黄昏さん

 戌の刻参り、というものがある。
 皆おおっぴらには語らないが、この土地の年寄りなら誰でも知っている。
 宮地たちの住む××市の辺りは、江戸に幕府が移る以前より小さな村落が形成されていた土地で、その信憑性のほどはさておき、まことしやかに語り継がれてきた伝承、伝説の類が数多くある。そのうちの一つが、「戌の刻参り」だ。
「おばあちゃん、『いぬのこくまいり』って何?」
 昔、まだ宮地が小学校に上がったか上がらないかぐらいの歳の頃、今は亡き祖母に尋ねたことがある。よくは覚えていないが、図書館で借りた子ども向けの説話集に、そのような話が載っていたのだと思う。
「清志、あんたどこからそんな話聞いてきた」
 祖母は一瞬怖い顔をしたが、すぐに、「まあ昔の話だし」と思い直したように言った。 
「あんたの小学校の近くに神社があるだろ。そうそう、いつもお祭りのやっているところ。みんなお参りちゅうとあすこに手を合わせに行くが、本当は、あの神社に神様はおらん。神社の裏手に山があろう? 実際に神様がいらっしゃるのは、その山の上にあるもう一つの神社なんだ。この山に住む神様はとても力の強い神様でな。どんな無理な願い事でも必ず叶えてくれるっていうんで、全国から参拝する人が引きも切らんかった。
 だがこの神様、ひどく人間嫌いで扱いの難しいことでも有名だった。力はあるし、神様だから参拝者の願いは聞いてやろう、だが、願いを叶えるからにはそれなりの代償を寄越せ、と言うわけだ。神様は、参拝者の持っているものの中から一つ、気に入ったものを見つけてはそれを要求した。そして、拒まれたり、参拝者が自分の気に入るものを持っていなかったりした時は、ひどく不機嫌になって天災を引き起こしたそうだ。
 地元の人間は困った。神様の機嫌によって、そう度々天災を起こされてはかなわん。そこで、昔の宮司が村人たちの嘆願書を持って、神様にお願いしに行ったんだ。『あなた様の人間の嫌いなことはよくわかっております。それならば、人間たちがあなた様のお社に直接足を踏み入れぬよう、この山の麓にもう一つ神社を建てましょう。あなた様は、その甚大な神通力をほんの少し、そちらに分けてくださればいいのです。さすれば人間たちは、下のお宮にお参りして、それで満足いたしますことでしょう。あなた様も、頻繁に人間たちの願い事に煩わされずにすむのでは』とな。神様は言った。『それがお前たちの願いか。ならば叶えてやろう。それ相応の代償と引き換えに』
 宮司や村人たちが、何を神様に取られたかは知らん。ただそれ以降、この土地に天災が起こることはなかったし、また、参拝する者もめっきり減ったという話だ。きっと恐ろしくなったんだろう……。
 そうして次第に山の上まで参る人は少なくなり、やがては上に神社があることは忘れられていった。昔は、神様のおる方を上の宮、皆が参拝する方を下の宮と呼び分けておったが、今はそんな言葉もなくなってしまったわな。あまり疑問に思っている者もおらんようだが、下の宮に拝殿しかないのはそういう理由だ。本殿は上の宮にある。
 ……ところでこの神様、非常にお祭りが好きらしくてな。人間嫌いではあったが、祭りの夜だけは人の形を取って、人々に混ざってこっそり楽しんでおったらしい。上の宮に残されてからは、狐狸を相手に祭りごっこをして遊んでいるという話だ。特に花火の上がる夏祭りの夜は大変上機嫌でな。どうしても叶えたい実現不可能な願いは、夏祭りの夜にお参りすればいいという噂がいつの間にか流れはじめた。それが戌の刻参りだ。
 戌の刻――清志ら若い子は知らんだろう。昔の時間の数え方で、夏祭りの頃なら大体午後七時から午後九時の間ぐらいを指す。ちょうど日が落ちる頃から二時間ほど、というところだ。その間に、山を登って上の宮まで行き、本殿の前の狛犬の周りを三遍回る。向かって右手、阿形の狛犬の周りを三回、続いて左手、吽形の狛犬の周りを三回。そうして本殿に参って、願い事を言う。普通では実現不可能な、どうしても叶えたい願いをな。
 この神社の正式名称は△△神社だが、戌の刻のことを漢語では『黄昏(こうこん)』とも言うことから、地元の人間の間では『黄昏(こうこん)神社』で通っておる。昔はよく、『こうこんさん』だとか『たそがれさん』などと呼んだな。
 夏祭りの夜、見知らぬ人を見かけたらそれは黄昏さんだ。こんな地元の祭りじゃあ、大体会う人皆顔見知りだからな。見知らぬ顔があればすぐわかる。そうしたら皆、『黄昏さんがおるよ』と言うて、祭りを楽しむ神様を邪魔せぬよう、素知らぬふりをしておったそうな。
 ……なに、戌の刻参りをしたい? いかんいかん! ええか、清志。黄昏さんには、決して参ってはならんぞ。どんな不可能な願いでも叶えてくれるちゅうことは、求められる代償も大きいということだ。どんなことが起こるのかは、儂も知らん。だが、儂の祖父母に聞いたところによると、魂を抜かれるだとか、前と別人のようになってしまうだとか、もしくは帰ってこなかっただとか、様々な噂があるらしい。元々が気まぐれで人間嫌いの神様じゃ。何を取られても不思議ではない。まあ、魂と引き換えてでも叶えねばならん願いなどあるまいよ。
 もっとも、上の宮の狛犬は二頭とも朽ちて倒れてしまっているらしいから、お願いしようにもできんと思うがな。ご本殿も、残っているのかいないのか……とにかくいいな、黄昏さんには、絶対に参ってはならんぞ。絶対にだ――」

   ◆

 さっきまで降っていた激しい夕立はすでに遠くに去り、涼感を伴った風に残る湿った土の香り以外に、雨の気配はすでにない。太陽はちょうど家々の向こうに沈もうとしているところで、まだ薄青い空の下に、美しい黄金色の雲が幾筋にもたなびいている。
 浴衣姿のカップルや、地元の小中学生、幼い孫を連れた老夫婦らに混ざって、宮地も下駄をカラカラと鳴らしながら歩いた。風に乗って、太鼓や笛のお囃子が聞こえてくる。調子外れの龍笛の音色は、いやがおうでも祭りのテンションをかき立てる。宮地は、浴衣には似合わないG‐ショックのごつい腕時計を一瞥し、足を速めた。

「宮地さーん、こっちこっち」
 と呼ばれるより先に、神社の入口に立つ目立つ一団を見つけていた。通り過ぎる人々が、ちらちらと彼らを見上げていくのが外から見ていておかしい。確かに、大坪や緑間のサイズは日常に溶け込むには規格外だ、と宮地は自分のことを棚に上げて笑った。
「よう」と、宮地は片手を上げて歩み寄った。「わり、待たせた」
「いいや、時間通りだよ。俺も今来たところだ」
 高校生らしからぬ落ち着いた笑みを浮かべる大坪は、渋茶色の縞地の浴衣がよく似合っている。
 高尾が、宮地の姿を上から下までしみじみと眺めて言った。
「宮地さん、意外と浴衣似合いますね」
「意外とってなんだ。轢くぞ、木村の軽トラで」
「すまん、今日は冷やしきゅうりの配達でトラック出ずっぱりなんだわ」
 軽口を叩く高尾も、それに付き合う木村も、我関せずといった顔で立っている緑間も、皆浴衣姿だ。盆の只中にもかかわらず秀徳高校バスケ部は夕方まで部活をしていたのだが、その後木村と大坪と三人で夏祭りに行く話をしていたところ、高尾が「俺も連れてってください」と首を突っ込み、それに当然のように緑間もついてきた。せっかくだから浴衣がいいと言い出したのは高尾で、宮地は正直面倒だったし、女子でもないのに何が「せっかく」だと思わないでもなかったが、自分はともかく高尾の浴衣姿が見られるのなら「せっかく」だと思い直して了承した。母親に言うと、衣装箪笥から何着もの浴衣を出してきてしばらく着せ替え人形にされたので辟易したが、喜んでいたみたいなので、まあたまにはこういうのも悪くはないかと思う。結局選んだのは、落ち着いた紺地に青竹の文様をあしらった浴衣だった。見ると高尾も、地の色こそ大人びた墨色の浴衣だったが、そこに金の竹が描かれていて、お揃いみたいだと一人で思い、一人で照れた。
「つか緑間、お前もうお面買ったのか」
 緑間の整った顔の横には、およそ彼に似つかわしくない戦隊物のお面がつけられている。
「今日のラッキーアイテムなので」
「そりゃわかってんよ」
「これ早く欲しいからって、俺ら一足先に来たんだよな」
 澄ました様子の緑間に、横から高尾が噴き出しそう顔で口を挟む。
(ふーん、相変わらず仲のいいこって)
 と、口に出しては言わないが、宮地は高尾の頭を一発殴って、「早く行こうぜ」と沿道に向かって歩きだした。
「ちょ、痛い。いきなり何すんですか」
「ちょうどいい位置にお前の頭が」
「あるからって叩かないでください!」
 そう言って宮地のすぐ隣をついてくる高尾に、少し口元を緩める。このくらいの独占欲は許してもらってもいいだろう。どうせこれは、叶うことのない想いなのだから。

 焼きそば、たこ焼き、イカ焼き、えびせん、ベビーカステラ。白い煙と共にソースの匂いが立ち上り、宮地の腹はぐうと鳴った。屋台の食べ物は見るからにチープなのに、こうして沿道にずらりと並んでいるとどれもおいしそうで目移りしてしまう。
 ジュワッと鉄板の焼ける音、子どもの歓声に的屋の呼び声、カセットデッキから流れる雑音のひどい祭囃子……境界のないざわめきの中にいると、自分の足が地についているようないないような、不安定で曖昧な感覚に陥る。徐々に夜を濃くしていく空に、赤、青、ピンクの提灯の安っぽい灯りがぼやぼやと滲んでいて、それがいっそう非日常感を増長しているのかもしれない。もっとも宮地は、祭りのそういうチープな非日常感が嫌いではなかった。
 高尾ははしゃいで、露店をあっちにこっちに忙しく飛び回っている。緑間は振り回されて疲れたような顔をしているが、内心楽しんでいるのが最近では宮地たちにもわかるようになってきた。
「今日九時に花火上がるらしいっすよ」
 たこ焼き屋の店主に教えてもらったのか、高尾は屋台の下から体を仰け反らせるようにして顔を出し、後ろの大坪に言った。
「花火までいていいですか?」
 宮地はずっとこの地元にいるのでよく知っているが、ここの夏祭りは毎年それなりの規模の花火が打ち上げられる。隣の市に住む高尾は知らないようだった。
「ああ、去年も宮地たちと一緒に来たがなかなかすごかったぞ……じゃあ、九時まではいようか」
 大坪は二人の一年生の保護者のような佇まいで、にこにこと頷いた。木村はフルーツを売っている屋台の男性と親しげに話しこんでいる。木村生鮮店の客なのかもしれない。
 なんとなく乗り遅れて、彼らの後をぶらぶらとついて歩いていると、「あれ? 宮地じゃない?」「うっそ、ホントだ」と後ろで交わす声がして、やがて「みーやじー」と浴衣の袖を引かれて振り向いた。
「? あ、高山に石田か!」
 浴衣姿の二人の少女は、化粧や髪型のせいですぐにはわからなかったが、一呼吸置いて、小学校の時の同級生だと思い出した。
「おー久しぶり」
「久しぶり。つか宮地でかくなりすぎじゃない?」
「髪染めてるし。びっくりしたぁ」
「おめーらもわかんねーよ。何年ぶり? 中学違ったよな?」
「そうそう、うちら私立行ったから。だから多分五年、六年ぶり? ヤバい!」
 もう何年も思い出しもしていないような友人でも、案外名前はすんなり出てくるものだなぁと宮地は感心する。幼い頃の記憶ほど、反射的に思い出されるものだ。
「誰かと来てんの? 彼女?」
「いや……」
「違うんならさぁ、うちらと一緒に回ろうよ」
 いや、だから連れがいるんだよ……と振り向いたが、いつの間にか木村たちの姿が見えなくなっていて宮地は焦った。
「ちょ、置いてかれた」
「え~、んじゃあいいじゃん、見つけるまで」
「うちらが探してあげる~」
「いや、大丈夫……」
「見つけたー!」
 困惑する宮地の声を断ち切って、カッカッと下駄の走る音が近づいてくる。「もー宮地さん、その歳で迷子とかやめてくださいよ」
 やってきた高尾はさり気なく宮地の腕を取り、愛想のいい顔を彼女らに向けて笑った。「ねぇ」
「迷子じゃねーし。知り合いに会ったんだよ」
 彼女たちを見ると、人好きのする高尾の笑顔に見惚れたのか少し頬を赤くしているので、子どものようにひけらかしたいような気持ちと嫉妬心がないまぜになって、複雑な表情になってしまった。
「あー、わり。今日はこいつら部活仲間と来てんだわ。待たせてるし、行くな」
「失礼します」
「あ、うん」「またね」と手を振る彼女らに高尾はまたにこりと笑いかけ、宮地の袖を引いてずんずん歩いた。すれ違う人と肩がぶつかりそうな人ごみの中、慣れぬ下駄履きの足はもつれる。宮地は腕を引かれるまま、上手に人の合間を縫って歩く高尾の後頭部をしばらく堪能した。高尾が自分を探しに戻ってきてくれたことが嬉しい。
「お前、緑間は」
「あのね、宮地さん、俺別に真ちゃんのお守り係じゃねーし、あいつだって別に俺にお守りされてるわけじゃねーんです」
「……悪ぃ」
「まったくですよ。この人ごみでうかうかはぐれるなんて、子どもじゃあるまいし」
「……お前、なんか怒ってる?」
「怒ってねーです。ったく、ちょっとふらふら見えなくなったと思ったら逆ナンされてっし」
「逆ナンって……あいつら小学校の同級生でさ」
 ふーん、と、高尾はようやく振り向いて宮地の顔を疑り深そうに見、歩く速度を少し落とした。
「そういや宮地さん、この近くの小学校の校区だったんですよね」
「そうそう。だから祭りでは結構毎年懐かしい面々に出会う。お前は隣市だっけ?」
「うす」
 いつの間にか高尾は宮地の浴衣の袖から手を離し、横並びになって歩いていた。手持ち無沙汰に高尾の横で振られる右手を、名残惜しく宮地は見る。
 小学生のグループが、真剣にスーパーボールを覗きこんでいる。彼女にねだられたらしい彼氏が、弱った金魚を相手に悪戦苦闘している。幼い子どもが、光る腕輪を欲しいと言って母親の手を引っ張って泣いている。めまぐるしく目の端を過っていく祭りの光景の中で、隣を歩く高尾の丸い頭だけが、宮地と同じ速さで進んでいく。宮地はもう一度手を繋ぎたいと思う。高尾の手は遠い。
「お前、俺に彼女作ってほしくねぇの」
 高尾は一瞬反発するような目で宮地を見上げた。橙色を帯びた色素の薄い虹彩が、提灯の灯りを映してチカッと光った。しかしそれは、気のせいだったのかもしれない。その強い光の出処を確かめようとする前に、高尾は目元を緩め、眉を下げてへらりと笑った。
「そういうわけじゃないですけど」
(そりゃそうだわな)と宮地は思う。
「けど、実際どうなんですか? 彼女たちはあわよくば……って感じには見えましたけど」
「そうか? ま、高校の間は別にいいかなー。バスケあるし。受験もあるし」
「えー? 宮地さんなら両立できますって」
 ハハハと笑いながら前に向き直った高尾の表情は見えなかったが、その声には、宮地を迎えに来た時に彼女らに見せた有無を言わさぬ色も、宮地の袂を掴んで足早に歩いていた時の苛立ちも見られなくて、宮地はつまらなく思う。
 と、目の端に、何か引っ掛かるものがあって宮地は歩を緩めた。ずらりと店が軒を連ねる右手の列の、そこそこ繁盛しているりんご飴の屋台と「くじ引きハズレなし」と書かれた陰気な屋台との間に人ひとり通れるほどの隙間があって、そこから、薄暗い登山道の入口が見えている。
「高尾」
 咄嗟に高尾の手を引いて立ち止まる。急に引っ張られた高尾は少しバランスを崩しかけ、「もう、どうしたんですか」と文句を言った。
「なんか食いたいもんでも見つけました……か」と問いかけて、宮地の見ている先に気づいて言葉を止める。
「登山道?」
「高尾、こっち」
 宮地は高尾の手を引いて、りんご飴屋とくじ引き屋の間を通り抜けた。どちらの店主も気づいているのかいないのか、二人のことを見咎めることはなかった。

「なんですか? ここ」
 登山道の入口には、かつては案内板の役目を果たしていたのであろう朽ちた木の板が半ば倒れながら立っており、その土と雨で汚れてほとんど判読不能になった文字を見るに、辛うじて「至、上の宮」と書かれているのが読み取れる。
 宮地の頭に、亡くなった祖母の姿が一瞬過る。
「上の宮……黄昏さん」
「え?」と聞き返す高尾は無視して、宮地は短く「登るぞ」と言った。

   ◆

(中略)

 道の先に、ぼうっと小さな灯りが見えた。目を凝らしてみると、赤い提灯がずらり、道の両側に灯されているのだった。その奥に、朱塗りの鳥居が灯りに照らされてそびえている。どこからともなく、太鼓や笛のお囃子の音が聞こえてくる。チチチチチ。何か小動物が、宮地の足にぶつかりながら走っていった。
 宮地は、その灯りの方へ一歩足を踏みだした。高尾の背が強張って、宮地の肩をぐいと後ろに引いた。
「宮地さん、帰ろう」
 肩に食い込む指が、白くなっている。
「俺、怖いよ」
「けど……」
 宮地はためらった。上の宮は現存したのだ。今でも誰かが提灯を灯し、お囃子を流し、祭りを行っていたのだ。宮地は、祖母の話に聞いた「黄昏さん」を、この目で見てみたかった。
「ちょっと覗くだけだから。大丈夫だって、きっと宮司さんがいるんだろ」
 あやすように高尾の背を叩き、提灯の列の間に足を踏み入れる。どこで演奏しているのか、お囃子は風に乗って近づいたり遠ざかったりする。歩きにくい玉砂利の道をしばらく行くと、じきに石畳の階段が現れる。白く掃き清められた規則正しい段差はずっと上まで続いていて、見上げると目がちかちかとした。
(狛犬はこの先かな)
 両脇に植えられたツツジの植え込みの緑が、つやつやと鮮やかに輝いて見える。
 一段、二段。上りかけてふと、誰か人の気配を感じて顔を上げた。
 小さな裸足の足。白い着物の裾から頼りなさげに伸びている。後ろを向いていて、顔が見えない。黒く短い髪が風にさらさらとなびいて、また元に戻る。背格好からして少年のようだ。
「帰ろう」
 高尾が怯えた声で言う。
「宮地さん」
 高尾は身を捩って宮地の背から飛び降りた。裸足の足が石畳の砂を蹴り散らす。高尾は宮地の腕にしがみついて、強い力で引っ張った。「宮地さん!」
 子どもが、ゆっくりと振り返る。宮地は動くことができず、ただそれを見ている。子どもの唇の端がゆっくりと持ち上がり、三日月形の赤い口が開く。
「み、や、じ、さ、ん」
 左腕に巻きつく高尾の力がふっと抜けた。階段の上に、少年の姿はない。


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