山を仰ぐ

「海沿いの国道、俺を引いて走ってはくれんか」
 青葉輝く初夏の日、珍しく部活のない休日だったが、俺と尽八はどちらともなく誘い合って、サイクリングがてら住宅街を抜けて海岸線に下りてきたところだった。
 俺は最初聞き間違いかと思って、少し後ろをのんびりと走っている尽八を振り返った。彼は視線が合うと、嬉しそうに歯を見せて笑った。
「なっ、いいだろう隼人! 相模湾沿いに、海岸線から外れるまで、十キロほどのコースだ」
 ああ、と俺は納得する。
「なるほど、おめさん、そっから山岳道に入ってぐるりと箱根に帰る気だな。俺は山の手前で置いてけぼりかよ」
 山道までの体力温存に使われるのでも別に構いやしなかったが、若干ふてくされてそう言うと、尽八はキョトンとした顔で首を傾げた。さらりとした前髪が海風に流れる。
「いや、今日は山は登らんよ。平坦を思いっきり走ってみたくてな」
 どういうつもりか知らないが、こんな面白いことは滅多とあるまい。俺はにんまりとして、人差し指を尽八に突きつけた。
「なんだい、尽八もようやく平坦道の魅力に気付いたのか? 手加減はしないぜ。しっかりついてこいよ」
「ワッハッハ! 望むところだ!」
 前に向き直り、潮の香りを胸の奥深くまで吸い込む。眼前には広く真っ直ぐな道が、遥か彼方まで続いている。スプリントコースを前にした時、俺はいつも体中の血が沸き立つのを感じた。道は大らかに挑戦者たちを迎え、どこまで走る? どんな風に走る? と問い掛ける。俺は答える。今日は、この道のずっと先まで、最高のスピードで尽八を連れて行ってやるのさ。
 太陽は少しばかり明るすぎるが、今の俺の浮かれた気分にはぴったりの陽気だ。
「行っくぜ~!」
 バチンとギアを一つ重くしながら大きくペダルを踏み込むと、途端に周りの景色が引っ張られるように後ろに過ぎ去っていった。ぐいっと一踏みで加速した俺に、尽八は上体を大きく乗り出してついてきた。
 左手には、青く穏やかな太平洋が広がっている。そして右手には延々と連なる山々。神奈川県に生まれ育った俺と尽八には、海も山も故郷の象徴だ。もっとも、地元民にも派閥があって、俺はどちらかと言うと海派だが、尽八は山が好きだと言う。以前部室でそういう話になった時、やっぱ山神だからかね、と感心していると、「ハハッ、こいつ泳げねぇからナァ」と横から靖友が茶々を入れ、尽八がひどく焦っていたのがおかしかった。
(今度、この夏、もっと暑くなったら、尽八に泳ぎを教えてやろうかなぁ)
 そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、後ろから不満そうな声が上がった。
「おい隼人、手加減しないと言ったはずだ! 考え事をしていないでもっと踏めよ」
「悪い悪い」
 そうは言っても、俺が全力で踏んだら瞬く間に彼は千切れてしまうだろう。俺は後ろの様子を窺いながら、ほんの少し漕ぐスピードを速めた。
「もっと、もっとだ!」
 尽八が苛立ったように声を荒げ、タイヤが接触しそうなほど差を詰めてきた。仕方なく、俺はもう一枚ギアを上げる。途端に、感じる空気抵抗がぐんと重くなり、自然とペダルを踏む足に力が籠もった。スピードに乗り始めると、自制の効かないことを自覚している。腰の辺りからゾクゾクと、得体の知れない興奮が肩甲骨まで這い登ってくる。
 俺はぶるっと身震いして、その纏わりつく感覚を振り払おうとした。尽八は俺の加速になんとか食らいついてきているらしく、ハッ、ハッという息遣いが背後に聞こえる。
「ハッ……ハァッ……! もっとだ隼人!」
「けどよ、おめさん」
「遠慮をするなと言っている! もっと、もっと速くだ!」
 尽八は、クライマーと言えども、箱学のレギュラーメンバーなのだから平坦でもある程度は走れる。しかし、「最速の男」と呼ばれる俺の全力は、彼には少々どころでなくきついはずだ。そろそろ限界のスピードに近いのではないか。それでも尽八は言う。
「もっとだ!」
 俺はチッと舌打ちをし、上体を倒して重心を前に移した。
「ったく……! 知らねぇからな!」
 ぐわんと、空気の塊がぶつかってきた。それを押し退けるように、力尽くでペダルを踏む。海から吹きつける風に煽られるが、俺はそれをタイヤに巻き込んで推進力に変えた。抵抗が強ければ強いほど、それを切り開いて進むことに俺の体は歓びを覚えた。足元の道はびくともしないで、俺が走るのを待っている。風は戯れるように、俺の体にじゃれついてくる。俺は、道と、風と対話する。
(まだ行ける?)
(もちろんだ)
(邪魔しちゃった?)
(どうってこたないさ)
 ハッ、ハッ、ハッ。
 短い呼吸を繰り返す喉に、潮風が当たってひりひりする。鋭い初夏の太陽が、道路に白く反射して目を眩ました。どっと噴き出した汗を掌で拭い去り、俺はハンドルを握り直した。尽八はまだついてきている。
(なかなかやるな……!)
 俺は内心にやりと笑い、自分にまだ余裕があることを確認した。
「どうだ、尽八、もっと上げるか!」
 少し後ろを振り返って叫ぶと、尽八は苦しげな表情からなんとか笑みを捻り出し、無理やり呼吸を整えて叫び返した。
「無論だ!」
 愛車は前に進みたくてうずうずしている。俺はぐっと肩に力を入れて、本気の一歩を踏み出した。上半身のエネルギーは太ももの筋肉の伸縮を促し、その力はそのままクリートを履いた足の裏に伝播してペダルを回した。規則正しい筋肉の運動が、リズムを生み出す。
 二歩、三歩。
 ペダルを回すごとに、よりスムーズに、より効率よく体が動き出す。心臓、血液、筋肉から皮膚に至るまで、全てが上手く噛み合って、俺と自転車を前に運んでくれる。
 足元の道と、道路脇の標識や電灯が、早送りのコマのように後ろに流れていく。最初は目まぐるしく感じたが、やがてまったく気にならなくなった。視界に映るのは、左手の海と右手の山、そしてずっと彼方に見える道の先。それらは、俺がどれほどのスピードで走ろうとも、独自のペースを守ってゆったりと動いた。
 左、右、前へと順に視線を移し、そして最後に自分の後ろへと意識を向けた。彼はいつもの軽口を叩く余裕などなく、必死の形相で離されまいとついてきている。俺を風避けに使っているにせよ、大したものだと口笛を吹いた。
(けどよ、これで終わりだぜ)
 俺は立ち上がり、全体重をペダルに乗せた。体全部を使って自転車を振り、その振動を力に変えてさらに進む。尽八も立ち上がった気配がしたが、そうと知れた時にはもう、彼は遥か後ろに過ぎ去っていた。
 俺は徐々にスピードを緩めて、トンネルの手前に設定したゴールラインを跨いだところで止まった。尽八は限界を超えてここにやってくるだろうから、ラインのギリギリで待っていてちょうどいいぐらいだ。
 道路脇の土手に自転車を寄せていると、尽八の白いリドレーがやってくるのが見えた。土手に立つ俺に気付いたのか、フラフラとラインを越えた後、力が抜けたようにこちらに倒れ込んできたので慌てて支えた。
 引きずるように土手に寝かせ、自転車を拾って移動させる。俺は、ゼッゼッと荒い呼吸を繰り返す彼の側に屈みこんだ。
「大丈夫か?」
 まだ口をきけず、黙ってよれよれと伸ばされた手にボトルを渡す。上手く握れないようなので、手を添えて口元に持っていってやると、少し噎せながら水を飲んだ。
 浅かった呼吸が、徐々に深く大きなものに変わっていく。俺は、尽八の薄い胸筋がベコベコと上下するのを眺めた。
 息を吸う度に、腹が抉れそうなほど引っ込み、また膨らむ。俺に引きずられた形のまま投げ出された両足、力なくボトルを掴み草の間に埋もれる腕、脱げかけたヘルメットと、汗で頬に張り付いた黒い髪、そして、取り繕う余裕もなく苦しげに歪められた顔。普段の澄ました様子からは想像もできない乱れた姿だったが、妙に生々しく、俺はその肢体から目を離すことができなかった。汗まみれで泥まみれの彼は、一層美しいとさえ思った。
 どれくらいそうしていたのか、海からの風が冷たく感じられ、俺は腕をさすった。眉間の皺も和らいだ尽八が、薄眼を開けて俺を見て、少し微笑んで言った。
「箱根最速の風を、感じたかったんだよ」
 その言葉は、一呼吸置いて俺の心にじわっと染みた。
「尽八……」
「だが、お前はやはり速いな! 最後、まったくもって追い付けなかった。お前の背中は遠くなる一方で、俺はスプリンターじゃないが、すこぶる悔しかったよ」
 そう言いながら、尽八はちっとも悔しそうでない様子でワッハッハと笑った。そして、俺の目をじっと見つめた。
「気持ちよかったよ。ありがとう」
「いや……」
 言葉を探して口籠っていると、しかし……と尽八の視線は山へと向いた。
「こうして登れない山を見上げるのも新鮮でいいな。山の偉大さ、雄大さ、美しさを、改めて感じることができるよ」
 なんだお前、やっぱり最後は山なんじゃないか。
 俺は少し拗ねた気持ちで、尽八の視線を追って山を仰いだ。ちょうど、傾きかけた日が山の頂上に差し掛かったところだった。少し黄みがかった光が一筋、後光のように真っ直ぐ薄青い空に伸びていた。優しい午後の太陽が、木々を撫でるように沈んでいく。はみ出した光に照らされた山の端が、美しい緑に輝いていた。山全体が生命力に溢れていて、尽八の言うように限りなく雄大で、偉大で、美しくて、まったく敵わなかった。
 尽八は、まだ山を見ていた。その薄いブルーの瞳はさっきまで俺の背中をひたむきに映していたはずなのに、今は俺のことなんて忘れてしまったかのようで、俺はちりちりと胸を焦がした。
「尽八」
 俺は嫉妬に任せて、無理やり尽八の視界に割り込み、彼の薄い唇に口づけた。彼は大きなつり目を丸くして、意味がわからないというような顔で俺を見た。
「どうした急に」
 俺は、目論見どおり彼の視界に自分が映ったにも関わらず、なんだかドキドキしてしまって、うまく答えられないでいたら、尽八はさっさと一人で納得して、さも当然といった風に頷いた。
「まあ、俺は美しいからな!」
 そうじゃない。そうじゃないだろ尽八。
(いや、それもちょっとはあるかもしれないけどさ)
 俺は何か尽八に伝えたかったが言葉が出て来ず、結局黙った。
 尽八はまた山の方を向いてしまって、やっぱり俺のことなんかこれっぽっちも視界に入っていない。だから、俺の顔がきっと真っ赤になっていることにも、今更心臓がバクバクして、ゴールスプリントを仕掛けた後みたいになっていることにも、なんだか尽八から視線を外せなくなってしまっていることにも、まったく気付いていない。
 悔し紛れに、
「山を登れない尽八はレアだなぁ」
と言ったら、そうだなぁ、と、彼は少し寂しそうに笑った。その横顔を眺めながら、俺は海派だけど、山もいいかもしれないと思った。


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