七日ばかりの月から宇宙を見下ろす
「高尾、お前、今日誕生日だったのか」
昼休み、椅子ごと後ろを向いて緑間の机で昼食を食べていると、クラスメイトが細々とした贈り物(飴玉三個とか、チョコレート一粒とか)と共に祝福の言葉をばらまいていった。それに「サンキュー」と軽い笑顔で応えていると、向かいから低い声が投げかけられた。正面に視線を戻すと、緑間が神妙な顔をしてこちらを見ていた。
「そだぜ~高尾ちゃん十六歳になりましたっ!真ちゃんに追い付いたのだよ~つか真ちゃん知らなかったっけ?あそか、星座さえわかってりゃおは朝人事は尽くせるもんな」
いつものように、思いつくままつらつらと言葉を紡ぐと、
「うるさい。それと、真似をするな」
と言いつつ、難しい顔で何か考えている。パックの牛乳をストローで吸いながら眺めていると、パッと上げられた翡翠色の真剣な瞳と目が合った。
「高尾、何か欲しい物はないか」
その意外すぎる言葉に目を丸くしていると、緑間は決まり悪そうにずれてもいない眼鏡を上げる素振りをした。
「下僕の誕生日を祝ってやるのも、尽くす人事の内の一つだと思っただけなのだよ」
「下僕って!ひで!けどそんな急に思いつかねえよ。気持ちだけで十分。サンキュな」
ギャハハと掻き回すように笑ったが、気持ちだけで十分嬉しく思ったのは本当だ。しかし、緑間はその返答に納得がいかなかったのか、
「部活が終わるまでに考えておけ」
と、いつものごとく尊大に命じたのだった。
十一月も終わりに近付くと、部活が終わる時間には、もうすっかり外は暗い。冷たく渇いた冬の匂いが、剥き出しの鼻先を掠めていった。
「さみぃ!そろそろマフラーいるかもなー」
部活で汗をかいた後だとなお、薄い学ランに鋭い風は容赦なく突き刺さる。高尾は首を竦め、制服のポケットに両手を突っ込んだ。
「転ぶぞ、馬鹿め」
隣を歩く緑間は、学ランの上にしっかりとジャケットを着込んでいた。
「天気予報を見て服装の調節をするのも、人事を尽くすということだ。今晩は冷えると言っていたのだよ」
「へぇへぇそーですね。つか誕生日なんだから、説教はほどほどにしてくれよな」
高尾が尖らした口から零した不平を、緑間は鼻でふんと笑って一蹴した。
「だからお前は駄目なのだよ。それで…」
緑間は、左手で眼鏡を押し上げた。
「それで、欲しい物は決まったのか。まあ、今からだとコンビニで買える物ぐらいしかしてやれんが」
「うーん、つってもなー…」
毎日同じ学校に通い、同じ教室で机を並べ、共に昼食を食べ、くだらない話をし、同じユニフォームを着て同じコートに立つ。当たり前のように緑間が隣にいて、そして緑間も当たり前のように自分を隣に置いているという事実が、高尾にとっては取って置きの宝物だった。これ以上彼に何を望むのか。
高尾は頭の後ろで両手を組み、緑間と並んでゆっくり歩いた。夜空を見上げると、ちょうど頭上に半月より少しふっくらとした月が昇っていた。
「…真ちゃん、そこのストバスコート寄ってかねえ?」
緑間は、数秒黙って高尾のつむじを見下ろした後、
「いいだろう」
とつぶやいた。
小さな公園に併設されたそのコートは、十数年前子ども達の間でバスケが流行った時に作られたものだが、近年は利用する人も減り、もっぱら小学生の鬼ごっこ用コートと化していた。高尾達も、ここのコートは床面が磨り減っていることもあり、部活のない日は少し足を伸ばして隣町のストバス場へ行くのが常だった。
夜も遅いこの時間は、もちろん小学生の姿は見えず、切れかけの街灯が無人のコートを薄寒く照らすばかりだ。
ふう、と吐いた息が白い。白い息に乗せて、高尾は願い事を口にした。
「真ちゃん、俺のために、スリーポイントシュート撃って」
中学時代の対帝光戦、初めて緑間のシュートを目の当たりにした高尾は、たった一つのボールに五感を全て奪われた。コート全体を見渡すためにある特別な視野は、直径24.5cmの球体に収斂され、音も、匂いも、踏みしめたバッシュの感覚さえ消え失せた。目だけが意識の外で働き、体育館の天井から宙に放たれたボールを追った。そして、コートに立つ誰よりも早く、このシュートが入ると確信した。上から見下ろした完璧な軌道は、定められた運命のようにゴールへの道筋を辿り、一片のぶれもなくリングに吸い込まれていった。
以来、高尾が緑間のシュートを鷹の目で見たことはない。
中学時代は、その後緑間たちの試合を観戦することはなかったし、高校に入って同じチームになってしまうと、練習でも試合でも、コート上の動向から目を離せないPGとして、放たれたシュートに見惚れていることはできなかった。
だから、もう一度見たいと思った。ボールが宙に放たれる瞬間から、ネットを潜る瞬間まで、あの美しい軌道を余さずこの目に焼き付けたい。
緑間が、黙って左指のテーピングを取る。高尾は、練習用のボールを取り出し、緑間に向かって放った。
ボールを受け取った緑間は、コートの端までゆっくりと歩いていき、エンドラインでぴたりと足を止め、反対側のゴールに向き直った。高尾は、ハーフラインの真上に立ち、緑間を見つめた。
緑間は、感触を確かめるよう、ボールを数度地面についた。張りつめた冷たい空気が震え、硬質な音が余韻を残しながら響いた。
緑間がボールを構え、コートが静寂で満ちる。街灯の安っぽい光に照らされた緑間の指はいよいよ白く、そこだけ切り取られたように浮き上がって見えた。
195cmの長身が沈む。
「…しっ」
静かに息を吐き出す音と共に、ボールが手から放たれた。
高尾は目を凝らしてボールを見上げる。見上げると同時に、見下ろした。ここに体育館の天井はない。果てしなく星空が広がっている。どこまでも昇っていける。緑間のシュートの美しさは、屋外でこそ真に解き放たれるのだと気付いた。
視点を、もっと高く。もっと、もっとだ。
そう、あのふくらみを帯びた白い月まで目を飛ばせ。
あれから何度もイメージして心でなぞった、目を閉じていても完璧に思い描ける美しい軌跡を、高尾はボールの回転一つ一つまで見落とすまいと、全神経を集中させて見る。
高尾は宇宙の高みにいた。緑間の放ったボールが、スローモーションのように近付いてくる。ゆるやかな軌道を描き、小さく見えていたボールがどんどん大きく膨らむ。そして、一瞬視界を覆ったかと思うと、一転遠ざかっていく。高尾はボールを追い掛けた。
動いているのはボールなのに、落ちていくのはボールなのに、高尾の世界はボールを中心に回っていた。今やボールが宇宙の中心で、直径24.5cmの天体が、高尾を、コートを、ゴールを、月を、圧倒的な引力で引き付けた。ボールは矢のように世界を引っ張って、ためらいもなく直径45cmの環に飛び込んでいく。そこ以外、どこに落ちるはずもない。上から見るからわかってしまう。
高尾はゴールに一直線に落ちていった。視点がぐるりと反転する。地面にぶつかる。そう思った。
微かな擦過音を立ててボールがネットを揺らした瞬間、温かな体温に抱き留められた。
「誕生日おめでとう、高尾」
いつの間にか、緑間は高尾の立つハーフラインまでやってきていた。彼はいつものように、ボールがネットを潜る瞬間を見ていない。高尾をじっと見つめていた。
「真ちゃん、シュートは最後まで見ないと、また先輩達にどやされるぜ」
「ふん、外れるはずなどないのだよ。人事を尽くしているからな」
まったくだ。高尾は緑間に一直線に落ちてしまった。
きっと、今日は、忘れられない誕生日になる。
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