黒い水面と二人の周遊路
『今晩暇?空いてるなら飯でも行こうぜ』
宮地は昼休みになるといそいそとスマホを取り出し、メールを一つ打った。たったこれだけの短い文章を何度も読み返し、えいやと念を込めて送信ボタンを押す。メールは何の手応えもなく、一瞬で飛んでいった。
ふうと息を吐いて眉間を揉む。
「宮地、飯は?」
先輩社員二人が連れ立って出て行くのに誘ってくれたが、宮地はコンビニの袋を掲げて答えた。
「ありがとうございます。けど今日は買ってきてるんで」
「そっかそっか、んじゃ俺ら外行くからよろしくな」
気楽に手を振る先輩社員に頷いていってらっしゃいと言い、宮地はデスクに着いたままおにぎりを齧った。今日は何としても定時に上がりたい。多分、いやきっと、彼は了承の返事を返してくれるはず。甘ったるい缶コーヒーを飲みながら、机の上のスマホを睨みつけた。
宮地が一年に一度、この日、彼にこんなメールを送るようになって四年目になる。つまり、二つ年下の彼が大学生になって一人暮らしを始めてから毎年のことで、高校生の間はさすがに家族に祝ってもらうだろうと遠慮をしていたが、四年よりもう少し前から、宮地にとって今日はずっと特別な日であった。
誘うなら、もっと早くに約束を取り付ければいいものを、誘いのメールを送るのは決まって当日の昼頃だ。男女問わず交友関係の広い後輩だから、とっくに予定が入っていてもおかしくはない。それならそれで仕方がないと思っている。もし色よい返事がもらえたのなら、今年も猶予期間ということだ。そして、今のところ、この急な誘いが断られたことはない。
おにぎりの包み紙のゴミをぐしゃっと握りつぶしたところで、短いバイブがメールの着信を告げた。少し指をためらわせてから、祈るような気持ちで「高尾」と表示されたそれをタップする。恐る恐る本文に目を通す。
『お久しぶりっす~。今晩空いてますよ。宮地さん仕事ですよね?時間そちらに合わせるんで、また連絡ください』
よっしゃ!
内心ガッツポーズをする。緊張していた肩の力を抜くと同時に口元がもそりと緩むのを自覚し、慌てて咳払いをするふりで誤魔化した。
時間と場所を指定した簡単なメールを送り、改めて定時に上がるべく、宮地は張り切ってデスクに向き直った。
結局少し仕事が押して、待ち合わせ場所に走って行く。腕時計を見ると、ギリギリ間に合いそうだ。少し歩調を緩め、羽織っていたスーツコートを脱いだ。走ったのと、少し焦ったのと、気分が高揚しているのとで、体はすっかり温まっていた。
窮屈なネクタイを緩めたところで、待ち合わせ場所に立つ高尾が見えた。通りに面した公園の入口、植え込みの柵に凭れかかって、ヘッドホンで音楽を聴いている。繁華街へ続く道の向こう側、宮地と高尾の間をひっきりなしに人が通り過ぎていく。見え隠れする黒髪を、しかし宮地が見失うことはない。
視野の広い高尾はいつもすぐに宮地を見つけるが、それよりも先に宮地が高尾を見つけていることを彼は知らない。宮地や緑間のように飛び抜けて背が高いわけではないが、宮地には、高尾が視界の片隅に一瞬でも入るとすぐにわかった。見慣れた格好でも、新調した服を着ていても、顔がよく見えなくても、宮地の認識する世界に高尾が一歩踏み込んだ途端、顔の産毛が一斉に高尾の方を向くのだ。以前木村にその話をすると、嘘つけ、と笑われたが、宮地は真剣だった。
人の向こうで途切れ途切れに見える高尾は、空を見上げて、はぁっと息を吐いた。そのまま息の行方を見守るように、きれいな顎のラインを街灯の安っぽい光にさらしている。宮地もそっと息を吐き出してみる。白い蒸気がふわりと零れ、すぐに人ごみに紛れて消えた。
通りを渡ろうと一歩踏み出したところで、高尾が宮地に気付いた。瞬間パッと顔を輝かせ、宮地が気付いていないと思って、しばらくにまにまと口元を緩めて見ている。そして、ほどよく近付いたところで、「宮地さーん!」と大きく伸び上がって手を振った。宮地は呼ばれて初めて気付いたような顔で、おう、と手を上げる。
「寒くないんスか?」
コートを片手に持つ宮地を見て、高尾が変な顔をする。走ってきたのも気分が高揚しているのも言いたくなくて、まあな、と軽く答え、
「それより腹減った。飯!ビール!」
と高尾の背を押した。
最初の年はラーメン屋だったが、高尾が成人した二年目の日からは、居酒屋へ連れていくようになった。二人とも酒は強くもなく弱くもなく、といったところだ。
平日の中日の夜だから、店内はほどほどに空いていた。テーブル席で向かい合って座り、のんびりとビールを飲んだ。この間の九月に大坪や木村、緑間と集まっているので、さほど久しぶりという感じはしない。近況報告も特になく、来年就職の決まっている高尾は仕事の話を聞きたがったので、最初の方こそ真面目な会話をしていたが、酒が進むにつれ、大学のこと、テレビのこと、バスケのこと、高尾が相変わらずつるんでいる緑間のことへと、話題は流れていった。
「顔熱くなってきた」
笑いながら両手で挟んだ高尾の頬は、確かに少し赤い。ビールを二杯と焼酎の水割りを一杯飲んだだけで、まだ酔うほどの量ではないが、高尾はわりとすぐに顔に出るのだ。
「そろそろ出るかー」
お姉さんおあいそ、と呼ぶと、高尾が財布を出しかけたが、宮地はその手を押さえて言った。
「お前今日誕生日だろ。奢ってやるよ」
おめでとうの乾杯もなかったのに、このタイミングで誕生日を持ち出してくるのも四年の内にテンプレートとなっていた。
高尾は苦笑して、
「え~いいんスか?……じゃあ、ごちそうさまです」
と頭を下げた。「いつものこと」は、安心感があって、安定していて、心地いい。
酔い覚ましを兼ねて、くだらない話をだらだらとしながら、少し河川敷の方へ寄り道をするのもいつものことだ。
それほど酔ってもいないのに、時々肩をぶつけ合いながら歩く。川からの風が冷たかったが、火照った体と近い距離には、少し気持ちいいぐらいだった。
川面は黒光りし、昼間の平和な顔をした川とはまるで違っていて、ぬめりを帯びた一匹の巨大な生き物のように見えた。時折風がその背を揺らし、光の筋を後ろに送った。
河原は静かだった。犬の散歩をする人も、ジョギングをする人も、愛を語らう恋人もいない。長々と横たわる黒い生き物も、思い出したようにちゃぷんと言うだけで、宮地と高尾のぽつりぽつりと話す声を黙々と飲み込んだ。
黒い川面の下には、どれだけの生き物がいるのだろう。冷たい水底でじっと息を潜め、音も立てず、ぐるぐると生を繋いでいる小さな幾千万の生き物たち。進んでいるのか、繰り返しているのか、宮地には判断できなかった。「いつものこと」は心地いい。そしてまた恐ろしい。安心と安定、存続と永遠。しかし何か一つが外れると、それらのカードは一斉に裏返る。
一年に一度のこのデート紛いの誕生日も、いつまでも続くものではないと宮地は理解していた。来年高尾は就職する。今までのようにはいかない。
ぽちゃん。季節外れの寝ぼけた魚が跳ねたのか、いつの間にか会話の途絶えていた二人の静寂を間抜けな音で揺らした。思考の淵に沈みかけていた宮地は、はっと意識を戻した。今年のこの日を、いつものように終わらせなければならない。
「あ、そうそう、これやるわ」
さり気ない風を装って、紙袋を差し出す。
お古だとか、間違えて買ったとか、使わなくなったとか、そんな言い訳をつけたプレゼントも毎年のことだ。ラッピングなんてしていない、紙袋に突っ込んだだけの、いかにも家にあったものを持ってきましたという体のプレゼント。
今年は、高尾に似合うだろうと思って買った、落ち着いた橙色のモッズコートだ。間違えて買ったとぶっきら棒に言うと、
「サイズ全然違うじゃん」
と笑いながらも、誤魔化されたふりで受け取ってくれた。
プレゼントを渡して、そろそろ帰るかと宮地が切り出して、じゃあまたな、ありがとうございました。
そんないつものやり取りを、宮地はなかなか言い出せなかった。昼のメールも、おめでとうを濁した乾杯も、気持ちを誤魔化したプレゼントも、肩をぶつけ合って河原を歩くことも、今年で最後。今日で最後。来年は、きっとない。
もう会えないわけではないのに、宮地の足は動かず、舌は上あごに張り付いたままで、目は高尾の顔から離せなかった。
高尾は、何を考えているのかわからない目で宮地を見つめていた。黒い瞳、黒い川、黒い空。都会の霞んだ夜空に浮かぶ微かな星々が、映るはずもないのにキラリと輝いた気がした。
高尾がふっと息をついた。瞳の星が、まつ毛に隠れた。
「ねえ、宮地さん。俺、ずっと待ってるんです」
毎年この日は、数ある誘いを断って、いつものメール、ドキドキしながら待ってるんです。おめでとうのない乾杯も、肩をぶつけ合って歩く河原も、包装のないプレゼントも、ドキドキしながら待ってんの。「いつものこと」は、思っているよりずっとスリリングで、不確かで、不安なんです。ぐるぐる回ってまた同じ場所に戻れるなんて、わかんねーもん。
まぶたを上げた高尾の瞳に風が吹く。水面が揺れる。白い光が流れて消える。
「高尾……」
手を伸ばして、距離を縮めた。高尾はすんなり宮地の腕の中に納まった。
「高尾、あのな」
耳に寄せられた言葉に、高尾は満足そうに微笑んだ。前に進んでいるのか、ぐるぐる回っているだけなのか、彼らにはやはりわからなかったが、合わせた心臓の鼓動と互いの体温は、間違いなく確かなものと信じられた。高尾の瞳が近付く。小さくて深遠な宇宙が目の前で瞬いたと思うと、高尾の答えは宮地の口の中に吸い込まれていった。
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