初空
明るい方に向かって、意識がゆっくりと浮上する。夢の縁にほんの少し未練を残しながら、高尾は押し上げられるようにしてまぶたを開いた。光は、頭まですっぽりと被った布団の隙間から漏れ入ってくるようだった。夢で高尾は、緑間愛用のカエルのおもちゃ(ケロ助)が木村青果店のトラックに乗せられてなすびと一緒に出荷されていくのを、緑間と必死で追いかけているところだった。(駄目だ、今起きたら、ケロ助が……)と夢に戻るべく再び固く目をつぶったが、どうにもまぶたが勝手に開いてくるので、高尾は仕方なく諦めて、温かい布団から顔を出した。額に、ひやりと冷たい空気が触れる。壁に掛かった時計は、午前七時を指していた。
高尾は、そろそろとベッドの上に起き上がった。家族はまだ全員寝ているようで、家の中はしんとしている。
(なんの夢見てたんだっけな)
しばらくそのまま思案していたが、思い出せそうにもないので起きることにする。板張りの床に下ろした裸足の足が冷たくて、高尾は身を縮めた。
妹にもらったファンシーなもこもこの靴下を履き、祖母の手づくりのちゃんちゃんこを羽織る。自室を出て、抜き足差し足、妹の部屋の前を通り、両親の寝室の前を通って階段へ向かう。ミシッ。高尾の足が廊下の板を踏み鳴らしたと同時に、父親がふごっと鼻を鳴らした。動きを止めて気配を窺う。彼はむにゃむにゃと何か呟いた後、再び深い寝息を立てはじめた。高尾はたっぷり二十秒は動かずに三人の寝息に耳を澄ませ、そしてまたそろりそろりと廊下を歩んだ。昨夜は、いつも早々に寝かしつけられる妹も、早寝早起きが信条の母親も、お酒を飲むとすぐに眠くなってしまう父親も、今日は特別とばかりに起きていられるだけ夜更かしをして、ほんの数時間前にベッドに入ったところだった。こんな日ぐらいゆっくり寝ていてほしいし、何より、自分一人だけが起きている家というのが珍しくて、高尾は少しばかりわくわくしていた。
「さみぃさみぃ」
小声で呟きながら、足音を殺して階段を下りる。高尾も本当なら九時ごろまではごろごろしているはずだったのに、どういうわけか、もうすっかり目は覚めてしまった。
一階の居間は薄暗かった。大きな音を立てないよう十分に気をつけながら重たい雨戸を開けると、途端に東の空から太陽がまっすぐに目を射り、高尾は眩しげに目を細めた。空は薄い水色で、寒々としているが雲一つなく晴れ渡っている。外に向かって大きく深呼吸すると、まだ誰にも触れられていない清涼な空気が高尾の肺を満たした。この朝は昨日と同一線上の世界にあるはずなのに、年を跨いだと思うだけで、目に映る風景も頬に触れる空気も、何もかもピカピカに真新しく感じられた。
家中の雨戸を開けて回るとお腹が空いたので、冷蔵庫を覗く。おせちをたっぷり作ったからか、冷蔵庫の中はほとんど空だった。常備している牛乳を、紙パックに直接口をつけて一気に半分くらい飲み干して、それからりんごを一つ剥いた。皿にも盛らず、キッチンに立ったまま行儀悪くかぶりつく。蜜の詰まった冬のりんごは、高尾の手の甲にたっぷりと果汁を滴らせた。
(静かだ)
家のすぐ近くを通る車道は、いつもはひっきりなしに車が走るのに、今日は起きてからまだ一度も車の音を聞いていない。静かな台所には、高尾がりんごをかじる音と、時計の秒針がゆっくりと時を刻む音だけが聞こえる。シャクシャクシャク、コチ、コチ。時計は、起きてからまだ十五分しか進んでいない。
りんごを食べてしまうと途端に手持ち無沙汰になった。一人の朝はもう満喫したから妹でも起きてくればいいと思うが、そんな気配の欠片もない。試しにテレビをつけてみたものの、どのチャンネルを回しても高尾の興味を引くような番組はやっていなくて、すぐに飽きて切ってしまった。スマートフォンを取り出したがなんとなくゲームをする気にもなれず、新年を迎えると同時に続々と届いた、クラスメイトや部活の仲間たちの「あけおめ」LINEを読み返す。カラフルな絵文字を駆使したもの、スタンプを連打してくるもの、気心の知れたグループでの目まぐるしい応酬。緑間からは、高尾のテンションの高い「あけおめ!」に対して、間髪入れず「あけましておめでとう。早く寝ろ」と返ってきて、高尾の初笑いを攫っていった。そして、もう何度も開いて見ている宮地からのLINE。そっけない文字だけの「あけましておめでとう」。
年を跨いですぐに、「あけましておめでとうございます! 後輩として、恋人として、精進するので今年もよろしくお願いしまっす!」と浮かれたメッセージを送ったら、すぐに既読がついたのになかなか返信がなく、二十分ほど掛かってやっと返ってきたのがこれだ。それでも高尾は落胆などせず、にやにやとその文字を読み返した。
そう言えば、あまり宮地とはLINEでやり取りをしたことがないのだ。面倒くさがりの宮地はスマートフォンでちまちまと文字を打つのを嫌って、高尾がLINEでメッセージを送っても通話で返してくることがしばしばだし、そもそも今まではほとんど毎日部活で会っていたから、取り立ててLINEでやり取りする必要もなかった。高尾からの新年の挨拶に、いつものように通話で返してこなかったのは、「恋人として」という高尾の言葉に照れたから。そして、それに対してどう返事するか悩みに悩んで、結局「あけましておめでとう」だけやっと打って返してきたのだ。最近では高尾も、宮地のそういうシャイで不器用な一面をよく理解していて、案外単純でわかりやすい宮地の思考をなぞっては、かわいいなぁと一人ほくそ笑んでいる。
(けどさ、宮地さん。もう今までみたいに、いつでも学校や部活で会えるってわけにはいかなくなっちゃたんですよ)
高尾ははぁ~っとため息を吐いて、居間のカーペットにごろんと仰向けに寝転がった。
宮地はもう起きているだろうか。年末最後に会った日、お正月はどうするのかと少しの期待を込めて尋ねたら、「勉強だよ」とそっけなく言われた。毎年宮地家は、年始は家族で両親の実家に帰るらしいが、受験生の今年は宮地だけ家に残るらしい。無理もない。つい先日まで、一日の大半をバスケに費やしてきたのだ。センター試験はもう目前に迫っている。だから高尾は会いたい気持ちをぐっと堪えて、「頑張ってくださいね」とだけ言った。宮地は、「お前に言われなくても頑張るわ。轢くぞ」と高尾の頭を小突いたので、頑張れではなく、「根詰めすぎないようにね」と言えばよかったと後悔をしたのだった。
カーペットの毛は少しちくちくするが、高尾はすっかり起き上がる気をなくしてしまった。床に頭をつけて目を閉じていると、静かな元旦の朝の中に、様々な音が聞こえてくる。隣の奥さんはさっき起きたらしく、台所で何かを切る包丁の音がする。お雑煮に入れるかまぼこだろうか。思い出したように車が走っていき、その振動でアルミサッシがカタカタと鳴った。遠くに渡る高架線を、電車が走り抜けていく。スズメがしめ飾りの米を食べにやって来て一瞬賑やかになったが、やがて一斉に飛び去ってまた静かになった。二階の両親と妹は、まだ深い眠りの中にいる。静かだけど、無音ではない。すべてのものが背筋を正して、粛々と新しい年を迎えている。
目を閉じて静けさに耳を澄ましていると、高尾の意識は再びまどろみの中に沈み込んでいった。閉じたまぶたの向こうに明るい日の光が透けて、ゆらゆらとはちみつ色の陽だまりを作った。高尾はうとうとしながらその陽だまりに呼びかける。
(宮地さん)
はちみつ色の頭は振り返って、陽だまりと同じような柔らかさで微笑んだ。
ああ、夢だな。と高尾は思う。現実の宮地はもっと厳しくて照れ屋で、高尾にだってそうそう甘い顔は見せてくれないのだ。だが今は、存分に優しい宮地を堪能する。高尾の胸は、夢の中の宮地にさえ簡単にときめいた。
(会いたいなぁ)
大変な時期だからとか、甘えたことを言うのは格好悪いとか、色々な見栄や建前を全部乗り越えて、今、宮地に会いたかった。
ブロロロロ……
とろとろと半ば溶けかけた意識の中で、高尾は近づいてくるエンジン音を夢うつつに聞いていた。バイクは高尾の家の前で停まり、やがて郵便受けに重たい紙の束の落ちる音がする。慌ただしく去っていくバイクのエンジン音を夢の中で見送って、それから高尾はハッと跳ね起きた。
「年賀状だ」
玄関を飛び出して郵便受けを覗くと、はたしてそこには5センチほどの厚みのはがきの束が入っていた。高尾はそれを一枚一枚繰りながら、ゆっくりと居間に戻った。
「これは父ちゃんの仕事関係の人、これは妹宛、この人は母ちゃんの手芸教室のお友達だっけ。あ、市ヶ谷のおじちゃん、家族一人一人にくれたんだ」
年賀状を、宛名ごとの山に分けていく。高尾はこの年賀状の仕分け作業がことのほか好きで、小さい頃から「俺にやらせて」とねだったので、毎年恒例の高尾の仕事のようになっていた。
最近は、気安い友人などはLINEやメールで年始の挨拶を済ましてしまうことが多いので、年々高尾宛の年賀状は減ってきている。気楽と言えば気楽だが、少し寂しく思うこともある。小学時代、中学時代の恩師や、幼い頃引っ越しして縁遠くなってしまった友人などからはがきが届くのは嬉しいことだ。年賀状をやり取りするだけの間柄にあまり意味はないと言う人もいるが、こうして年に一度、過去に行き過ぎた人の顔を思い出し、当時のことを懐かしんだり彼らの今の生活に思いを巡らせたりするのも、一年のスタートに相応しい過ごし方なのではないかと高尾は思っている。
「あ、真ちゃんだ」
見覚えのある文字に手を止めて裏返し、瞬間高尾は机に突っ伏して笑う羽目になった。妹と同じデザインにしたのか、随分とかわいらしい干支の動物の絵の上に、左利きの彼らしい少し右肩下がりの筆文字で「人事を尽くして天命を待つ」と堂々と書かれていて、その横にボールペンで、「すぐに部活だから餅を食べすぎないように気をつけろ」と付け足されている。そこまで見て高尾は笑い転げてしまったのだが、涙を拭きながらもう一度よく見ると、さらにその横に「今年は頂点を取る」と書かれているのに気づいて、高尾はにやりと口の端を上げた。
「気が合うねぇ、真ちゃん。さすが相棒」
高尾も緑間には年賀状を出していて、そこにまったく同じことを書いたのだ。
「今年は頂点を取る」
年賀状は絵馬じゃないんだぜ、と呟きつつ、緑間の年賀状はご利益がありそうなので、しばらく神棚に上げておくのもいいかもしれない。そんなことを思って、高尾はまたくっくと笑った。
「お、次も俺宛だ――って、これ……」
くっきりとした太いペンで書かれた「高尾和成様」の文字。差出人欄には、それより幾分小さい文字で「宮地清志」とある。
「え、えっ? 宮地さん? なんで」
逸る気持ちではがきを裏返す。家族共通のデザインらしいスタンダードな年賀状。でかでかと描かれた七福神の宝船の脇に、宛名書きに比べると幾分崩れた文字で、「インターハイ、優勝しないとひく(漢字がわからなかったのか、ひらがななのが笑えた)。あと、今年もよろしく」と書かれている。
高尾は何度も何度もそのたった二行の文面を読み返し、やがてふふ、ふふふ……と気の抜けた笑いを漏らしてはがきに額を押しつけた。
「はぁ~……なんかもう……好き」
なぜだか涙まで出てきて困った。
(宮地さん、年賀状くれるなんて一言も言ってなかったのに)
住所は、確かに以前部活の関係で必要があって教えたことがあったが、わざわざ年賀状のために住所交換などはしなかったので、高尾はLINEで済ましてしまったのだ。年末はウィンターカップで互いにそれどころではなかったし、宮地は受験勉強で忙しいだろうという遠慮もあった。
(「今年もよろしく」ってことは、三月までとかじゃなく、宮地さんが卒業した後も、大学生になってからも、ずっとよろしくってことでいいんだよな)
たったこれしきのことがこんなに嬉しいなら、自分も宮地に年賀状を出すべきだったと思う。
裏返して、もう一度宛名面を見る。ごつごつと角張った「高尾和成様」。決してきれいな文字ではないが、精一杯丁寧に書かれているのがわかる。住所も名前も、間違えないように一文字ずつ確認しながら書いたらしい緊張感がにじみ出ている。その丁寧さが少しよそよそしく感じられて、高尾はなんだかむなしくなった。
(電話、しようかな)
よそ行きで改まった宮地ではない、いつものぶっきらぼうで乱暴な宮地の声が聞きたかった。だが、スマートフォンを取り出し、宮地の名前を呼び出したところで、やっぱりやめたと思いなおす。そして、ペンと新しい年賀状を出してきてテーブルに向かった。
予備にたくさん刷ってあった富士山の絵柄の年賀状は、案外余白が少なくて、かえって何を書けばいいのか困ってしまう。散々悩んで、ようやく「受験、応援しています」とだけ書いた。インターハイのことも書きたかったが、そこに賭ける思いを宮地に伝えるには、少々スペースが足りなかった。きっと彼も、言葉で書くより結果で示せと言うだろう。代わりに、富士山の頂の上にバスケットボールの絵を描いた。少し丸が歪んだが、多分意味は伝わると思う。
裏返して、送られてきた年賀状を見ながら慎重に住所を書き写し、そしてできるだけ丁寧な文字で、真ん中に大きく「宮地清志様」と書いた。
よし、とそれを満足げに眺めていると、突然脇に放っておいた電話が鳴りだした。びっくりして反射的にスマートフォンを掴み、そこに表示された名前にまた大きく心臓を跳ねさせる。
「も、もしもし?」
慌てて出ると、声がひっくり返ってしまい、電話の向こうからくっくと笑う声が聞こえた。
「……笑わないでください。――もしもし、宮地さん」
えへんと咳ばらいをし、照れ隠しに低い声で仕切りなおすと、宮地はまだ少し笑ったような声で「よお」と言った。
「あけましておめでとう」
「……おめでとうございます。けどなんで……LINEだってしたし、年賀状もくれたのに」
「いやな……まあ、その……声が、聞きたくなったんだよ」
高尾は立ち上がって、そっと窓のカーテンを引いた。起きてすぐに見た時よりも、太陽は高い位置に昇ってきている。
「……勉強は?」
「してるよ。今朝も五時に起きてやってた」
「頑張りすぎですよ」
「こういうのは、何でもやりすぎるってことはねぇからな」
「宮地さん」
「ん?」
「俺も、電話したいって思ってました」
電話の向こうの宮地はしばらく黙っていたが、やがてふん、と鼻を鳴らし、「一丁前に遠慮してんじゃねーよ、轢くぞ」と不機嫌そうな声で言った。そこに宮地の精一杯の照れ隠しと嬉しい気持ちが見え隠れして、高尾は電話のこちら側でにやにやしてしまった。
それから、少しだけしゃべって電話を切った。いい天気だとか、正月は静かでいいだとか、そんな他愛もない話ばかりだったが、高尾には十分だった。宮地も高尾と同じように、この晴れた初空を眺めて、正月の静けさに耳を澄まして、恋人の声を聞きたいと思っている。
高尾は居間のテーブルの前に戻り、ペンを取った。そして、年賀状の「応援しています」と書いた隣に、くっきりとした文字で書き足した。
「早く会いたいです」
空を渡って、今すぐこの年賀状が彼の元へ届けばいいと思った。
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