんま見んな」
花宮はふつふつと笑いがこみ上げてくるのを感じた。薄紫色のカクテルをくいっと呷り、少し今吉の方へ体を寄せた。バーカウンターの下で、足が触れ合う。なんだか頭がふわふわしている。やはり酒は飲むものではない。脳みそが真綿でくるまれたみたいにぼんやりして、温くなって、正常な判断ができなくなる。
だから、普段言わないことを言ってしまうのも、どうにも嬉しくて仕方がないのも、きっと全部酒のせいだ。
「なぁ……キスしたい」
カップルは互いに繋いだ手を見つめるのに夢中になっている。一人客の男性は先ほど帰った。マスターは後ろを向いて新種のカクテルを試している。誰も二人のことなど見ていない。
今吉の顔が近付いて、メガネのフレームが頬に当たった。ひんやりとした唇が、掠めるように軽く触れて、すぐに離れる。追い掛けて舌を伸ばして舐めれば、濃いアルコールの味がしてくらりとなった。
「花宮……」
唇は冷たいのに、名前を呼ぶ声は熱に浮かされたように熱かった。頭の芯がじんと痺れる。
酔っているから。これは、今吉が本音を漏らすために作った言い訳だ。ならば酔ったふりで、それに便乗してやってもいいだろう。
「今吉さん、俺も……」
(なんて言うわけねぇだろバァカ)
吐こうと思った悪態は、噛み付くようなキスに飲まれて消えた。
Happy Birthday on 31 May.
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