カレーライス・ラブ・ロマンス

「宮地さーん、おはよございます!」
 ガチャガチャと鍵を開ける音が止むか止まぬかのタイミングで、高尾の声が弾けた。一緒に、三月の太陽とほこりのそわそわとした気配が入り込んでくる。宮地は覚醒しきらない頭を掻きながら、ゆっくりとベッドに起き上がった。
「宮地さん」
 1Kの狭いアパートでは、玄関からベッドまで一足飛びだ。宮地がひとつあくびをする間に、高尾はベッドに辿り着いていた。
「うは、もう十時っすよ」
 ひでーねぐせ、と笑いながら、高尾は宮地の髪を優しく梳いた。

 部活の先輩後輩から恋人へと関係を変えて、丸二年と一ヶ月が過ぎた。宮地が高校三年の時に気付いた恋心を、高尾が卒業するまで気持ちが変わらなかったらと心を決めて、結局抑えきれずに告白したのが高尾の最後のウィンターカップが終わった頃だった。
 受験生に、なんてこと言うんですか。と、泣きそうな顔で言われ、それから一ヶ月待たされてOKの返事をもらった時は、柄にもなく手が震えたのを覚えている。
 高尾は、学部こそ違えど緑間と同じ大学に合格した。お前らどこまで一緒にいる気だよ轢くぞと悪態をつくと、やだ宮地さんヤキモチはみっともないっすよーと変なしなを作ってふざけたので、そーだよヤキモチだよ悪いか、俺だけ大学違うんだから心配すんの当たり前だろうがお前の彼氏なんだから。と一息に言ってやると、じわじわ赤くなって「うん」と頷いた。お互い恋人らしくなってきたのはその頃からだ。
 ともあれ、だいたい毎週日曜日、こうして高尾は宮地の一人暮らしをするアパートにやってくる。高尾のバイトがある日はそれが終わってから、宮地のバイトがある日は、合鍵で入って食事を作って待っている。
 合鍵を渡したのは、割と早い時期だった。高尾は最初遠慮したが、お前が俺より緑間といる時間の方が長いとか我慢ならねーから、と仏頂面で押し付けると、仕方ないっすね、ヤキモチやきの宮地さん。と眉を下げて笑った。その後、宮地が後ろを向きかけた時、鍵を握り締めた手を愛しそうにそっと頬に寄せたのが目の端に映り、からかおうとしたが盛大に照れて赤面してしまい、結局気付かないふりをした。その時のことは、今でも思い出すと肩から背中の辺りがぶわっと熱くなる。宮地が、高尾にちゃんと愛されていると自覚できた瞬間だった。

「宮地さん、今日はどうしますか」
 高尾が、まだベッドに座ったままの宮地の肩にもたれかかって言った。寝起きの高い体温に、高尾の持ち込んだ外の空気が少しひんやりと心地良い。
「とりあえず、スーパーにでも行くか」

 春先の、冷たい空気と温い空気が入れ替わろうとするこの時期が、宮地は好きだ。新しいものと、古いものが交差する。そこかしこで、何かが始まり、そして終わっていく。
 首筋が寒かったので、二人はストールを巻いて外に出た。宮地は落ち着いたブラウンの無地、高尾は春らしく明るい黄緑と水色のグラデーション。同じ巻き方なのは、高尾が宮地の真似をしたからだ。
「宮地さんその巻き方すっげおしゃれ!どうやってやんの?」
 見様見真似でストールをこねくり回すので、巻き直してやった。ふわりと顎までストールに埋め、高尾ははにかんだように笑う。「おそろいですね」
 髪の色、目の形、手の大きさ、携帯ストラップをつける高尾とつけない宮地、高尾はパーカー派、宮地はカーディガン派、ベルトにこだわるのは宮地で、スニーカー集めが趣味なのは高尾。似ているようで食い違うことの多い二人に、「おそろい」は少ない。
「そうだな」
 素直に頷くと、照れたのか、視線を合わさず下を向いてしまった。
 特にすることのない日曜日の午前に相応しく、二人はのんびりとした歩調で歩く。大学の話や、バイトの話、高尾の場合、大半が緑間の話。会話は続いたり途切れたり、それも、特にすることのない日曜日に相応しい。
 高尾が、あ、と声を上げた。
「宮地さん、沈丁花の香りがしますよ」
「どれ」
 花粉症の宮地は、大きなマスクを少しずらして鼻をスンと鳴らした。確かに、粘り気のある甘い香りが、辺りの空気を色付かせていた。蛇を思わせる絡みつくにおいが宮地はあまり得意ではないが、においによって引き起こされる、腹の底が掻き回されるような感覚は、春特有のもので悪くないと思う。
「っきし!」
 くしゃみをしたのは、宮地ではなく高尾だった。まだむずむずするらしく、鼻をひくつかせながら微妙な顔をしている。
「おめでとう。花粉症デビューか?」
「違いま……っくし!」
 はははと笑うと、鼻の頭を赤くした高尾が、肩で背中にぶつかってきた。そのままぐいぐいと押すようにひっついてくるので、押しのけるふりをしながら、一瞬ぎゅっと肩を抱いて離した。

 スーパーで夕飯用の食材を買った後、高尾がスカッとするアクション映画を観たいと言うので、近くのレンタルショップに寄った。棚一列分を占拠するアクション映画のコーナーを、一往復、二往復とするが、高尾はうーんと言うばかりで決めかねている。
 急ぐこともないので、のんびりとそれに付き合っていたら、ふと引っ掛かるものがあって足を止めた。アクション映画の仰々しいパッケージが並ぶ中に、美しい男女が切なげに頬を寄せ合うセピア調のパッケージが紛れていた。外国の古いロマンス映画で、宮地もタイトルは知っているが、観たことはなかった。もちろん、派手なアクションのある映画ではない。大方、誰かが手に取った後適当な場所に置いたものだろう。
「高尾、これにしようぜ」
 高尾は宮地の手元を覗き込んで意外そうな顔をしたが、すぐに、
「いーっすね」
と柔らかく笑った。

 昼食は、家にあった食パンでフレンチトーストを作って食べた。宮地も高尾もそれなりに料理はできるが、フレンチトーストを焼くのはいつも高尾の役割だ。甘いものがあまり得意でない高尾だが、フレンチトーストはなぜかいけるようで、どちらかと言うと甘党の宮地も満足する、完璧なフレンチトースト作った。外側の耳部分はサックリと香ばしく、バターとハチミツが、白くふわりとした生地の4分の3程度の深さまで染み込んでいる。トーストを噛み締めると、歯ざわりのいい噛み応えの後に、ハチミツの甘味とバターの少しの塩味が口の中に滲み出てくる。顎の付け根の辺りがきゅっと締まる感覚がして、唾液が溢れる。
 宮地が最初に高尾のフレンチトーストを食べた時、高校の部活でもなかったぐらい手放しで絶賛し、以来、高尾はこれだけは自分が作ると言って譲らない。そして、作る度に期待を込めた目でトーストを齧る宮地を見つめるので、「うまいうまい」と誉めながら、高尾の頭をわしわしと撫でてやるのだった。
 今日も高尾は嬉しそうに、フレンチトーストを頬張る宮地を眺めている。
「うめーよ、めちゃくちゃ。お前も食えよ」
 うん、と頷き、高尾もトーストにかぶりつく。
「俺さぁ、フレンチトースト食ってると、いつも宮地さんを食ってるような気になる。カニバリズム的なあれじゃなく、セクシャルな意味で」
「はぁ?」
「色とかさ、香りとか、甘さとか、しょっぱさとか、柔らかさも硬さも、滲み出て全部俺の中に吸収されんの。皿に落ちた分も、指に伝い落ちた分も、全部俺のもの」
 そう言って高尾は、右手の人差し指をペロリと舐めた。そこにはセクシャルな気配など一切見られず、ただ幸せそうな高尾の表情があるだけだった。
「変なヤツ」
 宮地はトーストの最後の一欠片を豪快に口に放り込み、もぐもぐと咀嚼して飲み込んだ。

 昼食が済むと、ラグに並んで座って借りてきたDVDを観た。とある上流階級の娘が、とある騎士に恋をする話だった。箱入りの娘は初めての恋に戸惑い、喜び、傷付く。重大な事件も、華々しい出来事も、狂おしいほどの情熱も、めくるめく官能もない。ただ、娘の清純で不安定で初々しい感情が、淡々と丁寧に描かれている。
 高尾と宮地は、時々手を繋いだり、離したりしながら、黙ってその映画を観た。映画の中の娘は、淡い初恋を実らせることはなかった。最後、騎士は馬に乗って、どこか遠い国へ行ってしまう。娘は、屋敷の建つ丘の上から、彼の後ろ姿を見送る。騎士は、一度だけ振り返る。しばらく見つめあい、やがて黙礼して、後は二度と振り返らずに去っていく。娘は黙って、その姿が見えなくなるまで丘の上に立ち尽くし、涙を零し続ける。
 最初から最後まで、静かな映画だった。絡めた指先が少し湿った熱を帯びているのに気付き、宮地が高尾を見ると、高尾は泣いていた。丘の上に立ち尽くし、騎士の背中を見送ることしかできなかった娘のように、表情を歪めることもなく、ただ静かに涙を零していた。
 悲しみも諦めも愛しさもすべて受け入れ、咀嚼し、宇宙の大いなる流れの中にあるがままの身を置いている。高尾を見ていると、宮地は時々そんなことを思う。そして、高尾にそんな表情をさせているのは自分のような気がして、延々と流れるエンドロールを見つめる両目から零れる涙を、黙って拭ってやった。高尾は、涙で濡れた頬をそのままに、宮地を見つめた。高尾の明るい色の瞳に、ゆらゆらと揺れる水の膜が張っている。瞳に映る宮地もゆらゆらと揺れ、高尾が瞬きをした瞬間に、小さな球体となって落ちた。宮地は、吸い寄せられるように、高尾のまぶたに唇を寄せた。まぶた、鼻の頭、耳、頬。小鳥が啄ばむように、高尾の顔中にキスを落とした。高尾は、薄く目を開けて、それを見ていた。最後に、宮地の唇が高尾の唇に触れた途端、高尾は勢いよく宮地の頭を引き寄せた。口と口を、舌と舌を、強く結び合い、引き合った。互いに目はつぶらない。わずかな空気の層を隔てて、視線まで結び合う。高尾の瞳は、先程とは違った意味合いで、ひどく濡れていた。は、と熱い息を吐き、高尾が宮地の膝の上に乗り上げてきた。二人ともほどよく昂ぶり、このまま流されてもいいかと、宮地は高尾をラグへ押し倒した。
「ハ、クシュン!」
 高尾が、ふいをつかれたように我に返った。少し開けたリビングの窓から、春のほこりっぽい風が入り込んでいた。
「イッキシ!」
 もう一発、派手なくしゃみを放った宮地は、わりぃ、と、決まりが悪そうに鼻の下を擦った。
「ぶ、くくくくく……」
 宮地の体の下で、高尾は両手で口を押さえて身悶えして笑っている。
「笑うなよ、轢くぞ」
 パカっと軽く頭をはたいてやると、高尾は涙を拭いながら、ごそごそと宮地の下から這い出してきた。
「はぁ、腹いて。つか冷静になると、昼間っからナニする気ですか」
「うるせーよ、お前だってノリ気だったじゃねーか」
「へーへー。あ、宮地さん、洗濯物入れてくださいよ。今日は少し風もあるし、よく乾いてますよ、きっと」
 すっかりそういう雰囲気ではなくなってしまったので、宮地も諦めて高尾の上から退いた。
「ばっか、花粉浴びるだろうが」
「じゃあカレーの準備してください」
 今日は俺が洗濯物畳む係。高尾は色めいた空気をさっさと振り払い、鼻歌を歌いながらベランダに出て行った。宮地は下腹部に溜まった熱を吐き出すように長い溜め息を吐き、やれやれとキッチンへ立った。

 高尾は、存外洗濯物を畳むのが上手い。丁寧だし、手際がよい。以前宮地がそれを指摘すると、子どもの頃の俺の仕事だったんで。とにやりと笑った。洗濯物取り入れて、畳んで、自分のも家族の分も各々の箪笥に仕舞って、必要ならアイロン掛けて。妹ちゃんがブラジャーするようになってから恥ずかしがるのでお役ご免になったんすけど。
 口を動かしながら、洗濯物を畳む手付きは澱みない。袖を合わせ、襟ぐりを摘んでさっと放るように形を整える。皺を伸ばしながら、裾の端と端を合わせ、とん、とん、とリズムよく折り畳む。Tシャツ、カッターシャツ、ズボン、パンツ、靴下。服の種類によって、リズムは変わる。絡み合った布の山は、見る間に四角いいくつかの整頓された山になって、高尾の周りに積み上がっていく。
「宮地さーん、前泊まった時の俺のパンツ、替え用に置いといていいっすか?」
 キッチンに立つ宮地に、高尾ののんびりとした声が飛ぶ。
「おう、置いとけよ」
 あまり宮地の家に私物を置きたがらない高尾だが、それでも少しずつ、消耗品を中心に、高尾の物が増えてきた。宮地はそれを嬉しく思う。ここは宮地の家だが、高尾の居場所でもあってほしいと思うからだ。クローゼットに、高尾用のスペースを作るのもいいかもしれない。高尾はまた遠慮するだろうが、構うまい。いつものように、言うことを聞けと強引に与えてやったら、耳を赤くして喜ぶのだから。
 宮地はその様子を想像しながら玉ねぎを切った。境界のはっきりしない痛みが、涙溜まりをじわじわと刺激する。涙がぽろぽろと零れてきた。玉ねぎの粒子を洗い流そうと流れるままに放っていたら、いつの間にか洗濯物を畳み終えていたらしい高尾が、宮地の隣でそれを見ていた。黙って手を伸ばし、宮地の涙を拭う。宮地は眉間に目いっぱい皺を寄せて、玉ねぎの襲撃を堪えた。
 フライパンに油を引き、肉を入れ、玉ねぎを入れ、にんじんを入れる。この具材を炒めるだけで、カレーへの期待が高まるにおいがする。手早く炒めたものを両手鍋に入れ、水をひたひたに注ぐ。ジャガイモはレンジで軽く火を通してから、ルーを入れる前に丸ごと鍋に投入するのが宮地流だ。煮立ったら火を弱め、しばらくコトコト炊く。灰汁はまめに取る。
 一段落したのを見計らって、高尾が宮地の腕に鼻を寄せてきた。
「母ちゃんのにおいがする」
 自炊をするようになって気付いたことだが、キッチンに立って火を使うと、すぐに服や髪に料理のにおいがつく。肉料理であっても魚料理であっても野菜料理であっても、焼き物でも煮物でも揚げ物でも、似たようなにおいが体の表面に染みこむ。いいにおいとは少し違うが、鼻を押し付けてずっと嗅いでいたい種類のにおいだ。それはすなわち、母親のエプロンのにおい。
 高尾の髪に鼻を寄せると、彼からも、洗濯物の日なたのにおいに混ざって、微かに料理のにおいがした。
「お前も、母さんのにおい」
 そのまま、唇を髪から額に、頬に、瞼に落とす。今度は欲を煽るようなものではなく、形を確認するような淡いキスだ。高尾はくすぐったそうな顔でされるがままになっていたが、やがて「ん」と目をつぶって、唇を尖らせた。口にキスをねだるその仕草は妙に稚く、宮地は自然と目元を緩ませ、望み通りのキスを落としてやった。
 カレーライスのような恋だ。
 宮地はふとそう思った。深く息を吸い込む。カレーのにおい、玉ねぎのにおい、お母さんのにおい、三月の太陽とほこりのにおい、高尾のにおい。何てことのない、日常のにおい。意識をしなければ知らずに通り過ぎてしまう、当たり前で、そしてこの上なく幸せなにおいたち。
 幸せだ。
 宮地は目頭がじんと熱くなるのを感じ、ごまかすように高尾の肩に顔を埋めた。
 派手なアクションも、重大な事件も、華々しい出来事も、狂おしいほどの情熱もない。宮地は来年就職し、そうなって今と変わらぬ関係を続けていける保障はどこにもない。それでも宮地は、この平凡で何てことのない日常を手放したくないと思う。映画を観て泣き、玉ねぎを切って泣き、笑いすぎて泣き、ケンカをして泣き、その度に、流す涙を互いに拭ってやれる手があるなら、この上なく幸せだと思えるからだ。
「宮地さん、また泣いてんの」
「カレーのせいだよ」
 高尾の笑い声と優しい指が、宮地の頬に触れた。煮込まれたカレーのように、冷めたら温めなおし、いつか完璧な味になるように、試行錯誤を繰り返す。


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