明日、晴れたら
高尾はベランダに出て、缶ビールを片手にぼんやりと夜空を眺めていた。
昨日から降り続いた雨はようやく上がり、よく冷えた土の匂いが、アパート4階のこの部屋まで立ち上ってくる。
薄紫色の雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。所々薄くなった雲を透かして、ぼやけた月の影が見え隠れした。光はたっぷりと水蒸気を吸って、ふやけたパンのように膨張して見えた。
雲の向こうにいてあの明るさだから、満月が近いのかもしれねえな。高尾は何とはなしに考えながら、わずかに残っていたビールを呷り、はあっと息を吐き出した。アルコールの混ざった息が月明かりの滲んだ雲に合流するのを見届けて、ポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出す。
缶ビール一本をお供にメールを打つのは、金曜夜の高尾の習慣だった。今日も就業後、陽気な上司の誘いを笑ってかわし、コンビニでビールを一本だけ買って帰った。
メールの相手は、緑髪で長身で、眼鏡で美人な変人、緑間真太郎。
高校時代、一日およそ13時間、一年およそ330日、掛けることの3年、家族よりも長く、「青春」という大事な時を分かち合った相棒とは、別々の大学へ進学した。
なりたいものもやりたいことも、バスケ以外に共通点のなかった二人にとって、それは自然なことであったが、隣にいるのが当たり前になっていた彼の不在が、しばらくは不思議でならなかった。楽しい時、嬉しい時、面白いことがあった時、凹んだ時、自販機におしるこを見付けた時、20cmほど高い彼の顔を求めて視線を上げる。しかし、そこには誰もいない。
もちろん、大学生になっても二人は頻繁に会った。会うと、高尾は隙間を埋めるようにひとしきりしゃべり、はしゃいだ。緑間もよくしゃべった。相棒の不在が大きな穴になっているのは自分だけではないのだと、高尾は嬉しく、そして誇らしく思った。
しかし、「またな」と手を振って三日もするともう駄目だ。緑間のいない自分の片側がビリビリする。胸が捩れて、寂しくて悲しい。
これが、普通の友人に対する感情と呼ぶには余りに特異なものだと気付いたのは、いつの頃だっただろうか。戸惑いはなかった。ああ、そうか。と、納得さえした。それなら、自分のこの感情は、何ら特異なものではない。ごく普通の、ありきたりな恋愛感情だとわかったのだから。
この気持ちを緑間に告げる気は毛頭なかった。培ってきた長い付き合いから、彼が高尾に告白されたところで、軽蔑するような男ではないことはわかっている。しかし、軽蔑はしないが困惑はするだろう。きっと、今までの関係のままではいられない。
高尾は、携帯電話のディスプレイを見つめた。立ち上げたメール作成画面は、まだ真っ白なままだ。
(あいつへの言葉は溢れるほどあるのに)
だが、高尾はその内の半分も、緑間に伝えることはできない。
社会人になると、学生の頃のように会うことは叶わなくなった。互いに忙しいのもあるし、大人が大した用もないのに頻繁に会うには、ただの友人では理由が弱くなってしまったのだ。
それでも毎日、日常のふとしたことで緑間を思い出す。おは朝、学ラン、バスケ、左手、いつかラッキーアイテムで持っていたマスコット人形、めがね、自転車、天気のいいことも悪いことも、それらを見掛け、或いは耳にする度に、心の中で「真ちゃん」と呼び掛ける。
「真ちゃん、今日のおは朝、蟹座一位だったな」
「真ちゃん、ここの自販機おしるこ置かなくなっちまったぜ」
「真ちゃん、これいつかラッキーアイテムに使えそうじゃねぇ?」
「真ちゃん、今ならマジバ半額だって!」
「真ちゃん、バスケしてーなぁ」
「真ちゃん」
「真ちゃん」
「真ちゃん…好きだ」
喉を震わすことのない緑間への言葉が、行き場もなく心の底に積もっていく。高尾の心はどんどん重たくなった。このままでは、しゃがみこんだまま動けなくなってしまう。
金曜日の夜に、一週間積もり積もった言葉を少しだけ緑間に送るのは、塞き止められて決壊しそうな彼への想いを溢れる前に零してしまおうという、高尾の精一杯のバランスの取り方だった。
「お疲れ、月がきれいだよ」
「来週出張続き。やべえ(笑)」
「寒くなったな。風邪引いてねえか?」
最初の一通は、いつも時間を掛けて考える。緑間への気持ちが透けて見えてしまわないように、相棒としての自分を保てるように、何の気なしに、ふと送ったという風を装えるように。緑間は、高尾がこの短い一文を打つのに、どれほど頭を悩ませているか、知る由もない。
今日も、高尾の指は携帯電話の上を彷徨っている。「真ちゃん、」と打ちかけては、続きを思いあぐねて消してばかりだ。
我ながら女々しいと思う。定期連絡とか、彼女じゃあるまいし。とも思う。しかし、仕事や飲み会で遅くなってメールを送れなかった時には、翌日の夕方頃向こうから、
「今日はラッキーアイテムが入手できなくて散々だったのだよ」
などとメールが来るものだから、切れてしまいたくないのは緑間も同じなのだと安心して、毎週金曜日の習慣を止められないでいた。
もう何度目か、高尾の指が慣れた動きで「真ちゃん」と打つ。しばらくその名前を見つめた後、携帯電話を握り締めた手を額に押し付け、長い息を吐いた。白く光るディスプレイが曇り、「真ちゃん」の文字がぼやけた。
「もう限界、かな」
針で突いたような穴から少しずつ零すには、高尾の想いは膨らみすぎた。まるで今日の膨張した月のように、きっと雲を透かしてでも見えてしまう。想いは出口を求めて、高尾の体内を洪水のように渦巻いている。小さな穴を押し広げようと、メリメリと心臓を圧迫している。息を吸う度に破裂しそうだ。
(だいたい、)
高尾は曇った携帯電話のディスプレイを、服の袖でぐいと拭った。再びくっきりと浮かび上がる「真ちゃん」の文字を、目に力を入れて見据える。
だいたい、関係の不変を望むのは愚かなことだった。見知らぬ他人から、一方的なライバル、世話の焼けるチームメイト、掛け替えのない相棒、生涯の親友、恋情を抱く者と抱かれる者。今までもこうして形を変えながら続いてきたのだ。
高尾は空になったビールの缶を、ベランダのコンクリートに置いた。コン、と、小気味のいい音がした。
「真ちゃん、会いたいよ、伝えたいよ」
高尾は、白く光る画面に向かって、声に出して呟いた。そして決意する。
明日の朝、晴れていたら、彼に会いに行こう。お気に入りの深緑色のコートを着て、彼に伝えに行こう。
二人の間には、新たに「伝えた者と伝えられた者」という関係が出来上がる。緑間は困惑するだろう。しかし、その困惑は今までも関係が変化する度に経験してきたものだ。二人の関係は不変ではないが、二人の築いてきた関係が消えてなくなってしまう訳ではない。緑間は高尾にとって、ライバルであり、チームメイトであり、相棒であり、親友であり続ける。そしてそれは、もし繋がりが目に見えなくなってしまったとしても、変わらず繋がりであり続ける。
高尾は一息にメールを打った。
「真ちゃん、明日、会いに行ってもいい?」
シンプルに、しかしありったけの恋情と覚悟を込めて打ったメールを、空に向かって送信する。
雲の向こうから、月がちらりと顔を出した。遮られることのない白い光は、まっすぐに伸びてベランダの高尾を照らした。明日はきっと、晴れるだろう。
フ/ジファブリック 「君/は僕じゃないのに」
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