さよならならバイバイ
風が吹いた。春の強い風だ。
地面すれすれにとぐろを巻きながら低く唸り、そうしてしばらく様子を窺っていたかと思えば突然わっと大口を開けて伸び上がる。
春の強い風だ。
産業革命期の巨大な歯車のように、地に伏して獲物を狙う獣のように、樹齢千年の大樹の幹を流れる水脈のように、厳しく、力強く、温かい。もっとも真波はそんな感慨を抱きはせず、ただ、(いい風だなぁ)と目を細めた。
芦ノ湖を臨む標高700メートルほどのこの小高い山は観光地から外れており、また、風光明媚な箱根の地においては特筆するほどの景色が見られるわけでもなかったので、気候のよい三月の晴れた日にもかかわらず、地元のハイカーがのんびりと登山を楽しんでいるぐらいで人影はまばらだった。
山頂付近は少し開けていて、ちょっとした展望台になっている。と言っても、望遠鏡があるわけでも遠景を描いた地図があるわけでもなく、ただ平らにならされた、白茶けて乾いた砂の地面があるだけだ。自動販売機と半ば朽ちかけた木製の簡易ベンチが世間から忘れられたように並んでいて、自動販売機はいつ見てもロイヤルミルクティーが売り切れたままだった。柵も何もない丘台のふちに立つと、眼下に芦ノ湖がのびのびと広がっている。さほど標高が高いわけではないが、湖は意外なほど遠くて、強い春風が手前の樫の木の枝をどれほど揺さぶろうと、湖面はいつでも凪いで見えた。
ううううと低く唸る音がして、真波は(来るな……)と身構えた。はたして、唸りはひゅわんと音を立てて膨張し、巨大な空気のかたまりを横殴りに真波に叩きつけた。真波は一瞬息を詰めて、ぐっと足を踏ん張って堪えた。丘台の下に頭を覗かせている樫の木が、一方的な風の暴力になすすべもなく揉まれている。真波は飛ばされないように重心を少し下げながら湖を覗き込むようにしたが、湖の表面にはやはりさざ波くらいの波紋しかみとめることができなかった。
来た時と同様、突然に風は止む。樫の木は風の吹いた方向に少しだけ傾いて見えたが、ほどなくして何事もなかったかのような顔ですっと姿勢を正した。湖は変わらず、ゆらゆらと静かに水を湛えている。
「東堂さんは、そこにいるのかな」
それから真波は振り返って言った。
「それとも、そっちにいるのかな」
後ろには、歩いてさらに山頂へ向かう狭くて急勾配な(しかしすぐに終わる)登山道があって、その脇の中腹に老いた山桜が一本生えている。かつては赤茶色をしていたらしい幹は灰色に乾き、触れるとカサカサと軽い音がした。根本付近には大きなうろがあり、一年中日の当たらないそこには色の悪いひょろひょろとしたきのこや湿った苔が生え、時折飴の包み紙や用途のわからない六角ボルトなどが捨てられていた。幹は太く、真波が精一杯手を伸ばして抱きついても回りきらないほどだった。根は縦横無尽に張り巡らされ、辺りの地面は思いもよらぬ形で隆起していた。横ばいに伸びた大小さまざまな枝は空を無数の幾何学模様に切り抜き、数学にも美術にも疎い真波だが、眺めていて少しも飽きなかった。
ゴオウッ。
今度は何の前触れもなく突風が吹き、真波は思わずたたらを踏んだ。老いた山桜は今にも折れそうにギシギシと言った。遅咲きの桜はまだほとんどつぼみのままだったが、数輪開いた花がちぎれそうに身を震わせた。
ひゅぅぅぅぅ、ぅ。
獣は再び地に伏して、桜も樫の木も真波もほっと息をつく。風が強すぎるからか、小鳥の姿はほとんど見えなかった。
「真波、ゴジュウカラだ」
いつの日か、東堂が山桜を指さしてそう言った。
フィフィフィフィフィ。
明るい早口のさえずりが聞こえる。
「ほら、鳴いているだろう。こっち、この角度。見ろ、頭を下にして木の幹をぐるぐると回っている」
「え~? どこですか?」
「ほら、ほらあそこ。今、あの幹の右側のこぶに……ああ、葉陰に隠れてしまった」
東堂ははしゃいだ様子で真波の腕を掴んで揺さぶったが、真波にはどこを見ていいかさえとんと見当がつかなかった。
「わっかんないな~。よく見つけられますね。俺だって視力は悪くないはずなのに」
「わはは、こういうのはただ目がいいだけでは捕まえられんのだよ。野鳥を見つけるには、まずは耳、そして気配だ。ほら、真波、黙って耳を澄ませてみろ」
東堂は真波に目配せをし、彼自身も黙って山桜に向き直った。山に静けさがやってくる。カサカサと葉と葉が擦れる音がする。小さな獣が枝を踏む、パキッという音がする。チィチィチィ。茂みの中からか細い鳥の鳴き声がする。ぶうん。アブが飛んで真波のルックのハンドルに止まり、二・三度首を傾げてまたぶうんと飛び立った。チィチィチィ。茂みの鳥は休むことなく鳴いている。柔らかく桜の葉が揺れる。山は静かな音に満ちていた。細やかで雑多な音が綾なす音楽は、繊細な糸となって山全体に張りめぐらされた。少しでも身じろぎをするとその糸に触れとんでもない音を立ててしまいそうで、真波は目だけをぎょろりと動かして隣の東堂を見た。東堂はリラックスして、口元にうっすらと笑みさえ浮かべている。彼は山桜の葉陰に隠れた小鳥の気配をとっくに感じ取り、小鳥だけではない、山に潜む様々な生き物の気配を楽しんでいるようだった。
(東堂さんも、山の一部みたいだ)
真波は東堂の気配に耳を澄ませた。東堂は、口さえ閉じてしまえば驚くほど静かだ。心臓の脈打つ音も、血液が流れる音も、骨が軋む音も、普通の人間よりずいぶん控えめなんじゃないかと思う。「ほら、動いた」
「え?」
東堂の横顔にいつの間にか見とれていた真波は慌てて頭を巡らせたが、青灰色の小鳥の飛び立った影しか見ることができなかった。
「あ~、飛んじゃった」
「見えたか?」
「ううん、見えなくなる瞬間だった」
残念、と真波は笑ったが、本当は少しも残念ではなかった。 だって東堂は隣にいて、真波に見えるところでしゃべっている。
「あの鳥は『樹上の忍者』とも呼ばれてるんだ。頭を下にして木の幹を自在に走れる鳥は、ゴジュウカラをおいて他にいない」
「二つ名が東堂さんみたいですね」
真波が言うと、すかさず「忍者ではないな!」と反論が返ってきたが、彼はすぐに気を取り直して言った。
「小さい頃、よく父親が山登りに連れていってくれてな。バーウォッチングは父親の趣味だったんだ。二人で汗かいて山に登って、時々立ち止まってはこうして山に耳を澄ます。『ほら、ヒガラが鳴いた』。『オオルリだ』。『コゲラのドラミングの音がする』。『ずっとずっと遠くで、イカルが鳴いている』。この辺りの山にいる野鳥で、親父の知らない鳥はいなかったなぁ」
俺が自転車を始めてからは、時間がなくなってそんなふうに一緒に山に登ることも少なくなったが。東堂は風に気持ちよさそうに目を細めた。
「おお、サシバが飛んでいるな」
上空を小型の鷹が、風に乗ってぐるぐると旋回している。そのまま流されるように、まるで肩の力を抜いてすーっと向こうの山へと飛び去っていった。
「いいなぁ、鳥は、自由だなぁ」
そう言うと東堂は黙って、再び山のささやきにじっと耳を傾ける。
真波は今、一人で静かに耳を澄ます。風も止み、山は完全に沈黙している。フィフィフィフィフィフィ。大きな声で鳥が鳴いた。
(なんだっけ、あの鳥。なんか、東堂さんみたいな)
それっきり鳥は鳴かず、真波は再び静けさの中に取り残された。
◇
東堂がいなくなって一年ばかりが経つ。彼は高校の卒業式の後、忽然と、何の前触れもなく姿を消した。最後に会った人が誰なのかも判然としない。
「またね」「バイバイ」「元気でな」
卒業式に交わされるそんな当たり前のあいさつに、いつもの派手な動作で「じゃーな!」と大きく手を振って、それっきり。その日の夜中に、「家に帰ってこない。連絡がつかない」と彼の実家の旅館から学校に電話があって、翌朝にはクラスメイトや自転車競技部の部員に東堂の行方を問う連絡が入った。それでみんな、東堂がいなくなったことを知ったのだ。
地元の警察も、最初は単なる一高校生の家出か、卒業式で浮かれて誰か友達と羽目を外して遊んでいるのだろうとおざなりな対応だったが、二日経ち、三日経ち、一週間経ちしてくると、さすがに事態は大事になった。実家が大きいだけに身代金目的の誘拐の線も考えられたが、犯人からの接触もなく、また、彼の見た目が非常に人目を惹くものであったことから、そういった目的での誘拐ではないかとのまことしやかな噂も流れたりした。あるいは、山に登って転落し、どこかで遭難しているのではないかと日夜近隣の山の捜索も行われた。しかし、学校を出た後の目撃情報も有力な手がかりも一切なく、そうして東堂は人々の噂と家族知人の焦燥だけを残して、まったく跡形もなく、みんなの前から姿を消してしまったのだった。愛車の、白いリドレーと一緒に。
一時は全国のニュースでも取り上げられ、その際立った容姿から人々の関心と話題を攫ったりもしたが、それから三ヶ月も過ぎると、箱根のとある旅館の一人息子が卒業式後に行方をくらましたなどという小さな事件は、アメリカがついにシリアに軍事的介入を始めただとか、新宿駅で十代の若者が突然刃物を振り回して、休日の混雑した新宿駅が阿鼻叫喚の大騒ぎになっただとか、野党の第一線を張っていた議員の汚職問題が発覚しただとか、そういうニュースが新聞の一面を飾る度に隅に追いやられ、次第に世間からは忘れられていった。
東堂の家族は気丈に振る舞っていて、母親の女将も姉の若女将も、老舗の旅館を閉じてしまうわけにはいかないといつものとおり笑顔を絶やさずに旅客を癒したが、そのよく似た美しい面差しにはやはり隠し切れない鎮痛の情がにじみ出ており、それがいっそう彼女らを美しく、また痛々しく見せていた。さらに目も当てられないのは東堂の父親で、彼は息子が行方不明になって以降、ろくに眠れてもいないようだった。歳を取ってもハンサムで有名な男だったが、目は落ちくぼみ、頬はこけ、書斎に籠りがちになった。近所の人たちは痛ましく思いながらも、箱根で有名な東堂庵嫡男の突然の失踪を、「神隠しにあったのではないか」「神様に好かれそうな容姿だったから」などと、好奇心を隠しきれない様子でひそひそと話すのだった。
一番、目に見えて取り乱したのは箱根学園自転車競技部の仲間たちだったかもしれない。知ったのは卒業式の翌日のことだったのですでに実家に戻っている者もいたが、東堂失踪の報を聞くとすぐに顔色を変えて学校に駆けつけた。そして東堂が好んで登っていた山を中心に、ロードバイクを駆って数日間走り回って捜索した。
「ナァニやってんだ、アイツはヨ!」
腹立ちまぎれに部室のごみ箱を蹴っ飛ばしたのは荒北だ。プラスチックのごみ箱はバコンと鈍い音を立てて後ろの壁にぶつかり、跳ね返って床に二、三回弾みながら転がった。その音に黒田がビクリと肩を揺らす。顔色が悪い。いつもなら荒北の粗暴を咎める福富も、今は厳しい顔で黙りこくったままだ。
「尽八、どこ行っちまったんだ……卒業式の日、俺、『またな』って言ったんだ。そしたら尽八も、『またな』って……ハァ、くそっ! あん時、もっと気をつけて様子を見ていれば。もしかしたら、なんかいつもと違うとか、変だとか、あったかもしんねーのに……!」
新開はベンチに座って髪を掻きむしった。「くそっ! くそったれ!」
当り散らすように足を踏み鳴らして怒鳴る新開は珍しく、葦木場が不安そうな顔で泉田を見た。泉田は何かを耐えるみたいな顔でじっと目をつぶっている。
真波は、そんな淀んだ空気の部室の片隅に立って、どこか静かな気持ちでみんなを眺めていた。
(みんな、何を悲しんでいるんだろう。東堂さんは、望んでいなくなったのに)
コツ、と窓に何か小さくて硬いものが当たる音がして、真波は目を開けた。部屋はざらざらとした薄黒い靄で覆われていて、時計のカチ、カチという音がやけに大きく響いている。寝転がったまま掛け時計の針に目を凝らすと、時刻は午前二時をさしていた。
コツン。
今度の音は確かに真波の意識に届いて、真波はゆっくりとベッドの上に体を起こした。暗い部屋の床に、窓の形に切り取られた白い月影が映っている。満月の前後、真夜中を過ぎるとその窓からちょうど月が見えるのは、病弱だった幼い頃、眠れぬ夜を過ごしているうちに気づいたことだ。真波は立ち上がって、床の四角い光の中に足を踏み入れた。はたしてほぼ正円に近い明るい月が、窓の向こうに輝いて見える。幼馴染みの委員長かと思ったのだが、向かいの家の窓は真っ暗で、固く閉ざされたままだった。
「こっちだ」
下から抑えた男の声がするので見やると、今日卒業を見送ったばかりの東堂が片手を上げていた。
「東堂さん」
東堂はしーっと人差し指を口に当て、下りてこいというように自分の足元を指さした。真波は何も聞かずすぐに踵を返して、足音を立てないようそっと階段を下り、慎重に扉を開けて外に出た。ひんやりとした空気が薄いパジャマの生地を通して入ってきて、真波は身震いした。(上着、羽織ってこればよかった)
東堂は門のところで真波を待っていた。
「すまんな、こんな夜中に」
「ううん。どうしたの東堂さん」
東堂はまだ学生服姿だった。すべてのボタンを失って開ききったブレザーとシャツの下に派手なTシャツが丸見えの、卒業式の後に見た姿のままだ。普通ならだらしなく見えてしまいそうなその格好も、東堂だとなんだか様になっていた。
「いや、別に、どうということもないんだが……」
「? 東堂さん?」
東堂は珍しく、とりとめもないぼんやりとした表情をしていた。
「どうということもないことないじゃないですか。東堂さんが、こんな時間に俺を訪ねてくるなんて。制服のまんまだし、本当にどうしたんですか? 何かありました?」
満月に照らされた東堂の白い顔は、無機物みたいになんの気配もなかった。
「東堂さん?」
真波がその顔を下から覗き込むと、東堂はようやく少し口元に笑みを浮かべた。
「いや……本当に、何でもないんだ。心配させてすまない。まあ、言うなら、お前の顔がちょっと見たくなったんだよ、真波」
東堂の様子は普段と違っていたし、こんな夜中に制服姿のまま訪ねてくるのも違和感しかなかったが、そういう非現実的なシチュエーションのせいなのか、午前二時とは思えない明るすぎる夜のせいなのか、真波は深く考えることもなく、ただ東堂の言葉が嬉しくてにこにこと笑った。
「東堂さん、こっちに来て。座ってお話しましょうよ」
真波が門を開けて東堂を招き入れようとすると、東堂は、「いや、いいよ。すぐに行くから」とやんわりとそれを断り、「真波」と呼んだ。無機的な東堂の顔の中で、いつもはむしろ一番作り物めいて見える青い瞳が、ぬるんとした光を帯びていた。これは、東堂が真波を求めている時の瞳だ。真波は知っている。真波は門越しに、東堂の肩をそっと抱き寄せた。こんな真夜中、閑静な住宅街には人っ子一人、野良猫一匹通らない。東堂の瞳に映る真波も、きっと浮かされた目をしているに違いない。二人は視線を合わせたまま、ゆっくりと唇を重ねた。東堂の唇はひんやりとして、満月みたいに白かった。真波がそれを温めるようにはむはむと唇で柔らかく挟み込むと、くぐもった声が「真波」と呼んだ。
「東堂さん」
真波は唇を軽く触れ合わせたまま言った。
「本当は、何しに来たの?」
東堂は真波からすっと体を離して、まっすぐに真波を見た。
「さよならを、言いにきたんだ」
「東堂さん、どっか行っちゃうんですか?」
「そうだ」
「うんと遠く?」
「あるいは、そうかもしれない」
真波は少し考えた。
「どうしても行かなきゃいけないの?」
東堂は、困ったように笑った。
「絶対ではない。そうあるべきかもしれないし、そうあるべきではないかもしれない。ただ、俺がそれを望んだんだ」
「もう二度と会えないの?」
「会える会えないと、会う会わないは別ものだよ、真波。俺が会おうと思えば会えないこともない。お前が会わないと思えば会うこともない」
東堂は自由になろうとしているのだと、真波にはわかった。そして、東堂がそう望むのなら、そうさせてやるのがいいと思った。
「それを決めるのは俺なの? 東堂さん」
「嫌か?」
「そんなことないけど……ずるい」
東堂は、仕方がないよと子どもみたいな口調で言って、笑った。月に透けてしまいそうな笑みだった。
真波は言った。「さようなら、東堂さん」
東堂は答える。「さよなら、真波」
東堂は後ろを向いて、急ぐでもなく振り返るでもなく、ごく普通の歩調で歩き去った。そのきれいに伸びた背筋が角を曲がって消えたのか、月明かりに溶け込んで見えなくなったのかは、定かではない。とにかくそうして東堂は真波の前から姿を消して、目に見える世界から姿を消した。木の幹の裏に回り込んだ、いつかの小鳥みたいに。
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