マイ・ファニー・バレンタイン

 宮地は駅前のポールに凭れかかって、ぼんやりと改札口を眺めていた。電車が到着する度に、くたびれたスーツ姿の人たちが塊になって吐き出される。彼らは皆一様に、うつむき加減で足早に宮地の側を通り過ぎていった。
 ここは宮地の住むマンションの最寄り駅で、各駅停車しか止まらない小さな駅だ。多少不便ではあるもののそこそこ街には近く、ベッドタウンというほどでもないが、この時間帯はそれなりの乗降者数がある。今日宮地は早く仕事が片付いたので、待ち合わせ時間より十五分ほど早く駅に着いて高尾を待っていた。
 コートの袖を少し捲って腕時計を見る。五年前、高尾の就職祝いを探していて、自分も気に入ったので揃いで買ったものだ。趣味の異なる二人には珍しいお揃いで、宮地は時計を確認する度にくすぐったい気持ちになった。そろそろ高尾の乗っている電車が着く時間だ。
 ゴトン、ゴトン、フシューと電車の停車する音が聞こえて、間もなくスーツ姿の一団が階段を下りてきた。無表情の人の波の中で、一人の青年がパッと明るい顔を上げて手を振った。宮地は照れ臭くなって、仏頂面で軽く頷いて返す。
「宮地さん、お待たせ!」
 駆け足で改札を出た高尾が一直線に自分の元へやってくるのを、宮地は目を細めて迎えた。急に寒いところに出たためか赤くなった頬が、とても二十代も後半に差し掛かった男とは思えない。
「ん、お疲れ」
 何年経っても変わらないさらさらの黒髪を掻き混ぜてやると、高尾は嬉しそうに笑った。
「宮地さんも。晩飯、何にしましょう」
「パパッとできるもんにしようぜ。早くビール飲みてぇ」
「うはっ、確かに! あ、宮地さん家キムチ買い置きあったっけ? キムチ炒飯とかどっスか」
「おー。こないだお前来た時に買ってきたやつそのまま残ってるわ。俺一人の時までキムチ食わねーし。後は?」
「ビールに炒飯なら……餃子?」
「餃子は冷凍買うかー。スープでも作る?」
「いいスね。じゃあ玉ねぎ買いに行きましょう」
「コンソメも切れてるわ」
 二人で冷蔵庫の中身を思い浮かべながら駅前のスーパーに入る。スーツ姿の男が二人、スーパーで買い物をしていると人目を引くが、最近はあまり気にならなくなった。
 手際よく買い物を済ませ、二人並んで夜道を帰る。ここから宮地のマンションまで歩いて七分ぐらいだ。表通りから一本中に入ると、一気に人気がなくなる。宮地はビールの入ったビニール袋をガサガサと言わせて反対側の手に持ち替え、高尾の手を握った。夜、二人でこの道を帰る時は、いつもどちらからともなく手を繋ぐ。宮地の手も冷えていたはずだが、高尾の手はもっと冷たかった。
「ぬくい」
 高尾ははしゃいだ声で、宮地の手を握り返した。
「お前のが冷たすぎんだよ」
 温めるように何度か指先を揉んでやると、高尾はくすぐったそうに笑って喜んだ。
 宮地の部屋はマンションの三階だ。働き出してから運動する機会も減ったので、せめてここだけはエレベータを使わず階段で上り下りするようにしている。鍵を開けて先に高尾を中に入れると、「お邪魔しまーす」と言いながら、勝手知ったる部屋の明かりをつけて、台所に食材を置きにいった。
 宮地が1Kの狭いアパートからこのマンションに引っ越してきて、そろそろ五年になる。男が一人で暮らすには少し広すぎるぐらいのこの部屋は、当時まだ社会人三年目だった宮地にとって贅沢なものだったが、その年に就職をして働き出した高尾を招く口実になればいいという下心も多分にあった。事実、高尾が宮地の部屋を訪れる回数は学生の頃よりも増えたし、あまり宮地の部屋に自分の私物を置くのを良しとしなかった高尾を、スペースがあるからと言いくるめる内に、彼の荷物も随分増えた。
 高尾がフライパンに油を引いて餃子を焼き出したので、宮地はその側で玉ねぎを剥いた。まず半分にざっくり切ってから、スープに入れる分は細く縦に切り、炒飯に入れる分はみじん切りにする。隣でスープの準備を始めた高尾が悲鳴を上げた。
「目痛ぇ! うわ、玉ねぎ攻撃やめて」
 玉ねぎの粒子は高尾の方に流れていったらしい。
「おーわりぃわりぃ。涙拭ってやろうか」
と手を伸ばすと、
「玉ねぎ切った手で! 鬼畜!」
と身を捩って拒絶された。そもそも嫌がらせのつもりだったが少々面白くなかったので、彼の体を邪険に押しやってスープに玉ねぎを投入した。高尾は何がおかしいのか、涙を流しながらゲラゲラと笑っている。彼の笑いのツボは広すぎて、未だに全容を掴みきれていない。
 きっちり手を洗ってから、高尾の顔を手のひらで拭ってやると、そのままぐりぐりと顔を押し付けてきた。
「なんか、前もこんなことあったよな」
 ふと脳裡に引っ掛かるものがあってそう漏らすと、高尾も記憶を辿るような表情になった。
「あー、前のアパートの時だっけ?」
「カレー作ってたんだよ」
「あ、あれ? 玉ねぎ切って泣いたの宮地さんじゃん」
「えー? そうだっけ」
「そうスよ。そういやあの頃の宮地さん、しょっちゅう泣いてましたね。泣き虫宮地さん」
 その辺りのことに触れられると少々分が悪いので、
「餃子そろそろ水入れるんじゃねーの」
と強引に話を逸らした。
 簡素なものでも、湯気の立つ食卓はありがたい。一人ではなく、二人で食べるのはいっそう幸せだ。二人は待ってましたとばかりにビールのプルタブを開け、缶のまま乾杯した。ヘコ、と何とも言い難い音がする。
「九周年、乾杯」
「乾杯。いつもありがとう」
 今日は、二人が付き合い始めた記念日だった。高校三年のウィンターカップが終わって間もない高尾に、宮地は長い間押し込め続けた想いを決壊させるように告白した。ひどく困惑させた自覚はある。その場で玉砕することを覚悟していたが、意外にも「少し考えさせてください」という返事で、待たされること一ヶ月。何の音沙汰も無く完全に諦めかけていた頃、大学の入試が終わった高尾から呼び出しのメールが入った。あの日、高尾の前に立った瞬間は、正直、スタメン入りのテストを受けた時よりも、インターハイやウィンターカップの試合の時よりも、大学入試の本番の時よりも緊張した。そして高尾は、振るなら早く振ってくれと顔面蒼白の宮地に、
「三日遅れッスけど」
と照れた顔でチョコレートを渡したのだ。
 以来、二人のバレンタインデーは二月十七日になった。今日もビールを一口飲んで一息つくと、高尾はいそいそと鞄からチョコレートの箱を出してきた。
「はい、これ。バレンタイン」
「おーサンキュ。ボンボン? 美味そうだな。俺今年はチョコレートプリン買ってきてるから、後で食おうぜ」
「やったプリン!」
 記念日とバレンタインを抱き合わせているが、毎年互いに気合の入ったプレゼントは送らない。相手の好きな物を買ってきて、家で二人、温かいご飯を作って食べる。
 宮地はキムチ炒飯を口いっぱい頬張って噛み締めた。
 二人の関係が、九年も続くとは思っていなかった。二人がまだ学生で、小さなアパートで映画を観たり、じゃれ合ったり、カレーを作ったりして過ごしていた頃、宮地はこの関係の先を見ていなかった。ずっと続けばいいとは思っていたが、そんなものは子どもの描く夢だとも思っていた。
 それが、宮地が就職して、高尾も就職して、学生の頃のように自由な時間を過ごせなくなってからも、高尾は宮地の部屋を訪れた。映画を観たり、じゃれ合ったり、炒飯を作ったり、一週間、一ヶ月、一年と過ごしている内に、いつの間にか九年だ。宮地は今年三十歳になる。高尾もいわゆるアラサーと言われる年齢になった。二人とも見た目はあまり変わらないと、かつての二人をよく知るバスケ部の連中に笑われるが、高校の頃のあどけなさは消え、よく見れば目尻に小じわも寄っている。マンションの三階まで一気に駆け上ると息も切れるし、セックスの回数も減った。
 目の前で玉ねぎのスープを啜って、満足げに息を吐く高尾を見やる。歳を取ったところを探してまじまじと眺めていると、高尾が視線に気付いて小首を傾げた。こういう動作は狙ってやっているのか、高校の頃と変わらずあざといと思う。
「? どしたの宮地さん」
「飯粒ついてんぜ」
 手を伸ばして取ってやり、それをそのまま自分の口に含むと、高尾は少し顔を赤くした。
「す、すんません……てか、子どもじゃねーのに」
 九年も経って、高尾は未だによくわからないところで照れる。宮地は笑った。
「うん、俺ら、とっくに子どもじゃなくなっちまったなぁ」
 もう子どもじゃない。子どもの描く夢だと諦めていたものに、向き合ってもいい頃かもしれない。
「高尾、一緒に住むか」
 高尾はビールを噴きかけて噎せた。
「うぇっほ、ゲホッ」
「バッカ何やってんだよ、これで拭け」
 布巾を持ってきてやって渡すと、高尾は口周りを拭きながら宮地を見上げた。
「ケホッ、マ、マジすか」
「冗談で言うかアホ、埋めるぞ」
 最近では滅多に出なくなった宮地の物騒な口癖に、高尾は懐かしむような顔で笑った。
「うん、宮地さんそういう冗談言える人じゃねースもんね」
 そして黙って、じっと宮地の顔を見つめる。
「プロポーズ?」
 宮地はこくりと頷いた。
「ずっと、お前と一緒にいたいんだ。本当言うと、いつかは、もしかしたらって期待でこのでかいマンション借りた。あれこれ考えてたら遅くなっちまったけど、なんか、もう、大丈夫かなって、思って」
 言っている内に緊張してきた。もう大丈夫。そう信じてはいても、やはり一世一代の告白とは緊張するものだ。
 高尾は焦らすように頬杖をついて、宮地の顔を下から覗き込んだ。
「……何だよ」
「今度はどれくらい待ってもらおうかな、と」
「えっ」
 一気に顔を青くした宮地を見て、高尾はぶっと噴き出した。食卓に突っ伏して肩を震わせる。
「ちょ、宮地さん、そんな焦んないでよ」
「だって」
 高尾は少し伸び上がって、不安に瞳を揺らす宮地の頭を優しく撫でた。
「ごめんね、緊張してる宮地さんがかわいかったから」
「! はあ?!」
「引っ越しの準備ですよ。すぐには無理だから、また一ヶ月ぐらい待ってもらっていいですか」
「!!」
 高尾は、宮地の手に自分の両手を重ねた。冷たかった手はすっかり温まっていて、二人の熱が食卓の上で混ざり合った。
「嬉しいです、宮地さん。ありがとう。俺も、少し欲が出てきたみたい。出会いも別れも、そのまま受け入れて生きていくつもりだったけど、俺この先の宮地さんとの生活も見てみたくなっちゃった。三十になっても四十になっても、もっと年取っておじいちゃんになっても、二人でこうして手ぇ取り合って生きていけたらいいな」
 宮地は繋いだ手を持ち上げて、額に押し付けた。
「うひひ、宮地さん結局泣いた」
「うるせー」
「泣き虫治んないですね」
「……お前も泣いてんじゃん」
 宮地は身を乗り出して、そっと高尾の目元に口づけた。昔はなかった目尻の皺が、どうしようもなく愛しい。
「歳のせいです」
 かわいくない減らず口は変わらない。
 変わっていくこと、変わらないこと。どちらも恐れることはないのだと気付いた。冷えた手も温もった手も、繋ぎ合えばそこが二人の居場所だ。
 軽く合わせた唇は、微かにビールとキムチ炒飯の味がして、宮地は一つだけ後悔した。
 チョコレート、食べた後にすりゃよかったな。

Happy Birthday on 17 Feb.


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