深夜特急
「金城ォ」
講義室の入口からちょいちょいと手招く荒北を見つけ、金城は首を傾げた。ついさっきまで一緒に部室で昼食を食べていたのに、何か言い忘れたことでもあったのか。
「どうした」と立ち上がってすぐ、荒北の手の中の物に気づいて頭を抱える。
「忘れもん」
「……すまない」
差し出した手を無視して、荒北は手に持った眼鏡ケースで金城の頭をパコパコと叩いた。
「ったく、毎回毎回、何かしら忘れねーと気が済まねーのか、ヨ!」
言葉と同時に眼鏡ケースを手のひらに叩きつけられ、金城は「痛い」と抗議した。
「うっせ黙れ。眼鏡忘れたのだって初めてじゃねぇだろ。他にもまあペンケースにノートに教科書にタオルに……おめーは立ってから後ろを振り返るクセをつけろマジでぇ!」
「ハハ……毎回毎回、面倒を掛けてすまない。ありがとう」
ハァ~と深く溜息を吐き、荒北は長い腕をくいと曲げて呆れたというようなジェスチャーをした。彼は意外とこういう仕草がよく似合う。
「金城ってさァ、自転車に関してはこれでもかってぐれぇきっちりしてんのに、自分自身のことになると案外うっかりしてンだよな。高校ん時はキャプテンでエースのお前しか知らなかったから、360度どこ叩いてもカッチカチの生真面目男かと思ってたわ。新しい発見だぜ」
「そしてオレも知らなかったんだが、荒北は案外面倒見がいい」
金城が言葉を返すと、荒北はハッと歯茎を剥き出しにして言った。
「っせ! 好きで面倒見てんじゃねーヨ! 感心する前にテメェがしっかりしろボケナス! 周りのヤツらがヌケサクばっかだからオレの気が抜けねんじゃねーか! 箱学時代もさァ」
福ちゃんは典型的な末っ子体質だし、新開はオレらの学年で一番マイペースだし、東堂は、まああの中じゃちったぁまともな方だったけどいかんせんうっせぇしウゼェし……。
ブツブツと文句を言っている割に、荒北の口元は少し綻んでいる。
「そうそう、傑作だったのは福ちゃんがヨ」
「荒北」
そのまま箱学時代の思い出話を始めようとした荒北の言葉を遮るように金城は言った。
「お前、次の授業はないのか? そろそろ三限目が始まるが」
「? ああ、先生来んね、ワリ。オレ次空きだし、ちょっとペダル回してからバイト行くわ。あ、お前、明日からの合宿、忘れもんすんじゃねェぞ!」
「自信がない。今晩電話してくれ」
「バァカ」
ひらひらと手を振る後ろ姿を見送って、金城は席に戻り、はぁっと溜息を吐いた。
(まただ。荒北が高校時代の……箱学の奴らの話をすると、どうにも気持ちがざわめく)
荒北は、かつての部活仲間の話をよくする。だいたいが彼らに対する文句であったり愚痴であったりするのだが、大仰に歪めた口はどこか楽しげな弧を描き、箱根学園自転車競技部が荒北にとってどれほど特別であったかを察するには十分だった。もちろん金城だって総北高校自転車競技部には並々ならぬ思い入れがあるので、荒北の気持ちはよくわかるし、文句を垂れながらも彼らのことが好きなのかと思うと微笑ましくさえある。それなのに最近は、荒北が箱学メンバーの名前を出す度に心のどこかが嫌がるのだ。
(オレはそんな狭量な男だったのか)
軽く自分に失望しつつ、原因は何となくわかっていた。
(不安……なんだ。荒北の中で昔の仲間の存在が大きければ大きいほど、オレは新しい仲間として荒北に受け入れてもらえるのかと。彼らと……特に福富と比べられているのではないのかと)
囚われすぎだ、女々しいぞ金城真護。そう自分を叱咤しても、授業の残り時間、金城は少しも集中することができなかった。
翌日から洋南大学自転車競技部は、二泊三日の合宿で、山梨県にあるサイクルスポーツセンターへ行くことになっていた。貸切バスで約三時間。
「大学でも合宿あんだな」
隣の座席に座った荒北は、妙なことに感心している。
「荒北、昨夜はありがとう。助かった」
金城が礼を言うと、「ったァく、最初から人に頼ろうとしてっから忘れんだよこのボケナス」と詰られた。昨日の夜、荒北は本当に電話してきてくれたのだ。
『ハンカチ持った?』
『忘れてた』
『充電器は?』
『ああ、そうだったな』
『六角レンチ』
『それは持っている』
『マジうっぜ!』
昨夜の会話を思い出して、金城はふっと笑った。
「なに笑ってンだよ、気持ちワリー」
荒北はイヤホンを耳に突っ込んで寝る体勢になっている。
「いや……何を聴いているんだ?」
尋ねると、黙ってイヤホンの片方を差し出された。右耳に差し込むと、よくわからない英語のロックが流れていた。ギターやらドラムスやらベースやらのガチャガチャという音をBGMに、バスは重たげに唸りながらいくつものカーブを曲がって山道を登っていく。荒北はいつの間にか、軽い寝息を立てて眠っていた。
合宿一日目はハードだったが、高校時代と比べるとそうでもなかったような気もする。疲労感の中に消費しきれないエネルギーが燻っていて、金城はなんとなく眠れずにいた。
仕方なく闇に慣れてきた目で天井の染みを数えていると、「眠れねぇの?」と隣から小さな声が聞こえた。ぐるりと首を回すと、荒北が自分の右腕を枕にしてじっと金城の方を見ていた。
いつから見られていたのだろう。荒北の目はいつものように不機嫌そうにキョロリとしていて、今起きたところという様子ではなかった。
「ああ、何でかな。荒北もか?」
「ん。バスで寝過ぎた」
音になるかならないかぐらいまで顰められた声はどうにも聞き慣れず、知らない人と話しているような感じがした。
会話をするのも憚られて黙ってしまったが、荒北はまだじっと金城の顔を見つめている。気まずくなって身じろぎをし、「あー」と訳もなく声を出す。「何でかな。高校の合宿の方がハードだったからかな。まだ走れそうな気がする」
荒北はまだ黙って金城を見ている。そして言った。
「行くか、走りに」
「え?」
聞き間違いかと目を丸くする金城を気にも留めず、荒北は無頓着に立ち上がってぐるぐると肩を回した。「行こうぜ」
秋風が冷たい。それでなくてもここは標高が高く、よく日の照っていた昼間でも、自転車を停めると汗が一瞬で冷えるほど涼しかったのだ。二人はジャージのジッパーをしっかり上まで上げて身震いした。コースには所々に弱い電灯がついているだけで、間近に連なる山並みが黒々とした壁のようにそびえて見えた。抜け出せない箱の中にいるみたいだ、と金城は思った。もっとも、今日は満月に近い大きな月が頭上に出ていて、二人の足元に影ができるほど明るく、走るのに支障はなさそうだった。
「ま、危なくない程度に流そうぜ」
荒北はさっさとヘルメットを被り、ビアンキに跨って行ってしまったので、金城も慌ててトレックを発進させた。
山の上のサイクリングコースは、すでに虫のシーズンも過ぎたのか静かだった。よく整備されたアスファルトを二人のタイヤが擦るジャッという音だけが響く。昼間散々同じコースを走ったはずなのに、辺りが暗いというだけで、初めて走る道のように思えた。
荒北は一言もしゃべらなかった。普段はおしゃべりとまではいかないにせよ、文句なり愚痴なり悪態なりなんだかんだと話し掛けてくるのが常なので、金城は少し落ち着かなかった。金城の方から何か話題を持ち掛けようとも思ったが、話題というものは探せば探すほど見つからないものだ。
ぎこちなく空咳などしてみたところで、荒北が「そーいや」と口を開いた。
「そーいや、箱学の合宿ん時も、オレ夜中に抜け出して走ったっけなぁ」
一人でくっくと笑う荒北は、口数こそ少ないが機嫌はむしろいいみたいだった。
金城はほっとして、荒北の隣に自転車を寄せた。
「そうなのか」
「ん。一年ん時はオレぁ合宿行ってねぇから、二年の話な。ほらオレ、福ちゃんに言われて一人で練習すること多かったんだけど、合宿ってったら朝から晩までみんなと一緒じゃん。なぁんか物足りなくってヨ、ホントは夜間練習禁止だったんだけど、こっそり起きて走りに行こうとしたわけ。したら福ちゃんが、『眠れないのか。オレも行く』つって」
金城はハッとした。それはつまり、荒北が今日金城に声を掛けてくれたのは。
「なんか、思い出しちまってヨ。お前が寝つけねぇでゴロゴロしてんの見たら」
フッと笑う荒北の顔は、箱学時代を思い出している顔だ。荒北は今、隣に並んで走っている金城を見ずに、遠く横浜にいるらしい福富のことを懐かしんでいる。
嫌だな、と金城は思った。
大学生になってから、荒北が何度も見せる表情だ。荒北はそういう時いつだって、大切な宝物を愛でるような眩しい目で、ここではないどこか遠い場所を見ている。
金城の胸に、もやもやと黒いものが湧き上がった。それは掴めそうで掴めない綿菓子のように、ぐるぐると腹の中で回転しながらあらゆる感情を巻き込み膨らんでいった。
「……ずいぶん福富を特別に思っているようだな」
思っていたより硬い声が出て、金城は自分でドキリとした。何を言い出すんだ、オレは。そう思ったが、溢れ出した言葉は止まらなかった。
「オレはこの先ずっと永遠に、箱学のお前の仲間たちに、福富に勝てないんだろうか。オレは、大学に来てお前がいて、お前と同じチームで走れると知った時とても嬉しかったんだが、お前は今でも、本当は福富と走りたいと思っているんじゃないだろうか」
荒北は黙ったままだった。しばらくジャッジャッとペダルを踏む音だけが響く。緩やかに続いた長い登りがもうすぐ終わる。金城はふっと力を抜いて肩を落とした。
「いや……すまない。何を言っているんだろうな、オレは。まるで拗ねているみたいだ」
荒北はハァ~ッと盛大な溜息を吐いた。
「ンとにな。自分でわかってんならいんだけどぉ! あーもうマジでオレのエースはめんどくせぇヤツばっかだな!! ……おい、もうすぐ坂が終わる。だらだら登ってきた坂を一気に下る急勾配、きついカーブを回ってぶっ飛ばしたら周回コースの入口だ。そこをゴールに見立てて、オレがお前を運んでぶち込んでやる。いいか、オレの列車は前向いてねぇと……振り落とされん、ゼ!」
言うが早いか、荒北は金城の返事も待たず一息に加速して前に出た。
「あ、荒北」
「っせ! ゴチャゴチャ考えてねーでついて来い!」
やむなく金城もペダルを踏み込み、荒北のバイクの後ろにピタリとつけた。途端に、鋭い風が切り裂くように金城の頬を掠める。耳の側でゴオゴオと唸る音がする。食らいついていかなければ、木の葉が舞うより簡単に飛び散ってしまいそうだ。だが、食らいついていきさえすれば、磁石のような吸引力でぐいぐいと前に引っ張られる。
(田所とも鳴子とも、今泉とも違う。こいつは前しか見ていない。後ろのことなんかこれっぽっちも見ていない。だがすごい! 扱いは困難だが、うまく乗りこなせたらこんなに走りやすい列車はない!)
視界の端で、電灯やコース指示の柱や木々の黒い影が飛ぶように背後に流れていく。それらに意識を囚われてしまえば、間違いなく振り落とされる。金城はひたすら前を見て、荒北の背中を見つめてペダルを回した。
肝が冷えるぐらいの勢いで坂を下り、そのままのスピードで急カーブに突入する。昼間散々走ってコースを覚えているとはいえ、自転車のライトと途切れがちな電灯の明かりでは、荒北の眼前は視界の利かない闇のはずだ。それでも彼のペダリングは緩むことも怯むこともなく、前のめりに突っ込んでいく。無謀とも思えるそのライディングはしかし、後ろにぴたりとついて走れば、最もゴールに近い道を本能で嗅ぎ分けているのだとわかった。練習ではすでに何度か一緒に走っていたが、今まで感じたことのないようなすさまじい気迫とスピードだった。こんな走りをする奴だったのか、と、金城は瞠目する。
体を掠めていく風に、余計な感情はどんどん吹き飛ばされていく。金城は楽しくなって、ハッハと笑った。
「お前はすごいな、荒北!」
風圧に負けないように腹の底から声を張り上げる。
「そうさせてくれたのは福ちゃんだよ!」
前方から荒北が怒鳴り返した。
「そうか、ならば福富もすごい奴だ!」
カーブを抜けると、眼前にまっすぐな道が開けた。周回コースの入口にはナイター用の大きな電灯があって、そこだけが遠くに明るく浮かび上がって見える。
ゴールだ。
思った瞬間、金城は飛び出していた。荒北が「金城ォ!」と叫んだのと同時だった。
立ち上がり、体全部を使ってペダルを踏む。エースアシストはよく発射台に例えられるが、今回のそれは荒北が拳銃で、自分は弾丸になったような気分だった。闇に浮かぶゴールを目指し、ひたすら一直線に進む。体の底から押し上がってきた尋常でないエネルギーは金城を昂らせ、その興奮のままに金城は吼えた。
「福富には負けん!!」
今まで感じたことのない新鮮な感情を爆発させ、金城は矢のようにゴールに飛び込んだ。
ゴールで待っていると、ややあって荒北がやってきた。
「はぁ~クッソ、疲れた! マジダリィ!」
自転車を降りると、そのまま倒れ込むように道路脇の芝生に寝転がる。金城も彼に倣って横になり、天を仰いだ。背中に当たる少し硬くて冷たい芝の感触が、火照った体に心地よかった。
隣から聞こえてくる荒北の荒い呼吸が落ち着くのを、金城は夜空を見上げながら待った。相変わらず月は明るいが、郊外の澄みきった空には数えきれないほどの星が見えた。金城は星座には疎いので、どの星と星を結べばいいのか見当もつかず、ただぼんやりとそれを眺めた。
「……なかなかいい走りだったじゃねーの」
低く落ち着いた声がしたので、金城は首を回して荒北の方を見た。顔のすぐ側から立ち上る乾いた土の匂いが、むせ返るほど強くなった。荒北は、汗こそまだ引かないようだったが、穏やかな表情になって空を見上げていた。
「荒北のお陰だ」
「ハッ」
荒北は顔を顰めて鼻を鳴らし、それから首を曲げて、金城の方を向いた。
「フン、ちったァマシな顔になってんじゃない。ったく、エースがしけたツラしてんじゃねーよ、テンション下がるからァ。……オレはな、金城。誰でも彼でも運んでやるようなお人好しの便利屋じゃねーんだ。エースをゴール際まで運んでぶっ放してやるのは好きだし、性に合ってると思うが、しょーもねぇヤツなら後ろに乗せねぇで振り落して、自分でゴール取ってやろうって気で走ってる。けどな、オレ、お前なら乗っけてやっていいって思ってんだぜ」
荒北の口調は、いつもより二三巻きねじが緩んだようにのんびりとしていた。眠たいのかもしれない。
「金城、お前もっとバカんなれよ。おめーは自分で思ってるより案外ダメ男なんだから、カッコつけてねーで素直に爆発しろよ、さっきみてぇにさ。ダメダメんとこは、しょーがねーからオレが面倒見てやんヨ。めんどくせぇけど、オレのエースはめんどくせぇって相場が決まってっし、今更だ」
「フフッ」
金城が思わず笑い声を漏らすと、荒北は眉を顰めて身を引いた。「なに笑ってんだヨ、気持ち悪ィ」
「いや……こんな夜中に何をやっているんだろうと思ってな。明日も合宿は続くのに。バカだろう」
「いんだよ、オレら一年なんだから、多少バカやったって」
「ああ、そうだな……お前の言う通りだ」
金城は荒北の目を見つめた。荒北も、金城を見つめ返している。どちらからともなくふつふつと唇を震わせ、やがて身を捩って笑い出した。芝生をゴロゴロと転がるうちに、金城の肩と荒北の肩がコツンとぶつかり、そのままぐいぐい肩を押しつけ合ってまた笑った。心地よい振動と熱に溶かされて、言葉はするりと口から零れ出た。
「あー、好きだな」
(お前の走りが)
そう続けようとしたら、荒北は真っ赤になってガバッと起き上がった。
「ハ、ハァ~?! な、なに言ってンだよこの……バァカちゃんが!! 脳みそ湧いてんじゃねーの? バァカ!」
そしてさっさと立ち上がり、背中に付いた草を払うのもそこそこに、ビアンキを持って宿舎に向かって歩き出した。
「ったくこのボケナス! おめーも早く戻れよ! 風邪引くぜ!」
真っ赤になって怒っているくせに捨て台詞が優しくて、金城は笑ってしまった。
「よく風邪を引くのはお前の方だろう」
「っせーヨ! 早く寝ろ!」
足音も荒く去っていく荒北の後ろ姿を見送って、残された金城はまたごろりと芝生に寝転がった。
(あー……駄目だな。やっぱり、好きかもしれん)
いつの間にか月はずいぶん傾いて、いっそう夜空は黒く、遥か高いところにまぶしたような星が出ていた。いろいろ振り落としたからか、浮かれているからか、心は星に届きそうなほど軽かった。結局、今夜は眠れそうにない。
Happy Birthday on 3 Sep.
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