モーニング・コール

 何かに意識を妨げられて、新開はうーんと唸って強く目を閉じた。瞼の向こうはうっすらと明るくて、もうすっかり日の高くなっていることが知れた。プールの底から水面を見上げているようなゆらゆらとした心地よさに身を任せ、新開は再び夢の中に戻ろうとした。今日は珍しく部活が休みで、昼頃まで惰眠を貪ろうと決めていたのだ。だから夜中まで存分に東堂と抱き合っていたというのに。
「~♪ ~~♪」
(なんだよ、うるさいな)
 新開の眠りを邪魔しているのは、チャラチャラとした電子音だった。
(電話……? 尽八の携帯か……こんな朝っぱらから)
 夢の世界に戻るにはうるさすぎてしぶしぶ目を開けると、白い枕に艶やかな黒髪が散らばっているのが見えた。こんな風にして寝ても寝癖がつかないのは羨ましい限りだ。新開の髪は、寝る時の姿勢に気を付けていないとすぐに頑固な寝癖がついてしまう。
 東堂はよく眠っていた。いつもは少しきついぐらいにつり上がった眉も目も、今は穏やかなラインを描いている。目元が少し赤いのは、昨夜無理をさせすぎたせいかもしれない。
「ん……」
 形のよい眉がわずかに顰められ、慌てて新開はベッドから手を伸ばして、手探りで音の原因を掴んだ。
(尽八が起きちまう)
寝ぼけ頭で、何も考えずに通話ボタンを押す。
「もしも……」
「出んのおっせぇよてめ、東堂! まァだ寝てんのォ?」
噛みつくような声には聞き覚えがありすぎて、新開の意識は一気に水の上まで引き上げられた。
(や、靖友?!)
 反射的に声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。これは東堂の携帯だ。
「ったく、いつもはジジイみてぇに朝早いくせによォ。……あー、あのヨ、お前、今日誕生日なんだろ。まあ、なんだ。イチオ、いつも世話になってんしィ? 祝いの言葉くらい言っておこうかと思って」
 バッと東堂の方を見ると、彼はまた穏やかな表情に戻ってすぴすぴとのんきに寝息を立てている。
(かわいいな……じゃなくって!)
 新開は急いで二人の腰におざなりに掛かっていたタオルケットを引っ張り、裸の東堂を頭の上からすっぽりと覆い隠した。
(って、別に見えてるわけじゃねぇから意味ねーし!)
 電話の向こうで相当テンパっている新開のことなどつゆ知らず、荒北は何やらぼそぼそと話し続けている。
「おめぇ、いっつも本体は口かってぐれぇうっせーしウゼぇけど、お前のバイクに対する真面目なトコとかはちゃんと尊敬してっしィ、あとなんだかんだ俺のこと受け入れてアドバイスくれたり、周りと馴染めるように動いてくれたりすんのは感謝……してなくもねぇ。まあ正直、ヨケーなお世話だと思わなくもねぇけど。つーか……チッ、あのーあれだ、とにかく、誕生日オメデトネ」
 電話越しの荒北の声はいつもより低く、ぶっきら棒だが心に響いて聞こえた。照れ臭そうにそっぽを向いて話す荒北の姿が目に浮かんで、新開は感動を覚えた。
(靖友……)
 出会ったばかりの一年生のあの頃は、荒北が東堂にこんな言葉を掛けるようになるなんて想像だにしていなかった。二人はのっけから性格が合わず、顔を見る度に喧嘩ばかりしていたのだ。もっとも、そんなのは最初のうちだけで、二人のやり取りは段々と仲の悪い「フリ」になっていたのを新開は知っている。それでも、あの素直でない荒北が、こうして率直に東堂に感謝の気持ちを伝えるようになる日が来るなど、胸も熱くなるというものだ。
「今年のインハイはあんな風に終わっちまって……ま、いろいろ思うところもあるけどォ、俺ァお前らと走れてよかったって思ってんだぜ、これでも。受験あんし、今までみてぇに朝から晩まで一緒に走るってこたなくなるだろうけどヨ、まあ……なんだ、最後までよろしくネ、東堂チャァン。……って、東堂? おめ、今日やけにおとなしくね? おい、まさか寝てんじゃねーダロな。おーい、東堂ォ、起きてっかァ」
(ま、マズイ)
 うっかり聞き入ってしまっていた新開は、慌てて寝ているふりを決め込もうとしたが、察しのいい荒北は、新開が息を飲んだ気配に気付いたようだった。
「寝てる……わけじゃねェみてーだな。え、もしかして……てめっ、東堂じゃねーな?! ハァ?! っざけんな! 早く言えよバァカちゃんがよォ! つか誰だよ、え、俺番号間違えた?」
「あ、い、いや……」
 荒北の剣幕に押されて、思わず声を漏らしてしまう。
「……え?」
「あ」
「……え?」
「……」
「……」
 沈黙が耳に痛い。新開はなぜかベッドに正座して、東堂の携帯をぎゅっと握り締めた。ダラダラと変な汗が流れる。
「え、おめ、もしかして新開?」
「……お、おはよう靖友」
「ちょ、てめ、なんでてめぇが東堂の電話に出んだヨ! つか! 聞きやがったな?! ふっざけんな、忘れろ! 今すぐ忘れろ!」
 耳元で喚かれて、新開は受話器を耳から遠ざけた。
「ちょ、靖友、静かに! 頼むからもうちょっと静かに! 尽八が起きちまう」
「ハァ?! んなこと知るか! って、なァんで寝てる東堂の電話におめぇが出ンだよっ! 紛らわしいことすんじゃねーヨ!」
「しーっ、しーっ!」
「わ、悪ぃ」
 新開に言われて慌てて声のボリュームを落とす辺り、荒北も相当動揺している。
「と、とにかく新開、この電話のことは絶対東堂に言うんじゃねーぞ」
「え、なんでだよ、せっかく掛けてきたのに。尽八が起きたら伝えて……」
「バッカ! もういンだよ! 気の迷いだしィ! いいか絶対言うなよ。そんでおめぇも忘れろ。いいな。言ったら絶交だかんな!」
 小学生みたいなことを言って、荒北は一方的に通話を切ってしまった。
(やれやれ)
 動揺していたお陰か、あまり荒北に深く突っ込まれずにすんで新開は胸を撫で下ろした。
(あいつ、わざわざ朝っぱらから電話してきたくせに、尽八に言わなくていいってどんだけ意気地なしだよ。せっかく勇気出したんだろうに、もったいねぇ)
 隣のタオルケットの山がもそもそと動いた。出口が見つからずにもがいているらしい姿にふっと笑いを零し、タオルケットを捲るのを手伝ってやる。
「ぶはっ! 暑い!」
「おはよう、尽八」
「む、おお、おはよう隼人。……なんで俺はタオルケットを頭から被っていたんだ? 暑いのに」
 基本的に寝起きのいい東堂だが、今日はまだ寝ぼけたような表情で、ぼんやりとくしゃくしゃのタオルケットを眺めている。普段は誰もが振り向く凛とした声が、昨日の余韻を引きずったように掠れていてセクシーだ。
(この声は、みんなには聞かせらんねーな。俺だけにしといてくれよ)
 眠気の残滓を払うように頭を振ると、カチューシャをしていない黒髪は、やはり寝癖の一つもつかずにさらさらと東堂の頬に落ちた。それをすくって軽く指に巻きつけると、ふふっと笑って猫のように頬を摺り寄せてくる。
「そう言えば、夢うつつになんとなく聞こえていたのだが、お前さっき誰かと電話していたのか?」
「ああ、やす……」
 言い掛けた言葉を不自然に止めると、東堂が首を傾げた。
「隼人?」
「いや……今日さ、部活休みだけど、昼からバイク乗りに行かないか。天気もいいし、のんびりサイクリングしようぜ。靖友や寿一も誘ってさ」
 おめさんの体が大丈夫なら、だけど。
 そう言ってさらっと腰を撫でてやると、東堂はたちまち真っ赤になった。
「へ、平気だよ! まあその、昨夜はいっぱいしたけど、隼人はいつも優しいから……と、とととにかく平気だから!」
 あまりのかわいさに、一瞬頭が沸騰しかけた。このままベッドに押し倒したくなったが、そこはぐっと堪える。
「じゃあ、行く?」
「もちろんだ!」
 目を輝かせて答える東堂に、新開は満足げに笑った。
「よし、決まりだ。二人を誘わないとな」
 荒北の言葉をそのまま東堂に伝えてやってもいいが、ああいうのはやはり本人の口から直接言わせないと駄目なのだ。福富の前でなら、けしかければ嫌々ながらも「おめでとう」ぐらいは言うに違いない。
 本当は、今日一日二人でのんびりと過ごすつもりだったが潔く諦めた。みんなで自転車を並べて走るのが、東堂にとって何よりのプレゼントになるのだから。
 だがそれまで、もうしばらくの間は東堂を独り占めしていたい。剥き出しの肩を抱き寄せて、薄い唇にキスをする。
「尽八、誕生日おめでとう」
 満面の笑みが返ってきて、新開はそれでもう満足だ。


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