グッバイ・マイ・キティ
カリカリと何かを引っ掻く音がして、花宮は読んでいた本をテーブルに伏せて立ち上がった。特に急ぐでもなくテラス戸に向かう花宮を、隣でゲームをしていた原の視線がもの問いたげに追ってくるが無視する。
中庭に面した引き戸をカラカラと開けると、一匹の猫が花宮を見上げ、少し低い声でナァと鳴いた。猫は何の警戒心も見せず、慣れた足取りで花宮の足元をすり抜け居間に入ってきた。二十センチほど開けた戸の隙間から涼しい風が吹き込んでくる。花宮はしばらくその場に佇んで、見るともなしに庭を眺めながら気持ちよさげに目を細めた。恐らく一般家庭より少し広い庭には、母親の趣味で季節の花が年中途切れることなく咲いている。花宮自身はまったく花には興味がなかったが、母親がいつも口にする花の名前はいつの間にか覚えてしまった。だが今は、コスモスもゼラニウムもキンレンカもイソトマも、その華やかな色は秋の闇夜に溶け込んで、得体の知れない黒い塊にしか見えなかった。
ナァと、催促するように鳴かれ、花宮は網戸だけ閉めて台所へと向かった。「猫?」と原が興味津々に聞いてくるが、見ればわかるだろうと返事もしない。原は慣れっこだから気にも留めないだろう。
ミルクとキャットフードを入れた皿を持ってリビングに戻ると、原はゲーム機を放り出し、床に腹這いになって猫を見ていた。猫は原にはまったく目もくれず、テラス戸から二歩ほど入ったところに行儀よく座り、まっすぐに花宮を(正確には花宮の手の中の餌を)見つめている。
床にミルクとキャットフードの皿を置いてやると、猫は俊敏に立ち上がってまずはミルクに顔を突っ込んだ。
「花宮猫飼ってたの?」
原が床から小首を傾げて見上げてくる。
「飼ってねぇ」
「え、でもキャットフード置いてんじゃん」
「別に、飼ってるわけじゃねぇから」
ふーん、と原は納得しないような声を出して、猫に視線を戻した。
「迷い猫? けど野良じゃねぇよな。首輪してるし、綺麗だし」
金茶色にうっすらとした虎模様の珍しくも何ともないただの雑種であったが、よく手入れされた毛皮は、リビングのオレンジ色の光を含んでふわふわと輝いて見えた。首には落ち着いた赤の皮のベルトが巻かれていて、小さな鍵のチャームが鈍い銀色に光って揺れている。
「にゃー。にゃーすけ」
原はちょっかいを出そうとして、尻尾でうるさそうに振り払われている。おかしくて思わずふはっと笑いを漏らす。
「にゃーすけじゃねぇよ。雌だぜこいつ」
猫の隣に腰を下ろして指先で喉を撫でてやると、彼女はゴロゴロと気持ちよさそうに唸った。指先に伝わるその温かい振動は嫌いではない。
「ほんとに花宮の猫じゃねぇの? 随分懐いてるみたいだけど」
原は手を伸ばそうとして、また尻尾で軽くあしらわれた。
「飼ってはいねぇんだけど……預かりもんだよ」
「あ、なるほど~。親戚? ご近所さん?」
「いや……」
言葉を濁してしまい、しまったと思った。適当にごまかせばいいのに、なぜだか花宮は、原の前ではどうでもいい嘘をつけない。そして原は、こういう時妙に勘が鋭い。
「え、誰だれぇ? 怪しい~」
案の定、一瞬言いよどんだ花宮を原は見逃さなかった。
「誰でもいいだろ」
チッと舌打ちをするが、そんなことで怯む原ではない。だてに一年と半年共に過ごしているわけではないのだ。
「気になるじゃん。言えない人? 彼女? 人妻? ヤの付く人?」
「何でだよ」
花宮は馬鹿馬鹿しくなって嘆息した。
「今吉さんだよ。中学卒業する時に預かれっていきなり渡されて、それっきり」
「はは~ん」
意味ありげにニヤニヤされ、花宮は再び舌打ちをした。これだから原には言いたくなかったのだ。
「別に、深い理由なんてねぇからな。あの人が高校寮に入るし飼えなくなるからっつって、押し付けられただけだから」
「ふふ~ん」
「チッ。つかもう帰れよ。そろそろ親帰ってくるし」
「え~、いいじゃん! 俺花宮ママ好き! 超美人だし」
そうこう言っている間に玄関の扉が開き、パタパタと人の入ってくる気配がした。
「ただいまぁ」
「おかえり」
「おかえりなさ~い。お邪魔してまっす」
「あらぁ、原くん来てたの? もう真、原くん来てるなら言ってよ。夕飯の材料原くんの分も買ってきたのに。バカねぇ」
こんなにあっさりと花宮のことを「バカ」と言えるのは、世界広しと言えど彼女ぐらいなものだろう。
「いえいえ、お構いなく! 俺もう帰るとこだったんで」
花宮顔負けに猫被りの得意な原は、母親のお気に入りだ。もっとも原は花宮と違って、気に入られたい人間相手にしか猫を被らない。
「あらそぉ? あ、ミーちゃんご飯食べに来たのね。いらっしゃい」
彼女がしゃがみこんで頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに額を擦り付けた。
「ミーちゃんっていうんですか?」
原の言葉に、花宮の母親は困ったように眉を寄せた。顔立ちは花宮とよく似ているが、眉はすっきりと整えられている。
「名前ね、実はわからないのよ。真の先輩から預かってるんだけど、名前聞いてないんだって。バカよね」
またバカ呼ばわりされて花宮は舌打ちしかけたが、それをすると小一時間は嫌味を言われるので思い止まった。
「母さん、原帰るって」
話し出すと止まらない彼女の性格を考えて、花宮は口を挟んだ。
「あら、ごめんねぇ。また来てねぇ」
玄関まで原を見送る母親の背中に、そっと溜息を吐く。ナァ、と低い声がして足に猫が絡み付いてきたので、花宮は抱き上げて鼻先を埋めた。どこもかしこも柔らかくて温かい体の中で、コツンと当たる鍵の感触だけがひどく冷たくて異質だった。
「花宮、猫、預かってくれへん」
中学の卒業式の日、花宮は式が終わるとさっさと帰って家でのんびり読書などしていたのだが、さっき送り出してやれやれもう二度と会うこともあるまいと思っていたはずの先輩から呼び出され、しぶしぶ近所の公園にやって来た。三月初めの小さな公園は桜の木の枝もまだ寒々しく、風が吹く度にカラカラと乾いた音を立てた。花宮はマフラーをしっかりと巻き直した。「今日は二月中旬の気温に逆戻りです。雪のちらつくところもあるでしょう」。今朝、ラジオで天気予報士が言っていたのを思い出した。
今吉は、人気のない公園のブランコの柵に凭れかかり、一匹の猫を抱いて立っていた。彼はまだ制服姿で、胸の安っぽい造花も付けたままだった。
「花宮、猫、預かってくれへん」
花宮を見るなりそんなことを言う今吉に、花宮は思いきり眉を顰めた。彼はもう卒業して先輩でも何でもなくなったのだから、遠慮する必要などない。花宮は取り繕うこともせず、意味がわからないというような表情を作った。
「は?」
今吉はそんな後輩の態度をまるで気にも留めず、目を細めて猫の柔らかそうな金茶色の毛皮に頬を寄せている。
「おーおー、ぬっくいなぁ」
たっぷりと空気を溜め込んで膨れている冬毛は確かに温かそうで、花宮は少し心が惹かれた。猫は嫌がりも喜びもせず、無感動な目で花宮を見ている。
「ワシ、高校では寮住まいになるから連れて行かれへんねん。実家はおとんもおかんも留守がちやし、面倒見られる人おらんようになってしまうんでな」
「だからって、何で俺が」
反論しようとした言葉は、押し付けられた温もりに遮られた。反射的に差し出してしまった腕に、ずしりとした重みが加わる。
「っ、おい!」
「抱き方は、こうな。こっちの腕ケツに添えたって……そうそう、うまいうまい」
猫は一瞬身じろぎしたが、すぐに落ち着く場所を見付けて花宮の腕に収まった。腕の中に生き物がいる未知の感覚に、花宮は身動きが取れない。
「あのなぁ……」
文句を言おうと思ったが、猫の高い体温と腕に掛かる重みに気を取られて、結局何も言えなくなった。猫が呼吸をする度に、腹が大きく膨れたり凹んだりする。この小さな体の中に骨も肉も内臓も血も全部詰まっているのだと思うと、恐ろしい気さえした。
「だって、花宮ん家だいたいお母さんいてはるやろ。何回かお話したけど生き物好きって言うてはったし、ワシ猫飼うてる言うた時めっちゃ食いついてきてたやん」
そう言えば、花宮の母親と今吉は妙に仲がいいのだ。
「実はな、その時にさりげな~く打診してあんねん。ワシが猫飼われへんようになったら預かってもらわれへんかって」
「けど俺、猫の飼い方なんて知らねぇし」
「大丈夫、本あげるから」
「母さんはともかく、俺は別に猫好きでもなんでもねぇんだけど」
「ええねんええねん。そんなしっかり面倒見る必要もないねん。ワシもほぼ放し飼いやったからな。腹が減ったら帰ってくるから餌やって、定期的にきれいに洗ってくれさえしたら、あとは好きに出歩いて機嫌ようしてるから」
ええ子にしてるんやで。
今吉は、花宮に抱かれた猫の首を掻き混ぜるようにしてくすぐった。太い首には赤い皮のベルトが巻かれていて、今吉にしてはセンスがいいと思った。猫は一言も鳴きもせず、わかっているのかいないのか、やはり無感動に今吉の方をちらりと見ただけだった。
「……?」
掻き上げられた毛皮の間から何かが西日を反射してチカリと光り、花宮はそれをよく見ようと顔を近付けた。
「鍵?」
ふかふかとした毛皮にほとんど埋もれるようにして、銀色の鍵型のチャームが首輪にぶら下がっていた。だが、ただのチャームにしては、造りの精巧なのが気になった。大きさは小指の二関節分ほどと小さいが、細やかな鍵山の凹凸と複雑な溝の彫りを見るに、実用的な鍵であろうと想像できた。
「いいのかよ、こんなところに付けておいて」
今吉は、ああ、というような顔をした。
「その鍵はな、ええねん、そこに付いとって。むしろ、そこに付いてるべき鍵なんや。けど、なくさんといてな。大事な鍵やから」
「おい、大事な鍵ならこんなとこに付けてねぇで」
「この子が持ってへんと意味ないねん」
「はぁ? いったい何の鍵なんだよ」
今吉は意味ありげに微笑んだ。元より細い目が、木の幹に鋭く入れた切れ込みのように深くなる。何を考えているのかわからない、花宮の苦手な今吉の表情だった。
「いずれわかる。その鍵はワシにとって大事な鍵やけど、同時に花宮にとっても大事な鍵なんやから」
意味がわからず眉間に皺を寄せる花宮を煙に巻くように、今吉はカラリと笑った。
「ほなな、頼んだで。……元気でな」
最後の言葉は花宮の腕の中の猫に向けたもので、耳をペタンと撫でつけるようにした後、離れがたそうに喉をくすぐった。猫が喉の奥でグルグルと唸る生々しい振動が伝わってきて、花宮の猫を抱く腕に自然と力がこもった。今吉は名残惜しそうにもう一度猫の頭を一撫ですると、今度こそ、「ほなな」とひらりと手を振って行ってしまった。
閑散とした公園には、猫と花宮だけが取り残された。
「どうすんだよ、これ……」
呆然と呟いてみるが、猫は素知らぬ顔でくわっとあくびをするだけだ。猫にすれば、飼い主が今吉から花宮に代わったところで、きちんと餌をくれる人間であればこだわりはないのかもしれない。そもそも、花宮は今吉の決定にはどうやったって抗えないのだ。「頼むで」と言われたからには頼まれるしかない。あの調子なら、どうせすでに花宮の母親には話をつけているのだろう。
花宮は諦めて嘆息した。
「せめて名前ぐらいは教えていけっつーの」
猫が同意するように尻尾で花宮の手を叩いたので、花宮はもうなんだかどうでもよくなって、「帰るか」と猫に言った。猫は初めてナァと鳴いて花宮を見た。思っていたより低い声で、花宮は思わず笑ってしまった。「ふはっ、かわいくねぇ」
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