涙をこぼさないために走るのだ

 行儀悪くズボンのポケットの辺りで手を拭きながらトイレから戻ってきた原は、教室の扉に手を掛けたところでピタリと動きを止めた。
「へぇ、花宮って十二日誕生日なんだ」
 クラスメイトが花宮と話している。きっと原のいない隙を見澄ましていたのだろう。
「って今度の日曜じゃん」
「うん。え、なに、奢ってくれんの?」
 年明け間もない学校の放課後は、まだ正月のだらりとした空気を引きずりざわざわとしていて、その中で花宮の落ち着いた声は、浮きもせず沈みもせず、扉を挟んだ原の耳に心地良く届いた。
「はい残念でした。頑張るバスケ部と違って、俺らは休日には学校に来ませんので」
「その次の月曜も休みだろ。成人の日」
「大丈夫、火曜でもいいよ俺は」
「うはははは!」
 クラスメイトと話している花宮は、年相応に明るく砕けた笑みを浮かべている。扉を挟んでいても、原にはわかる。教室での花宮は優等生ながらも澄ましたところがなく、くだらない冗談にも付き合うし、時には気の利いた言葉で笑わせたりもするので、いつも友人たちに囲まれていた。
「あ、なあ、日曜って部活何時に終わんの?俺らで祝ってやろうか」
「ばっか、彼女に祝ってもらうに決まってんだろ。花宮だぞ」
「そんなんいないって。部活終わんの遅ぇしバスケ部はムサい野郎ばっかだし俺ん家今親いなくて実質一人暮らしだし、寂しい誕生日だよバァカ、って言わせんな」
「え~?じゃあさ、マジで日曜」
「花宮ァ、部活行こうぜー」
 原はどこかの誰かの言葉を遮るように、勢いよく扉を開けた。そのまま鞄を取りに花宮の後ろの席までずかずか歩いていくと、花宮を取り囲んでいた男子たちが少し顔を引きつらせて浮き足立った。お坊ちゃん校と言われる霧崎第一において、花宮以外のバスケ部員は柄の悪いのが多いため、一般の生徒からは少し遠巻きにされている。花宮はそれに気付かぬ振りでさっさと立ち上がり、
「やれやれ、今日も頑張ってきますか。じゃあな、また火曜日に」
とクラスメイトたちにひらりと手を振った。
「あ、ああ、またな」
「部活頑張ってな」
 彼らに背を向けた途端、花宮は人好きのする顔を一転させて口元を歪めた。教室を出ると後ろを歩く原を斜めに見上げ、不愉快そうに言う。
「ずっと聞いてたろ」
「うん。明後日花宮誕生日なんだ」
 返事は聞こえがよしな舌打ちだった。
「なんでいーじゃん教えてくれたって。どーせ一日中部活で俺らとしか会わねぇんだからさぁ。祝ったげんのに」
「それが嫌なんだよ。俺はさっさと帰って一人で静かに過ごしてーの。大体お前らプレゼントにかこつけて、碌でもないもん寄越してくるつもりだろ。見え見えなんだよ」
「あ、バレた?ざーんねん」
 おどけた口調で言うと、花宮はふはっと笑った。その顔はさっきクラスメイトに向けていたようなきれいな笑顔ではなかったけど、それよりずっと素直で花宮らしく、原は好ましく思った。
 花宮曰く、人間は年齢、性別、人種、職業、育った環境、家族構成、学歴、友人、持って生まれた性格、今日の天気に食べた物、昨日観たテレビ、便が出たか出なかったか、あらゆる事象に影響を受けて細分化し、刻々と変化していくため、客観的には大雑把にもカテゴライズのできるものではないらしい。しかし、主観的に見ればそれはいとも容易いと言う。
 実際花宮は、周りの人間を何種類かに手早く分類して、箱にポイポイと振り分ける。初対面の時点で、どの箱に入るかは大体決まるらしい。友達面をするただのクラスメイト、完璧な優等生の皮を被る教師やその他の大人たち、嫌いな人間、気を許している仲間。それぞれに見事に自分を演じ分け、そしてそれぞれに踏み込んでもいいラインを明確に設定している。大人たちには自分の趣味や好き嫌いを話さないし、クラスメイトとは学校以外では遊ばない。当然ながらそういう演じ分けを知っているのは気を許した仲間だけで、しかし彼らも家に呼んでもらったことはない。
 花宮の中で気を許した仲間に分類されている原は、概ねそのことに満足していたが、一つだけ不服に思っていることがあった。
 花宮は、仲間に自分の根っこの部分の情報を与えようとしない。例えば、家族構成、出身地、血液型、誕生日。クラスメイトには尋ねられたら答えているらしいので、人づてに花宮が一人っ子であることもAB型であることも聞き知っているし、無冠の五将として有名だった中学時代は大阪のチームにいたことから、その頃花宮が関西に住んでいたことも知っている。しかし、元々関西の人間なのかとか、なぜ高校では東京に来て一人暮らしをしているのかとか、親は何をしているのかとか、誕生日はいつなのかとか、尋ねてもはぐらかされるばかりだった。
 別に教えてもらえないことが不服なわけではない。古橋のように花宮に心酔して、彼のことなら何でも知りたいとか気持ち悪いことは思わないし、花宮が言いたくないことに無理矢理首を突っ込む気はさらさらない。原が引っ掛かっているのは、花宮が近しい人間であるほどプライベートなことを話したがらないその理由だ。花宮が自分で説明したわけではなく、むしろ自分で気付いていない可能性が大きいが、原には薄々察しがついていた。
 原は、いつも少し前を歩く見慣れた花宮のつむじを眺めた。この頭の中には、ババロアでもスカスカの海綿体でもなく、その性能を余すことなく使いこなせる類まれなる脳みそが詰まっている。
(賢いのに、バカなんだもんなぁ)
 賢い花宮は、生まれてから今までずっと辿ってきてそして未来までも続いているように見える線が、単なる点と点の連なりであることを知っている。今仲良くつるんでいる連中もいつかはまた点と点に戻って、繋がっていたことすらわからなくなってしまう。今年誕生日を祝ってもらったところで、来年も祝ってもらえる保証なんてどこにもない。馬鹿馬鹿しいほどちっぽけで女々しい理由だけど、何でも記憶してしまうその優秀な脳みそは、期待だとか落胆だとか虚しさだとか、そういったものをひどく用心深く拒絶するのだ。花宮のそんなどうしようもない怖がりな一面を、原は愛しくも腹立たしく思った。
(逆にさ、俺たちに今しかないんだったら、今祝わせてくれなきゃじゃん)
 原は部室に着くまで花宮のつむじを見つめ続けたが、彼が振り向くことはなかった。

 霧崎第一高校バスケ部の部活は厳しい。ラフプレイばかりが話題に上るが、伊達に強豪校の一つに数えられているわけではない。
「ラスト一本!」
 ピッという笛の音と共に、花宮の声が体育館に響いた。アスッ!と野郎共の野太い声が答える。
 花宮は周りの部員たちに目を配りながら、自らも淡々とメニューをこなしている。見本のようなレイアップシュートを決めて、Tシャツの裾で顎から滴る汗を拭った。きれいな筋肉のついた腹が覗いた。
 花宮って、結局バスケ好きなんだよなぁ。と、原はそれを見るともなしに眺めながら思った。
 だってさ、別に何やったって一番になれるのに、無冠とか言われながら高校でもバスケ続けてさ。熱血なんて鼻で馬鹿にしながら毎日汗だくんなって練習して。いくら天才だって、努力しないとあんな上手くなるわけねーもん。バスケ好き?って言ったら、はぁ?って顔されそうだけど。
 ほとほと呆れるやら感心するやらしていると、前髪越しにばっちり花宮と目が合った。ヤベ。
「サボんな原ぁ」
 花宮監督は怖いのだ。首を竦めて舌を出す。山崎に目顔でバーカと言われてムカついたので、すれ違いざまにドンとぶつかってやったら、すかさず花宮から「外周行ってこい!」と命令が飛んできた。試合ではむしろけしかけてくるのに、よくわからない。
 ぶすくれて外に向かう原に、瀬戸が微妙な顔で笑いかけてきた。
「バレないようにやれよ」
 外周を終えて体育館に戻るともうみんな帰った後で、花宮が一人自主練をしていた。主将兼監督として部活中は思うように練習できないので、大体毎日こうして残って球をついている。
 原は無言で体育館の壁に凭れかかり、花宮を眺めた。
 ボールを籠から取り出して、シュルリと手の中で一回転、構え、放る。花宮の動きは機械的に精確で、動物的にしなやかだった。リズムも呼吸も一定で、ボールは乱れることなく乾いた音をたててネットを潜り抜ける。繰り返し行われるその動作は同じシーンを何度も巻き戻して見ているようで、原は時間の感覚が曖昧になった。試合中など、とっさの時に体が勝手に動くまで身に覚えさせるには、二万回同じ動作をしなければならないと何かの本に書いてあった。図書館にあった、古くて大きい絵図入りの本だったような気がする。花宮が読んでいたのを、横からかいつまんで見たのかもしれない。
(二万分の一、二万分の二……)
 二万回がどれくらいの数かよくわからなかったので、原は試しに数えてみることにした。
 花宮はルーティンを乱すことなく、シュルリとボールを回し、放る。パス、とボールがネットを潜り、ダンッと床に落ちて弾む。シュルリ、パス、ダンッ、シュルリ、パス、ダンッ。
(二万分の二十三、二万分の二十四、二万分の……あれ、いくつだっけ)
「おい、ストレッチしたら早く汗拭いて上がれよ」
 シュルリと手の中でボールを一回転させ、花宮は視線をゴールに向けたまま言った。
 うん、とかなんとか口の中でもそもそ返事をして、それでも壁に凭れたまま花宮を眺めていると、ようやく手を止めて怪訝な面持ちでこちらを見た。
「原?どうかしたのか?」
「んー?」
 生返事でなおも花宮を見ていると、馬鹿にされているとでも思ったのか、みるみる眉間に皺が寄った。
「そんな怖い顔すんなよ。あ、もしかして生理?」
 途端にボールが飛んできたのを間一髪避ける。
「あっぶねーだろ!」
「お前がバカなこと言うからだろ」
 ふん、と鼻を鳴らされたが、口調ほども怒っていないようだ。
 やる気が削がれたのか、はたまた今日のノルマが終わったからなのか、花宮はコキッと肩を鳴らして「帰るか」と言った。

 今日はまた格別に寒い日だった。原は、寒いのがそんなに嫌いではない。耳からも鼻からもキンとした空気が入り込んで、思考をはっきりさせる。
 花宮は、珍しく原の隣に並んで歩いていた。二人きりで帰るのは久しぶりだ。鼻の頭まで高そうなふわふわのマフラーに埋もれて、大きなつり目だけが覗いている。露悪的に歪んだ口元さえ見えなければ、かわいいとも思うし美人だとも思う。原は花宮の顔が好きだった。
「花宮って、冬生まれなのに寒がりなんだねー」
「生まれた季節とか関係ねぇし。まあ暑い方が苦手だけどな」
 あー、と原は猛暑だった去年の夏を思い返した。確かに花宮はいつもの三倍は機嫌が悪かったし、いつもの五倍はへばっていたような気がする。
「あ、他の奴らに言うなよ、誕生日のこと」
「え~どうすっかな~」
「お前だけ特別メニュー用意してやろうか」
「横暴!鬼監督!」
「ふはっ、何とでも言え」
 軽口を叩きながらも、原は他の仲間に言う気はさらさらなかった。そういうことは花宮本人の口から聞かないと、彼らにとって何の意味もないのだ。
(それに)
 原は胸の内でこっそりと呟く。
(あいつらの中で俺だけ花宮の誕生日知ってんのって、それはそれで優越感あるっていうか)
 原の家は学校から電車で二駅行ったところで、花宮の家はそこからさらに一駅先だ。各駅停車のため車内はほどほどに空いているが、二人並んで座れるほどでもなかったので、だらりと吊り革に掴まった。
 次の停車駅で、紺色の制服の学生がパラパラと乗り込んできた。ここは桐皇学園の最寄り駅で、桐皇学園は、高校としては霧崎第一のお隣さんというわけだ。霧崎第一は男子校ゆえ、こうして電車で乗り合わせる桐皇学園の女子に出会いを求める輩も少なくない。
 臙脂のリボンを緩く結びスカートをこれでもかと短くした女子高生のグループが、少し離れたところからちらちらと二人に視線を投げ掛け、時々額を寄せ合ってひそひそ話をしては小さくキャーと盛り上がっている。品定めをしているのはお互い様というわけだ。
「あの茶髪のロング、バカそうだけどおっぱいでかくね?顔はまあまあ」
 原がこっそり花宮に耳打ちすると、花宮はふんと鼻を鳴らした。
「バカな女は嫌いだから」
 花宮が涼しい顔で彼女たちの視線を無視しているので、原も仕方なく話題を変えた。
「そういやさぁ、花宮の中学の先輩って桐皇だろ?イマヨシ先輩。電車で会ったりしねぇの?」
「反対方向だし」
 花宮は間髪入れずにそう答えて、すぐにマズったという顔をした。
「え、なになに、家知ってんの」
「知らね」
「反対方向なんでしょ、ねぇねぇねぇ」
「うるせー」
 頭を叩かれた。そして拗ねたような口調でしぶしぶ答える。
「寮なんだよ、あの人。桐皇の寮の場所は、たまたま知ってるだけだ」
「ふーん、そぉ。たまたま」
 花宮は怖い目で原を睨んだ。
「んだよ」
「べっつに~」
 花宮が、その一つ年上の先輩を特別視していることはわかっていた。それがどういう特別なのかは、知りたくもないので深く考えたことはない。だが、試合を観戦しに行っても、日常のふとした会話の中でも、彼のことが話題に上ると明らかに花宮の態度は不自然になる。すぐに子どものようにむきになるし、そのことについて突っ込まれると簡単に目を泳がせるし、いつもの完璧な演技はどこにいったのかと呆れてしまう。
「あのな、あの人が寮住まいなのも寮の場所も、調べたとかじゃなく本当にたまたま知っただけで」
「あ、駅着いちゃった。んじゃまた明日ね~バイバイ」
 おい!と焦ったように声を上げる花宮を置いて、原はひょいと電車を飛び降りた。花宮をからかうのは結構楽しいし、これだけわかりやすくボロを見せるということは、それだけ気を許されているということだ。
(それはいいんだけど)
 原はマフラーの中で口を尖らせた。
(なーんか、おもしろくねーんだよなぁ)
 周りの人間をきっちり分類して箱に詰めて、じゃあそのイマヨシ先輩は一体どの箱に入っているんだろう。苦手だとは常々言っているが別段嫌っている風でもないし、原たちのように気を許している風でもない。尊敬しているわけでもなさそうだし、関わり合いになりたくないわけでもないらしい。
 原の見る限り、花宮の周りでイマヨシ先輩だけがぽかりと宙に浮いて、所在なさげにふわふわと漂っている。正直少し目障りだった。ちゃんとどっかの箱に突っ込んでしまえよと、花宮に対しても理不尽な怒りを覚える。特別なら特別で、さっさと特別の箱を作って詰めちゃえばいいのに。
 ムカムカしながら歩いていたら、いつもより三分早く家に着いた。

 翌日の土曜日、原は朝一で山﨑に電話をした。
「ザキ~、俺今日腹痛いから部活休むわ~。花宮に言っといて」
「はぁ?マジ?つか花宮に直接言えよ」
「だって花宮あんまケータイ見ねーし」
「あーまあな。わかった、言っておく。マスかいてそのままケツ出して寝たんだろ、どうせ」
 憎まれ口を叩きながらも、「ゆっくり休んで早く治せよ」と最後に付け加える山﨑は、なんだかんだ優しくて面倒見がいい。ほんの少し罪悪感を覚えながら、原は電話を切った。
 時間を見計らって家を出る。電車に乗って、一駅。降りたのは、桐皇学園の最寄り駅だ。毎日同じ電車に乗り合わせているから、桐皇の時間割はなんとなく把握している。土曜日は午前中授業のはずだ。
 改札を出ると、ちょうど帰宅する学生の最初の一団がやってくるところだった。
(会えるかな、どうかな、どっちでもいいけど)
 自分の無計画さに少し笑う。
 背の高い原が人待ち顔で立っているのはすごく目立つ。制服を着ていないので霧崎第一の学生だとはわからないと思うが、ナンパ?やだぁ、彼女待ちでしょーという女子学生のひそひそ声と好奇の視線を向けられて、原は少々居心地の悪い思いをした。
 くっそー、早く来いよ。
 と、その時、数名の男子の一団の中に眼鏡の男が見えた。
(来た!)
 同級生なのか、今吉は隣の学生の肩を気安く叩きながら笑っている。バスケの試合以外で見るのは初めてで、その屈託のない笑顔が原には少し意外だった。
(なんだ、花宮いつも妖怪って言うけど、全然フツーじゃん。フツーの高校生)
 声が聞こえるぐらいの距離になって、今吉は原の姿を認めた。一瞬だけ足を止め、すぐに飄々と読めない笑みを浮かべた。
「すまん、ちょっと知り合いや。喋っていくから先帰っといて」
 そして原の眼前にやってくる。
「どないしたん。君、霧崎第一のバスケ部の子やろ。彼女待ちやなくて、ワシに用事やんな」
 向かい合うと、意外と小さいなと思った。コートの中ではもっと背の高い選手に囲まれていたにも関わらず、随分大きく見えた。つむじの見下ろし具合からして、花宮とそんなに変わらないぐらいだ。
「なんやねん。黙って見下ろされたら怖いわ」
 ちっとも怖がっていない顔で、のほほんと言うのにムカついたから、思っていたよりつっけんどんな声が出た。
「明日……」
「ん?」
「明日、花宮誕生日だから」
「はぁ?」
 今吉は、本気でわからないという風に眉をハの字に下げた。
「知らなかっただろ」
 花宮はそういう奴だ。近くにいたい人間であればあるほど、離れてしまいたくない人間であればあるほど、未来を期待するような真似はしない。
(けどさぁ花宮、そんなの、寂しいじゃんか)
 今吉は、しばらくポカンとした間抜け面を晒していたが、やがて脱力し、諦めたような笑みを浮かべた。
「そうか、明日花宮誕生日なんや……うん、知らんかったわ」
 読めない食えないで通っている奴のくせして、こんな時だけわかりやすい表情をするのはやめてほしい。
 原は無言でくるりと踵を返し、足音荒く反対側のホームへ戻りかけた。その背中に、穏やかな関西弁が降る。
「おおきになぁ、原クン」
 原は振り向きもせず、足を速めた。
 名前を呼ばれた。霧崎第一のレギュラーメンバーのことは、全員調べているに違いない。だって花宮のチームメイトだから。ムカつく、ムカつく。花宮も、イマヨシ先輩も。臆病で一方通行で寂しがりで、どいつもこいつも似た者同士か。
 ホームに降り立ち、各駅停車を待つ。向かいのホームにちらりと今吉の姿が見えたが、すぐにやってきた電車に乗り込んで行ってしまった。がらんと人のいなくなったホームに、伝書鳩が一羽飛んできた。しばらく点字ブロックの上を忙しなく首を振りながら歩いていたが、やがて近付いてくる電車の地響きに驚いて飛んで行った。
 原の眼前を、急行列車が唸りを上げて通り過ぎる。
「ムカつく」
 小さく呟いた言葉は、冷たい風に巻き上げられて冬空へと消えていった。

 翌日、部活に行くと花宮に睨まれた。
「昨日サボったろ」
「うんサボった。めんごめんご」
「……おい原」
「悪かったよ。居残りで外周行くから許して」
 あからさまに不機嫌な原に花宮は首を傾げたが、それ以上追及することはなくピッと笛を鳴らして集合を掛けた。
 外周を終えて体育館に戻ると、一昨日と同じように花宮が一人残ってシュートの練習をしていた。
(二万分の……何回目?もう二万回ぐらい打ってんのかもな)
 花宮は原が帰ってきたのに気付くと、今日はさっさと片付け始めた。
「もういいの?」
 原が尋ねると、うん、と子どものように頷いた。
「一緒に帰る」
 部室で並んで着替えながら、二人で何てことない話をした。
 今日古橋が特製のスポドリ作ってきたってんで飲んでみたら、妙に美味くてさ。逆に何入れたんだって気持ち悪かったわ。えーだって古橋だし。キモいし。よく飲んだね、むしろ。あ、そうだ、瀬戸から漫画回ってきた?花宮も読みたいって言ってたから、読んだら回しといてって言ったんだけど。いや、まだだわ。いいよ別に急がねぇし。
 花宮は、原が昨日部活をサボった理由も今日不機嫌だった理由も聞いてこなかったが、とりとめもない会話の中で原の反応を窺っているようでもあり、原が普段通りにポンポン言葉を繋いでやると、ボタンを留めながらちらりとこちらに視線を寄越し、ふっと息を吐いた。
(愛されちゃってるよね、俺)
 鍵を閉め、ほとんど明かりの消えた校舎を出る。空気は痛いほど澄んでいて、いつもの百倍は星が見えると原は思った。花宮は今日も隣を歩いている。原は夜空を見上げながら低く口笛を吹いた。
 花宮の足が止まったことに気付き、視線を前に向けた。校門に、人影が見えた。
「今吉、さん?」
 花宮の大きな目が、戸惑いで揺れた。校門に凭れるように立っていたシルエットが、ゆっくりと起き上がった。
「じゃーね花宮また明日!誕生日おめでとう!」
 原は言い捨てて駆け出した。今吉の側を駆け抜ける時、チリッと肩が触れ合ったが、原は顔も見ずにそのまま走った。今吉も原を見ていない。
「花宮」
 温かな声が、背後に聞こえた。原はめちゃくちゃに手足を動かし、猛然と走った。冷たい風が、原の頬を、額を、耳を切り裂いていく。しかしそれよりも、コートと制服と温かい皮膚に包まれたところが痛いのはなぜだろう。転びそうになりながら空を仰ぐと、満天の星が滲んで見えた。


back