混沌の街 -2-
来神高校から十分ほど歩いた場所にあるその公共図書館は、曇天の平日ということもあってか人影はまばらで、人間の匂いに邪魔されない分、古びた紙とインク、そして渇いたほこりの匂いが一層濃く充満していた。
臨也はまだふわふわした様子で、当てもなく書棚から書棚へ移ろい歩いた。門田は特に目当ての本もなかったので、臨也の後について、整然と並べられた図書の背表紙を見て歩いた。
ふいに臨也が立ち止まったので、門田は彼にぶつかりそうになってつんのめった。
「おい、急に立ち止まるな、危な…」
「ドタチンは図書館のどんなところが好き?」
門田の言葉などてんで気にも掛けない風に、臨也が語尾に言葉を重ねてきた。学校を出てから臨也が初めて発した言葉だった。
「どんなところってそりゃ…本がたくさんあるし、静かだし、落ち着くっていうか…」
唐突な質問に面食らいながらも何とか答えると、臨也は嬉しそうに間髪入れずに続けた。
「じゃあ、どうして図書館は落ち着くんだと思う?」
「…さっきも言った、静かだから、っていう答えじゃ、お前は満足しないんだろうな」
臨也は得意げに鼻を鳴らした。
「まあね。ドタチン、気付いてないんなら教えてあげるよ。正解はこれさ」
臨也は手近な書棚の本の背表紙をなぞった。アランの『人間論』だった。下ほどに貼られたラベルには、「135.5/A」という記号が記されている。
「人間っていうのは、無秩序から秩序を作り出すのが好きな生き物でね。この数字は分類番号と言って、図書を分野ごとにカテゴライズするために付けられている番号さ。さらに著者記号とか巻号とかまあいろいろの数字記号を組み合わせて、この一冊を図書館の組織の一部として取り込んでいるんだ。こうして一冊一冊を手に取って眺めている分には、隣に並んでいる本やこの建物と何の関わりも持たない一冊の独立した本であるのに、この背ラベルを貼ることによって、たちまちこの図書館を構成する細胞の一部と化してしまう。言わば、無秩序の秩序化だ。」
臨也は先程までの無口が嘘のようにすらすらと言葉を紡いだ。しかし、辺りを慮って極力抑えられた声は抑揚を欠き、やはりいつもと違ってどこか別世界から聞こえてくるようで、門田の平衡感覚を狂わせた。
「全天に88ある星座だってそうだ。個々の星々は一平面上に存在するものではなく、大きさも距離も時間さえも光年レベルで遠く隔たった巨大な一つの天体だ。ところが人間は、四次元的にまるで離れたそれらの星々をつないで夜空に88の絵を描いた。これもすなわち無秩序の秩序化だ。この人間の想像力たるや、人間を人間たらしめているものの一つだろうね。秩序化は、ミクロからマクロに至るまで質量を伴うありとあらゆる物質に対して行われるわけだが、もちろんその範囲は客観的な対象だけに留まらない。職場で、学校で、委員会で、自分が身を置く環境でそれぞれ、自分たち自身をも秩序化してしまう。秩序イコール彼らにとっては安心なんだ。自分は必ず何かと繋がっており、何かにカテゴライズされる存在である、とね」
臨也は、書架に面を揃えて並べられた本の背表紙を、子どものように指の腹でなぞりながら門田に背を向けた。
「秩序は安心だけでなく、美しさも与える」
隙間なく詰められた本たちは臨也になぞられ、タラタタタ、と控えめな音を立てた。本当は何からも自由であるのに、この図書館の細胞の一部となって定められた居場所を静かに守っているその様は、夜空に描かれた88の星座のように、確かに、壮大で慎ましやかで美しかった。
「秩序化された美しさは、抑制された美しさ、よく制御された美しさだ。秩序の美しさに憧れた人間たちは、人間の感情の秩序化も試みた。怒り、喜び、悲しみ、好き、嫌い、愛してる。そういった様々の感情を、丁寧に箱に並べて、標本のようにピンで止めて、美しく制御しようとしたんだ。ところがどうだろう、彼らはそんなことできなかった。遙か昔紀元前の時代から幾度も繰り返し試みられてきたが、理路整然と寸分の狂いもなく感情を秩序立てることに成功した人間は未だ存在しない。感情を秩序化しようとしたところで、到底それはカテゴリーに収まりきるものではなかったんだ。面白いよねぇ、目に映るものは何でもかんでも秩序化したがるくせに、人間は、自分の内面は秩序化できないでいるんだ!彼らの心は自分たちが作り出した秩序の中で、無秩序の存在としてあぶり出されている。無秩序は秩序を浸食し、混沌を生み出す。混沌は怖い、混沌は不安だ。秩序に馴染まない無秩序を抱えて人は、常に孤独を感じて生きることになる。孤独を感じないために、必死で己をカテゴライズしたにも関わらず、さ。いやだからこそ、周りを秩序で固めようとするのかもしれないねぇ」
無機質な声は、耳から目から鼻から、体中の毛穴から門田の血管に入り込み、血中酸素を奪っていった。
彼はなぜそんな話をするのだろうか。俺と臨也の関係の秩序化をしたいのか?
門田は酸素を求めて喘いだ。
俺にとって臨也は何だろう、臨也にとって俺は何だろう。ずるずると先延ばしにしてきた曖昧なものを、今突きつけられているのだ。
「ねえドタチン、今俺たちがいるのは、秩序だろうか、混沌だろうか」
タラタタタの音が止んだ。臨也がくるりとこちらに向き直った。透きとおった赤茶色の瞳が門田を捉えた。
「君は、どう思う?」
ふいに視界がぐらりと揺れた。開け放した窓から灰色の空が流れ込み、世界の境界が曖昧になる。
関係に、名前なんかなくていいじゃないか、秩序立っていなくていいじゃないか。
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