影が呼んでいる
アスファルトに溜まった熱を攫うみたいに、低いところを風が走り抜けていく。温い熱の塊を顔面に受けて息を詰めた一瞬の後、幾筋かの冷たい空気が頬を撫でた。
ジーワジーワ、ジジ……
思い出したようにセミがつぶやき、それっきり黙った。残されたのは、風が木の葉を揺らす音と、サンダル履きの足がアスファルトの小石を転がす音。
一松は、それらの音にじっと耳を澄ませながら、前に伸びた自分の長い影を見つめて歩いた。身長の倍くらいに引き伸ばされてますます下がったなで肩が、引きずるサンダルの歩調に合わせて、ひょこひょこと上下した。道端に、白い腹を見せてセミの死骸が転がっているのを避けて通る。
夏の夕はいつも寂しい。昼間は高々と胸を張って辺りを睥睨していた太陽も、沈みはじめると途端に地平に向かって一直線に駆け足だ。その忙しなさは、一つ所に留まることを許されない世界の宿命のようにも思えて、永遠に変わらずにいたい一松の心に切ない影を差し込む。
一松はポケットに入れていたねこじゃらしを取り出して、くるくる回しながら歩いた。自分の先を行く影も、ねこじゃらしをくるくる回している。
この間生まれたばかりの子猫は、まだ足元もおぼつかないのに、怖いもの知らずに果敢にねこじゃらしに飛びついてきた。その小さい熱の塊を思い出して、一松は少し口元を緩めた。あの子も、本格的な秋が来る頃には一人前らしい足取りになっていることだろう。
そんなことを考えている間にも影は伸びて、背負った空は一層赤く色づいていく。一松は少し目を上げて、のっぽの影の伸びていく先を見た。影でもわかるぼさぼさ頭に触れるようにして、誰かが立っている。
一松は片眉を上げた。この足は知っている。
顔を上げると、はたしてそこには青いTシャツが、妙に姿勢のいい背中を見せて立っていた。
一松は少し迷ったが、やがて諦めて口を開いた。
「クソ松」
無視を決め込んでもよかったが、どうせ同じ場所に帰るのだ。
しかしカラ松は一松の声が聞こえなかったのか、背を向けたまますたすたと歩きだした。一松の影と、カラ松のスニーカーが離れていく。
「おい」
一松はむっとした。無視をするのはいいが、無視をされるのは我慢ならない。「おいってば、クソ松」
カラ松は振り返らず、どんどん先へ歩いていく。それほど急いでいるようには見えないのに、小走りに追いかける一松とみるみる距離が離れていく。自分と兄との間のアスファルトが不自然に引き伸ばされたような感じがあって、一松は平衡感覚を失ってたたらを踏んだ。カラ松の背中は、一つ先のたばこ屋の角を右に曲がっていった。家があるのはそっちじゃない。
「どこ行くんだよ」
舌打ちをして、一松もたばこ屋の角を回った。その時、熱風が正面から吹きつけ、一松は目をつぶって息を詰めた。一瞬の暴力。やがて、風は涼やかな尾を引いて過ぎ去っていく。一松はゆっくりと目を開け、そしてぱちりと瞬いた。
ブロック塀の続く見通しのいい道の上には、人っ子一人いなかった。
「ただいま」と居間のふすまを開けると、クーラーのひんやりとした風が一松を出迎えた。兄弟たちが、思い思いの格好でくつろいでいる。
「おかえりー」
「いいタイミングだね。もうすぐご飯だよ」
「クソ松は」
どこに行ったんだ、と言いかけて、一松ははたと動きを止めた。
「ん? 俺がどうかしたか? ブラザー」
わざわざ確かめるまでもない。自分と色違いの青いTシャツを着た男が、ちゃぶ台の脇から顔を上げて一松を見た。手には愛用の手鏡があり、いつものように自分の顔を眺めていたらしい。家とは違う方向に歩いていったはずの兄が、自分より早く家に帰り着いて、もうすっかりくつろいだ様子で座っていることに違和感を覚える。
「早かったな」
そう言うと、カラ松は妙な顔をした。
「早かったって、何がだ?」
「いや、帰ってくるのがだよ」
「俺、今日はずっと家にいたんだが」
「嘘つけ、さっきそこのたばこ屋の角にいたの見たぞ」
「それは……俺じゃないと思うが……」
カラ松は本気で困惑した表情だった。
「カラ松、ずっと家にいたよ? 少なくともこの一時間くらいは」
チョロ松が、アイドル雑誌のページを捲りながら口を挟んだ。
「俺、昼過ぎからここで溜まってた雑誌読んでたけど、カラ松も途中で二階から下りてきて、そっからずっと鏡見てぶつぶつ言ってたから」
「え、一時間も自分の顔を鏡で眺めていたの?」
「キモいね!」
弟たちから至極まっとうな突っ込みが入るが、それに同調する余裕もなく、今度は一松が困惑する番だった。
「え、けど俺、確かに見たんだ。俺のちょっと前を歩いていて、そのたばこ屋の角を曲がって右へ」
「他の兄弟と見間違えたんじゃないの?」
「いや、でもその頃にはもう俺ら全員帰っていたような」
「じゃあまったく別の人とか?」
一松は段々自信がなくなってきた。見たのは赤の他人ではなく間違いなくカラ松で、六つ子とは言え、兄弟のうちで誰かを見間違えることはほとんどありえない。しかし、兄弟たちがそんなことで自分に嘘をつく理由もなく、その時間にカラ松や他の兄弟たちが家にいたというのもまた事実なのだろう。ならば、道端で見かけた男は一体何だった?
さっき、彼を追いかけた時の違和感が蘇る。陽炎の立ちそうなほど熱せられたアスファルト、下から吹き上げる熱風、妙に間延びして見えた道、角を曲がった途端、消えてしまった背中――
深刻な顔で黙りこんだ一松に、「見間違いだろ」とは言いづらい空気を察して、兄弟たちは顔を見合わせた。
「ドッペルゲンガーじゃないの?」
気楽な口調でそう言ったのは、トド松だった。皆の視線が、ぱっと一番下の弟に集まった。彼はちゃぶ台に頬杖をついたまま、片手でスマートフォンを弄っている。
「ほらぁ、たまに聞くじゃん。この世には、自分と同じ顔の人間が三人いるって」
「えぇ~」と嫌な顔をしたのはおそ松だ。
「ただでさえ同じ顔六つもあるのにさぁ、その上さらに同じ顔が三つずつあんの? それってつまり、6×3で……」
「16!」
「18だよ、十四松兄さん」
「同じ顔が六つでも大概飽き飽きするのに、さらにその三倍とかマジ勘弁って話だよね。けどまあ、ドッペルゲンガーなんて脳の引き起こす錯覚だし、実際それを目撃したなんて話、ほとんどの場合が眉唾物だし」
「ふっ、超常現象にも魅入られる……俺!」
「ドッペルゲンガーは死の予兆らしいよ、カラ松兄さん」
格好よくポーズを決めていたカラ松は、トド松の言葉にえっ、と動きを止めて真っ青になった。
「三人目を見たら死ぬとか、目撃後間もなく衰弱死するとか」
「そんなぁ~!」
「願ったり叶ったりだな。ナイス、目撃した俺」
「一松~!」
涙目のカラ松をチョロ松が笑う。「大丈夫、そんなの迷信だよ、迷信」
「安心しろ、カラ松! 十八人もいるなら、一人ぐらい減ったってまったく問題ねーよ」
「おいおそ松!」
カラ松が目を剥いたところで、「ニートたちー、ご飯よー」と母親の呼ぶ声がし、兄弟たちはドッペルゲンガーのことなどすっかり忘れた様子で「コロッケ!」と歓声を上げた。
一松は、喜々として台所へ食器を取りに行くカラ松の背中を見た。そして、さっきあの曲がり角で、声を掛けても振り返らなかったカラ松の背中を思い出した。
『ドッペルゲンガー』
その言葉は不吉な影をまとって、一松の腹の底に冷たく沈んでいった。
■
彼岸が過ぎ、朝晩の涼しさはぐっと増したが、日中の暑さはまだ衰えを知らない。今年の夏は残暑が厳しく、連日35度を超える猛暑日が続いている。
一松は額から流れる汗を拭い、はぁっとため息をついて目を眇めた。二時を少し回ったところで、強い太陽に晒され続けたアスファルトの温度は、そろそろピークに達しようとしている。風はなく、地面には陽炎が立っていた。右手に下げた醤油の瓶が重い。母親に遣いを頼まれた時、家に他の兄弟はおらず、貧乏くじを引かされたと小さく舌打ちした。
早く帰ろう。一松は、ガシャッと音をさせてスーパーのビニール袋を持ちなおした。
――カン、カン、カン、カン。
踏切の警報機は、いつも唐突に鳴りはじめる。一松は線路の手前で立ち止まり、遮断機の下りてくるのをぼんやりと振り仰いだ。気温はこんなに夏にしがみついているのに、遮断機の向こうに見える空は遠く高い。秋は空からやってくるんだな。一松はそんなことを思った。
カン、カン、カン、カン。
一際熱い線路には、くっきりとした陽炎がゆらゆらと揺れている。下りてきた遮断機の黄色が、一松の視界を横切る。ゴォー……右の方の遠くから、電車の走ってくる地鳴りが聞こえる。一松はふと踏切の向こうを見やって、そして息を詰めた。
カラ松――
踏切の向こうには、カラ松が、数日前と同じようにこちらに背を向けて立っていた。顔は見えなくとも、姿勢よく伸びた背筋は、見間違えようもなく二番目の兄だった。一松は思わず声を上げた。
「カラ松」
青いシャツの背中は振り返らない。あの日と同じだ。
ドッペルゲンガー。
一松は、腹の底がひやりとするのを感じた。
『ドッペルゲンガーは死の予兆らしいよ』
弟の言葉が脳内をリフレインする。カン、カン、カン、カン。警鐘が鳴り響く。カラ松の影は、背中を向けたままゆっくりと歩き出した。一松は追いかけようと一歩前に出た。
ゴォー……ゴッ。
重厚な鉄の箱が一松の視界を断ち切り、一松はその凶暴な風圧に押されてたたらを踏んだ。ガタンガタン、ガタンガタン。巨大な車輪が次々と現れては、圧倒的なエネルギーを振りまいて去っていく。
まだか――。
一松の焦燥が増せば増すほど、電車は妙に間延びして感じられた。一松は、線路に飛び込んで電車を止めたい衝動に駆られた。
ガタンガタン、ゴッ……
ようやく電車は過ぎ去り、警報機は鳴りはじめと同じ唐突さで鳴りやんだ。開けた視界の中には、もう誰の姿もなかった。一松は、遮断機の上がった線路の前で、しばらく動けずにいた。
家に帰るとカラ松がいた。いつものようにちゃぶ台の横にあぐらをかき、飽きもせず手鏡に映る自分に見惚れている。カラ松は一松の帰ってきたのに気がつくと、顔を上げて「おかえり」と言った。
「あ、ああ」
カラ松は一松の顔を見て少し首を傾げた。「どうした、なんか顔色悪いぞ」
「別に……なんでもねぇ」
「そうか」とカラ松は言うと、それきりまた鏡の中の自分に視線を戻してしまう。
一松はぎりっと歯を食いしばった。
『ドッペルゲンガーは死の予兆らしいよ』
トド松の言葉を追い払うようにかぶりを振る。
また、お前のドッペルゲンガーを見たぜ。三人見ると死ぬらしいから、これでリーチだな。
どうせ迷信なのだ。そう軽口を叩いて冗談にしてしまえば気が晴れそうなものだが、一松はなぜかそれを口にするのが恐ろしかった。そして同時に、人の気も知らないでのんきに鏡に見惚れているカラ松に無性に腹が立った。鏡に映るカラ松さえもが、実態を伴わない蜃気楼のように思えて不気味だった。一松は衝動的にカラ松の手鏡を取り上げ、床に叩きつけた。
鏡は畳に跳ね返って、ちゃぶ台の足にぶつかった。キシ、と嫌な音がした。
「い、一松! 何するんだ」
カラ松が慌てて拾い上げた手鏡は、鏡面の真ん中に一筋の亀裂が走っていた。
「なんの音?」
台所から母親が顔を覗かせた。そしてカラ松の手の割れた手鏡を見とがめて眉をひそめる。
「あらやだ、鏡割っちゃったの?」
「あ、ああ」
カラ松は困惑した顔でちらっと一松を見やったが、すぐに取り繕うような笑みを浮かべて母に謝った。
「……すまないマミー、俺が落としたんだ。ちょっとちゃぶ台の足に傷がついてしまった」
「もう、何やってるのよ。……元々傷はあったし、今さら一つ増えたところで、とは思うけど……まあ、あんたたちに怪我がなければいいのよ。気をつけなさい」
一松はどうしようもなく腹立たしくなり、その感情の爆発するままちゃぶ台の天板にダンッと拳を打ちつけた。母親が反射的にビクッと肩を震わせ、カラ松が「おい!」と咎めるような声を出した。
一松はチッと舌打ちをして、足音も荒く部屋を出ていった。
■
翌朝、一松が起きると布団はもう空だった。いつもは一松と寝起きの悪さを競うトド松とおそ松も、今日はとっくに起きているらしく、横に長い布団のどこにも人の温もりは残っていなかった。
障子を透かして入り込んでくる日差しはきつく、すでに太陽は高いところまで昇っていると知れた。一松はのろのろと起き上がると、うっすらと障子を開けて外を見た。二階から見下ろす道は太陽の光を反射して白く輝き、一松は眩しくて目を眇めた。
一松は、ゆっくりと階段を下りていった。ミシッと板を踏みしめる音が大きく響くほど、家の中は静かだ。一松は小さく「おはよう」とつぶやきながら、居間に入った。ちゃぶ台の上には、一松のものであろう朝食が一膳だけ並べられていた。
「母さん?」
一松は台所を覗きこんだ。誰もいない。
「みんな、いないの?」
洗面所、トイレ、風呂場、ベランダ、書斎、両親の寝室。一松は家中の戸を順に開けて回ったが、そのどこにも人の姿はなかった。しん、とした音が聞こえるようだった。時計の秒針の進むのが、妙に遅い。
一松は玄関の扉を開けた。外は、二階から眺めた時と同じように、太陽の光を反射して白かった。昼日中というのに、往来に人は一人もおらず、スズメの一羽も鳴いていなかった。
一松はサンダルを突っかけて外に出た。熱気が、膨大な質量を伴って一松を包みこんだ。太陽の強い腕が、一松を捕らえようと伸びてくる。一松はそれに追われるように二、三歩よろめき、もつれる足で走りだした。
隣の家、向かいの家、馴染みの食堂にいつもの銭湯。窓は開いているしのれんも上がっている。それなのに、人の気配だけが消えている。いつも八百屋のごみ箱の上に陣取っている猫もいない。ハッ、ハッ。一松は、浅く早い呼吸をアスファルトに落としながら走った。汗がとめどなく流れ、灰色の道に黒い染みを作った。たばこ屋の前の角を曲がり、開けた道をこけつまろびつ走る。サンダルが、死んだ蝉の死骸を踏んだ。カラカラに干からびた空洞の体は、綿あめが溶けるようなあっけなさで形を失くした。
一松は、昨日カラ松の手鏡を割ったことを思い出していた。亀裂の入った鏡面には、亀裂の入ったカラ松の顔が映っていた。鏡が割れることは、不吉の証ではなかったか。一松は今さらながら兄の手鏡を割ったことを後悔した。朝から何も入れていない胃がキリキリと痛む。
――カン、カン、カン、カン。
突如として踏切の警報機が鳴り渡り、一松は反射的に足を止めた。いつの間にか線路まで来ていたらしい。昨日、二度目のカラ松の影を見た場所だ。目の前を黄色い遮断機が横切り、やがて右の方の遠くから、鉄の車輪が線路を擦るキーンとした音が聞こえてくる。一松はそれを、正面を向いたまま待った。電車の気配は見る間に近づき、ゴッという音と共に、圧倒的な熱と鉄の塊が目の前を走りすぎた。一松は目の玉だけを動かして電車の中を見た。客車は無人のようだった。運転席は、窓が反射してよく見えなかった。一松は視線を外した。電車は過ぎ去り、何事もなかったかのように遮断機が上がった。熱せられた線路の上には湯気のような陽炎が立っていたが、一松がそこに踏み込むと、ゆらゆらと身を躱して逃げた。
踏切を渡った先にはまっすぐな道が伸びていて、そのずっと向こうに、誰かが背を向けて立っていた。その親指ほどの大きさに見える背中は、確かにカラ松のものだった。家を出てから初めて見た人の影だった。
一松はほっとして、「カラ松!」と呼び掛けた。カラ松はちらりと振り返ったようだった。しかし、一松を待つことなく、そのまま向こうへ歩いていってしまう。
「カラ松、待ってよ」
一松は小走りになって追いかけた。カラ松の足取りはゆったりしているのに、一向に距離は縮まらなかった。
「ねえ、待ってってば」
一松はほとんど泣きそうだった。この心細さと兄に縋りつきたいような気持ちは、自分の幼い頃のことを思い出させた。自分より活発で喧嘩が強くて優しかった兄に、全幅の信頼を寄せていた頃のこと。
「カラ松兄さん」
空は、どんどん暗くなってきていた。夏の終わりの不安定な天気は、すぐに激しい夕立を降らせる。早く帰らなければ、きっと降られる。今ならまだ、引き返せる。そう頭の片隅で思いながら、一松の足は止まることなくカラ松を追い続けた。
民家の並んだ道を歩いていたはずが、気づけば田んぼの中にいた。田んぼといっても、もう何年も前に廃棄されたらしく、雑草がぼうぼうにはびこっている。むっとした草いきれが足元から立ち上った。歩くたびに、ぴょんぴょんと何かの虫が跳ねて逃げる。フィリリリリ……と翅を震わせて鳴く虫の声もする。一松はほっと息をついて、首筋の汗を拭った。乾いた土のあぜ道に立っているからか、アスファルトの上より幾分暑さが和らいだように感じられた。
カラ松の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。一松は途方に暮れて辺りを見回した。
「……カラ松?」
少し風が出てきていた。乾燥した草が揺れて、カサカサという音が波のように押し寄せた。虫の鳴き声が一際強くなる。熱い風の中に、ふと湿ったにおいが交ざった。遠くで地鳴りのような音がする。夕立が近い。
「カラ松、帰ろうよ」
一松の声は、自信がなさそうに小さくなった。カラ松はもう、一緒に帰ってくれないかもしれない。
荒れた田んぼを一周すると、今にも崩れ落ちそうな一階建ての廃屋が一軒建っていた。ここ一帯の田んぼの持ち主だった人が住んでいたのだろうか。木製の壁は所々剥がれ落ち、色の焼けたトタンは大きな穴を開けて、屋根の端に斜めにぶら下がっている。煤けた窓ガラスは、ひびこそ入っていないものの、窓枠が歪んでいるのか閉まりきらずに傾いている。
一松は怖々近づいて、窓の隙間から中を覗いた。西日になっているはずの太陽は急速に広がりはじめた黒雲に覆われ、屋内の様子はほとんど見えない。辛うじて、手前の方にカップ麺やお菓子の空き袋の転がっているのが見えるだけだ。一松は少しがっかりして離れようとした。その時。
――ピシャンッ!
鳴ると同時に白く光った。一松は驚いて肩を揺らした。まっすぐに落ちてきたような雷だった。間もなく、ポタ、ポタ、と大粒の水滴が空から降ってきて、ザァ、という音が聞こえたかと思うと、もう滝のような雨になっていた。
一松は慌てて廃屋の玄関に回り込み、立てつけの悪い戸をこじ開けて、何を考える暇もなく中に飛び込んだ。間一髪、跳ね返る水しぶきが瞬く間に地面を濡らしていく。一松はほっと息を吐いて、今度はゆっくりと引き戸を閉めた。
「……お邪魔します」
無人だとわかりつつ、一応小さく断りを入れる。廃屋とは言えこれは立派な住居不法侵入だが、雨宿りさせてもらうだけ、と心の中で言い訳をする。
扉を閉めると途端に、埃と黴と、何かが腐ったようなむっとしたにおいが一松を包み込んだ。湿度が高く、どこもかしこも湿ってペタペタしていた。手探りで明かりのスイッチを探したが、当然電気は通っておらず、一松は仕方なく薄闇に目を凝らした。少しずつ目が慣れてくると、ちりちりとした薄闇のフィルターを通して、動き回れるほどには中の様子が見えてくる。
一松は少し迷ったが、薄汚れた床に裸足で上がる気にもなれず、土足のまま上り框に足を乗せた。板張りの廊下は腐っている箇所もあり、時折ミシッと嫌な音を立てて深く沈みこんだ。一松は慎重に足元を見ながら、奥へと歩を進めた。
短い廊下の右手は、一応水洗らしいトイレと風呂、左手は物置だった。廊下の先は台所で、小さな椅子とテーブルが一組あるだけのリビングと一続きになっている。
この家の家主は、一体どうしたのだろうか。高齢になり、農業を続けられなくなったのか。独り身のまま、誰にも気づかれることなくこの家を去ったのか。それとも、孤独なままこの家で死んだのか。家の中は、意外にも生活の跡が色濃く残っていた。台所の流しには、黴さえも乾いてしまった皿が何枚も積み上がったままになっており、そこかしこにビールの空き缶や焼酎の瓶が転がっていた。
時折、天井裏を走り抜ける小さく忙しない足音がしたり、部屋の隅の闇の吹き溜まりで何かが蠢くのが見えたりした。虫や、ねずみの類だろうか。ここは無人ではあるが、暗闇の中には濃密な生き物の気配が漂っていた。
台所の奥には寝室らしき畳の部屋があり、この家はそれですべてらしかった。一松は、ささくれだった畳が抜けてしまわないよう細心の注意を払いながら、最後の一間に足を踏み入れた。
イグサの腐ったようなにおいがつんと鼻を突いたが、それほど不快には感じなかった。柔らかい畳は外界の音を吸収するのか、外の激しい雨や雷の音が幾分和らいだような気がする。
しばらくここにいようか。一松はそう思って、この部屋で落ち着けそうな場所を求めてぐるりと見渡した。部屋の隅に、布団が敷かれている。一松はゆっくりとその布団に近づいた。元の色が何色かもわからないほど垢じみて汚れており、端は破れて薄べったい綿が覗いている。
掛け布団の真ん中は、奇妙に膨れていた。中に誰か――何かいる。
一松は布団の側に跪き、しばらくその膨らみを眺めて思案した。開けるな、という警告と、開けてみるべきだという強い天啓のようなものが交互に脳内に鳴り響いていた。開けるな、という警告は、恐怖心から出ているものだと一松にはわかっていた。多分、自分は今この布団の下にいるものを見るべきなのだ。
一松は、震える手を伸ばして布団の端を握った。そして、勇気を出して、一息に剥ぎ取った。
ピシャン、と叩きつけるような雷が鳴った。稲妻が部屋の闇を薙ぎ払い、その瞬間、くっきりとした白黒の世界が浮かび上がった。布団の中のものが、稲妻を反射して白く光った。そこに横たわるのは一体の白骨死体――
「ひ……っ」
一松は腰を抜かして尻もちをついた。這うようにして後ろにずり下がるが、手も足もがくがくと震えてうまく動かない。一松は動けないまま、自分の心臓のドッドッという音を聞いていた。心臓の音に、分厚い雨の音が被さる。部屋は再び闇を取り戻していたが、むき出しになった骨はますますその白さを増し、ぼうと発光して見えた。
一松は心臓が収まるのを待ちながら、ぼんやりとその白を見ていた。恐怖心は不思議と薄れてきて、その骨がとても懐かしく、大切なもののような気持ちにさえなってきていた。
一松はゆっくりと白骨死体に近づき、顔を寄せた。小さな体だった。幾分背を丸めるようにして、布団の中に行儀よく収まっている。落ちくぼんだ眼窩は、自己の内面と向き合い、深い思索に耽っているようにも見えた。微かな腐臭は気にならなかった。一松はそっと手を伸ばして骨に触れてみた。さらさらとして、少し温かかった。
警察に届けなきゃな、と思ったが、まだまだ雨は激しく降り続いているし、一松はもうしばらくこのままでいることにした。緩んだ壁の隙間から、湿ったにおいと冷気が吹き込んできた。雷は少し遠くなったようだ。
一松は、白骨死体と共に布団にくるまった。心が、不思議な安堵感で満たされていく。それは、根拠はないが絶対的なものだ。この気持ちは、以前にも何度か感じたことがある、と一松は思った。幼い頃の記憶だ。それは、一松がずっと見てきた彼の背中に結びついた。喧嘩っぱやくて、何をするにも兄弟たちの中でいつも真っ先に飛び出していった二番目の兄。けれど、引っ込み思案の一松に、一番に気づいてくれるのも彼だった。気づいたら隣にいて、決して一松を一人で取り残すようなことはしなかった。一松がどんなに駄目で出来そこないな人間だって、カラ松は絶対に見放さないで側にいてくれる。そういう、根拠はないが絶対的な安心感。
――ああ、そうか。この骨はカラ松なんだ。
一松は布団の中で、白骨死体に頬を寄せた。微かな腐臭と湿気と黴のにおい。やがて訪れた強い眠気が、一松のまぶたを重くする。深い水底に沈んでいくように、外界のあらゆる物音は遠ざかり、圧倒的な闇が訪れる。闇の中は、恐ろしくも温かく、涙が出そうなほど優しかった。
「カラ松兄さん――」
一松は小さく彼の名前を呼び、ゆっくりと深いところへ沈んでいった。
■
「……!……ちまつ……!」
何かが、一松の意識を引っ掻いている。一松はまぶたを閉じたまま、意識だけぼんやりと立ち上げた。暗い水の底にいたはずだが、まぶたの裏は明るくて眩しい。
「一松!」
耳に詰まっていた水が抜けたように、急に音がクリアになった。一松はぱちりと目を開けた。目の前には必死な顔をしたカラ松がいて、一松と視線が合うと、少し呆けたような顔になり、やがて泣きそうな顔で微笑んだ。
「よかった、一松」
一松はまだ鈍い頭のまま辺りを見回した。剥がれかけた板壁の隙間から明るい朝の光が差し込んで、崩れかけた家の中を柔らかく照らしている。ぼろぼろの布団は光の中で見るとより一層みすぼらしく、そしてそこにくるまって座っているのは一松だけだった。骨は、どこに行ったのだろう。一松はそう思ったが、妙に納得したような気持ちもあった。
一松は、もう一度まじまじとカラ松の顔を見た。彼は影と違って、まっすぐに一松の目を見返した。
「……本物」
一松がつぶやくと、カラ松は「寝ぼけているのか?」と言って笑った。
「夕べは帰ってこないから、みんな心配していたぞ。まあ、雨が酷かったから、どこかで雨宿りをして帰れなくなっているんじゃないかと思っていたんだが」
「よく、ここがわかったね」
家からはだいぶ離れているし、日頃よく訪れるような場所でもない。カラ松はにこにことしていた。
「不思議なことがあってな」
早朝、雨が止んだので一松を探しに行こうと家を出たところ、カラ松は一松によく似た人の影を見たというのだ。
「一松が帰ってきたんだと思って大声でお前の名前を呼んだんだが、ちっとも振り向きやしないで、家とはまるで逆の方に歩いていく。俺は走って追いかけたが、特に急ぐ様子のないお前にどうしても追いつけない。近づいたら逃げる陽炎みたいにな。この間、トッティーたちと『ドッペルゲンガー』の話してたろ? だから、すぐにそれかな、と思い至ったんだが、俺はとことんまでその一松の影をつけてみることにした。なんとなく、お前の影が俺をどこかに連れていこうとしていると感じたんだ。そこには明確な意思があった。俺たちは無言で歩き続け、そして気づいたらお前の影はいなくなっていて、俺はこの場所にいた」
カラ松は一松の頭を撫でた。
「ここに着いた時は驚いたよ。随分懐かしい場所だ。覚えていないか? 昔、この辺りでかくれんぼをして遊んだことがあっただろう」
ああ、そうか。と一松は思い出した。どうして忘れていたんだろう。皆がまだ、小学生だった頃のことだ。いつもより少し遠出をして、六人で連れ立ってこの場所にやってきた。あの頃田んぼは廃棄されてまだ間もない様子で、乾いた泥の中に、ぽつぽつと疎らに雑草が生えていた。田んぼの中に足を踏み入れてもいいのだとわかり、一松たちははしゃいで、高い畔の向こうにしゃがみこんだり、雑草の深いところを探して潜り込んだりしてかくれんぼに興じた。
最後に鬼になったのは一松で、次々と兄弟たちを発見したが、カラ松だけどうしても見つけることができなかった。その時、この廃屋に気づいていたのかどうかはよく覚えていない。夕闇も迫る中、五人で名前を呼びながら探したが、そのうち雨が降ってきて、おそ松が「案外もう家に帰っちまってるかもよ」と言うので、そのまま引き返してしまった。結局、カラ松は家にもいなかったが、やがてずぶ濡れになって帰ってきた。どこに隠れていたのかは教えてくれず、カラ松は平気な様子だったので、それきり誰も気にすることもなかったのだが。
「あの時俺は、実はずっとここに潜んでいたんだ。すでに誰も住んでいない廃屋になっていたが、お前たちは、俺が人の家の中に隠れているなんて思いもしなかったのかもしれない。俺は、この布団の中に潜んでお前がやってくるのを待っていた。この中はとても静かで、外の物音は聞こえず、どれくらいの時間が経ったのかもよくわからなかった。けど、あんまり誰も見つけにきてくれないから少し不安になって出てきてみたら、外は大雨になっていて、もうみんないなくなってしまっていた。ショックだったし、怖かった。こんな所に一人でいるのも嫌だったから、俺は雨の中べそをかきながら帰った。けど、みんなには置き去りにされてショックだったと言うのが何となく悔しくて、平気なふりをしていたんだ。みんなが見つけられないような場所に隠れた自分はすごいんだと、そう思おうとした」
『カラ松、すごいや! どこに隠れていたの? 僕、全然見つけられなかったよ!』
一松の脳裏に、幼い頃の自分の姿がふと思い出された。
『俺のとっておきの場所だ。お前になら、今度教えてやってもいいぜ、一松』
「結局、ここに来たのはあの一回きりだったがなぁ」
カラ松もその時のことを思い出しているのか、昔を懐かしむ遠い視線になった。
「なんでかな。俺はその時からずっと、ここに隠れていたような気がするよ」
そして、一松に向かって柔らかく笑った。
「一松が見つけてくれたんだな」
一松は、じっとカラ松の目を見返した。一松も、あの日からずっとカラ松のことを探していたような気がする。
「……見ぃつけた」
一松は右手を差し出した。カラ松は、その手を力強く握った。
「帰ろう。一緒に」
一松は、立ち上がる前に左手でそっと布団に触れてみた。白骨死体の寝ていたところには、まだ微かなぬくもりが残っていた。
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