僕らのいた海
ふと、荒北は机に伏せていた顔を上げた。窓を全開にした教室は、右から左へ心地よい風が吹き抜けていく。誰かがプリントを飛ばしたのか、教室の一角で女子の小さな悲鳴とちょっとしたざわめき。校庭からは、体育の授業の終わったらしい二年生の無遠慮な会話。荒北は、反対側の廊下の窓を見やった。
(来る)
確信と言うよりは、もっと曖昧な意識の外でそう思う。ほどなくして、窓枠に四角く切り取られた灰色の廊下に、一人の男が入ってくる。
(東堂)
見慣れたカチューシャ頭は荒北の視線には気づかず、その整った横顔を見せながら通り過ぎていった。移動教室なのか、生物の教科書とノートと筆箱を持っているのが一瞬見えた。過ぎてしまうと途端に、本当にさっき彼がここを通っていったのかどうかわからなくなるほど、静かで気配のない歩き方だった。
ぼんやりと、東堂の通り過ぎた窓を眺めていると、後ろから馴れ馴れしく肩を組んでくる男がいる。
「何見てんだ、靖友」
パーマのかかったオレンジ色の髪が頬をくすぐる。この男はパーソナルスペースが狭いのか、大体において距離が近い。女子なら胸をときめかせるのだろうが、荒北にしたらうっとうしいだけだ。
「っつ苦しいんだよ、あっち行け。つかァ、別に何だっていいダロ」
新開の腕を追いやるようにしっしと手を振った時、廊下の向こうで「キャーッ」という大きな悲鳴が聞こえ、二人は思わず顔を見合わせた。
「東堂さまー!」
「こっち向いて!」
「指さすやつやってぇ~!」
「……尽八か」
新開は苦笑し、荒北は眉をしかめた。
「ワッハッハッハ! 女子たち、すまんが次移動教室でな。急いでいるのでまた今度な!」
「キャーッ!」
耳がつぶれそうな悲鳴がまた響いたので、大方いつもの「指さすやつ」をやったのだろう。
「るっせ」
歯を剥いて吐き出した荒北には頓着せず、新開は荒北の前の席に、背もたれを抱えこむようにして後ろ向きに座った。そして意味ありげな含み笑いを荒北に向ける。
「尽八、黙っていると気づかないくらい静かなんだけどな」
ふん、と荒北は鼻を鳴らした。
「そっかァ? いつだってうるせーだろアイツ」
「俺は今みたいに、通り過ぎてしまってから気づくことが多いんだけど……いやぁ、よくわかったな」
「聞けよ。つか別に東堂見てたわけじゃねーし」
「ふうん?」
新開がにやにや笑いを強くして荒北の机に頬杖をつくので、荒北は「退けよ!」と彼の肘を薙ぎ払い、再びごろんと机に突っ伏した。
「寝る」
「すぐ授業始まるぜ」
「いーんだヨ、あっち行け」
新開はまだ何か言い足りないような顔だったが、荒北がそのまま狸寝入りを決めこむと、やがて諦めて立って行ってしまった。
東堂が存外静かな男であることは知っている。もっとも、気づいたのはごく最近のことで、それまでは、東堂はいつだって台風の目のように騒ぎの中心にいて、騒がしさを引き連れて移動していく人間なのだと思っていた。賑やかな人だかりがあれば必ずそこに東堂がいて、荒北は内心腹立たしく思いながらそれを外から見ていたのだ。
正確に、いつのことだったかはよく覚えていない。多分、夏のインターハイが終わってから後のことだったと思う。最初は、風が吹いたのかと思ったのだ。まだ残暑の厳しいむっとした熱気の中、頬の産毛を撫ぜるぐらいの風が吹いた。風はさらりと乾いていて、少しいい匂いがした。振り向くと、荒北の立っている通路とT字に交わる廊下を歩く東堂の姿があった。彼は荒北には気づかず、ぴんと背筋を伸ばしたまま明るい光の差す廊下を歩いていく。荒北は、薄暗く影になったところで、眩しそうに目を細めてそれを見た。
東堂のいつも開きっぱなしの口は、まっすぐ横に結ばれていた。上履きのゴムの廊下に擦れる音もしなかった。周囲も、東堂に遠慮しているかのように無音だった。それは、山を登っている時の東堂とも、一人で黙々とご飯を食べている時の東堂とも、授業中、少し眠たそうにしている東堂とも違っていて、荒北は声を掛けられなかった。胸の真ん中を冷たい手で触られたような、恐ろしい心地さえした。だから、角を曲がって姿が見えなくなって、やがて誰か友人を見つけたのかいつもの耳障りな甲高い声で笑う声が聞こえて、荒北はほっとしたのだ。
「なんだ、案外静かにもできんじゃねーの」と、負け惜しみのように呟いた。多分、それが最初。
以降、荒北は静かな東堂の気配にいち早く気づくようになる。
新開は「よくわかったな」と不思議がっていたが、荒北自身が一番不思議に思っているのだ。声が聞こえたわけでも、気配を感じたわけでも、荒北得意の匂いを感じ取ったわけでもない。顔の産毛がさっと逆立つように、見えない糸に操られるように、胸騒ぎにも似た感覚に急き立てられるように、荒北は顔を上げ、そしてそこに東堂は現れた。自転車に乗っている時のように音も気配もなく、東堂自身が透明になってしまったんじゃないかと目を擦るほど、東堂は静かに現れ、通り過ぎていく。だが、一度人の姿を認めると、東堂の纏うオーラは一変する。より華やかに、より美しく。誰もが彼の方を見ずにはいられない。彼もまたあのよく通る耳障りな声でその存在を喧伝しはじめる。荒北はそこではっと我に返り、舌打ちをする。
(何で俺東堂のことばっか見てんの?)
つかァ、おかしいだろこんなん。
荒北は伏せた顔の下で考える。東堂の気配にいち早く気づくことも、東堂の姿をつい目で追ってしまうことも、東堂のことが気になって仕方がないことも、自分の意思とは離れたところで何か力が働いているような気がして、荒北は気味が悪かった。
キーンコーンカーンコーン――
始業を知らせるチャイムの音がして、生徒たちが席に着く慌ただしい気配がする。やがて、先生が入ってきて日直が「起立」の号令をかける。荒北は伏せていた顔を上げ、気だるげに立ち上がる。急に顔を上げたからか、頭がくらりとして机に両手をついた。冷たいものが背中を撫で下ろし、荒北はぶるっと身震いした。
「荒北? 気分でも悪いのか?」
後ろの席の男子に気遣わしげな声を掛けられ、荒北は「いや、何でもね」と片手を振った。悪寒はすでにない。ただ、肩の辺りに凝ったような、重たい感覚が残っている。荒北は首を傾げながら着席した。
(風邪か?)
ゆるく頭を振った視界の端に、一瞬ぼやけた白い影が映ったような気がした。
◇
「荒北さーん」
後ろの方から能天気な声が聞こえたと思ったら、ジャッというタイヤの音は一息に荒北の隣に並んでいた。平坦道で随分引き離したはずの真波は、山道に入ってから途端に調子を上げてきたらしい。いつものことだ。箱根の山をひたすら登るクライム用練習コースの中でも特に斜度のきついこの場所で、この不思議な一年生クライマーと勝負をする気は端からなかったが、やはり簡単に追いつかれては面白くなくて、荒北は隠そうともせずチッと舌打ちした。
「あ、荒北さん舌打ちした」
目を丸くする真波は、全然気にもしていないような口調で「ひどいなぁ」と言った。
多少息は切れているが、その表情にはまだ余裕がある。荒北は言葉を返すのも億劫で、無言で立ち上がってダンシングで前に出た。
「勝負ですか?」
意気揚々といった感じにすぐに差を詰めてくるので、荒北は「しねーよ、ダリーからァ」と投げやりに答えて腰を下ろす。
「なぁんだ」
そのまま先に行ってしまうかと思いきや、真波もすとんとサドルに腰を下ろした。
「行かねぇの」
「いやぁ」
お得意の、答えになっていない笑みで頭を掻くので、荒北はなんだか気が削がれて、「あ、そー」とだけ答えた。
山はどちらを向いても秋だった。ついこの間まで見えていた夏のしっぽは、すでに穴蔵へ帰ってしまった。秋の虫たちはピークを過ぎ、今は磨り減った翅をこれが最後とばかりに必死で震わせている。時折強い風が吹いて、紅葉の始まった木々の葉をバラバラと鳴らした。
真波は山の音に耳を澄ませ、じっと何かを考えているようだった。夏のインターハイが終わって以降、ずっとそうだ。表面上は普段通りに振る舞っているし、相変わらず坂では他の多くの二、三年生より群を抜いて早いし、タイムが落ちているわけでもないのだが、彼の持ち味である無作為で天真爛漫な走りは鳴りを潜め、どこか思慮深げで、内省的なものに変わっていた。インターハイ最終ゴールの結果を気に病んでいるのは明らかだった。
荒北はこういう時、後輩に何と声を掛けてやればいいかわからない。自身も一度は挫折した身であるが、あの時先輩や仲間たちから掛けてもらった慰めや励ましの言葉は、当時の荒北の心に少しも届かなかった。むしろ、自分ではどうしようもない悔しさや自責の念や仲間たちに対する僻みまでが膨らんで、彼らと距離を置く結果になってしまった。今になって思えば、彼らに悪いことをしたと思う。心を開かなかったのは荒北の方で、彼らは投げられなくなった荒北に対して変わらず親切だった。ただ、こういうものは周りに慰めてもらったから越えられるというものではないのだ、多分。それで立ち直れるほど、荒北も、そしてきっと真波も素直な性格をしていない。
(ま、大丈夫だろ、こいつなら)
もっとも荒北は、真波に関しては特に心配をしていなかった。なぜなら、彼はすでに走る喜びを知っている人間で、その喜びの中に生きる意義を見出す人間だ。目の前には、彼の目標とするべき人も走っている。後は自分で顔を上げて気づくしかない。それでも気づかないなら、この後輩を特別かわいがっているお節介な男が、荒北よりもっと的確な言葉で彼を導くことだろう。
そんなことをつらつらと考えていたら、じっと真波が自分の横顔を見つめているのに気づいた。
「……ンだよ」
「……いえ、別に、何も」
真波は珍しく言いよどみ、すっと荒北から視線を外した。荒北はイラッとする。
「なんか言いたいことあんなら」
そう言いかけたところで、荒北は言葉を止め、ふと振り返った。
(来る)
真波もつられて振り返り、「あ!」と嬉しそうな声を上げた。
地平のすぐ向こうに空が見える急な坂の向こうから、ヘルメットが覗く。続いて風になびく黒髪、汗に濡れた頬、白いリドレー。
「東堂さん」
真波が手を振る間に、彼は音もなく二人の隣に並んだ。
「なんだ、こっそり追い抜いてやろうと思ったのに」
東堂は面白くなさそうな顔で言った。彼は今日委員会のため部活には遅れて参加したはずだが、山道に入ってからさっさと皆を追い越してきたらしい。インターハイを終えてなお、彼の登りにはますます磨きがかかっている。
荒北は振り返ってしまったことがかえって癪で、「るっせーから先行けよ」と顎をしゃくった。
「ふん、言われずとも行くがな! 福はまだ先か。今日は登り多めのコースだから、隼人は下でへばっていたな。お前ら、このままのペースだと黒田に抜かれるぞ。俺が追い抜いたらすごい顔で追いつこうとしてやがった。なかなかいい食らいつきだったが、まあ所詮俺の敵ではなかったな。華麗に奴のアタックを躱してここまでやってきたわけだが。まったく今日は観客がいなくてよかった。でないとまた女子ファンを増やしちまうところだったぜ、ワッハッハ」
相変わらず、口を開けば途端に騒々しい男だ。
「さて、山頂までひとっ走り、残りわずかな俺の雄姿を部の奴らに見せてくるとするか――真波も一緒に来るか?」
「……あー、すみません、俺、今日はいいです」
少しの迷いの後、にっこりと笑ってそう答えた真波を特に問いただしもせず、東堂は「そうか」とだけ言って頷きかけた。「追いつけそうなら追いついてこいよ」
そしてすっと腰を上げ、音もなく加速する。
「まあ無理だろうがな! ワッハッハッハ!」
声が聞こえなくなるより先に、東堂の姿は九十九折りの道を曲がって見えなくなってしまった。
「あーマジうるせーなアイツ。ちょっとは黙れねーのか」
荒北はケッと吐き出すように言ったが、先行して走る真波の背中が少し強張って見えたので、耳をほじくる手を止めた。
「……よかったのかよ? 一緒に行かなくて」
いつもなら、東堂の誘いには必ず乗る真波だ。単に気分が乗らなかったのか、それとも、何か荒北に聞きたいことがあるのか。
案の定、真波は足を緩めて荒北の隣に並んできた。そして、じっと考え込むような口調で切り出した。
「荒北さんって、最近よく東堂さんのこと見てますよね」
「ハァッ?!」
荒北は思わず頓狂な声を上げた。いきなり何を言い出すのだ、この不思議ちゃんは。
「さっきも、俺より先に東堂さんが登ってくるのに気づいてた」
「べ、っつに……たまたまだよ」
「そうなんですか?」
真波は首を傾げて荒北を見た。
「これまで、山を登ってくる東堂さんに一番初めに気づくのは俺だったのに」
真波はぐっと自転車を寄せてきた。ぶつかりそうになり、荒北は思わずハンドルを引く。真波のビー玉のような目が間近で煌めいた。だがそれは、荒北を通り越して何か別のものを見ているみたいだった。
「いつも、たまたま、東堂さんが姿を見せる前に、気づくなんて」
足を踏み込むのに合わせて区切るように紡がれる言葉は、荒北の自転車にまとわりついてペダルを重くさせた。
「何か、憑いてるんじゃないですか」
二人のハンドルが触れる。
バチッ。
瞬間、火花が散った。気がした。
真波は何事もなかったかのようにすっと自転車を離し、にっこりといつものとぼけたような笑みを浮かべて言った。
「じゃあ俺、先、行きますね」
そのまま振り返りもせずに行ってしまった真波の後ろ姿をぼう然と見送り、荒北はペダルから足を外して立ち止まった。
「……な、なんだったんだ、今の」
風が吹いて、乾いた広葉樹の枝を鳴らした。ザザザザザ、パチパチパチ。汗で肌に貼りついたジャージが冷えて、荒北は身を震わせた。
「……やっぱり風邪でも引いたかな」
荒北はふっと胸に過った不吉なものを振り払うように再び自転車を跨ぎ、カチンと音を立ててクリートを嵌めた。立ち上がって、一足、二足と漕ぎ出す。坂の途中からスタートするのはなかなかに骨で、荒北はまた舌打ちをした。
「ったァく、勘弁してくれよ。東堂も、不思議ちゃんもォ!」
そろそろ黒田がやってくる頃だ。さすがに後輩二人に抜かれるのは御免こうむりたい。
◇
「ふー……」
長々とした用を足して、荒北は満足げな息を吐いた。
今日の練習は、いつもの何倍も疲れた。山岳コースがメインだったし、途中で真波に変なことを言われて気が散ってしまったところ、結局山頂手前で黒田に追いつかれそうになり、本気で漕ぐ羽目になった。辛うじて追い抜かれはしなかったものの、山頂で悠々とボトル休憩をしていた東堂と真波の前でへばってしまい笑われた。これだからクライマーは嫌いだ。
風呂に入ってようやく人心地がつき、残っていた疲労感もさっき尿と一緒に出ていってしまったようだった。せっかく目も覚めたので、少し参考書を読んでから寝ようと思う。インターハイに集中していた分、他の同級生より受験勉強に遅れを取っていることは自覚している。もっとも、多少焦りはあるが諦めてはいない。ギリギリの追い上げは荒北の得意とするところだ。
寮の公共トイレの洗面台の水は、手の感覚が麻痺しそうなほど冷たかった。そろそろお湯を出してもいい頃かもしれない。頭をクリアーにしようと、ついでに顔を洗う。服の袖が濡れるのも構わずに冷たい水を両手ですくい顔に押し当てると、眉間の辺りにわずかに残っていた靄も晴れていくようだった。思っていたより今晩は頑張れそうだ。
荒北は首から下げていたタオルで乱暴に顔をゴシゴシと拭き、よし、と顔を上げて鏡を見た。そこには、気合い十分な自分の顔と、その横にもう一つ白い顔――
荒北の心臓は、不自然に大きく跳ねた。目の玉だけを動かして鏡から視線を引きはがし、自分の隣を見る。誰もいない。もう一度、ぎこちなく視線を鏡に戻す。引きつった自分の顔と、俯き加減の男の顔。
「……っひ」
荒北は後ずさりした。ざっと音を立てて血の気が引いた。股間が縮み上がって、腹がすーっと冷たくなる。鏡の中の男が、ゆっくりと顔を上げる。黒々とした陰鬱な瞳が荒北の視線を捉えた瞬間、荒北は辛抱できずにトイレの手洗い場から廊下へ転がり出た。
(お、お、おおおば)
人間恐怖が過ぎると声も出ないらしい。薄いシャツの上から心臓を押さえる。ド、ド、ド、ド。ゴール前スプリントを仕掛けた時よりも激しく鼓動を打っている。シャツを握りしめる指先が震えていたが、情けないと思う余裕もなかった。
(へ、部屋に)
力の抜けそうな足を叱咤してよろよろと廊下を駆け出す。背後から誰かがついてきているような気がする。振り向いてはいけない。さっき見た、暗い瞳と青白い顔が脳裏にちらつく。
(誰か)
廊下には人っ子一人いない。安っぽい蛍光灯が切れかけて時折明滅する。縦と横の平衡感覚を失って、荒北の視界はぐるりと回った。
(誰か!)
悲鳴を上げようとした口は、パクパク開閉するだけだ。もたついた空気の中を、スローモーションのようにもがき進む。思い通りに足が動かない。悪夢を見ているみたいだ。いや、いっそ夢であってくれ。そこの角を曲がったら、すぐに自分の部屋だ。あと三歩、二歩、一歩――
ぬ、と角から黒い影が現れて、荒北は今度こそ「ひっ」と悲鳴を上げてその場にへたりこんだ。後ろ手をついて見上げた先。
「どうしたんだ、荒北」
東堂だった。これからトイレに行くところなのか、部屋着にしているスウェットの上下に、ハンドタオルを一枚持ったいでたちだ。
「と、東堂」
これほど彼の顔を見て安心した瞬間はなかった。声が出たと同時にまとわりつく温い空気の膜は飛散して、体の動きがすっと楽になった。荒北は東堂の足に縋りつかんばかりに這い寄った。
「い、今トイレで、白い、あ、あの、お、おば、ゆ、ゆうれ……」
「どうしたんだ、落ち着けよ」
東堂は訝しげな顔ながらも荒北の様子の尋常ではないのを見て取ったのか、尻餅をつく荒北に手を貸そうとしゃがみこんだ。その時。
「ジンチャン」
荒北の耳にははっきりと聞こえた。自分の真横で。耳のすぐ側で。
「アイタカッタ」
荒北は差し出された東堂の手を振り払い、「ワァーッ」と悲鳴を上げて走り出した。肩に乗っている何かを振り落とすようにめちゃくちゃに手足を振り回し、全速力で走る。そのまま自分の部屋に飛び込み、バタンと勢いよくドアを閉め、背中をぴたりとつけて、肩で息をして気配を窺う。
(振り切ったか)
「ジンチャン」
「うわぁわーわー!」
荒北は弾かれたように飛び上がり、部屋の真ん中で身を屈めてきょろきょろ見渡した。
「ど、ど、どこにいやがる」
「ナンデ」
「つ、ついてくんじゃねーヨ!」
「ジンチャン」
「どっか行けって!」
すん、と鼻を啜る音がして、やがてうう……と嗚咽を漏らす声が聞こえてきた。
「泣くなよ! 泣きてぇのはこっちだっつの!」
怒鳴ったところで、隣の部屋からドンと壁を叩かれた。
「荒北ァ、うっせーぞ!」
「うっせーこっちはそれどころじゃねーんだヨ!」
幽霊の泣き声はそれからしばらくして聞こえなくなったが、荒北は部屋の明かりを皓々とつけたまま、机に飛び乗ったりベッドに潜ったり、まんじりもせず一夜を過ごすことになったのだった。
翌朝、荒北は疲れた顔でトイレの洗面所に向かった。鏡に映るのは目の下に隈のできた荒北と、その隣に白い顔の男。
「……幽霊って、夜しか出ねーんじゃねぇの」
男はきょとんとした顔で荒北を見た。
「え、嫌だよ。だって、夜は怖いじゃないか」
一晩幽霊に怯え続け、疲れ果てた荒北は、なんだかもうどうでもいい気分で「あ、そぉ」とだけ呟いた。
幽霊は、昨夜よりもはっきりと姿が見えるようになっていた。心なしか、鏡越しでなくてもぼんやりと白いものが肩の辺りに浮かんでいるのが見えるような気もする。
昨日は取り乱してしまったが、落ち着いて見てみると、幽霊からそれほど恐ろしい印象は受けなかった。多少顔色は悪いが血みどろになっているわけではないし、お岩さんのようにまぶたが腫れ上がっているわけでもない。むしろ、理知的で涼しげな目元とすっきりとした鼻筋、緩やかに結ばれた薄い口元はなかなかにハンサムで、文学青年風の優男であった。ノーカラーの白いシャツに、サスペンダー付きの黒いズボンを穿いている。年齢は、荒北と同じか少し上ぐらいに見える。
「お前、一体何なんだよ」
「僕?」
男は鏡の中で首を傾げた。「何だろう、幽霊、なのかな」
「ハァ~、もうなんでもいーわ」
荒北はがっくりと首を垂れ、ため息と共に諦めの言葉を吐き出した。
「あんさ、俺これから授業あんだけど、離れてくんね?」
「うーん」と、幽霊は煮え切らない返事だ。
「悪いけど、僕もうまく自分をコントロールできなくてね。どうやら僕は、今のところ君から離れることはできないみたいだ」
「……あ、そーお」
荒北はげんなりと肩を落とした。もう疲れてしまって、何を考えるのも面倒くさい。さしあたって、特に害のあるものでもなさそうだ。荒北は幽霊を憑けたまま学校へ行くことにした。
◇
予測はしていたことだが、幽霊は荒北にしか見えないらしい。
「おはよー」
「チース」
挨拶を交わして廊下をすれ違う生徒たちの何人かは、荒北の隣を漂う幽霊氏の白い体に正面から突っ込んできたが、何の違和を感じた様子もなく通り過ぎていった。
その後ろ姿を見送って、荒北は小さい声で幽霊に問う。
「お前、なんかぶち抜かれていったけど痛いとか気持ち悪ぃとかねーの」
「うん、特に何かが触れた感覚があるわけでもない。よく小説に出てくる幽霊のように、向こうから僕に触れることはできないし、僕の方から人や物に触れることもできないらしい」
幽霊は通りすがりの生徒の肩や消火器に触れようとしては失敗し、面白そうに自分の透けた両手を眺めている。
「これもしかして壁とか抜けられるのかな。あ、けど僕が君からちっとも離れることができない以上、壁を抜ける実験はできないわけか」
荒北は呆れて言った。
「おっ前、ンな能天気でいーのかヨ。幽霊になっちまってんだぞ。……それってさァ、つまり」
さすがに言いづらくて口ごもったが、幽霊はあっけらかんと言い放った。
「あ、気を遣ってくれなくても大丈夫。自分が死んでしまっていることぐらい、とっくの昔に受け入れているさ」
「じゃあ何で今さら」
幽霊になって出てきたのだと聞こうとした時、「よっ」と後ろから肩を叩かれた。
「おはよう靖友……ってどうした? 隈がひどいぜ」
「ハヨ新開。べっつに……ちょっと夜更かししただけ」
「そうなんだ? ならいいんだけど……睡眠時間削って勉強したって効果薄いらしいから、ほどほどにな」
新開はもう一度荒北の肩を叩いて、先に教室へ入ってしまった。あんパンの袋を持っていたのでこれから食べる気なのだろう。ちゃんと寮の食堂で朝食は食べているはずなのだが。
二人になった途端、幽霊がわくわくとした声で話しかけてきた。
「君、ヤストモくんって言うの」
「そだよぉ」
「僕も! 僕の名前もヤストモなんだ」
なんでこの幽霊はこんなに元気なんだろう。荒北は寝不足で霞む頭を振って考えた。
「君はどんな字書くの? 僕は、吉祥天女の祥に、知るの下にいわびの智で祥智。村瀬祥智」
本当に、なんでこの幽霊はこんなに元気なんだろう。昨日はあんなにぴーぴー泣いていたというのに。もっとも、幽霊のメカニズムなど知る由もない。荒北はすでに疲れた気分で席に腰を下ろし、結局その日の一限目はうとうとと居眠りをして過ごしてしまった。
二時間目は体育の授業で、隣のクラスと合同でサッカーだった。幽霊の祥智は荒北の肩越しに、物珍しげに生徒たちがサッカーボールを蹴る様子を眺めている。今はゲーム前のウォーミングアップで、荒北は新開と組んでパス練習をしていた。
祥智はボールが荒北の方に向かって飛んでくると、びくっと肩を揺らして荒北の背後に隠れようとする。そのくせやはり好奇心には勝てないのか、またそろそろと首を伸ばしてサッカーボールの動きを熱心に追いはじめるのだ。
「お前、ボール当たっても痛くねーんだろ。んなビビんなくってもいいんじゃねーの」
新開にばれないようにこそっと小声で呟くと、祥智は「そんなこと言ったってさ」と口を尖らせた。
「実体がなくなっても、反射というものは残ってるんだよ。それに僕、サッカーしたことないし……」
「え、そーなの?」
思わず祥智の方を振り向くと、「靖友~?」と向かいで新開が訝しげな声を出したので、慌てて「何でもねぇよ」と答えてボールを蹴り返した。ホームランだ。
「おいおい、野球じゃねーんだから」
新開がぼやきながらボールを取りに走るのを「ちゃんと取れよボケナス!」と罵って、横目でじろりと祥智を睨んだ。
「変に思われるだろーがヨ!」
「今のは僕のせいじゃない!」
祥智は不満げに言い返し、そして少し寂しそうに笑った。「サッカーだけじゃない、野球も水泳もドッヂボールも跳んだり走ったりも、あまりやったことがないんだ。僕、生まれた時から心臓に疾患があってね。運動を止められていたんだ。体育の授業はいつも見学で、休み時間も一緒に遊べない。クラスメイトはみんな僕の病気のことを知っていたし、腫れ物に触るみたいに接したから、いつもクラスでは浮いていた。ただ彼は、ジンチャンだけは」
あ、と祥智が小さく声を上げるのと同時に、荒北は振り返った。そこに、東堂がいる。彼は荒北や新開たちの隣のクラスで、体育や芸術、技術家庭科などの副科目では合同授業になるのだ。(その授業のある日、クラスの女子たちが途端にうるさくなるので敵わない。)
「なんだ、ホームランか。荒北、野球じゃないんだぞ」
ボールを拾って戻ってきた新開に軽く手を上げながら、東堂は荒北に呆れた視線を向ける。
「ちっげーよ、新開のアホが取りそこなったんだヨ!」
「違うぜ尽八、靖友の場外ホームランだ」
「ワッハッハ! 嘘はいかんな、嘘は!」
笑いながら荒北の肩をバシバシ叩く東堂の手を払いのけ、荒北は噛みつくように言った。
「ちょっとよそ見してただけだっつの。つかァ、おめークラス戻れよ」
「いやな」と東堂は荒北の顔を覗きこんだ。
「昨日、お前の様子がおかしかったから気になって見にきたんだが……その調子なら大丈夫そうだな」
「あーあれね……」
そう言えば、昨夜は鏡に映った幽霊に取り乱したところを東堂に見られているのだ。荒北はそっと横目で騒ぎの元凶を見やった。彼はなぜか恥じらうような表情で荒北の肩に隠れるようにし(そんなことをしなくてもどうせ他の人には見えないのだが)、チラチラと東堂に視線を投げかけている。
(ああ、『ジンチャン』ってそーゆーこと)
どうやら幽霊の祥智は、東堂のことを知っているらしい。それなら東堂に聞けば、彼のことが少しはわかるかもしれない。しかし今は、新開も他の生徒の目もあってややこしいので、とにかくこの場をごまかすことにする。
「あれな、なんか変なモン見えたような気がしたんだけど、気のせいだったみてぇ。びっくりさせて悪かったヨ」
頭を掻いてそう言うと、東堂は「気味悪ぃこと言うなよ」と眉をひそめた。怪談話は苦手らしい。
「バカが勉強しすぎて幻覚でも見たんじゃないのか。ほどほどにしておけよ」
やっぱり一言余計でむかつく奴だ。「ああ?!」と荒北が凄んだところで、「こらぁチャリ部! しゃべってんなぁ! ゲーム始めるから持ち場につけ!」と体育教師の怒号が飛んだので、三人して首を竦めた。
「まあいい。じゃあ試合でな。俺の華麗なボールさばきに見とれるなよ、アッハッハッハッハ」
ビシッと二人を指さして去っていく東堂の背中に、荒北はけっと顎を突き出した。さっきまで借りてきた猫のようにおとなしかった幽霊の祥智が嬉しそうな声を上げる。「ジンちゃん、サッカー上手いんだよね。楽しみだなぁ。ねえ靖友くん、ちゃんと見ておいてくれよ」
荒北ははぁーっと深いため息を吐いた。面倒だが、彼に成仏してもらうためには、彼の細々とした願いでも聞いてやった方がいいのかもしれない。
東堂は元々サッカー少年だったというだけあって、確かに上手かった。隣のコートでテニスをしているはずの女子たちのギャラリーまでできて、黄色い歓声が飛んでいる。それに交じって祥智の嬉しそうな歓声もすぐ耳の側で聞こえるので、荒北はげんなりした。これではまるで、自分が東堂に黄色い声を上げているかのような錯覚をしてしまう。さっさと東堂に彼のことを話して、未練なり執着なりを断ち切って成仏してもらわないと、荒北の精神衛生上よくないような気もする。
昼休み、荒北は新開の誘いを断って、一人で屋上へやってきた。濃いブルーの空高くに、真っ白ないわし雲が彼方まで広がっている。見事な秋晴れだ。十月の風は山の上のこの学校の屋上ではいささか冷たく感じたが、誰もいない高い所というのは気分のいいもので、荒北は太陽のよく当たる段差に腰を下ろしてコンビニの袋を広げた。
白い屋上のタイルに、荒北の黒い影がくっきりと映っている。巨大な焼きそばパンをかじるシルエットが、ふとした具合でかつてリーゼントにしていた時の自分の影のように見えて、荒北は一人で笑った。隣で屋上からの景色を堪能している祥智の影は見えない。
「……おめーさァ」
ベプシと一緒にパンを飲み込んで口を開くと、祥智が「なんだい?」と答えた。
「おめー、東堂のこと好きなの?」
ふふ、と、幽霊の祥智は笑い声を漏らした。「そう見えた?」
「そりゃまあ」
「そんなんじゃないよ」
そう言う祥智の声があまりに静かだったので、荒北は背後に立つ祥智を振り仰いだ。彼は柵に凭れかかるようにして、荒北に背を向けて空を眺めている。彼の体の向こうに真っ青な空は透けて見えるのに、彼の表情は窺えない。
「そういうんじゃない」
彼はもう一度静かな声で言って、荒北を振り返って笑った。顔の向こうに太陽がある。
「強いて言うなら、彼は僕のヒーローだよ」
荒北は太陽が眩しくて目を細めた。
「ンだよ、いじめられているところ、助けてもらいでもしたの」
「僕はいじめられたことはないよ。ただ、さっきも言ったように、病弱な僕はみんなからしたら扱いづらい、どう接したらいいかよくわからない未知の存在だったんだ。みんな優しい言葉は掛けてくれた。心配の言葉も口にしてくれた。ただ、遊びに誘われたり、グループに入れてもらったりしたことは一回もなかった。僕はそれを寂しくは思っていたけど、仕方のないものだと諦めてもいた。ある意味僕は特別で、他のクラスメイトや、家のお手伝いさんや、道を行き交う数多の人間たちの誰とも違う存在なんだと、そう思っていた。両親でさえ僕には遠慮があった。愛してくれてはいたと思う。けどそこには、どうせ長くは生きられまいという強い諦念も同時にあった。子どもながらに僕は、それをずっと感じながら生きてきたんだ。何も感じず、何も求めず、与えられるものをただ受け入れて、来たるべき己の死も、与えられるまで待っていればいいのだと思っていた。本は……好きだったな。特にSFや冒険小説。その本の中に出てくる世界や登場人物たちは、唯一僕の心をわくわくさせるものだった。そしてまた僕は、彼らが決して現実には存在しないものであることもよく理解していたんだ。
発作に見舞われてはいよいよか、今度こそ死が与えられるのかなんて思いながら、結局僕は高校生になっていた。死というものは、ただ待っているだけの人間にはなかなか訪れないものらしかった。彼――ジンちゃんと出会ったのは、その頃だった」
(高校?)
荒北は首を捻った。と言うことは、彼は箱根学園の生徒だったのだろうか。荒北は東堂と同じクラスになったことは一回もなかったし、そんな病弱な学生がいたかどうかもよく知らない。
「自分に訪れると思っていなかった高校生活も、僕にとってはただ期間が延長された、死に向かう人生の一部に過ぎなかった。周りの学生も今までと同じように、僕を置き物か何かのように扱った。そうして何日か経った時のことだ。その日は体育の授業で、クラスメイトはとっくに着替えて運動場に飛び出していた。僕はいつものごとく、着替えもしないで教室で一人本を読んでいた。先生も何も言わないんだ。下手をして僕が発作を起こしたら困るから。外では集合の笛の音が鳴って、準備体操の号令が聞こえてきた。授業中の校舎は静かだ。僕は運動場の体操の掛け声だけをBGMに、冒険小説の世界に潜り込もうとしていた。あの時読んでいたのは、ヴェルヌの『海底二万海里』だ。特に大好きで、何回も繰り返して読んだ本だ。と、ふいに、教室の扉がガラガラと開いた。僕はびっくりした。足音なんて一つも聞こえなかったんだから。びっくりして顔を上げた僕の目には、同じくびっくりした顔で僕を見つめているクラスメイトの姿があった。『東堂、くん』僕は何とか彼の名前を思い出して口にした。僕は大抵のクラスメイトの顔も名前も覚えていなかったけど、彼は入学当初からいっとう目立っていたからね。たいそうな美少年だったし、頭も良く、よくしゃべり、よく笑った。誰からも好かれていて、正に僕と正反対。燦々とした太陽の下を歩いているような子だった。苦手だと思っていたよ。彼は物事を与えられるのではなく掴み取りにいけるタイプの人間だったから。
『お前、体育は?』彼は僕に言った。『俺は忘れ物を取りに来たんだ』『僕……』僕は首を傾げた。『だって、僕、体育の授業は免除だし。ほら、心臓弱いから』クラスメイトは誰もが知っていることだと思っていた。『知ってるけどさ』彼は言った。『見学くらいできるだろ。太陽に当たったら死んじまうってバンパイアじゃあるめーし。服は……まあいっか、もう始まってる。ほら、一緒に行こう。今日はサッカーなんだ。俺、サッカー得意だから、見てろよ、超かっこいいぜ』
彼は当たり前のように僕に手を伸ばしてワハハと笑った。僕は何を考える暇もなく、彼に手を取られて立ち上がった。『急げ!』ジンちゃんは僕の手を取って走った。走ると言ってもほんの早足程度のスピードで、強引なようでちゃんと僕を気遣ってくれてるんだとわかった。僕がジンちゃんと一緒に運動場に出ていったら、みんな驚いた顔でこっちを見ていた。けど、ジンちゃんがなんてことないみたいにニコニコと笑っているし、僕が嫌がっているようでも困っているようでもなかったから、特に何も言われなかった。『村瀬くん、見学だそうです』ジンちゃんはハキハキと先生にそう告げると、僕に向かって片目をつぶった。『超かっこいいシュート決めるから、そこで見てろよ!』
実際、その日彼は一人で三本のシュートを決めた。そしてその度に僕が見ていることを確認して、得意そうに指を立てて見せた。僕は、いつしか夢中で彼の姿を追っていた。心臓がドキドキした。それはいつもの発作の前兆とは違って、僕に生きていることを実感させる鼓動だった。ゲームが終わると、彼は真っ先に僕の元へ駆け寄ってきた。『かっこよかっただろ、俺』僕は大きく頷いた。感動して、口もきけなかった。彼はワハハと笑って言った。『まだまだ、こんなもんじゃないぜ』
それから彼は、いろんなところに僕を連れまわすようになった。彼はとても運動神経がよかったから、休みの日にはサッカーの試合に駆り出されたり、テニスの助っ人を頼まれたりしていた。僕はいつも応援席だったけど、彼が勝って喜んだり負けて悔しがったりしているのを見るのは好きだった。試合のない日は、ハイキングに行ったりもした。ジンちゃんは山登りが好きだったんだけど、さすがにそれは心臓に負担が掛かるから、近所の公園をぶらぶら散歩したりした。彼は植物や虫や鳥の名前にも造詣が深くて、いろんなことを教えてもらった。本の中でしか知らなかったことや、本を読んでもわからなかったこと。草木の匂い、土の温かさ、カミキリムシに噛まれたら痛いこととか、キイチゴの実のすっぱいこととか、そういうのをジンちゃんは全部教えてくれたんだ。僕を置き物じゃなくって、一人の友人として扱ってくれた。彼に会って、僕の人生は死に向かっていくただの道ではなく、生きて何かを得ていくためのものに変わっていったんだ」
祥智は、わかる? というように小首を傾げて荒北を見た。「だから彼は、好いた惚れたの関係以上に、僕にとっては恩人でヒーローで、太陽みたいな存在なんだ」
荒北は日に当たってすっかり温くなったベプシのペットボトルの蓋を開けた。プシッと軽く空気の抜ける音がする。一口、二口飲むと、気の抜けた炭酸の甘い味が口の中に広がる。
「あんさ、アンタが『ジンちゃん』にどれほど救われたかっつーのはわかったんだけどさ、それ、今ここにいる東堂とは別の人間じゃねーのかな」
「え」と祥智は目を丸くした。「だって、僕の生前の記憶そのままなんだよ、彼の姿は。そりゃ、髪はちょっと伸びたなと思うけど……」
「そいつの名前、東堂何て言うんだ?」
「東堂ヒトシ――お仁王さんの『仁』だ。だからみんな彼のことを『ジンちゃん』って呼んでいた」
荒北はケプ、と小さくゲップをした。「今ここにいる東堂は、『東堂尽八』。人に尽くすの『尽』に漢数字の『八』。残念ながら人違いだな。ついでに言うと、アンタが死んでから今まで、結構時間が経ってるんじゃねーの? アンタのその格好、いくらアンタが坊ちゃんだからって、ちょっと時代錯誤すぎんだよ。今は『平成』だぜ。もう二十一世紀だ。アンタの記憶にあるのは何時代だ?」
祥智はぼう然と目を見開いた。「へい……せい? 二十一世紀? そんなの僕知らない。僕がいたのは『昭和』だよ。19××年、二十一世紀なんてずっと未来の話だったはずだ」
「やっぱりな」
荒北は頷いた。「アンタが死んでから、もう三十年以上経ってる。ちなみにこっちの東堂は高校で自転車競技部に入った。休日に他の部活の助っ人なんてしてる余裕はねーし、そんな頻繁にお前に付き合って遊びに行く暇もねぇ。大体あいつは虫が苦手だ」
祥智はただでさえ青白い顔をいっそう白くして、ショックに大きな瞳を揺らした。「せっかく、再会できたと思ったのに……」
その様子があまりに痛々しく、荒北は少し気の毒になった。元来荒北は、弱っているものに対してあまり強く出られない。
「あー、あんさァ、そんな気落ちすんなよ。そんなに瓜二つで名字も一緒なんだから、間違いなくあいつの親戚縁者だよ。俺、さり気なく東堂に仁ちゃんのこと聞いてやっからさ。今どこにいるとか何してるとかわかったら、会えるかもしんねーダロ。まああいつ幽霊苦手みてぇだし、変なところで現実主義者だから、アンタのことはとりあえず伏せておくけどよ、最悪事情を説明することになっても、そういうことなら率先して協力してくれると思うぜ。そーいう奴だよ」
祥智は顔を上げ、ようやく少し笑った。
「うん、仁ちゃんの血縁者だもんね。……ありがとう、靖友くん。君、見た目は怖いけど優しいね」
「バッ……! バーカ、優しいとか言うな! オメーが俺に憑りつくから、こないだから東堂がちらちらちらちら視界に入ってきてうっとうしいったらありゃしねぇんだヨ! さっさと未練断ち切って成仏してもらうか、憑りつく人間替えてもらわねーと俺が迷惑なのォ。あと一言余計だっつのこのボケナスが。あんな、言っとくけど、オメーが死んでからもう何十年も経ってんだ。会えたとして、その仁ちゃんとやらがデブハゲになってても泣くんじゃねーぞ」
祥智は笑いながら涙を拭った。
「大丈夫、仁ちゃんはデブハゲになっててもきっとかっこいいから……ありがとう」
善は急げとばかりに、その日の内に荒北は部活に行く前の東堂を捉まえた。東堂の気配に敏感な祥智が憑いている今の荒北にはたやすいことだ。
「東堂仁?」
東堂は目を丸くして荒北を見た。
「うん、中学ん時のダチに『東堂尽八』って奴が部にいるって言ったら、『じゃあ東堂仁って知ってるか』って聞かれてぇ」
有名人なのか? と空とぼけて聞いたが、東堂は予想に反して首を捻った。
「東堂仁、東堂仁……いや、聞いたことねぇなぁ」
「多分、今五十そこそこの年齢のはずなんだけど」
「と言うことは俺のおふくろの八つばかり上か。すまんが、俺の知っている親戚の中にはおらんようだ。もっとずっと分家の端の方の親戚か……まあうちはスター性のある人間が多いからな、有名人がいたって不思議じゃない。俺を始めとしてな!」
「ッゼ!」
東堂がキメ顔を作るので拳骨を振りかざすと、「怒るなよ、冗談だ」とひらりと身を躱した。
「ま、東堂姓なら母方の縁者だろう。母なら何か知ってるかもしれん。機会があれば聞いてみるよ」
「あ、ちょっと」
「じゃあな、部活に遅れるから先行くぞ。今日は黒田に指導してやる約束なんだ」
あいつもクライマーだからな! ワッハッハ! となぜか得意げな笑みを残して去っていった東堂は、案外黒田が自分よりも荒北の方に懐いてしまったのを悔しがっているようだった。
「……ったァく、ちゃんと聞いてくれんのかね、アイツ」
祥智がくすくすと笑う。「律儀なところも仁ちゃんと似てるんなら、きっと大丈夫だよ」
「だといーんだけどォ」
東堂が荒北の寮の部屋のドアをノックしたのは、その日の夜のことだった。
「荒北、ちょっといいか」
東堂が荒北の部屋を訪ねてくるのは珍しいことだ。荒北がドアを開けて中に入れてやると、彼は室内を見回して顔をしかめた。
「ブレザーはハンガーに掛けておかないとしわになるぞ」
「うっせーよ、いきなりオカンみたいなこと言うんじゃねーよ」
荒北は噛みついたが、東堂は気にせず勝手に荒北の脱ぎ散らかしたブレザーを拾って、床に落ちていたハンガーに吊るして壁に掛けた。仕方なく、口の中でごにょごにょと礼を言う。ブレザーを一つ片付けただけで、部屋が幾分きれいになって見えた。
「荒北、今日の昼間聞かれた例の話なんだがな、あの、東堂仁っていう人の」
「ああ、早速おふくろさんに聞いてくれたの? なんかわかった?」
「うん、わかった。と言うか、本当にお前の友達、東堂仁のことを尋ねてきたのか? 東堂仁は母の兄、つまり、俺の伯父だ。ただ、もう十七年も前に亡くなっている」
「えっ」
と声を上げたのは祥智だった。荒北ははっと祥智を振り返った。
「あ、なあ……」
「嘘だ」
祥智は両手で顔を覆った。
「そんなの、仁ちゃんがそんな昔に死んでいたなんて」
「おい、落ち着け」
「荒北? お前誰に向かって……」
「嘘だろう!」
ミシ。と、部屋が嫌な感じに揺れて軋んだ。
「な、なんだ、地震か?」
慌てる東堂の頭を抱き込んで、床に伏せる。
「あ、荒北?!」
荒北は東堂の身を守るように覆いかぶさり、取り乱している祥智に声を上げた。
「おい、落ち着けよオメー」
「嫌だ、嫌だ!」
窓ガラスがガタガタと鳴った。パチッ、パチッと部屋中で放電するような音がする。本棚の参考書が何冊か棚から飛び出して荒北にぶつかり、さっき東堂が壁に掛けたブレザーのハンガーが床に落ちた。
「仁ちゃん!」
「落ち着けってぇこンのボケナスが!!」
荒北が声を荒げると、祥智はビクリと肩を震わせて動きを止めた。家鳴りが止む。祥智は両手を顔で覆った姿勢のまましばらくじっと動かなかったが、やがて肩を震わせて嗚咽を漏らした。荒北はそれを気の毒そうな目で見る。
「……あ、荒北」
体の下から小さな声で名前を呼ばれる。
「そ、その、苦しいんだが」
我に返って下を見ると、荒北は東堂を両腕に力いっぱい抱き締めたままだった。
「わ、ワリィ」
慌てて突き放すようにして体を離すと、東堂は「いや……」と言って右手で鼻の辺りを擦った。顔が赤い。荒北もつられて赤くなった。
「何だったんだ、今の。地震じゃないよな。それにお前、誰かにしゃべっているようだったけど……まさか……」
東堂は薄気味悪そうに部屋を見渡して、心持ち荒北の方ににじり寄った。
「あー、いや、まあ……お察しの通り、いるんだな、ここに。幽霊が」
荒北が自分の右肩辺りでぐるぐると指を回すと、東堂は目を見開いてそこを見、「マジか」と言った。「嘘だろう」と言わなかったのは、実際にそれを体験してしまったからだ。
「荒北、お前見えるのか」
「まあ。と言うか、俺が憑りつかれてんだヨ」
「はぁっ?!」
東堂はバッと身を反らせて荒北から距離を取った。
「お前それ、ヤバいんじゃねーのか。お、お祓いとかしてもらったのか。てかマジで大丈夫かよ」
「大丈夫、だと思う、多分。何で俺に憑りついたとか詳しいことはまだよく知らねえけど。なんとなく、そんな悪い奴じゃねーような気もしてんの」
「お前の勘か」
「ああ」
はぁっと東堂はため息を吐いた。
「本当は俺、あんまこういうの得意じゃないんだがな。ま、荒北の野生の勘は結構当てになるし、さしあたってはその幽霊氏が害のないものだと信じよう。……で? どうせ、俺に伯父のことを聞いてきたのも、その彼に関係することなんだろう? よかったら詳しく聞かせてくれ」
乗りかかった船だ、と、東堂は胡坐をかいて話を聞く体勢になった。荒北は祥智に向かって「適当に端折って話すぜ」と言ったが、彼はまだ俯いたまま微動だにしないので、荒北は東堂に、これまでの成り行きを勝手に話すことにする。突然荒北に幽霊の姿が見えるようになったこと、自分の他には誰も彼を見ることができないらしいこと、彼が恩人の「仁ちゃん」に会いたがっていること――。
東堂は最後まで黙って荒北の話を聞き、やがて「ふむ……」と難しい顔で顎を撫でた。
「なるほどな。大体のところはわかったよ。……なあ荒北、今、その祥智さんはそこにいるのか? 俺の声は聞こえているんだろうか」
祥智は、顔から両手を離してゆっくりと東堂の方を見た。涙はもう出ていないが、眼窩は落ち窪み憔悴した様子で、より一層幽霊らしく見えた。
「大丈夫、ここにいてちゃんと話聞いてるぜ」
そうか、と東堂は頷いて、見えない祥智の方に向き直って言った。
「祥智さん、俺は東堂仁の甥の、尽八といいます。人に尽くすの尽に、末広がりの八です。母はさっき俺に、この名前の名付け親が伯父だったってことを教えてくれました。だが俺は、十八年間生きてきて、伯父の存在を今まで知らなかった。親戚で集まった時にだって、少なくとも俺の覚えている範囲では伯父のことが話題に上ったことは一度もない。まるで、『東堂仁』なんて人間は、最初からいなかったかのような扱いだ。だから今日、俺が電話して『東堂仁』のことを尋ねた時、母は一瞬厳しく問い詰めるような口調になった。『誰に彼の名前を聞いたんだ』とね。しかしすぐに、ふっと気の抜けたような、寂しいような、懐かしむような声で、『私の大事なお兄さんで、あんたの素敵な伯父さんだよ』と言ったんです。少なくとも、俺の母親は仁さんを嫌ってはいなかった。むしろ、今でも心から慕っているんだと思う。きっと母は、聞いたら教えてくれると思いますよ、仁さんのことを。俺も、名前をくれた人のことをもっと知りたい。だから――協力しましょう。会うことは叶わなかったけれど、少なくともあなたは仁さんの人生を知ったらいいと思う」
荒北はふっと口元に笑みを浮かべ、祥智の方を見やった。
「だってよ。……もう大丈夫だな」
彼は黒々と濡れた瞳をまっすぐに東堂に向けていた。そして、「まるで仁ちゃんがここにいるみたいだ」と呟いて、眉を下げて笑った。
「……ありがとう」
荒北はあーあ、とわざとらしくぼやいて立ち上がった。「ったァく、俺ァ忙しい受験生だってーのによぉ、こんなん側で始められちゃ気が散って仕方ねぇ。もうしょうがねーから最後まで協力して、さっさとお前を俺から追い出すことにするわ」
ほらぁ、オメーが無駄に幽霊っぽいことすっから、あれこれ散らかっちまったじゃねーか。
ぶつぶつ文句を言いながら参考書を本棚に戻し、落ちていたハンガーを再び壁に掛ける。東堂と祥智は見えないはずの視線を合わせ、肩を竦めてワハハと笑った。
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