或る放課後
二月の教室は静かだ。グラウンドの外周を走る運動部の掛け声も、整地をするトンボのガラガラという音も、野球部がウォーミングアップをするミットとボールのぶつかる乾いた音も、廊下の窓から誰かが下校中の友人に何か叫んでいる声も、そういう外の様々な物音はすべて柔らかい布で丁寧にくるまれて、高尾の目の届かない場所にそっと仕舞われている。もしくは、高尾のいる教室が柔らかい布でくるまれて、外の世界から仕舞いこまれてしまっているのかもしれない。
高尾は机に頬杖をついて、曇った窓ガラス越しに空を見上げた。薄い冬の空もやはり布一枚を隔てたみたいに遠くに見えて、高尾は手を伸ばして窓ガラスに触れた。氷のように冷たい窓ガラスは、高尾の指の形に小さな印をつけた。きっとあの空も氷のように冷たいのだろう。
放課後の教室、窓際の一番後ろから二番目の席。時折背後でページを捲る紙の擦れる音がする以外、動くものは何もない。
高尾はゆっくりと教室を見渡した。誰もいない教室はいつもより広く見え、そしてその分、様々な予感に満ちているように見えた。
黄ばんだカーテンの染み。大雑把に整列した30ばかりの机といす。机の中はほとんどが空っぽで、ちょっとぶつかれば転がっていきそうに軽々しい。教卓の上の青いガラスの花瓶は埃を被っている。黒板には、日直が乱暴に消した白とピンクのチョークの跡、クラスの女子が書いた丸文字の日付。その横に、「卒業まであと10日!」。
高尾はノートを押しのけて、傷だらけの机に頬を押しつけた。ひんやりとして、ざらざらしている。天板の右上に開いた大きな穴は、何年も昔の先輩がつけた傷らしく縁が真っ黒になっている。その手前の白く細い傷跡は、高尾がコンパスの針で引っ掻いてつけたものだ。
目を閉じて、深く呼吸をする。土っぽい机の匂いがする。後ろの緑間の気配を背中いっぱいに感じる。
結局三年間二人はずっと同じクラスで、背の高い緑間は決まって教室の一番後ろ。そして必ずではないが、大体高尾がその前の席だった。
緑間が本のページを捲る速度は不規則で、ゆったりとしている。少し眠いのかもしれない。
高尾は目を閉じたまま、布に包まれた向こうの世界に耳を澄ませた。野球部はキャッチボールからノックの練習に移っている。廊下で喋っていた女子生徒たちは帰ったみたいだ。バスケ部は今頃、何のメニューをこなしているのだろうか。パス練かな、シュート練かな、それともまだアップ中かな。体育館の音は、ここまでは聞こえてこない。
部活のある時は、授業が終わった途端、緑間と二人競い合うように片付けて部室に向かった。今はこうして、クラスメイトがいなくなるまで二人でしゃべったり、勉強をしたりして過ごすことが多い。本命の難関私立大学に合格を決めた緑間は、まだ受験の終わっていない高尾に付き合って本を読んでいる。
ヒューウと風が唸って、窓ガラスをカタカタと震わせた。グラウンド側の窓からは、傾きはじめた太陽が黄色い光を投げかけている。まだ外に吹く風は冬なのに、日差しは少しずつ暖かい。日は日増しに長くなり、クラスメイトの机からは教科書が消えていく。教卓の花瓶に新しい花は活けられず、黒板の日付は一日ずつ増え、卒業までの日にちは一日ずつ減る。教室は春の予感に満ちている。冬は、高尾の手をすり抜けて後ろに過ぎ去ろうとしている。
胸の奥が、紙切れを丸めたみたいにくしゃくしゃした。乾いた音を立てて、尖った紙の角が高尾の心のずっと深い所に細かい傷をつけている。高尾は学ランの前をぐっと握りしめた。
「どこか痛いのか?」
うとうとしていたはずの緑間は、本を閉じて、まっすぐに高尾の背中を見ていた。
高尾は右手の拳に力を込めた。
「真ちゃんにはわかんねーよ」
緑間は黙ったが、やがて長い手が伸びてきて、高尾の背をぎこちなく撫でた。ごわごわとした学ラン越しの彼の左手は二月の夕日のように暖かくて、高尾の胸の奥をまた優しく傷つけた。
緑高深夜の真剣創作60分一本勝負(お題:痛い)
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