リ・スタート
なんてことのない情景に、ふと郷愁を誘われることがある。例えば湿った土の匂いだとか、公園のブランコの軋む音だとか、夕焼け空をカラスが横切っていく影だとか、遠くの工場で鉄を削っている音だとか、そういう日常に馴染んだ他愛のない物事が、ふとした瞬間に立ちのぼり、心をくすぐり、奥底に眠っていた記憶を揺り起こす。
東堂にとって、今日は特にそういう日のようだった。それは、久しぶりの箱根の空気のせいかもしれないし、初秋というこの季節のせいかもしれなかった。
東堂は、すん、と鼻を鳴らした。山から吹き下ろす冷たい風が鼻の粘膜を潜り抜けてつんとさせた。たまに箱根に帰ってくると、冬の訪れの早さにびっくりする。去年も一昨年も同じことを思ってびっくりしたはずなのに、東堂の体の中にあった箱根の空気は、箱根を離れて過ごした十数年のうちにすっかり入れ替わってしまったみたいだった。
東堂は、右手に野菜や果物の詰まったレジ袋、左手に詰め替え用の洗剤やラップなどの日用消耗品の詰まったレジ袋を提げて、小田原の大型スーパーを出た。実家に帰るなりこうして野暮用を押しつけられるのはいつものことで、東堂も別に面倒と思ったことはない。納屋からスーパー買い物号を引っ張り出してきて、町の変化を確認しながらゆっくりと山を下りてくる。
馴染みの八百屋の奥さんも、その隣の肉屋の親父さんも、母親の行きつけのブティックの女主人も、松の木の立派な家に住む近所の老夫婦も、みんな東堂を見る度に懐かしがり、大きくなったとか、立派になったとか、東堂の気づかない変化ばかりを口にする。東堂は当たり障りのない返事をしながらも、彼らが記憶の中の彼らよりも一段と老けて見えることに、静かな驚きとショックを覚える。何もかもが、どこかへ向かって進んでいる。町も人も物も記憶も、永遠に変わらずに留まっていることはできない。
自転車の前かごと後ろのかごに重たい買い物袋を積むと、ハンドルが動いてぐらりと傾いた。慌てて体で自転車を支えて、その重さに苦笑いする。日頃乗り慣れている軽さを追求した自転車とは真逆の乗り物だ。実家に帰ってこの自転車を引き出してくる度、そういや自転車とはこういうものだよなと思い出す。
台形の頑丈なスタンドをガチャンと起こして、東堂はその実用的な自転車に跨った。サドルが低いが、日頃は旅館の従業員が乗るものなのでそのままにしておく。ペダルを踏む足の裏に、鉄製の車体と、前かごと後ろかごに積んだ荷物、そして自分の体の重みが集中する。だが、最初の一足、二足を漕ぎだしてしまえば、あとはいつもの自転車と同じだ。鉄製の車体も大根も人参も洗剤も、すべて自分の体重と混ざり合って一つになる。その重さをどのようにバランスよく自転車に乗せて運ぶかを考えれば、東堂にとってこの自転車の一番いい走りを引き出すのはそう難しいことではない。
錆びついたハンドルにちらりと視線を落とす。前かごは歪に曲がっているし、チェーンだってガタガタだ。相変わらず、何の手入れもされず納屋の片隅に置きっぱなしになっているスーパー買い物号。中学生までたまに乗っていたが、その時だって十分に古かったのだ。まだ現役で働いていることに驚きを感じる。さすがにすり減ったタイヤは二度交換し、サドルも新しくした。チェーンは、見かねた東堂が帰る度に調整している。それでもこの重たいフレーム本体は、どこが曲がるでもひびが入るでもなく、たまの買い出しにこうして付き合ってくれている。昔の自転車は部品まですべて国産だから頑丈にできているんだ、お前のその細っこい自転車と違ってな。一昨年亡くなった祖父の言葉がよみがえって、東堂はふと口元を緩めた。ああ、確かに頑丈だよ、じいちゃん。天国で得意そうに胸を張る祖父の姿が目に浮かぶようだった。
スーパー買い物号は、よく均された舗装道路を軽快に走った。山の麓にある大型スーパーから東堂庵まで、ロードバイクなら十五分少々だが、荷物をいっぱいに積んだスーパー買い物号ならその倍近くは掛かる。急ぐ道行きでもなく、東堂は久しぶりの地元の町を楽しむように、ゆっくりと自転車を漕いだ。
レースなどで集中して走っている時でなければ、視野の広がる自転車の上は漠然とした考え事に向いている場所だ。よく晴れていた昼間のぬくもりを残した空気を、一筋の冷たい風がすり抜けていく。散り始めた木々の葉の匂いを微かに感じ、東堂の心は高校三年生だった頃に戻っていく。
放課後の教室、丸い窓、暮れゆく校庭、肌寒さを増した風がカーテンを膨らませる。その向こうに見え隠れする彼の薄い背中――。
微かな胸の痛みと共にあの時のことを一番よく思い出すのは、十二年前、高校三年生の秋、東堂が恋をしていたからか。
大型スーパーから駅の方に向かって少し走ると、近くの公立高校の通学路に行き当たる。ちょうど学校は授業が終わったところで、帰宅部らしい学生たちが、友人と肩を並べて同じような歩調でだらだらと歩いている。何人かの女子高生の視線を感じたので、流し目に微かな笑みを乗せてやると、通り過ぎた後ろから小さく黄色い悲鳴が聞こえてきて、東堂は(俺もまだまだ捨てたもんじゃねーなぁ)と思う。この間過ぎた夏で東堂は三十になったわけだが、自分の美貌が衰えたとは感じない。確かに若い頃のような肌の張りと輝きはなくなってきたが、東堂は今の自分の顔も気に入っていた。悪くない、と思う。歳を重ねていくことは、昔考えていたよりもずっと自然なことだった。
もっとも、かつて自分の心の中で燃えていた熱い炎のような感情は、青春と呼ばれる時を過ぎて十年余り経つうちに、いつの間にか鎮火してしまった。十二年前、高校最後のインターハイで駆け抜けた道をスーパー買い物号でゆっくりとなぞりながら、あの時の太陽の眩しさや陽炎の立ちのぼるアスファルトの熱気を、今と隔たった世界の出来事のように思い出す。現在の自分に何の不満もないが、やはり生涯で一番輝いていたのは、間違いなくあの高校三年の東堂尽八だったと思う。
インターハイの興奮と燃え滾る熱い気持ちは今の東堂からは遠いものになりすぎて、ただ懐かしくて輝かしい思い出として、心の中に仕舞いこまれている。集団で走る車輪の音、沿道の大歓声、ライバルの下手くそな笑み、落ち着いた福富の声、そして――
あの日、自分の前を走っていた彼の背中に記憶が行き着いた時、東堂の胸はじわりと収縮した。青春の記憶は今や過去のよき出来事でしかないのに、彼のことを思い出すと、それはすぐさま現在のリアルな痛みに変わる。引きずっているわけではないし、現在進行形の恋であるわけでもない。だが、一生で一番多感な時期に生まれて、どこへ行くこともなく押し殺してしまわなければならなかった恋心は、古びることも消えることも許されず、ずっと東堂の心の中で生き続けているようだった。
きっかけがなんだったかなんて忘れた。大方、授業中に後ろから眺めた猫背が優しかったとか、退屈そうに窓の外を見ている横顔が案外きれいだったとか、そんなささやかな理由だったのだろう。とにかく東堂は、高校三年の秋の入りに、どうしようもなく荒北に恋をした。教室でクラスの男子とくだらない話で盛り上がっているのを、バレないようにこっそりと眺めたこと。女子と話している姿に、目が離せないような、目を逸らせたいような気持ちになったこと、部活の休憩中にしゃがみこんでいたところ、近づいてくる足音でわかってドキドキして顔が上げられなくなったこと。そういう三ヶ月を過ごしてどうしようもなくなった頃、荒北に彼女ができて、東堂の恋はひっそりと終わった。誰の目にも触れることなく、言葉にされることもなく。
卒業式の日、「彼女とうまくやれよ」と笑って言えた。いつものように「余計なお世話だ」と悪態をつかれるかと思いきや、荒北ははにかんだように「おう」と言ったので、東堂の胸はまた痛んだ。
卒業した後も、荒北とは自転車競技部の同窓会やOB会で、年に一、二回は顔を合わせた。その時々に話を聞くと、荒北は高校の時の彼女とは大学三年生の春に別れ、その冬には新しい彼女ができたらしい。もっとも、ここのところどちらかが来ている時にはどちらかが来られずという状態が続いていて、おそらく最後に顔を合わせたのは三年前の年末が最後ではなかったか。東堂も高校を卒業してすぐ彼女を作り、それから今まで何人かの女性と付き合ったり別れたりを繰り返している。それらはもちろんすべて、東堂にとって真剣な恋だったが、今でも鮮やかに心に浮かぶのは、高校三年の秋の日の恋だった。
踏切がカンカンと音を立てはじめたので、東堂は自転車を止めた。夕暮れが空に滲みだして、東堂の影を後ろに長く伸ばしている。ふと、東堂は誰かの強い視線を感じて顔を上げた。踏切の向こうで、驚いた表情で東堂を見つめる男が一人。
「あ、荒……北?」
はっきりと認識する間もなく、ゴォッと音を立てて電車が視界を遮った。東堂は今見えたものが夢か現実か判断できないまま、電車の風圧に揺られながら立ちつくした。四両編成の短い車両が、二倍にも三倍にも長く感じられる。踏切の警報機がわんわんと鳴り響く。巨大な鉄の車輪が目の前を駆け抜けていく。ゴトンゴトン、ゴトンゴトン、ゴッ。音が一斉に止み、目隠しをぱっと外されたような唐突さで目の前が開けた。しずしずと上がった踏切の向こうに、驚いた顔のままの荒北がいる。しばらく線路の向こう側とこちら側とで向かい合って立っていたが、やがて荒北はふっと口を緩めて笑った。
「なんて間抜け面」
そしてゆっくりと踏切を渡ってやってくる。
「よーォ、偶然だな」
東堂は二、三度まばたきをして彼の顔を眺めた。夕焼けが真正面で、目を眇めるようにしなければならなかった。
「荒北」
「ンだよ」
彼はどうやら、懐かしい記憶の見せた幻ではないようだった。
「久しぶり、だな」
「おう」
「……何でここに?」
「ちょっと、仕事でな」
荒北は東堂の跨った自転車を見てくいっと片眉を上げた。
「動くのかよ、これ」
「あ、ああ。一応実家に帰った時は俺が整備して……というか、いや、驚いた」
ようやく少し平静を取り戻した東堂に、荒北は声を立てずに笑った。
「どんだけ驚いてんだよ。……買い出しか?」
ああ、と頷く東堂に、荒北はわずかばかりの逡巡を見せた。自転車のかごに積まれた買い物袋を見て、腕時計を見て、背後の踏切を振り返った。
「あー、なんだ、お前、すぐ戻らなきゃなんねーのか?」
「いや、別にそんなに急ぎの遣いではないが」
「んじゃ、さ、ちょっと茶ァでも飲む? ま、久しぶりだし、せっかくバッタリ会ったんだし、俺も一仕事終わって喉乾いてっしィ」
頬を掻きながら明後日の方向を向いて言う荒北に、東堂は知らず入っていた肩の力を抜いた。再び踏切の警報機が鳴りはじめる。東堂はゆっくりと自転車のハンドルを後ろに回した。
「いいよ。チーズケーキは好きか? お薦めの喫茶店があるんだ」
喫茶店の前に自転車を停めると、荒北はごく自然な動作で前かごの野菜や果物の詰まったスーパーの袋に手を伸ばした。「わ、悪い」と東堂が言うと、「後ろのは自分で持てよ」と顎をしゃくった。二人してパンパンのレジ袋を持って並んで歩いているとまるで恋人か新婚の夫婦のようだと思って、東堂は一人赤面した。そして、未だにそんなことで赤くなるなんて思ってもいなかったので、ひどく狼狽した。
奥まった窓際の席に案内され、洒落た丸テーブルに向かい合って座る。店内は空いていて、静かにヴァイオリンソナタが流れている。荒北は物珍しげに店内を見渡し、窓の外の景色を確認し、それから東堂の方を向いた。
「……元気そうだな」
「まあな。お前は?」
「俺もまぁ……ちっと仕事で疲れてっけどォ、まあまあ元気だぜ」
「仕事でこっち来てるって、お前職場横浜じゃなかったか?」
「ああ。小田原の金属加工会社に、うちで今度導入を検討しているシステムを先駆的に使っているところがあってヨ。モデルケースとして調査してこいっつう社長直々のお達しがあったんだ。ホントは上司と二人で来る予定だったんだけど、得意先から急な呼び出しがあって、結局俺一人で来る羽目になっちまった」
ったァく、報告書一人で上げなきゃなんねぇ、マジ勘弁してほしいわ、とぼやく荒北は、それでも楽しそうに見えた。彼は今、マテリアル加工の会社で技術開発の研究をしていて、言葉の端々から察するに、それなりにやりがいを持ち、なかなかの有能さで上司にかわいがられているようだ。
やがて、二人の前にホットコーヒーと、荒北の前にはここの名物のチーズケーキが並べられた。
「人に勧めておいて、自分はケーキ食わねぇのかよ」
「ああ、この歳になると、摂生しないとすぐに数値に表れる」
「オメー別に太ってねーじゃん」
「努力して維持してるんだよ」
「ふーん」と、荒北はじろじろと東堂を無遠慮に眺め回し、「ま、俺は腹減ったから食うけどな」とチーズケーキをフォークで大きく切り取ってかぶりついた。
「うん、うまい」
東堂はコーヒーにミルクを垂らしてかき混ぜた。顔が映るほど黒い濃いめのコーヒーに、白いミルクが渦を描きながら溶け込んでいく。香ばしい香りが、湯気と共にふわりと東堂の鼻をくすぐった。
わずかに開いた喫茶店の窓から、ひんやりとした秋の風が吹き込んでくる。日が落ちてぐんと気温が下がったが、小春日和だった昼間の太陽をたっぷりと含んだ空気は、まだどこか暖かい匂いが残っている。
東堂は深く息を吸いこんだ。そう、あれは二人がまだ同級生だった最後の春。バイクで走る黒いジャンバーの背中、太陽と、荒北の匂い、そしてコーヒー。匂いはいつだって、人を一瞬で過去に連れ去っていく。
「どっち?」
春になりかけのまだ肌寒い山の上、目の前にホットの缶コーヒーが二つ差し出された。東堂は受け取っていいものか少し逡巡して、結局微糖のミルクコーヒーをもらった。荒北は残ったブラック無糖の缶コーヒーでしばらく手を温めて、それからプルタブを上げてちびりと舐めるように飲んだ。ブラックを飲めない東堂は、憧憬にも羨望にも似た気持ちでそれを眺めた。コーヒーとミルクの混ざった甘い香りがする。猫舌の荒北は顔をしかめて言った。
「熱ぃ」
十二年前の荒北の声が目の前の男の声と重なって、東堂はふと現実に帰る。荒北はしかめ面で、ふうふうとコーヒーを吹いて冷ましている。
「相変わらずの猫舌だな」
東堂が言うと、荒北はちらりと目を上げて東堂を見、「オメーはよくそんな熱いもん飲めるよな。じじいか」と悪態をついた。あの時と同じやり取りだ。荒北は、あの日のことを覚えているのだろうか。きっと、忘れてしまっているに違いない。
「……いつぶりだ? 最後に会ったのは、三年前の忘年会じゃなかったか」
東堂の言葉に、荒北がコーヒーカップに伏せていた顔を上げる。
「アー……もうそんななるっけ? その頃俺忙しかったからな。去年はお前が来てなかったダロ」
「ああ。去年は一年間、ベルギーのフランドルに行っていたからな」
「らしいな。新開から聞いた」
「美しいところだよ。川があり、町があり、緩急様々な坂がたくさんある。ビールもうまい。そして何より、皆自転車が好きだ」
荒北はふっと口元を緩めて笑った。
「相変わらずの自転車バカだな」
バカとはなんだ、とむくれて見せながら、東堂は新鮮な気分で荒北を見ていた。かつての、歯茎をむき出して露悪的に笑う荒北ではない。彼は随分穏やかに笑うようになっていた。それもそうだ。あれから十年余りが過ぎた。いつまでも尖ったふりをしているのは疲れるし、目じりに寄りはじめたしわが、否が応でも表情を優しくする。
ヴァイオリンのソナタをバックに、二人はぽつりぽつりと話をした。今のこと、昔のこと、自転車のこと、恋人のこと。
「お前、彼女とはどうなったんだ。ほら、大学生になってから付き合いだした子、いたじゃないか。三年前まではまだ一緒だったよな」
「あー、あの子な」
荒北は歯切れ悪く答えた。
「別れた。去年の夏、だったかな」
「去年って……最近じゃないか。と言うか、そんな長く付き合っていてどうして」
「……さあなァ」
結婚考えていたんじゃなかったのかとか、どっちから別れを切り出したんだとか、聞きたいことがいくつかのど元まで出かかったが、結局東堂はそれを飲み込んだ。顔を伏せてコーヒーの渦を見つめる荒北の目には、未練も後悔も悲しみもなく、ただ優しさと懐かしさがあるだけで、きっと二人の間で納得して迎えた終わりだったのだろう。他人がわざわざ蒸し返す話ではない。
「そういうお前はどうなんだよ」
「俺か? 俺も、いないなぁ恋人。ここんとこ、そういう特定の相手を作っていない」
荒北はどうしてとは聞かなかった。ただ、しばらく黙って東堂の顔を見て、それから窓の外に視線を逸らして「あっそォ」と言った。
テーブルの上に、沈黙が落ちる。それは心地のよい重さで、二人をそれぞれの思索に耽らせた。BGMはラヴェルの弦楽四重奏に変わっている。
チェロの音にも似たエンジン音が、ブーンと鼓膜を震わせる。時折ブォンと低く唸り、また指数関数のグラフのようになだらかに音程を上げる。目の端を次々と景色が流れていく。ヘルメットから零れた髪が時折東堂の頬を叩き、バタバタという風の音が耳を掠めるが、荒北の背中に遮られた正面は静かだった。
「……!」
風の中で、荒北が何か叫んだ。
「なんだ!」
東堂が叫び返すと、荒北は「しっかり掴まっとけっつてんの!」と心持ち首を後ろに捻って怒鳴るようにそう言い、東堂の手を取って自分の腰に回させて、上からポンと確かめるように叩いた。
「登るぞ」
荒北は大きく車体を傾けて、山道の最初のカーブへと突っ込んでいった。東堂は両腕をしっかりと目の前の男の腰に巻きつけた。
繰り返されるターン、右目の端にちらっ、ちらっと映る景色が、少しずつ遠く小さくなっていく。何台かのロードバイクを追い抜いた。対向車はいない。まだ少しひんやりとした空気に、太陽とほこりの匂いが混ざっている。春の匂いだ。大きく傾く車体にも、いつもの倍は速いスピードにも、耳元で唸るエンジン音にも、不思議と恐怖は感じなかった。体の力を抜いて、彼の筋肉の動きを感じる。重心の移動、ハンドルを切る動き、エンジンを噴かす手首のグリップ。まるで彼と一体になったかのような、それともバイクと一体になったかのような不思議な感覚は、快感にも似た心地よさだった。東堂はヘルメットの頭を荒北の背に預けた。微かな汗の匂いがする。彼の背中は温かい。東堂は、腰に回した腕にそっと力を込めたのを、気づかれないようにと祈った。
山頂は静かだった。登りの練習をするロードバイクも、峠を越えていく車もなかった。ただ時折、チィチィチィと眼下の低木から小鳥の鳴き交わす声がするだけだ。二人は見晴らしのいい展望台にバイクを停めて、地べたに腰を下ろして暮れゆく街並みを見下ろしていた。少し肌寒くて東堂がぶるっと肩を震わせると、荒北は立ち上がって自販機に飲み物を買いにいった。
「どっち?」
戻ってきた荒北は、二つの缶コーヒーを差し出してぶっきら棒に尋ねた。彼が奢ってくれる気だとわかったので少し逡巡したが、結局ミルクの微糖を取って礼を言うと、荒北は黙って東堂の隣に腰を下ろし、残ったブラック無糖の缶コーヒーでしばらく手を温めて、それからプルタブを上げてちびりと舐めるように飲んだ。
「熱ぃ」
荒北は舌打ちしながら、目の前の夕焼けを見ている。東堂も、彼の横顔から視線を逸らして赤く染まりはじめた空の端を眺めた。
明日は卒業式で、卒業したら二人は高校の同級生でもクラスメイトでも同じ部活の仲間でも何でもなくなる。いよいよ明日卒業だなとか、改めて合格おめでとうだとか、退寮の準備はもう済んだのかとか、どうして今日、取りたての大型二輪免許で、先輩から借りたバイクに俺を乗せて山を登ろうなんて思ったのかとか、頭を渦巻いた言葉はしかしどれも声になることはなく、ミルクコーヒーと一緒に飲み込まれた。ミルク入りの微糖でも東堂には少し苦くて、荒北がブラックコーヒーを飲めるのが羨ましくもかっこよく思えた。それが悔しくて「猫舌なんだな」とだけ呟くと、荒北は横目でちらっと東堂を見、「オメーはよくそんな熱いもん飲めるよな。じじいか」と悪態をついた。
もっと他に言いたいことがあるような気がしたが、言い出せずにまたコーヒーを啜った。指先を温めていた缶コーヒーは、少し温くなっている。
東堂は温くなったコーヒーを飲み干した。もう砂糖がなくてもコーヒーは平気で飲める。
「俺、高三の時、お前のこと好きだったよ」
言葉は自然に零れた。
荒北は笑って言った。
「知ってたヨ」
東堂は、胸の奥につかえていた何かが、すっと溶けていくのを感じた。それはみずみずしいままどこにも行けずに閉じ込められていた高校三年の恋心だったかもしれないし、或いは、過去になりきれなかった青春の一部かもしれなかった。東堂は「そうか」と言って、そして二人顔を見合わせて、どちらからともなく照れ臭くなって笑った。とにかくこうして、東堂の高校三年生の長い恋は、ようやく終わったのだった。
小田原の駅まで、荒北を見送った。前かごと後ろかごにスーパーの買い物袋を詰め込んだ自転車を押して歩く東堂を見て、荒北は「奥さんみたい」と言った。そう言う荒北はスーツを着て革靴を履いてビジネスバッグを持って、旦那さんみたいだな、と言うと、彼は必要以上に照れて、昔のように歯をむき出して「よせよバカ」と言った。
外はすでに暗くなりはじめている。秋の夕は短い。
駅前の街灯の下で、荒北は「じゃあ」と手を上げた。
「ああ、また。……今年の忘年会で会えるかな」
荒北は「さァなー」と肩を竦めた。
「ま、仕事が忙しくなけりゃ顔出すわ。……んじゃな」
「ああ、気をつけて」
荒北はもう一度ひらりと手を振って背中を見せ、駅に向かって二、三歩歩きかけ、くるりとこちらを振り返った。そして、思い切ったような声で言う。
「あー、あのよ、東堂。今度、どっか行くか? 二人で」
東堂は荒北を見送った姿勢のまま、きょとんと目を瞠った。
「まあ、忙しいんならいいんだけどヨ」
「い、いや、行く! 行きたい!」
息せき切って答えた東堂に、荒北は目を細めてふっと笑いを漏らした。
「……どっか行きたいとこある?」
「どっかと言うか」
「ん?」
「バイクに、乗せてほしい。その、後ろに」
荒北は、「昔乗ったな」と懐かしそうに笑った。
荒北の乗った電車が行ってしまうまで、東堂はその場に立ちつくして見送った。心臓がドキドキして、数センチ浮き上がったような気分だった。(いい歳して)と東堂は思い、さらににやにやと口元を緩めた。
「よし、帰るか」
東堂は声に出してそう言うと、スーパー買い物号のハンドルを切り、ペダルを踏み込んだ。チリン。軽やかな音で、ベルが鳴った。
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