放課後メリーゴーランド

(しまった)
 と、思った時には遅かった。視界の端に見慣れた水色の練習着が飛び込むのが見え、次いで、同じく(しまった)というように大きな目をまん丸に見開いた宮地の顔が見えた。高尾は今空中にいて、ディフェンスを避けながらジャンプシュートを決めようとしたところだった。宮地と視線を合わせたまま、バランスを崩した高尾の体がゆっくりと傾ぐ。その反対側でオレンジのボールがリングにぶつかって弾かれるのが見えて、(ああクソ、外れた)などと悠長に思った。
 慌てて二人に手を伸ばす先輩、遠くで椅子を倒して立ち上がる監督、まだ空中にあるバスケットボール、宮地の形のいい顎から離れようとしている汗の玉。うまく編集された映画の予告編のように、様々な情報が鮮明に、スローモーションで高尾の視界に飛び込んでくる。「危ない!」とでも叫んでいるのか大坪が大きな口を開けているが、五感のすべてが視覚に奪われてしまったかのように、この瞬間、世界はまったくの無音だった。
(ぶつかる)
 立ち竦む宮地に向かって、為す術もなく落下していく。来るべき衝撃を覚悟してギュッと目を瞑り、少しでも宮地との接触を避けようと体を捻りながら高尾は落ちた。
 肩と肩が掠める軽い衝撃があり、不自然な体勢を取った高尾は斜めになって地面に足をついた。ぐにゃりと右足首が内側に曲がる嫌な感触。痛みは感じない。そのまま地面に叩きつけられることを覚悟したが、ぐいっと強い力で腕を引かれて、マットのような硬く弾力のある何かに抱きとめられた。ゴンッと鈍い音がして、真下のマットが呻く。
 何が起こったのかわからず、高尾は軽い混乱状態の中でしばらくそのまま横たわっていた。耳元で、激しく忙しない鼓動が聞こえた。
「……尾! 高尾!」
「宮地! 大丈夫か?!」
 遠のいていた周囲のざわめきが徐々に戻ってきて、高尾はゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界の中でバスケットボールが細かくてててと弾みながら転がり、やがて壁にぶつかって力なく止まった。
「高尾」
 緑間に肩を叩かれ、高尾はハッと意識を取り戻した。
「宮地さん!」
 跳ね起きようとした途端、右足首から脳天まで突き抜けるような痛みが走って高尾は息を詰めた。
「高尾、大丈夫か」
 緑間の差し出した手に掴まり、なんとか上半身を起こす。
「サンキュ、真ちゃん。宮地さんは……」
 自分を庇って下敷きになった宮地の腹の上からずり落ちるようにして下りて、高尾は彼の顔を覗き込んだ。
「宮地さん」
 宮地の右手は、まだしっかりと高尾の肘を掴んだままだった。
「う……」
 宮地は眉間に深い皺を寄せて少し呻き、やがて眩しそうに目を開けた。ゆっくりと瞬いて、高尾の方を見る。
「……高尾、大丈夫だったか」
 高尾がこくこくと頷くと、宮地は少し安心したように愁眉を開いて体を起こした。
「兄ちゃん!」
 隣コートでミニゲームをしていた宮地の弟が、騒ぎを聞きつけて走ってきた。
「兄ちゃん、どうした?! 頭打ったのか?」
 宮地は心配顔の弟を宥めようとして、自分がまだ高尾の腕を掴んだままなのに気付き、気まずげに手を離した。誤魔化すように後頭部に手をやり、顔を顰める。
「大丈夫、ちょっとたんこぶができたぐらいだ」
 宮地が木村の手を借りて何でもないように立ち上がると、裕也は取り乱したのが恥ずかしくなったのか、ぶっきら棒に兄の脛を蹴った。
「周りよく見ろよ、バカ兄貴」
「……すまん」
 宮地は腰を屈めて、まだ座り込んだままの高尾に手を差し出した。
「立てるか?」
「うす」
 宮地の手に縋って腰を上げかけたが、足を踏ん張れずに高尾は顔を歪めた。
「捻ったのか?」
「少し」
 だが、宮地がとっさに庇ってくれたお陰で、硬い地面との直撃は免れたのだ。
「すみません」
「いや、俺が……変なタイミングで飛び込んだから」
 自分のせいだと思い詰めているのか、宮地の顔は白く強張っている。
「なんてこたないッスよ」
 高尾は何気ない風を装ってヘラリと笑いながら立とうとしたが、いつの間にかすぐ側に来ていた中谷監督に制された。
「座っていなさい」
 手際よく靴を脱がされ、さらりと乾いた監督の手が高尾の足首に触れた。
「こうしたら痛い?」
「いや、大丈夫です」
「これは?」
「何ともないッス」
「ふむ、こうしたら?」
「っ、少し」
 ふーむ、と、監督は高尾の足首から手を離し、顎を撫でながら言った。
「幸い、骨は大丈夫そうだ。軽い捻挫だろうが、念のため病院に行ってレントゲンを撮ってもらいなさい。宮地、高尾にテーピングをしてやって、送っていってあげるように」
「……はい」
 神妙な顔で頷く宮地を慰めるように、監督は彼の背中をぽんぽんと二三度叩いた。
「ゴール下での接触はままあることだ。だが、まあ大きな事故に発展することもある。接触を恐れてはいけないが、それを避けることも技術の内だ。……宮地、お前も頭を打っているんだから、大事を取って休みなさい。万が一何かおかしいと感じたらすぐに医者に行くように。直近の試合は三週間先か……ふむ、まあ大きな影響はないだろうが、二人ともスタメンで起用するつもりなんだから、不安要素はきっちり取り除いておくこと」

 部室で高尾にテーピングを施している間も、高尾の荷物を持って「帰るぞ」と促した時も、宮地は言葉少なで元気がないようだった。高尾の足は、じんじんとまとわりつくような痛みが引いてくると、テーピングで固定していれば歩ける程度であるらしいとわかった。思っていたよりひどい捻り方はしていないようで、ひとまずほっとする。だが、「病院、行かなくても大丈夫かも」と小さく呟いた言葉は、宮地にきれいに無視された。
 夏を引きずったような明るい秋の日差しの中、肩を並べて歩く。毎日遅くまで部活三昧の日々なので、こんな日の高いうちに町を歩くのはなんだか非現実的で妙な気分だった。乾燥した葉っぱのにおいがする。規則正しい間隔を開けて植わった街路樹のナナカマドは、まだらに紅葉が始まっていた。
「宮地さん」
 宮地は二人分のスクールバッグを右肩に引っ掛け、黙々と歩いている。教科書が詰まって分厚いのが宮地の鞄で、中身がスカスカでいかにも軽そうなのが高尾の鞄。いつも大股でせかせかと歩く宮地だが、今日は高尾を気遣ってずいぶんゆっくりとした歩みだ。
「みーやじさん」
 もう一度呼び掛けると、「間延びした呼び方してんじゃねーぞ」と低い声が返ってきたが、いつもより張りも覇気もないので、彼は予想以上に落ち込んでいるようだった。
「宮地さん、鞄自分で持ちますよ。平気なんで」
 手を伸ばして鞄の持ち手をくいくいと引っ張ったが、宮地は背負いなおすような素振りを見せただけで何も答えない。
「宮地さん」
「……」
「みーやーじーさん」
「……」
「宮地さん」
「なんだよ」
 ようやく振り向いた宮地に、高尾はにんまりとした笑みを向けた。
「宮地さん、寄り道して帰ろう」
「はぁ? バカ言ってんじゃねーよ。早く病院で診てもらわねぇと」
「大丈夫、もうほとんど痛みないんで。まだ時間もあるし、病院には後で絶対に行きますから。だってさ、こんな平日の昼間に帰れること滅多にないし、天気よくて気持ちいいし、ね、お願いちょっとだけ!」
 拝むようにしてウインクすると、キメーよと顔を顰めながらも、「しょうがねーなー」と諦めたように嘆息した。
「で? どこ行くんだよ」
「河川敷! 川沿い歩いて遠回りして帰りましょう」

 秀徳高校から少し歩くと、スーパーやら和菓子屋やら写真屋やらが密集する小さな商店街があって、その商店街を抜けると、ショップや小洒落たカフェレストランの立ち並ぶ大きな街通りに出る。通りを渡ったもう一本向こうは国道になっていて、その国道沿いに、この辺りでは少し大きな川がゆったりと流れている。河口に近い広い河川敷は野球やサッカーやパターゴルフを楽しむ人々でいつも賑わっているが、平日のこの夕方にはまだ早い時間帯は、幼い子どもを連れた若い母親と散歩に訪れた老夫婦が数組、ジョギングをする太った主婦ぐらいしか見当たらなかった。
 トビがピーヒョロロロロロと鳴きながら、青空をバックに二回、三回と旋回した。
「のどかだなぁ」
 宮地は気持ちが緩んだのか、少し眠そうな声で言って軽く伸びをした。
「のどかですねぇ」
 高尾も足首に力を入れないように気をつけながら上半身だけ伸びをし、ぐるぐると肩を回した。宮地のお陰で、足以外は打ち身も何もない。
「宮地さん、頭の他は打ってないですか?」
「んー、大丈夫。肘はちょっとぶつけたけど」
 どれどれと学ランごと袖を捲り上げてみると、左肘に見事な赤黒い痣ができていた。
「うわっ、結構痛そうですよ」
「マジ?」
 宮地は体を捻って見ようとしたが、見づらい角度だったので、「まーいいや」とさっさと諦めて袖を戻してしまった。「大したことねぇよ」
 先に行きかけた宮地を、立ち止まって見やる。二つのスクールバッグを面倒くさそうに肩に掛け、枯れかかった草むらに、少し猫背気味に立つ黒い学ラン。柔らかい色の金髪が、川から吹く涼しい風にふわふわとなびいた。
「宮地さん、かっけーなー」
 ふと漏れた言葉は、茶化すつもりもなかったが、思っていたよりずっと真剣な色を帯びてしまって高尾は焦った。
「……バカか」
「……バカじゃねースよ」
「ったく……ほら、行くぞ。すんだろ? 寄り道」
 振り向いた宮地の顔は逆光でよく見えなかったが、高尾はかえってほっとして駆け寄った。宮地が怒っていようが困っていようが照れていようが、高尾はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「バカ、走んな」
「バカバカ言い過ぎです」
「バカにはバカって言っていいんだよ」
 彼の隣に追いつくと、何かのついでのようにくしゃりと頭を撫でられた。すぐに離れていった大きな手を少し惜しく思いながら見上げると、太陽に透けた宮地の薄い耳たぶがほんのり赤く染まっていて、高尾は慌てて俯いた。
(なんだ、なんだよこれ)
 動悸が収まるまで、高尾は自分のつま先を見つめて歩かなければならなかった。
 河川敷は、桜並木の植わった土手の部分と、川岸を歩く柔らかいアスファルトで舗装された部分とに分かれていて、宮地は高尾のために舗装された道を選んだ。川には何種類かのカモと、ツルのように大きなサギがいて、互いに無関心な顔でそれぞれ餌を探していた。
 思えば、こうして宮地と二人きりでいるのは初めてのことかもしれない、と、高尾は思った。いつも限界まで打ち込む部活や騒々しい学校生活の中で見る宮地とは違う、少し気の抜けた表情が物珍しかった。あるいは、木村や大坪など、同級生に対してはいつもこんな風なのかもしれない。
 並んで歩きながら、部活のこと、勉強のこと、クラスメイトのこと、昨日発売だったゲームのことなど、何気ない日常の会話をぽつぽつと交わす。今まで宮地は口を開けば怒鳴っているかバスケの話ばかりだったので、高尾は嬉しくなって次々と話題を提供し、宮地も次第に打ち解けて軽い冗談を言っては高尾を笑わせた。
「お兄ちゃーん!!」
 不意に、甲高くて幼い舌足らずな少女の声がして、宮地と高尾は声のする方を仰いだ。 
「お兄ちゃん!」
 赤い頬の少女が、小さな顔を満面の笑みにして、土手の上を危なっかしい足取りで駆けていく。
「おーにいーちゃーん!」
 その少し先には、小学校に上がるか上がらないかぐらいの年の少年が振り返って立っていて、一目散に自分に向かってくる妹を、迎えにいくでもなく逃げるでもなく待っている。兄に辿り着く直前で彼女は何かに躓いて転びかけ、高尾と宮地は(危ない!)と叫びそうになったが、彼女はしっかりと兄に抱きとめられてキャッキャと笑い声を上げた。少年はそのまま幼い妹の脇の下を抱きかかえると、「えい!」という掛け声とともに腰を入れて立ち上がり、くるくると回りはじめた。少女はキャーキャーと笑いながら、体中が青空で満たされたみたいにはしゃいでいる。それは幼い兄妹の間でよく行われる遊びなのか、少し先にいる若い母親は温かい笑顔で見守っている。止むことのない少女と少年の笑い声を聞きながら、宮地と高尾はどちらからともなく顔を見合わせて微笑んだ。
「あれ、俺も妹ちゃんによくやっていました」
「そっか、お前も妹いるんだったな」
「うん。宮地さんは? 弟先輩とあんな風に遊んだ?」
「いやー、うちは年子だからな。昔から裕也の方がちょっとばかし体格よかったし。まあ、身長はかろうじて抜かれなかったけど」
「仲いいんですか?」
「ん……どうかな。まあ、悪くはねえんじゃねーの。ケンカもしょっちゅうだけど、基本的に裕也俺のこと大好きだし」
「うはは、確かにそんな感じッスね。そういや家では『兄ちゃん』って呼ばれてるんですか? 普段部活では『兄貴』なんて言ってますけど、今日は咄嗟に『兄ちゃん』って呼んでましたよね」
「そうそう、高校生なったぐらいからかっこつけてな。けど家では親の手前逆に恥ずかしいのか、今までどおり『兄ちゃん』だぜ」
「宮地さんも大概弟好きッスよねー」
 高尾が言うと、宮地は「うるせーよ」と舌打ちしたが、否定もしない。
「家でよくしゃべったり遊んだりするんですか?」
 一見同系統の匂いがするが実は趣味のまったく異なる兄弟に、高尾は興味津々だ。
「んー、基本的にそれぞれの部屋で音楽聴いたり勉強したりしてるけど……まあ二人とも格闘技好きだから、一緒にテレビで観戦したりはするかな。あとなんか行き詰ったり悩んだりした時は、あいつ案外素直に俺のところ相談に来るぜ」
「恋バナとか?」
「恋バナはねぇなー。あいつそういうこと一切言わねぇからなー。俺は好きな子できたら、割とすぐ裕也に言っちゃう方だけど」
「マジで! 超意外! ……ちなみに今は」
 窺うように上目遣いで見上げる高尾を、宮地は西日に眩しそうに目を細めてしばらく眺め、「ないしょ」と言ってむき出しのおでこを軽く弾いた。
「ちょ、宮地さん痛ぇって! つかその反応さては好きな子いますね?! 俺にも教えてくださいよ……って、わ」
「あぶねっ」
 宮地にじゃれつこうとした高尾がたたらを踏み、宮地は慌てて高尾を抱きとめた。
「す、すみません」
 また気をつけろと怒られるかと高尾は首を竦めたが、宮地は黙ったままだった。背中に回った手に力がこもる。おでこを擦る学ランから、温かい太陽と宮地のにおいがした。
「……宮地さん?」
 戸惑った高尾が顔を上げようとすると、宮地は高尾の体を自分に押し付けたまま、器用にくるりと半回転させた。
「え、ちょ」
 背後から脇の下に手を差し込まれたかと思うと、高尾の体はふわりと浮上した。思わずのけぞった目の中に、急な角度で青空が飛び込んでくる。
「うわ」
 うろたえた声に、宮地がハッハと笑う。背中に密着した意外としっかりした宮地の胸筋が、笑い声に合わせて跳ねた。
「高尾、ほら!」
 宮地は高尾を抱いたままくるくると回った。雲が流れる。車が走る。河原の緑、遠くの家々、自転車、釣り人、鳥、電信柱、青い空。遠心力で浮いたつま先が視界に入る。めくれ上がったズボンの裾から、宮地が丁寧に巻いた白いテーピングが覗いた。胸にしっかりと回された力強い腕を見る。学ランの下に隠された赤黒い痣は見えない。
「どうだ高尾ー!」
 宮地の朗らかな声が頭の上から降ってきた。少し汗ばんだ宮地の体が、高尾の背中を通して心をじわっと温めた。
「ハハ……宮地さん、もっと!」
「よっしゃあ!」
 宮地は張り切ってますます勢いをつけて高尾を振り回し、高尾は声を上げて笑った。ジョギング中の主婦の面食らった顔も、驚いて飛び立ったムクドリの群れも、くるくる回る視界の中で、一瞬にして弾け飛んだ。アスファルトから外れて不揃いな草の茂みによたよたと踏み込むと、最後は足をもつれさせて、宮地は高尾ごと乾いた土手の斜面に転がった。
「うは、うははは」
「ヤベー、目ぇ回った……はは」
「ははは、俺も……」
 頭の中で世界がぐるぐる回るのを、目を瞑ってなんとかやり過ごす。相変わらず高尾の背は宮地の胸にぴったりとくっついたままで、宮地の呼吸に合わせて大きく上下した。高尾は目を閉じたままごそごそと体の向きを変え、宮地の方を向いた。まだ少し眩暈がする。何時間か前も、こうして高尾は宮地の腕の中にいた。ゆっくりと目を開けると、同じように宮地も目を開けて高尾を見ていた。
(ああ、この人が好きだ)
 その気持ちは、猫があくびをするように、自然と高尾の中からぽかりと浮かび上がった。河川敷を散歩する母子の話し声も、エンジンを唸らせて通り過ぎる車の音も、やかましく鳴き交わすモズの声も、すべての音が膜一枚向こうの世界に行ったように遠のき、代わりに、頬を擦る固い芝の感触や、立ちのぼる土の乾いたにおいや、空の青さや、そういった物事が真新しく作られたばかりのもののように強烈に、鮮やかに高尾に迫った。触れ合った胸が熱い。すぐ近くで、高尾を見つめる視線が熱い。
 柔らかな蜂蜜色の髪に太陽が反射してキラキラ光るのが眩しくて、高尾は目を細めた。心臓が倍ぐらいに腫れ上がったみたいだ。口を開けたら、そこから心臓が見えるんじゃないか。ドクンドクンと脈打つ音は、きっと宮地にも聞こえているに違いない。
(恋に落ちた)
 再び目を閉じて、宮地の胸に額を押し付けると、温かで規則的な鼓動が聞こえた。もう世界は回っていない。

titled by 飛季さん


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