白い部屋 -3-

「真ちゃ~ん、お待たせ」
 いつものように扉を開けながら声を掛ける。真っ白な病室では、高尾の明るい声も均一に拡散し、静かに壁に吸収されていく。
「ほい、今日のラッキーアイテム」
 高尾は、緑間の枕元に、借りてきた本をそっと置いた。深いブルーの表紙は、彼の落ち着いた緑色の髪と、清潔な白い枕によく馴染んだ。眼鏡を外し、まぶたを閉じた彼の白い顔は、長く生えそろったまつげが目立ってとても美しい。

 緑間は一年の終わり、もうすぐ春休みという日に、トラックと接触した。その日、かに座は一位で、ラッキーアイテムの腕時計も身に付けていた。それでも、事故は起こった。目立った外傷はなかったものの、意識を失った相棒は、それ以来、一度も目を覚まさない。
 事故の起こった瞬間に時を止めた腕時計は、ずっと彼の枕元に並べられている。時計が再び動き出したら、緑間の時も動き出すとでも言うかのように。
 腕時計だけではない。毎朝次々と告げられ、そして過ぎていくおは朝のラッキーアイテムは、捨てられることも引き上げられることもなく、病室を埋めていた。
 ラッキーアイテムは、可能な限り毎日用意された。高尾が用意できなくても、誰かが病室にそっと置いていった。緑間の母親が、息子のラッキーアイテムストックから引き出してきたり、バスケ仲間やかつての先輩が持ってきたり、日によっては、同じラッキーアイテムが3つも4つも並べられた。
 クマのぬいぐるみ、三色ボールペン、孫の手、薬箱、蝶ネクタイ、パラパラ漫画、シャチハタ、折りたたみ傘、ステッキ、脱脂綿、ヤカンの蓋、昆虫の図鑑。
 シクラメンの鉢植えは枯れた。まいう棒シーチキン味の賞味期限は切れた。クワガタムシは死んでカサカサになった。かに座が一位の日も最下位の日も、緑間は変わらず眠り続けた。それでも、効き目のないラッキーアイテムで病室は埋められていく。人事は尽くさねばならないのだ。

 緑間の左手のテーピングを取り替え、爪を整えるのは高尾の日課だ。大切な左手を、すくい上げるようにそっと持ち上げる。少しも汚れていない真っ白なテーピングをするすると解き、右手に爪ヤスリを握る。使い方は見様見真似だ。彼が毎日していた姿を思い出しながら、ほんの少しずつヤスリを当てる。緑間が起きていたら、そんなやり方では駄目なのだよ、と憤慨するかもしれない。しかし、高尾には、微妙な左手の爪の掛かり具合など知る由もないのだ。
 爪は一日でそんなに伸びるわけもない。それでも毎日形ばかりヤスリを当てるのは、伸びていくことで知らされる、時の流れが怖いからかもしれない。
 時間が止まったような白い部屋で、壊れた時計が置かれた枕元で、ピクリとも動かない緑間の中で、それでも確実に時は進んでいる。爪は伸びるし、髪の毛も伸びる。美しかった筋肉は見る影もなく、600グラムのボールを高々と飛ばした左手の指は、骨ばかりが目立つようになった。高尾は二年になり、彼の後ろの席は緑間でなくなった。リアカーは外され、高尾は一人で軽快に自転車を漕ぐ。怖くて頼りになる先輩は卒業して、かわいくて頼もしい後輩ができた。変わらないものは何一つなく、皆変わりゆく世界に順応し、まるでずっとそうであったかのように振る舞っている。高尾はそれが怖かった。緑間といた当たり前の時間が当たり前でなくなり、緑間が白い病室で眠っているのが当たり前になってしまうことが怖かった。泥のように進む時間に、高尾だけが抗っている。
「真ちゃん、真ちゃーん。おーい……緑間ぁ」
 丁寧に巻き直したテーピングの左手を額に押しつけ、少し泣く。毎日流されるこの涙だけが、緑間が目を覚まさない現実が、まだ当たり前になっていないことの証だった。
 今日新しく病室に増えた黄色い犬が、その儀式を不思議そうに見守っている。黄色い犬を閉じこめた深いブルーの世界は、きっと不変なのだ。

 そろそろ面会時間が終わる。高尾は緑間の左手を丁寧に布団の中に入れ、立ち上がった。
「今日のラッキーアイテムは期限付きだぜ。返却期限は一ヶ月後だかんな」
 高尾は、司書の先生がしたように、擦り切れた表紙を優しく一撫でした。少しザラリとして温かかく、テーピングをした緑間の左手によく似ていた。


back