風待ちバス

 箱根の夏はいつも短い。最近朝晩が冷えてきたので厚手の服を買いに小田原まで下りてきたのだが、街にはまだ薄いシャツ一枚で闊歩している人たちがたくさんいて、荒北はなんだか拍子抜けしてしまった。出掛けにはおってきたジャンパーはとっくに脱いで、適当に腕に引っ掛けている。しっかり防寒した自分の姿は小田原の街では浮いていたし、確かにここは暑かった。
 灰色の空が地表まで垂れ下がってきたみたいな天気だった。二酸化炭素を過分に含んだ重量のある空気は、山の中腹の箱根学園で一日の大半を過ごし、休日も山や海沿いの広い道を自転車で走って過ごしている荒北には、少し息苦しく感じられた。荒北は肺に酸素を満たそうと、大きく一つ深呼吸をした。雨が近いのか、湿った土のにおいがする。
 ショップのショーウィンドウには秋冬物の服が並んでいたが、のっぺりとした蒸し暑さに買い物をする気が削がれ、テイクアウトしたスタバのコーヒーを片手に駅前の噴水の縁に腰を掛けて小一時間が経つ。土曜日の午後の小田原駅前は人が多い。右に左に人がとめどなく流れていく様を眺めているのは、意外と飽きなかった。ここにいるほとんど全員が自分と関わり合いのない世界で生きているのだと思うと、なんだか不思議な気分だった。学校と寮を往復するだけの生活をしていたら、そういう当たり前のことを忘れてしまいがちだ。
 眼前を軽やかなミニスカートの少女が二人、腕をくねくねと絡ませあって通り過ぎていく。荒北はその四本の白く筋肉のついていない柔らかそうな足を見るともなしに眺めた。風が吹けば簡単にめくりあがりそうなひらひらの生地は、いくら今日が暖かいといってもこの季節にはいささか寒々しく見えたが、少女たちは十月の風も重たい空気も男たちの視線も意に介さず、きゃーきゃーと高い声を鳴き交わしながら遠ざかっていく。
(帰るかなァ)
 荒北は口を覆いもせず、くわっと大きなあくびをした。
 小田原の街で買い物をするのは、記憶にある限り三ヶ月ぶりだった。あれはそう、インターハイ前に新開がシューズを新調したいというのに付き合ってやったのだった。
 インターハイ、という言葉が心にわずかな影を落として、荒北はちっと舌打ちをした。きっと、このまだ夏の名残を引きずったような居心地の悪い暖かさがいけないのだ。
(帰ろ)
 荒北はコキッと一度首を鳴らしてから、腰を下ろしていた噴水の縁から大儀そうに立ち上がった。餌を狙って足元をうろついていたハトが驚いて、一つ羽ばたく分だけ距離をあけた。そろそろ学校へ向かうバスが出る時間だ。


「ドアー、しありやーす」
 バスの運転手が眠たげな声でアナウンスし、荒北が乗り込んですぐにドアが閉まる。駅向こうにあるバス停は思っていたより遠くて、最後は少し走る羽目になった。車内はそれほど混んでおらず、荒北は後方に空席を見つけて座った。
 エンジンがぶるんと大きく一つ息を吐き出し、バスは重たげな腰を揺すって動き出した。これは小田原の街中を抜け、箱根の斜面をゆっくりと登りながら温泉街を通ってさらに芦ノ湖の近くまで行く路線で、温泉街を少し過ぎた辺りで「箱根学園前」というバス停に停車する。実家から通う生徒の多くはこのバスを利用しているが、荒北ら寮生はめったに乗ることがない。ちょっとした買い物ぐらいなら街に出るのに自転車を使うことの多い荒北は、バスに乗ること自体が久しぶりで、物珍しげに車内を見渡した。
 横一列の窓の上には、観光地らしく温泉や旅館、高速バスの広告がずらりと並んでいる。タイヤが小さな勾配を乗り越えるたびに、キシキシと音がしてつり革が揺れる。乗客はシーズン時に比べると少ないが、それでも観光客と思しき数組の男女と年配の女性グループが、旅行ガイドブックを手に何やら楽しげに話している。
 その中に一つ、見慣れた丸い後頭部を見つけて荒北は視線を止めた。右の列、運転席のすぐ後ろ。肩まで伸びた艶のある黒髪は一瞬女性と見間違えそうだが、座席の背もたれからはみ出した肩や腕はまぎれもない男のものだ。荒北から見える左手が、暇を持て余すように癖一つない髪を指に巻きつけて遊んでいる。
(東堂、何でこんなところに?)
 一瞬自分のことを棚に上げてそう思い、すぐに荒北はいやいやと首を振った。三年生の自分たちはもう部活には自由参加となっており、土曜日はただの休日だ。街に遊びに出てこようが引きこもって勉強に勤しもうが、好きにすればいいのだ。荒北は少し迷ったが、声は掛けないことにした。わざわざ立って東堂のところまで行くのは面倒だったし、話し掛けたところで自分からは特に話すことは何もなかった。東堂が一人しゃべるのを聞くのもうるさいだけだ。
(あ、このクランク)
 車窓から見覚えのある風景が見えて、荒北は身を乗り出した。バスは減速して直角のコーナーを慎重に曲がる。二ヶ月ほど前、目も眩むような炎天下、荒北たちはロードバイクでこの道を疾走した。沿道には多くの人が並び、切れ目なく声援を送っていた。アスファルトとゴムの擦れるにおい、集団になって走る自転車のホイール音、福富が荒北にオーダーを耳打ちする。「山の麓まで東堂を引け」
 荒北は頭を振って夏の幻影を追いやった。今はいよいよ秋も深まろうとする十月の半ばで、ここは普通の土曜日の小田原の街だ。買い物客がいて、観光客がいる。車が行き交い、ゆっくりとバスが走る。
 荒北は前方に座る東堂を見た。彼は窓にもたれて、ぼんやりと前を眺めているようだった。かつてインターハイで走った道を辿りながら何を思っているのか、その後ろ姿からは窺えなかった。
「箱根学園前~、箱根学園前です」
 やぼったい声のアナウンスに、何人かが立ち上がる。ここで降りるのはほとんど全員が箱根学園の生徒か先生だ。荒北もかばんからバスチケットを取り出しながら立ち上がった。
「よぉ」
 通りすがりざまカチューシャの乗った頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、「おい、よせよ!」と乱暴に手を振り払われた。
「せっかくのヘアースタイルが崩れてしまったではないか。まったく、美的感覚のない野蛮人め」
 東堂は、荒北がヘアースタイルを崩したことには腹を立てているが、荒北が同じバスに乗っていたことには特に驚いていないようだった。膝の上に、小さな花束が乗っている。
「花買いに行ってたの?」
「ああそうだ。ん? どうした? 俺と花の組み合わせが美しすぎて目を奪われたか?」 
 ばっか、ウゼェと吐き出して、荒北はふと首を傾げた。
「つか、降りねぇの? 着いたぜ」
 立ち上がっていた箱学の先生や生徒はすでに降りて、後は後部座席に座っていた荒北で最後だった。みんなが降りるのを待っているのかと思っていたのだが、東堂は一向に席を立つ気配がない。
「ああ、俺はまだこの先に用事があるのでな」
 ハァ? どこ行くんだよこれから、と口を開きかけたが、「お客さん降りないの」と運転手が後ろを振り返って言ったので、荒北は慌てて「スンマセン」とバスチケットを差し出した。降り際に東堂の方を振り返ると、早く行けとばかりに左手をしっしと振られたので、腹が立って足音を踏み鳴らしてステップを降りる。
 乗った時と同様、荒北が降りてすぐにバスは扉を閉めて発車する。バス独特の重たい排気音が遠ざかるのを聞きながら、荒北はまた首をひねった。ここから先には町もなく、目立った観光地もない。見晴らしのいい芦ノ湖ハイキングコースや、そこで休暇を過ごす人たちのためのペンションはあるが、地元民の東堂がわざわざこんな土曜日の午後に行くはずもないし、仮に行くとしても学校から愛車を駆って行くはずだ。(なぜならそこには東堂好みの絶好の登り坂がある。)
 いまいち腑に落ちないまま一人で寮に戻ると、入口で新開が出迎えた。
「おかえり靖友。いい買い物はできたかい?」
 彼はリラックスした部屋着姿で、パワーバーの代わりに行儀悪くポッキーをくわえている。
「東堂のヤツ、バス降りねぇで行っちまったんだけど」
 荒北は、新開の問いには答えずそう言った。
「ああ、また? たまーにあるんだよな。って言っても、前回はもう半年以上前の話だし、その前はさらにもう一年ぐらい前だったと思うけど。部活現役ん時はそんな連休なかったからね。山の上までバスで出掛けるって言うから、寿一らとどうしたんだろって話してて……そっか、靖友は実家に帰っていて知らなかったのかな。珍しいんで覚えてたんだ。尽八、外泊届け出してるんじゃないか?」
 新開が言うので、荒北は寮の窓口に置いてある受付簿をパラパラとめくった。確かに、東堂の古めかしい字で外泊願いが出されている。
「どこ行くの、って聞いてもはぐらかされるし、あんましつこく聞くのも悪いと思って事情は知らないんだけど……女かな」
 新開が後ろから被さるようにして受付簿を覗き込んでくるので、「近ェよ、引っつくな」と荒北は手で押し退けた。「だって寒ぃんだもんよ」と新開は口を尖らす。確かに、小田原の街と比べるとここはいくぶんひんやりとしているが、新開は荒北の倍は着込んでいるのだ。かさ高いことこの上ない。
「な、靖友も女だと思わねぇ?」
「知らねーヨ! つかキョーミもねーし」
 そうは言いつつ、荒北は東堂の膝の上にあった小さな花束を思い出していた。荒北にはなんの花かさっぱりわからなかったが、白い花を基調とした、東堂にしたらいささかあっさりとしたシンプルな花束だった。
(女、ねぇ)
 ありえないことではないと思う一方、どうにもそれは違うというような気もする。バスで見た東堂はひどく楽しげだったが、学校で女子に囲まれている時ほどはしゃいでいるふうでもなかったし、寮でくつろいでいる時よりリラックスして自然体にも見えた。
(だいたい、受験とかあんじゃねーの? あいつの進路、俺ァ知らねーけどよ。ったァく、のんきなもんだぜ)
 興味はないと口では言ったが、東堂の膝の上の白い花が脳裡にちらついて、その晩荒北はなぜだかよく眠れなかった。

   ◇

 次に荒北がバスに乗る東堂を見掛けたのは、それから一月半ほど経った日のことだった。荒北は小田原の街に、今度は新しい参考書を買いに下りてきていた。十二月も上旬に入り、時折強い木枯らしが吹きはじめていた。今日はさすがに街を歩く人々も厚手のコートをはおっていて、季節は一段階冬に進んでいた。
「ったァく、受験生をパシリにすんじゃねーよボケナスが」
 荒北は足音も荒くドラッグストアを後にした。周囲の客がさりげなく視線を逸らして道を開けるが、知ったことではない。荒北はカイロの箱とエナジードリンクと大量の菓子が詰め込まれたビニール袋をガサガサと言わせながら、ニットパーカーのポケットに片手を突っ込んだ。これは新開のお遣い分だ。
「靖友、頼むよ。受験勉強のお供なんだ」
 新開はすでに真冬のように着ぶくれて、部屋に引きこもる態勢だった。
「ハァ? ざけんなテメェで行けよ」
「無理、寒い、今日は無理」
 そんなことで箱根の冬をどうやって乗り切るのか。ここで迎える三回目の冬なんだからいい加減そろそろ慣れてきてもいい頃だし、と言うかそもそも去年まではこの時期も元気に自転車で走っていただろうと思ったが、新開が拝むようにして「昼飯代出すから。お前、駅前の煮干しラーメン食いたいって言ってたろ?」とまで言うので、仕方なしに引き受けてやった。参考書を持って帰るためにバスで行くつもりだったから、多少荷物が増えたってまあついでだ。そう思ったのだ。
(けどよぉ、あいつは遠慮ってもんを知らねーのか)
 舌打ちをしたところで、引き受けてしまったものはきっちり完遂するのが荒北の性分だ。エナジードリンクはまとめ買いすると結構な重さになる。リュックで来ていたのがせめてもの救いだ。分厚い参考書二冊の重みを背中に感じながら、荒北はビニール袋を右手から左手に持ち替えてバス停へと急いだ。
 バス停には、七、八人が列を作ってバスが来るのを待っていた。錆びた青いベンチが置いてあるが、冷たいからか座っている人は誰もいなかった。列の最後尾に並びながら、荒北は前の方に東堂が並んでいるのに気づいた。彼は熱心に携帯電話をいじっていて、後ろからやってきた荒北には気づいていないようだった。
(あ、また、花束)
 東堂は流行りのブランドのボックス型デイパックを背負って、左手に小さな花束を持っていた。通りすがりの何人かがちらちらと東堂に視線をやるのは、花束といまどきの男子高校生の組み合わせが珍しいからだろうか。荒北は関わり合いになりたくなくて、東堂に気づかれないよう、前の人の影に隠れるようにして並んだ。
 それほど間を空けず、ブロロロロ……とマフラーを震わせて路線バスが到着する。バスに乗り込んだ東堂は車内が混んでいないことを確認すると、まっすぐに運転席のすぐ後ろに座った。荒北も、前と同じようにバスの後方の座席に座る。じきにバスが発車する。
 東堂は膝の上に花束を置き、手持ち無沙汰に携帯を触ったり髪の毛をいじったりしている。今日も彼は箱根学園前を通過して、その先のどこかへ行くのだろうか。花束を持って、おしゃれをして、外泊届を出して、誰か女の子に会いに行くのだろうか。
 結局この間は、東堂にどこへ行っていたのか聞きそびれたのだった。あの翌日荒北は一日部屋にこもって勉強をしていて、夕方から夕食の時間まで気晴らしにロードバイクに乗ってひとっ走りし、帰ってきたら東堂はもう部屋に戻っていた。顔を合わせたのは翌々日の夜だったし、改めて聞くのも気にしすぎているようで、変に意識してしまい聞けなかったのだ。
(って、別に……東堂がどこに行こうが何をしようが、なんだっていいんだけど)
 バスは定められた道を定められた時間に従って進む。小田原のクランクを抜け、温泉街のすぐ脇を走る道路に出る。インターハイで走ったこの道は、あれから季節を二つほど終えてすっかり様相を変えている。太陽を反射してまぶしかったアスファルトは灰色にくすみ、真っ青だった空には薄い雲が寒々しいフィルターを掛けている。かつてここを百二十台の自転車が、砂ぼこりを巻き上げながら、汗をまき散らしながら走っていたことなんて、もう誰も覚えていないみたいだった。街も人も季節もみんなが前に進んでいく中で、あの夏の思い出はどんどん後ろに遠ざかっていく。過去に追いすがっていた自分はとうに捨てたが、大切な思い出が誰にも見向きもされず置き去りになっているのは耐え難かった。
(東堂は、覚えているんだろうか)
 縋るような気持ちで東堂を見たが、彼はまっすぐ前を見て座ったままだった。そのピンと伸びた背筋からは東堂が何を考えているのか読み取れなくて、荒北はイライラと唇を噛んだ。だいたい、東堂はいつもそうだ。喜怒哀楽がはっきりして感情表現が豊かに見えて、彼は決して感情的な人間ではない。(夏のインターハイ初日に、巻島に勝負できないと言われた時は激情を見せて冷静さを欠いたが、あんなのは本当に珍しいことなのだ。)むしろ非常に理性的で、意図的に感情をコントロールすることができる人間だと荒北は思っている。気づいている人もいるが、気づいていない人も多い。そんな東堂を、荒北はずっといけ好かないし胡散臭い奴だと思っていた。
(本当に大事なことは、必要な人間に、必要なだけしか言わない。饒舌に見せて、大事なことに関してはひどく寡黙だ) 
 バスは山道に入り、エンジンが苦しそうに唸った。バス停に停まるたび、一人、また一人と乗客が降りていく。山道沿いに立ち居並ぶ木々はますます影を濃くし、切れ目なく視界の端を横切って後ろに流れていく。一瞬木々の連なりが途切れ、景色が開ける。薄橙に染まった空と、くっきりと黒い山の稜線がパッと現れ、また唐突に見えなくなる。デジタルの腕時計は、PM.5:00を表示していた。じきに日が落ちる。あの夏から、もうこんなに時間が経っていたんだなぁと荒北は思った。
「箱根学園前~箱根学園前。お降りの方はお忘れ物のないよう、お気をつけください」
 バスのアナウンスが流れたが、荒北は席を立たなかった。

(中略)

 東堂がいなくなった部屋は、途端にしんと静かだった。荒北が参考書のページをめくる音だけがする。山の上の民宿の夜は、鳥の鳴き声一つせず、獣一匹走る気配もない。キミ子さんは、もうカウンター奥の小部屋に戻ってしまったのだろうか。それとも柱や廊下や障子の縁を丁寧に磨いているのだろうか。どれだけ耳を澄ませても、宿の中にはこそりとも音がしなかった。荒北は、山の斜面にちょんと突き出した小さな岩の露天風呂を思い浮かべた。東堂は鼻歌も歌わず、静かに夜空を見上げている。星の重みで夜空が落ちてくる。夜空が近づき、東堂の黒い髪を溶かし込む。東堂は黙ってされるがままになっている。その青い目もやがて夜に飲まれる。重たい夜の帳が落ちる。荒北は夜の重みを感じる――。
(……重い)
 荒北はぼんやりと目を開けた。 目の前が真っ暗で、一瞬ここがどこだかわからなかった。目を開いたまま身じろぎもせずにいると次第に目が慣れてきて、暗闇の中にぼんやりと、天井の細い梁と吊るされた電気の傘、そして白い障子が浮かび上がって見えた。
(和室……ああ、そうか)
 右手に、参考書を持ったまま寝落ちていたみたいだ。寝返りを打とうとして、荒北は何かが背中に張りついているのに気づいた。それは温かく、規則正しい静かな寝息を立てている。
(……? 東堂?)
 荒北からは見えないが、それは東堂以外であるはずがなかった。東堂は、右向きに寝転がった荒北の背中にぴったりと額をつけて眠っていた。彼の左腕は荒北の脇の上を通って、浴衣の合わせの辺りをしっかりと握っているようだった。荒北が感じた重みはこれだったのだ。
(おいおいおい)
 ちゃんと布団は二つ敷いてあったのに、わざわざ奥の荒北の布団に潜り込んできたのか。
(寝ぼけてんのか?)
 風呂から出てすぐに布団に入ったのか、東堂の体は湯たんぽみたいにほかほかしていた。 
「ん……」
 荒北の動揺が伝わったのか、東堂は小さく唸って身じろぎをした。背中に当たる東堂の頭が、居心地のいい場所を探すようにもぞもぞと動いている。骨ばった荒北の薄い背中に、東堂の丸い額が擦れるのを感じる。浴衣を割った温かい太ももが、荒北の足に触れる。東堂の吐き出す深くて熱い呼吸に、荒北の背筋はじんわりと痺れた。覚えのある甘い凝りが下腹部に下りてきて、まずいと思った時にはもう荒北は勃起していた。平静になろうとすればするほど、体に触れる東堂の熱を意識してしまい、荒北のペニスはますます固く、熱くなった。
(これは、いよいよマズイだろ)
 振り返って東堂を抱き締めたい。眠気でぽってりと腫れた唇に吸いつきたい。熱い口内に舌を突っ込んで、深く深く繋がりたい。荒北は東堂の浴衣の合わせ目に手を入れて、薄くきれいについた腹筋を辿る。さっき温泉で見た東堂の白い肢体が緩んで、荒北を迎えるために開かれる。東堂は荒北に両腕を伸ばし、美しい瞳を潤ませて言う。
『いつまでもそのままでいることなんてできない』
 荒北は目を閉じて、細く長く息を吐き出した。今の荒北には、何かを変える勇気もなければその方法もわからない。いつまでもの「いつ」とは、一体どれくらい先のことなのだろう。
(結局のところ、俺は未来を見るのが怖くて目をつぶってるだけなのかもしんねぇな)
 振り返って東堂を抱き締めることもできず、彼を布団から蹴り出してそのぬくもりを拒絶することもできず、荒北は頑迷な勃起と軟弱な自己を抱えて、鬱々とした夜を過ごした。


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