あの日、僕らの庭で

 一松たちの住む赤塚区は東京でも海寄りの町で、今日みたいに東からの風が強く吹く日は、家の近所の公園の辺りまで潮のにおいが運ばれてくる。かつては打瀬網漁で鳴らした東京湾近海も近年ではめっきり漁船の数を減らしたが、それでもこんな風の強い日は、大漁を期待して地元の漁師たちが張り切って船を出していることだろう。そしてそのおこぼれを狙った野良猫たちも、そぞろ港に集結する。
 一松は鼻をくんくんとうごめかして潮のにおいを確かめ、少し思案した。港の猫に会いに行くのもいい。しかし、今日は「彼女」が来ていそうな気もする。
 ひときわ強い風のかたまりが正面から吹きつけ、一松は思わず目をつぶって首を竦めた。マフラーを巻いてくるべきだったと後悔する。やはり今日は風に晒された港より、陽だまりのできる空き地で彼女と会うのがいいかもしれない。
 一松は、公園を抜けて緑道に出た。赤茶けた煉瓦敷きの小さな緑道は自転車二台が何とかすれ違えるぐらいの道幅しかなく、その両脇には、素人が行き当たりばったりに手を入れたような不均一な花壇が、延々と出口まで続いている。ムラサキカタバミの雑草に埋まりながらパンジーが花を咲かせ、クチナシの香りもまだ去らないうちにユリがぷんぷんと花粉を振りまきはじめる。そのすぐ隣には色とりどりのケイトウが頭を並べ、ケイトウに踏みつぶされそうになりながらひっそりとイソトマが咲く。そういう一貫性のない色彩とにおいの暴力は、いつも一松を落ち着かない気分にさせた。
 だが、冬はいい。と一松は思う。こまめな手入れなどされていない花壇には、枯れた草木が引き抜かれずそのまま残っている。緑道のずっと向こうまで下を向いてカサカサになった花の残骸が連なり、そのところどころに、スイセンが掃き集められた紙くずみたいに咲いている。人々は花壇に目もくれず、背を丸めて急ぎ足で通りすぎていく。そのくらいでちょうどいい。人けのない緑道は、一松にとっては好都合だった。
 一松は緑道の真ん中辺りまで来て立ち止まった。何気ないふうを装って、入ってきた緑道の入口から大通りに面した出口までをずらっと見渡す。緑道は入口から出口に向かって緩やかに長い左向きのカーブを描いていて、ここからだと出口は、遠く左手の常緑樹に吸いこまれていく光の一点に見えた。今緑道には一松しかいない。
 一松はすばやく花壇に飛び上がり、猫のように四つん這いになって、金柑の木と枯れたタチアオイの隙間を潜りぬけた。花壇の背面は錆びた水色のフェンスで囲われているが、ここだけぽっかりと穴が開いていて、緑道の向こう側へ出られるようになっているのだ。金柑の枝にうまくカモフラージュされて緑道側からフェンスの穴は見えないが、一松はこれを散歩中の野良猫に教えてもらって知っていた。
 フェンスのすぐ向こうには、低い石塀一枚を隔てて、民家が無防備な背中を並べている。石塀と緑道のフェンスの間は、大人の男が立つと肩がつかえてしまうくらいの狭い小道になっていた。いや、道と呼ぶほどのものでもないかもしれない。緑道を作った時にたまたま余らせた空間、あるいは、民家の後ろに不作為にできてしまった余白。この道はどこからも来ることができないし、どこに行くこともできない袋小路だ。ただし、猫を除いては。
 一松は左肩を石塀に、右肩を錆びた金網に擦りながら歩きだした。乾いたカチカチの白土に、冬の薄い太陽が反射する。石塀の向こうから、AMラジオの音と遅めの昼食らしいうどんだしのにおい。この並びの民家はどれも古くておんぼろで、何軒かは空き家になっていたが、何十年もの間にこびりついた生活臭のようなものが漂っていて、静かだが確かな人の気配があった。一松はちらりと視線を左にやった。独居老人らしい男が禿げ上がった後頭部を撫でながら、テレビを観ている。少しこちらに視線を向ければ低い石塀から一松の頭が半分飛び出しているのが見えるはずだが、民家の住人たちは家の裏を猫が通ろうが人が通ろうが、まるで気にしていないみたいだった。
 しばらく行くと、取り壊された家の跡地が現れる。一松が生まれるよりもっと昔に更地になり、それから買い手がつかないでずっと空き地になったままらしい。空き地を囲む石塀は一か所足元から崩れ落ちているところがあって、一松はギザギザになったコンクリートの鉤に半纏の袖を引っ掛けないよう注意しながら、その狭い隙間を通り抜けた。
 来ているだろうか。
 きょろきょろと見渡すまでもなく、生い茂った草を踏みしめて、一匹の白猫が姿を現しナァと鳴いた。一松は口元を綻ばせ、やあ、と小さく挨拶を返す。彼女はこの空き地に住みついている雌猫で、天気のいい日はよくここで一緒に過ごした。猫は尻尾を立ててぼうぼうに茂った草むらへ飛び込む。一松はついていく。彼女はこの空き地のことを知りつくしていて、風向きや風の強さ、日差しの傾き、気温から、その日の一番居心地のいい場所を見つけることができた。一松はただ彼女の隣に座り、野良にしては美しいその白い毛並みを堪能したり、クルクルと喉を鳴らす穏やかな声に耳を傾けながら、うとうと昼寝をしたりした。
 今日の彼女の特等席は、立ち枯れたススキの群生の中だった。人ひとりがしゃがみこめるくらいの地面が見えていて、一松はすっぽりとそこに収まる。白猫は一松の太ももに寄り添って丸くなる。


 彼女はここの先住民だった。
 一松が初めてこの空き地を訪れた時、彼女は狩りだか散歩だかに出かけていて留守だった。一松は崩れた石塀からそっと入りこんで空き地を見渡した。空き地の隣の民家は空き家で、その反対側の家は半分くらい解体されていた。なんらかの理由で、解体作業の途中で放置されているのだろう。表通りに面した出入り口は、解体中の家から続く「立ち入り禁止」の黄色いテープとA型バリケードで遮られている。ここが普通の人間なら入ってこない隔離空間であることを確認して、一松は満足げに頷いた。まだ暖かい秋の入りのことだった。一松は日当たりのいい場所を探して、そこでぐうぐう昼寝をした。そして、日が陰ってきた頃少し肌寒さを感じて目を覚ますと、一匹の白い猫が足元に座って一松を見ていた。
 美しい猫だった。一見して野良猫とわかるほどにはその白い毛皮はうっすらと汚れていたが、よく舐めて手入れされ、毛並みは整っていた。二歳くらいの若い雌だ。すっきりと切れ上がった頬と、その日の空みたいに薄いブルーの瞳が、彼女の冷静さと聡明さを映しだしていた。細い二本の前足は、体の前で几帳面に揃えて置かれている。一松は、ここが彼女の場所だったことに気づいた。
「ごめん」
 一松は猫を驚かさないよう、ゆっくりと体を起こしながら低い声で謝った。
「ここが、君の場所だって知らなかったんだ」
 一松はだいたいの猫と仲良しだったが、彼らに対する礼節を忘れたことはなかった。そして一松は、彼らが自分の縄張りに勝手に足を踏み入れられるのを嫌うことも知っていた。
 猫は威嚇する気配もなく、一松の顔をじっと見つめていた。視線を合わせるのを嫌がる猫にしては、珍しい反応だった。
 彼女は長々と品定めをするように一松を観察し、一松は、彼女に見つめられるままじっと動かずに座っていた。
「ナァ」
 やがて猫は一声鳴いて、立ち上がった。そして悠々と一松との距離を詰めて蹲り、しばらく前足の上で居心地のいい顎の置き方を探していたが、やがて落ち着いて満足げに喉を鳴らした。どうやら一松がここにいるのを許してくれたらしい。それどころか、なぜかずいぶん気に入られたみたいだとわかったが、すぐに膝の上に乗ってきたりしない辺り、控えめで上品な猫だと思った。
 一松は、彼女の背を撫でたいのをぐっと堪えて、背骨の一つ一つがくっきりと浮き出た美しいその曲線を、飽きもせずに眺めた。
 以来、この空地は一松と彼女の秘密の場所になった。

   ◇

 一松はいつものように、空き地で寝転がって流れる雲を眺めていた。白猫は一松の腹の上で念入りに髭の手入れをしている。腹にかかる猫のほどよい重みが心地よくて、一松はふとすれば眠りの淵に落ちそうになった。雲を眺めていたはずのまぶたはいつの間にかすっかり落ちて、ぼんやりと明るい何かを見ている。夢と現の狭間をふわふわ、ふわふわとどっちつかずに漂うが、夢の世界の方が気持ちよさそうだと呂律の回らない頭で思考する。もう諦めて、このまま夢の側へ落ちていこう。現の壁にかろうじて引っ掛けていた指をいよいよ離そうとした、その時。腹の上の猫がピリッと緊張感を漲らせた。その気配に、一松も咄嗟に半身を起こす。猫は青い目をじっと瞠って、「立ち入り禁止」のテープの向こうを窺っている。
 誰か来るのか。
 すっかり目を覚ました一松は、神経を研ぎ澄ませて侵入者の気配を探った。このまま草葉の影に隠れてやりすごすか、それとも威嚇して追い出すか。侵入者は、ガサガサと無粋な音を立てながら、遠慮もためらいもなく黄色と黒のバリケードを跨いで空き地に入ってきた。一松は跳ねるようにして立ち上がった。腹の上の猫が驚いて飛び下りた。
「あいつ」
 現れたのは、カラ松だった。肩の水平に伸びたトレンチコートに細身の黒いパンツ、無駄に黒光りした革靴、そして愛用のサングラス。枯れ草がぼうぼうに生い茂ったこの場所におよそそぐわないいでたちで、カラ松はハンフリー・ボガートみたいに渋い顔つきで空き地を見渡した。そしてすぐに呆然と突っ立っている一松に気づき、ぱっと顔をほころばせた。ハンフリー・ボガートがただのカラ松になる。
「なんだ、一松じゃないか!」
 奇遇だなぁ、と大股で歩み寄るカラ松に、一松は威嚇の姿勢を取って低く唸った。
「何しに来たの。ここ立ち入り禁止だろ」
「いや、何しにってわけでもないんだけどな。さっきまで港に行ってたんだ。防波堤に立って、海からの風を感じていた。風は強く冷たかったが、ハードボイルドな男にみとれる女たちの熱い視線を冷ますにはちょうどよかった。カモメたちは、そんな俺のギルティさを責めるように鳴いた……だが仕方があるまい。なぜなら、トレンチコートの裾をなびかせるその姿はさながら、そう、ボギー」
「何でここに来たんだって聞いてんだよこのクソ松」
 ナルシズムの世界に陶酔していく兄の胸倉を掴み上げると、彼はすぐに両手をホールド・アップして「待って!」と叫んだ。「す、すまん! いや、違うんだ。港からの帰り道、いつもは防波堤沿いのメインストリートを緑道にぶち当たるまで歩いてくるんだが、ふと思いついて、通りから枝分かれした路地に入ってみたんだ。そしたらこの空き地が見えて、ここを抜けられたら方角的にもしかしたら近道になってるんじゃないかと思って……」
「近道じゃねぇよ。こっから先は行き止まりだ。さっさと元来た道から帰りな」
「しかし一松がここにいるってことは、どこかに抜け道があるんじゃないのか? お前が緑道を抜けて大通りをしばらく歩いて、路地の方からぐるっとわざわざ大回りしてここまでやってくるとは考えにくい」
「なんだよ、大回りして来ちゃ悪いのかよ」
 カラ松の推測は的を射ていて、一松はますます腹が立った。サングラス越しの目にも腹が立ったし、わざとらしく襟を立てたトレンチコートにも腹が立った。ピカピカの黒い革靴のつま先に、枯草を踏みしめてきた時についたらしい乾いた土の汚れを見つけて、一松は舌打ちをした。何もかもがこの場所にそぐわない。ここは白猫と一松だけの秘密の空き地で、革靴で踏み荒らしていい場所ではないはずだ。ピカピカで格好つけのボギーは、港で冷たい風に晒されているのがお似合いだ。
 一松はサンダル履きの足で、黒い革靴の甲を力いっぱい踏みぬいた。
「痛い!」
 カラ松が悲鳴を上げて涙目になる。
「何するんだ一松! 靴踏むなって、おい」
「ここは、俺らの場所なんだ。邪魔するなら……」
 革靴に乗せた足にさらに体重を乗せようとした時。ナァ、と離れたところから声がした。はっとして振り返ると、カラ松が現れてからどこかへ逃げていた猫が、崩れた石塀の間から顔を覗かせていた。
「あ、お前、駄目だって」
 一松は止めようとしたが、カラ松はこんな時ばかり頭の回転を速くして、したり顔で頷いた。
「なるほど、そこが抜け道になっているんだな。緑道から繋がっているのか」
 ナァ。白猫は答えるように鳴いて、身軽に石塀を飛び越えてこちらに歩いてきた。一松は困って、白猫とカラ松を交互に見た。カラ松は一松に胸倉を掴まれて足を踏まれたまま、「やあ、お邪魔してるよ」と白猫に笑いかけた。一松は気勢を削がれ、負け惜しみのようにもう一度大きく舌打ちをして、カラ松のトレンチコートの襟から手を放した。カラ松はしゃがみこんで白猫の頭を撫でた。
「きれいな猫だな。一松の友達か?」
「……そうだよ」
 カラ松の手のひらの下で、白猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。


 その日から、度々カラ松は空き地にやってくるようになった。一松は最初、二人の秘密の場所を荒らされるようで面白くなかったが、白猫が特に嫌がらないので渋々ながら許容するようになっていった。一松と白猫が一緒にいるところにあとからカラ松が合流するのがよくあるパターンだったが、時にはカラ松と二人で家から一緒に空き地に向かうこともあった。そんな時、カラ松は金柑の木と枯れたタチアオイの隙間に飛び込む一松の敏捷性を褒めたたえ、せっかく整えた髪に枯れ葉がつくのも構わずに、一松のあとに続いて小道への狭い抜け穴を潜った。
 彼女は非常に警戒心が強く用心深い猫だったが、彼が一松の兄弟だとわかっているからか、カラ松には最初から気を許しているみたいだった。
「リル・キティ」
 カラ松は白猫をそう呼んだ。
「なにそれ」
 一松はげんなりした顔で言った。「てか、もう子猫じゃないんだけど」
「わかっているさ、彼女は立派なレディーだ。だが、レディーはいくつになってもかわいい子猫ちゃんと呼ばれると嬉しいらしい」
 そう言えば、この前こっそり盗み見たカラ松の愛読雑誌にそんなことが書いてあったような気がする。「女の子が言われて嬉しい言葉TOP10!」バカバカしいと読み飛ばしたが、付箋をつけてご丁寧にマーカーでラインまで引いてあった。本当にそんなふうに呼ばれると女の子は嬉しいものなのだろうか。半信半疑で白猫の反応を窺うと、彼女は満更でもなさそうな顔でカラ松に撫でられている。一松には女心がまだよくわからない。
 リル・キティは、カラ松のギターが好きみたいだった。たまにカラ松が愛用のアコースティックギターを背負って空き地に現れると、いつもより弾んだ足取りで枯れ草を飛び越え出迎えた。カラ松は得意の尾崎豊を弾き語って聞かせた。時々コードを間違えるし、弦を押さえきれていないアルペジオはところどころで詰まった音を鳴らしたが、歌声は悪くないと一松は思った。尖ったところがなくて耳ざわりがいい。冬の陽だまりみたいな声だ。
  Oh, My Little Kitty…
  Oh, My Little Kitty…
 尾崎を意識しているのか、少し掠れた声でカラ松は歌う。
「……それ、そんな歌詞だったっけ」
「ちょっとだけ、リル・キティのためにアレンジした。”OH, MY LITTLE GIRL”。尾崎の中でも特別好きな曲だ。甘えたで寂しがり屋の女の子を、深い愛で抱きしめてあげようとする男のラブ・ソング――俺もこんなふうに、愛する人に全身で愛を捧げたいものだ……」
「……そんな男の独りよがりみたいなの、尾崎だから許されるんであって、お前がやったら害悪なだけだから」
「まあそう言うなよ」
 カラ松は一松の憎まれ口に的外れな言葉を返して、それでも上機嫌で歌い続けた。リル・キティは前足に顎を乗せて、うっとりと目を閉じている。一松も真似をして、彼女の隣に寝転がって目をつぶった。風が一松の頭上の草をさわさわと鳴らす。掠れたギターとカラ松の歌声。
  Oh, My Little Kitty…
  Oh, My Little Kitty…
 それは、甘えたで寂しがりの女の子を深い愛で抱きしめてあげる男の歌というよりは、彼女への愛に縋って生きる、脆くて弱い男の心の吐露のように聞こえた。
 暖めてあげる(僕を暖めて)、いつまでも離れない(ずっと離さないで)、こんなにも愛している(深く深く愛してくれ)……
 カラ松は何にもわかっちゃいない。上辺の格好よさに憧れて、見てくれを真似ているだけだ。一松は心の中でそう罵ったが、不思議とカラ松の歌声には胸に訴えかけるものがあった。尾崎の声とは似ても似つかない低音の落ち着いた歌声が、一松の胸の底の湖に波紋を広げる。波を立てる。
 クソ松のくせに。
 腹立たしくなって演奏の邪魔でもしてやろうかと思ったが、リル・キティが彼の歌を気持ちよさそうに聴いているのでやめた。そもそも、この空き地にいる間は、家にいる時より幾分カラ松を許容できる自分がいることを認めざるをえなかった。カラ松が何かを言う度に、もしくは彼がそこにいるだけで腹の底から噴き上がってきた反発心や憎しみにも似た感情は、ここで風に吹かれているとずいぶん弱々しく、取るに足らないもののように思えてくるのだった。
 カラ松もそれを感じているのか、空き地の彼は家にいる時よりもよくしゃべった。一松と普通に会話できるのが嬉しいみたいだった。好きな歌の話や兄弟の話、昨日テレビでやっていたお笑い番組の批評、あるいは好きなおでんの具について。知っていることもあれば初めて聞く話もあった。二十年以上ずっと一緒に暮らしているのに、カラ松の好きな映画を知らなかったことに驚いた。そう言えば、彼は家であまり自分の話をしない。
 また、時には、何十分も黙って過ごすこともあった。カラ松は居眠りをするでもなく猫と遊ぶでもなく、ただ穏やかな顔で隣の解体中の家の方を見るともなしに眺めていた。沈黙に気まずさは含まれなかったが、一松は妙に落ち着かない気分になった。リル・キティはそんなことに構いもせず、歯を剥きだして大きなあくびをした。一松と猫の二人でいる時には沈黙の中にいてもこんな気分にはならないので、落ち着かないのはきっとカラ松のせいだと思ったが、やはり腹を立てる気にもなれず、一松は仕方なく猫の背中を撫でた。
 そう言えば、昔はよくこうしてカラ松と一緒に過ごしていたっけな。一松は思い出した。
 幼い頃は兄弟の中でも特に活発な方だったカラ松は、家に閉じこもって遊んでいるのが好きだった一松に、しばしば外の土産を持って帰ってきてくれた。丸い石、セミの抜け殻、フウセンカズラの種、六角ナット、何かの鳥の風切羽……。ほとんどがゴミやがらくただったが、幼い一松にとってはどれもこれも宝物のように思えた。一松はカラ松にそれらを手に入れた冒険譚を聞かせてとせがみ、もらった宝物を猫の絵柄のお菓子の空き缶に入れて、押し入れの奥に隠した。長く大事にしていたが、いつだったか全部捨ててしまった。だが、あの猫の絵の缶はたしかまだ置いてあったはずだ。
 あれ、どこに仕舞ったっけ? 

(中略)

 今日の海はひどく静かだった。風もなく、防波堤にぽつりぽつりと座った三人ばかりの釣り人が、ぴくりとも動かないウキを暇そうに眺めていた。鈍色の分厚い水平線を越えて、一艘の漁船が港に帰ってくる。ボボボボボ。船はまだずっと遠くにあるのに、海があまりにも静かなので、エンジンが波を蹴立てる音がよく聞こえた。収獲はあったのかなかったのか、そんなこと気にもしていないようなのんびりとした走り方だ。今日、魚の群れはどこか別の場所を泳いでいるのだろう。カモメの一羽も飛んでいない。
 一松は海沿いの防波堤をぶらぶらと歩いていた。ここは漁港の船着き場から連なる海なのでさほどきれいではないが、深い緑色の大きなうねりの向こうに赤茶色のコンテナや古ぼけた漁船の並んでいるのを眺めるのは好きだった。この港を溜まり場にしている野良猫たちもたくさんいて、一松は定期的にここを訪れるのだが、今日はなぜか一匹も姿を見せなかった。不思議なこともあるもんだ、と一松は思った。
 薄く曇った空の向こうで、太陽はそろそろ沈む準備を始めているようだった。昼間は春のような陽気だったが、ぐんぐん気温が下がりはじめている。一松はぶるっと身震いして、そろそろ帰ろう、と思った。港の猫たちにはまたいつでも会える。
 踵を返そうとして、一松は動きを止めた。パーカーのポケットに突っ込んだ右手の肘の辺りに、何か柔らかいものが触れている。腕を掴まれているのだと気づくのに何秒かかかった。一松はびっくりして、腕を振り払うようにして振り返った。すぐ後ろに、一人の少女が立っている。
 一松は振り向いた姿勢のまま固まった。少女は振り払われた手のことなど気にも留めず、はにかんだ笑みを浮かべて一松を見ている。いつやってきたのだろうか。防波堤には、一松とそこに座っている三人の釣り人しかいなかったはずだ。釣り人はさっきとまったく変わらぬ姿勢で水面に釣り糸を垂らしている。風はなく、ウキは海面に固定されたみたいに動かない。一松はぴくりとも動けない。
 一松は混乱の中にいた。気配をまるで感じなかったとか、いきなり腕を掴まれてびっくりしたとか、どうして少女が自分を見つめて微笑んでいるのだとか、そんな数々の疑問がくるくると脳内を駆けめぐってはちぎれてどこかへ飛んでいったが、一松はそれを追いかけることもできない。
 不審を抱く間もなかった。それくらい、少女は美しかった。小作りな顔に、バランスよく配置された小さな鼻と小さな口、皮膚の薄そうな白い肌、肉付きの少ない頬も真っ白で、ただ生き生きとした光を放つ一対の黒い瞳だけが、彼女がマネキンや人形などではなく、生きた生身の人間であることを告げていた。首はその小さな頭を支えるのに精いっぱいなほど細く長く、美しい鎖骨をにおわせて丸襟の中に消えていく。彼女は肌よりもさらに真っ白なブラウス型のワンピースを着ていた。上から下まで連なる小さなボタンはすべてきっちりととめられていて、腰の辺りでふわりと広がったドレープが美しかった。まっすぐに伸びた黒髪が、柔らかく膨らんだ胸の上に一房乗っている。一松は赤くなって目を逸らした。
「誰」
 それをごまかすためにわざと尖った声で聞くと、彼女は眉をわずかに下げて困ったような顔をした。
「帰るから、どいて」
 一松が彼女の横をすり抜けていこうとすると、彼女は意外に敏捷な動きで一松の腕を捕らえた。
「だから、なんだよ」
 一松は少し声を大きくした。少女はにこにこと笑っている。
「耳、聞こえないの?」
 少女は横に首を振った。
「……じゃあ、口がきけないの?」
 少女は頷いた。一松はため息をついた。ならば自分からコミュニケーションを取らねばなるまい。一松のもっとも苦手とすることの一つだ。
「俺に何か用事?」
 彼女は首を横に振る。
「じゃあ俺帰りたいんだけど。寒いし」
 彼女は首を横に振る。
「……もしかしてあんた、俺と遊びたいの?」
 そんなことあるわけないと半ば投げやりに聞いた言葉に、意外にも彼女は喜んで、何度も大きく首を縦に振った。
「……変なやつ」
 一松はもごもごと口の中で悪態をついたが、悪い気はしなかった。
 遊ぶと言っても特にすることもないので、それから二人は防波堤を行ったり来たりした。彼女は口がきけないし、一松は女の子に話せるような話題など持ち合わせていなかったので、黙ったまま長い防波堤を端から端まで歩き、突き当たってしまうと漁港の方まで足を延ばし、そしてまた防波堤をゆっくり歩いて戻ってきた。こんなことが遊びになるのかわからなかったが、少女は終始にこにことして楽しそうに見えた。沈黙は不思議と気詰まりではなく、一松は時折女の子の顔を盗み見てはドキドキした。こんな美しい少女と自分のように冴えない男が二人で並んで歩いていたら、人の目にどんなふうに映るのだろうと気になったが、防波堤に釘づけにされた釣り人たちは、二人が近くを通っても、特に興味もなさそうに動かないウキに意識を集中していた。
 彼女のさらさらの髪と軽い布地のワンピースは、少しの風にも簡単に毛先を乱し、裾を丸くはためかせた。まだ空気のひんやりとした早春に、彼女の薄いワンピースはいささか寒々しく見えたが、彼女は特に寒さが気にならないみたいだった。
 海も空も色を落とし、釣り人たちも帰った頃、一松は「そろそろ帰る」と言った。日が長くなったとはいえ、これからじきに真っ暗になる。あまり遅くなっては、少女の家族も心配するだろう。
 彼女は名残惜しそうな顔をしたが、素直にこくんと頷いた。
「……お、送ろうか」
 一松は女の子にこんなことを言ったのは初めてだったので、少し緊張した。だが、彼女はきっぱりと首を横に振った。
「家、近くなの?」
 彼女は頷く。一松はそれ以上どこまで食い下がっていいものかわからなくて、足元に視線を落とした。今の今まで気づかなかったが、彼女は素足に白い柔らかそうな布製のスニーカーを履いていた。
「寒くないの?」
 一松の問いに、彼女はにこにこと頷いた。確かに、彼女の真っ白だった頬には少し赤みが差していて、さっきより血色がよくなったような気さえする。
 彼女はすっと手を伸ばして、なんのためらいもなく一松の右手を取った。一松は手を握られるなんて思ってもいなかったので、びっくりして反射的に引っ込めようとしたが、彼女は両手を添えてそれを引きとめた。寒くない、ということを伝えたかったのだろうか。彼女の手はぽかぽかと温かくて、そして小さくて柔らかかった。一松はどうしていいかわからず、少し下にある彼女の顔をぼんやりと眺めた。彼女はまっすぐに顔を上げ、黒い瞳で一松の目を覗き込んだ。彼女が両手にぎゅっと力を入れた。手のひらに、何か硬くて小さいものが当たる。それを確かめる前に、彼女はパッと身を翻して走っていってしまった。快活で無駄のない走りだった。
 彼女の白いワンピースがひらひらと薄闇の中に消えていくのを呆然と見送って、一松は右の手のひらを開いてみた。青いビー玉。何の変哲もない、ラムネの瓶なんかに入っていそうなシンプルなガラス玉が、そこにはあった。それは、ずっと彼女の手の中で握りしめられていたらしく、彼女の体温と同じくらい温かかった。


 家に帰るともう夕食の時間で、兄弟たちはとっくにテーブルについていた。
「どこ行ってたの? 一松。鍋半分なくなっちゃったよ?」
 チョロ松にそう聞かれたが、一松はまるで上の空だった。
「手ぇ洗った?」「ん」「一松兄さん、よそったげまっせ」「おおきに」兄弟たちは、一松の心がここにないことに気づいていない。
 キムチ鍋は肉がほとんどなくなっていたが、一松はそんなことに気づきもせず黙々と白菜を食べた。兄弟たちは今日入荷したパチンコの新台の話で盛り上がっている。彼らの会話は一松の意識の横面を滑っていくばかりで、ちっとも耳に入ってこない。長く港にいてすっかり冷えてしまったはずの体は、なぜか燃えるように熱かった。一松はパーカーのポケットにそっと手を忍ばせて、そこにあるビー玉を何度も握りしめた。ビー玉はまだ温かい。
 夕食後、一松はふと思い立って、この間見つけた猫の絵柄のお菓子の空き缶をもう一度引っ張り出してきた。押し入れの上段の、客用座布団を積んである下。そんなところ日頃は誰も見ないので、宝物を隠すのにはもってこいだった。
 ところどころ凹んで固くなったふたを苦労して開けると、白い鳥の風切り羽が一枚だけ入っている。カラ松にもらった子供の頃の一松の宝物。これだけは捨てられなかったのか、単に捨て忘れたのかは覚えていないが、結局この前見つけたあとも捨てずにまたこの缶に入れ、座布団の下に戻したのだ。一松は、少女にもらった青いビー玉を白い羽の上にそっと置いた。羽は、ビー玉を守るように優しく受けとめた。何年も自分がこのお菓子の空き缶の中押し入れに詰め込まれていたのは、最初からこのビー玉を受けとめるためだったというように。
 青いビー玉は、家の人工的な明かりの下だと、外の薄闇で見たよりずっと薄く透きとおって見えた。その澄んだきらめきは、一松にあの空き地の白猫の瞳を思い起こさせた。


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