スピカとロックと、夜の遊園地

 最近、高尾の機嫌が悪い。三月に入り気候は日々春めいてきて、道行く人々もどことなく浮き足立ってそわそわしているというのに、高尾の機嫌は下降の一途を辿っている。
 今日も高尾は昼過ぎから宮地のアパートに来ていたが、「ちはス」と挨拶したきり、宮地お気に入りのふわふわの座椅子に埋もれるように座って、むっつりとした顔でバスケ雑誌をパラパラと捲っている。
(それ、昨日買ってきたばかりの最新号。俺も読みてぇんだけどなー)
 特等席を高尾に譲った宮地は、固いベッドの上で三角座りをして、何度も読んで台詞まで覚えてしまった漫画を手持ち無沙汰に眺めていた。
 薄いカーテンを透かして、春の柔らかな日差しが狭い部屋に差し込んでいる。雲が過ぎったのか、さっと部屋が薄暗くなって、そうして初めて部屋の電気をつけていなかったことに気付いた。しかしぼんやりとした明るさが心地よく、宮地はもうしばらくこのままでいることにする。
(いい天気だな)
 カーテンを少し手繰って窓の外を覗くと、暖かそうな日差しの色とは裏腹に、ひんやりとした空気が宮地の額に触れた。三月初旬の太陽は、まだ熱を伴わないらしい。ガラスに体温を奪われながら、宮地は無性に人肌に触れたいと思った。
「高尾」
 カーテンから手を離して声を掛けると、ややあって面倒臭げな視線が宮地を見上げた。
「喉渇かね? なんか飲むか?」
「いっす」
 素っ気ない返事で、高尾はすぐに雑誌に意識を戻してしまった。宮地はやれやれと頭を掻く。
「たーかーおー」
 漫画を放り投げてベッドから下り、高尾の隣に膝をついてにじり寄る。
「高尾ー、ほれ腰上げろ。お前は俺の膝の上な」
 無理矢理高尾と座椅子の間に体をねじ込むと、高尾は心底嫌そうな顔をしながらも、特に抵抗することなく軽く胡坐を組んだ宮地の膝の上に座り直した。高尾のしっかりとした重みと温かなお尻の熱が太ももに伝わり、宮地は満足げに高尾の腹に両手を回した。
「宮地さん、邪魔」
「いーじゃん、まだそれ読んでねーんだよ。俺にも見せろ」
 そのまま高尾の肩に顎を乗せると、彼は諦めたように溜息を吐いた。
「はぁ……構ってちゃんスか。しょうがねーなぁ」
 そのくせ高尾の機嫌は少し上向いたようで、力を抜いて宮地の胸板に凭れかかってきた。宮地は内心ほくそ笑む。
(しょうがねーのはどっちだよ)
 高尾はこうしてごくたまに、一年に二度か三度くらい、理不尽な不機嫌を宮地にぶつけてくることがある。初めて彼の不機嫌に遭遇した時は、特に思い当たる原因もなかったので面食らって焦り、すわ別れの危機かとまで思い詰めたが、それは甘え下手な高尾の「構って」という合図なのだと幾度目かにして気付いた。だからこういう時宮地は、自分が構ってほしいふりで目一杯高尾に構ってやることにしている。
 高尾を抱き寄せる腕に少し力を込めて、項に顔を埋める。乾燥した首筋に鼻を擦りつけると、さらさらの髪が宮地の瞼をくすぐった。嗅ぎ慣れた高尾の匂いに下腹に熱が灯りかけ、宮地はパッと顔を上げてごまかすように体ごと高尾を前後に揺すった。
「なぁ高尾ー、雑誌ばっか読んでねーでどっか行かね? せっかく天気もいいしさぁ」
 世間一般では今日は平日のど真ん中だが、大学生の二人には気ままな春休みだ。
「え~、寒くないっすかぁ?」
 宮地に揺すられながら高尾は渋ってみせたが、口ほど嫌がってもいない様子だ。
 後一押し。
 宮地は動きを止めて、高尾の顔を下から覗き込んだ。
「いいじゃん。ドライブしようぜ。お前の好きな音楽かけてさ。俺運転するから」
 高尾はまだ口を尖らせていたが、少しの逡巡の後、こくんと頷いた。
「フェルディナンド、かけてください」

 日の傾きかけた街に、車を走らせる。大学生が持つには少し贅沢な白のインプレッサは、宮地が父親から譲り受けたものだ。心地よいエンジンの唸りに、60年代を彷彿とさせるどこか懐かしいサウンドが絡み合う。スコットランド出身のバンド、フランツフェルディナンドは、最近の高尾のお気に入りだ。
 この車は、ディープパープルやツェッペリンなど重いサウンドのUKロックを好む父親のこだわりで、ステレオを入れ替えている。初めてこの車に乗った時、重低音の伸びが断然違うと高尾は興奮して喜んだ。音質の良し悪しのよくわからない宮地だが、彼をドライブに誘うとまず断られなくなったので、密かに父親には感謝している。
 高尾はドライブの度に自分の好きなCDを持ってくるため、カーオーディオのハードディスクには随分コアなロックが増えて、先日父親を乗せた時に驚かれた。「高尾くんとは気が合いそうだなぁ」とチラチラ宮地に期待の目を向けてきたが、会わせると高尾は宮地そっちのけで父親と意気投合しそうで面白くないので、宮地は素知らぬ顔で黙殺した。大体、宮地の童顔は父親譲りなのだ。高尾に爆笑されるのは目に見えている。
 国道を軽く流して、適当なファミリーレストランで早めの夕食を取った。平日の夕方は人が少なくて、うっかり長居してしまったらしい主婦グループが慌ただしげに出ていくと、後は勉強する男子高校生と本を読む大学生らしき女子ぐらいで、静まり返った店内に、少し前に流行ったポップスが白々しく流れた。ハンバーグセットを食べ終えて、食後のコーヒーが出てきても、高尾はまだ黙ったままだった。
 薄赤い空が徐々に濃紺に染まっていくのを眺めながら、宮地はもう少し遠くに行きたいと思った。
「高尾、行くぞ」
 冷めたコーヒーをグルグルと掻き回していた高尾が顔を上げた。
「もう帰るの?」
 もう少し遠くに行きたい気分なのは、高尾も同じだったらしい。こんなところは、二人よく気が合う。
 宮地がにやりと笑って車のキーを振ると、高尾は何も聞かずについてきた。助手席に乗り込みシートベルトを締めたのを確認して、エンジンを入れる。低い唸り声を上げて車が身震いし、重い腰を上げるように発進した。
 国道を抜け、山に続くドライブウェイに差し掛かったところで、初めて高尾が口を開いた。
「どこ行くんスか?」
 宮地はハハッと楽しげな声を上げ、アクセルを踏み込んだ。
「遊園地!」
 この山を登った先に、古い山上遊園地がある。夜になると山の頂上付近にチカチカと輝く電飾が見えて、ずっと気になっていたのだ。
「もう閉まってるんじゃないですか?」
「え〜、夜でも明かりついてんぜ?」
 カーブを曲がる度に眼下の街が遠く小さく、そしてキラキラと眩しくなっていく。
 インプレッサは対向車のいない山道を快調に走った。

 遊園地に到着したのは、午後八時を回った頃だった。山の上とは思えない、広々とした真っ平らな駐車場には、一台の車も停まっていなかった。
「ほら、もう閉まってんじゃん」
 そう言いながら高尾がドアを開けて外に出るので、宮地も車を降りた。標高わずか七百メートルほどの山だが、やはり地上と違って空気が張り詰めるように冷たい。深く息を吸い込むと、つんとした痛みと共に、濃い森のにおいが鼻の奥に入り込んできた。
 山はしんと静まり返り、二人のコンクリートを踏みしめる音がやけに高く響いた。
 ぶらぶらと門の前まで来ると、「午後七時閉園」の看板が掲げられていた。
「惜しかったなぁ」
「ちゃんと調べないで来るから」
 クスクスと笑う高尾は、ほとんど機嫌が直っている。
 二人はしばらく黙って、宮地の身長より高い頑丈な門の向こうを眺めた。観覧車やジェットコースターの鉄骨も、ファンシーな色模様の建物の屋根も、全て黒々としたシルエットとなって融合し、一つの巨大な廃墟のように見えた。風はなく、木の葉一枚揺れる音もしない。立ち尽くす二人も、傍から見れば黒い廃墟の一部になっているのだろうか。
「つか寒い」
 高尾がぶるりと身震いした。
「寒ぃ寒ぃ」
「車戻ろうぜ」
 二人で小走りに車に戻る。バタンとドアを閉めて車内に残る暖かな空気に包まれると、自然と安堵の溜息が漏れた。広い駐車場にいてこの狭い車の中に閉じこもっているのは、なかなか居心地のいいものだった。
「帰る?」
 宮地が聞くと、高尾はうーんと言いながら助手席のシートを深く倒した。
「もうちょい、このまま」
 その声に含む色を感じて、宮地は高尾の方を見た。エンジンを切った、静かで暗い車の中、高尾の色素の薄い瞳だけが、キラリと光って宮地を見つめていた。
 高尾の手が伸びて、宮地の手に触れた。その熱に、昼間押し殺した燻りを思い出し、宮地は一気に欲情した。
「高尾」
 シフトレバーを乗り越えて、宮地は助手席の高尾に覆い被さった。頭を天井にぶつけ、足をどこかに引っ掛けたが、構わず高尾に深く口付ける。高尾が熱い息を吐いた。
「宮地さん、ゴム持ってんの」
「大丈夫、最後までしねぇから……触るだけ」
 性急に伸ばされた手を、高尾は拒まなかった。

「っはぁ~」
 脱力して高尾の上に倒れこむと、すかさず「宮地さん重い!」と高尾の非難の声が上がった。バンバンと背中を叩かれるが、程よい倦怠感と腹に感じる高尾の体温が心地よくて、「もう少し」と彼の肩口に鼻を摺り寄せる。昼間嗅いださらっとした高尾の体臭に、湿った汗の匂いが混ざり、宮地は深くそれを吸い込んだ。
「宮地さん、窓開けよう」
 なおも高尾が背中を叩くので、宮地は渋々体を起こしてエンジンを入れた。途中で止まっていたフェルディナンドが流れ始め、薄く開けた窓から山の夜風が入り込んできた。宮地はオーディオのボリュームを少し絞った。
「寒くね?」
「ん、まだ、大丈夫」
 目一杯倒したシートに寝転び、窓から夜空を見上げる。黒々とした遊園地のシルエットの向こうに、驚くほどたくさんの星が見えていた。
「うわ、すげぇ」
「今頃気付いたんスか。俺はずっと見ていましたよ」
 宮地さんの肩越しに。そう言って高尾はいたずらっぽく笑う。
「てかこんなところでさ~」
 今何時だよ、と助手席に寝そべったまま大きく伸びをした高尾は、運転席側の窓を覗き込んで、ほら、オリオンがいつの間にかあんな西に、と指差した。きれいに連なった三つ星は、その列を乱すことなく大きく傾いて、順に地平に沈もうとしている。
「こっちの空は春ですよ」
 今度は助手席側の窓の外を見遣って、高尾が宮地の腕を引いた。宮地はどれどれと高尾の方に乗り出して見るが、下界から見上げるのと違い、星が多すぎて却ってよくわからない。
「どれが春の星だよ。オリオン座ぐらい特徴ねぇとわかんねーわ」
「ほら、あの青っぽいのがおとめ座のスピカ。ようやく上ってきた」
 高尾が真っ直ぐ指した先に、東の木立の上ギリギリに輝く一等星が見えた。ブルーサファイアのような深い青は、冷たく澄んだ夜空の中、何物にも遮られることなく存分にその美しさを解き放っていた。
「もっと夜中になると、おとめ座のスピカ、うしかい座のアークトゥルスから北斗七星に連なる、ダイナミックな春の大曲線ができあがりますよ」
 高尾の指は、夜空に架空の大曲線を描いた。
「星や星座で春を感じるなんて、お前随分乙女だな」
 宮地がからかうと、高尾が澄ました顔で、
「俺のエース様がロマンチック乙女なもんで」
などと返すので、宮地はたちまち不機嫌になった。それを隠そうともせずチッと聞こえがよしに舌打ちをすると、高尾は上機嫌で笑った。今日の昼間と、形勢逆転だ。
「宮地さん、好きだよ」
「知ってる」
 むっつりと答える宮地に、高尾はまた楽しそうな笑い声を上げた。
 カーオーディオから流れる音楽に合わせて、高尾がデタラメな英語で鼻歌を歌う。宮地はそれを聞きながら、瞳を閉じた。
 真っ黒な夜の遊園地、ご機嫌なナンバー、掠れた歌声、青い星。ちぐはぐな点と点は瞼の裏にのびやかな大曲線を描き、果てのない宇宙へと伸びていった。

Happy Birthday on 5 Mar.


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