カフェの人 -1-

 静岡県S市、駿河湾を臨む高台に建つ大学のキャンパスは、前期試験を終えた学生たちが行き交い、開放感に満ち溢れていた。
 お腹空いた~。食堂行くべ。問三の答えってさぁ。うちの先生単位厳しいらしいよ。飲み行こうぜ。え〜、昼間から?
 徹夜明けの者も、進級の際どい者も、とにかく今は皆一様に晴れ晴れとした表情をしている。明日から、一月半に及ぶ長い夏休みが始まるのだ。
「おいカズ~」
 自分を呼ぶ同級生の声に、高尾は踏み出しかけた自転車のブレーキを握った。
「おー、タケ。おっつかっれちゃ~ん」
「マジマジ、マジでお疲れだよ。俺今期落とすと進級ヤベぇから必死こいたわ」
「日頃から人事を尽くしていないのがいけないのだよ~」
「出たよカズの口癖。チャラ尾のくせに真面目なところがムカつく」
 肩を殴る真似をしてくる友人と、ひとしきりじゃれ合う。
「カズ、この後暇? カラオケ行かね? ゼミの女の子も呼んでさぁ」
 んー、と、高尾は空を見上げて少し悩んだ。女の子たちと遊ぶのは魅力的だ。久しぶりにカラオケで思いっきり歌いもしたい。きっと夜まで歌って、そのまま飲みに行くのだろう。
「いや、やっぱ今日はいいわ。ちょっとやりたいことあるし。夏休み、バイト以外基本暇してるから、また誘って?」
 小首を傾げてウインクすると、彼は「キメーよ」と笑いながら、じゃあまた近々ラインするわ、と片手を上げた。軽く手を振ってそれに応え、高尾はぐいと自転車を漕ぎ出した。
 特にこれといって用事はなかった。溜まっている洗濯物を干して、風呂場の掃除をして、それが終わったら、録りっ放しになっているDVDを整理しよう。夕飯はあるもので簡単に作るか。お昼はなんか、うまいもんでも食べるかなぁ。
 試験に必死で疎かになっていた生活を、早く元に戻したかった。大学生になって一人暮らしをするようになり、高尾が心掛けていることの一つだ。生活がきちんとしていたら大抵のことは乗り切れるし、逆に生活が乱れていたら、うまく行くものも行かなくなる、らしい。これは緑間の請け売りだ。
(そうだ、久しぶりに真ちゃんに電話でもするか)
 ふと思い立って、高尾の心はますます浮き立った。
 東京を離れて二年と少し。持ち前のコミュニケーション能力で瞬く間に友人知人を増やし、楽しく、それなりに真面目にやっている。自主性に任せられた大学は性に合っていると思うし、バイトも忙しい。タケこと竹本は、不真面目でちゃっかり者だが、一緒にいて気楽な気のいい友人だ。
 静岡での生活が充実していく一方、東京の実家には年に二回帰る程度で、故郷の友人たちとは次第に疎遠になった。緑間と思い出したように連絡を取るぐらいだ。母親はもちろん、父親も、言葉にはしないが寂しがっていると気付いている。妹は、しょっちゅうメールのやり取りをしているのでそれ程でもないのかもしれない。むしろ、今年の春に中学生になった彼女は、やれ友達の○○ちゃんがとか、やれ先輩の○○くんがとか、新しく広がった世界に興味が向いていて、以前ほど「お兄ちゃんお兄ちゃん」と言ってきてくれなくなり、高尾の方が寂しさを覚えている。
 緑間を思い出したついでに、高校時代を賭けたバスケ部の面々の顔がちらりと浮かんだ。先輩や後輩はおろか、高校三年間の大半を共に過ごした同輩たちですら、ほとんど連絡を取っていない。ましてや、自分が高校一年の時の三年の先輩たちなど、もはや懐かしい思い出に変わっていた。別に、すっかり忘れてしまったわけでも、あれは過去の話と切り離してしまったわけでもないが、新しい生活をするというのはそういうことだ。何もかもを持って移動するのは不可能で、無意識下に選別され、手に触れなくなり、その内薄れていってしまう物事もある。思い出はあくまで宝物のように、思い出した時に取り出して懐かしむものなのだ。
 高尾は、わずかな郷愁を断ち切るように、力強くペダルを踏み込んだ。八月の太陽に熱せられたアスファルトには陽炎が立ちのぼり、近付けば何の手応えもなくゆらゆらと揺れて消えていった。潮風が、高尾の汗ばんだTシャツを膨らませた。高尾はこの町へやってきて、海の匂いを覚えた。
(暑ぃなー。けど気持ちいいなー)
 寄り道がしたくなって、いつも左に曲がる交差点を右に曲がってみた。少し町の中心部から外れるようで、広々とした道幅の割に、車も人もぐんと少なくなった。通り沿いにはきちんと整備された家や店が軒並みを揃えており、少し裕福な人の住んでいる土地であることを窺わせた。以前ゼミの女の子たちが、この通りには隠れ家的なおしゃれでかわいいカフェが集まっていると噂していたのを思い出した。
(高いかな、どうかな。けどまあ、喉も乾いたし、試験後のセルフ慰労会ってことで)
 自転車のスピードを落として、一軒一軒カフェらしき店を覗いていく。どの店も女の子が好きそうなかわいらしい店構えになっていて、男が一人で入るには少し勇気がいった。
(お、ここは?)
 高尾は一軒の店先で自転車を止めた。白を基調とした素っ気ないほどシンプルな外観で、壁に控えめな銀文字の看板が打ち付けられている。
【café rêve】
「カフェ……レーヴ、かな?」
 一階建ての小ぢんまりとした店で、木製の屋根や壁は所々ペンキが禿げたのを塗り重ねたような跡があり、多少古びて見えたが、かえって手入れの行き届いているのが感じられて好ましかった。ほんの少し曇ったような窓ガラスにも、白く塗られた木の枠が十字に嵌っていて、窓際にはたっぷりとしたヘデラが零れている。その向こうに何人か、食事をしているらしい人の姿も見えた。壁に立て掛けられた小さな黒板には、「Lunch set ¥800~」とだけ、きれいなチョーク文字で書かれていた。
 わずかな逡巡の後、高尾は店の脇のスペースに自転車を停めて、「OPEN」の札の掛けられたドアノブをそっと回した。
 カラン、と、柔らかな音でベルが鳴り、店員がこちらへ向き直った。少し甘めの声が、落ち着いたトーンで出迎える。
「いらっしゃいませ」
 高尾は目を丸くした。
「えっ?!」
と頓狂な声を上げかけ、何人かの客の視線を感じて慌てて手で口を押さえる。しかし、出迎えた店員は、高尾のあまりに見知った顔だったのだ。
「み、宮地さん? 何でこんなところに?」
 驚きとあまりの懐かしさにどんな顔をしていいかわからなかったが、とにかく喜びのままに高尾は二歩ほど跳ねるようにして彼に近付いた。彼は、困惑したように少し身を引いて言った。
「すみません、お会いしたこと、ありましたっけ?」
 えっ? と再び、高尾は目を真ん丸に見開いた。
「ちょちょちょ、何言ってんスか~。ほら、秀徳高校バスケ部の、二つ下の……」
「俺、バスケ部に入ったことはありませんが」
 思わず確認した彼の胸元についている名札には、確かに「宮地」の名が書かれている。しかし戸惑った彼の表情からは、高尾を驚かそうとか煙に巻こうとか、そういう意図は感じられなかった。店員は、混乱して黙ってしまった高尾を少し気にしながらも、どうぞこちらへ、と席に案内して、メニューを置いて去っていった。
(人違い? いや、他人の空似にしちゃ似すぎだろ。名前だって。あ、もしかして双子?)
 注文を取りに来た別の女性店員にうわの空で本日のパスタランチを頼みながらも、高尾の意識はずっと彼に向いたままだった。
(身長も190くらいありそうだし、蜂蜜色の柔らかそうな髪の毛も、大きな目も、イケメンっぷりも、少し右肩が下がった立ち方をするのも)
 いつの間にか届いていたパスタの味もわからないまま、高尾は立ち働く彼の姿を目で追い続けた。見れば見るほど、店員は高尾の知っている宮地とあまりによく似ていた。
 高尾の視線に気付いた店員が、水差しを持って近付いてきた。
「お水、お注ぎしましょうか?」
 見た目はまったくかの厳しい先輩そのものなのに、この丁寧な物言いだけが見知らぬ人のようで、高尾の混乱により一層拍車を掛けた。
「あ、あの、清志って名前の双子の兄弟はいませんか?」
 店員は、水を注ごうと水差しを傾けかけた手を止めて、怪訝な顔をした。
「いえ……清志は俺ですが」
 そうして特に動じた様子も見せず高尾のグラスに水を満たし、「失礼します」と軽く一礼して下がっていった。
 高尾は段々自信がなくなってきて、その日は狐につままれた気持ちで家に帰った。今日はもう、洗濯も掃除もする気になれず、ずるずるとベッドに凭れかかってカフェでのことを反芻する。
 彼はどう見ても、宮地清志だった。実際、彼の名前は宮地清志だという。高尾にとって彼は懐かしい先輩であったが、彼にとって高尾は、たくさんいる客の中の一人でしかないことは明白だった。
 記憶喪失? ドッペルゲンガー?
 どんな想像も現実味がなく、高尾を納得させる理由にはならなかった。
(そうだ、真ちゃんに電話……)
 ベッドに突っ伏したまま、スマートフォンの画面をタップする。珍しく、緑間は3コールほどで出た。
「なんだ」
 結構久しぶりだというのに、ついこの間会ったかのような不機嫌な第一声に、高尾は声を出さずに笑った。救われたような気さえした。緑間は久しぶりでもそうでなくてもいつも変わらぬ態度を取るので、遠く離れて何年か経っても、こうして続いているのかもしれない。
 挨拶もそこそこに今日あった出来事を話すと、緑間は考え込んだような声で言った。
「宮地さんは確か、都内の大学に通っているはずだが……人違いではないのか?」
「うーん、そうだよなぁ。けど、ホント似てたんだって。まずあんなでかい人そういねぇし」
 まあとにかく、もっかい確かめてみるわ。そう言って電話を切った頃には、高尾は少し落ち着きを取り戻していた。同一人物ではまずないし、きっとよく似た他人だろう。本人同士も知らない、遠縁の親戚だったりするのかもしれない。どこもかしこもまったく同じだと思ったが、多少違ったところもあったに違いない。大体、秀徳の宮地とはかれこれ四年半はまともに会って喋っていないのだ。似ている人を見て、曖昧な記憶と強引に結び付けてしまった可能性もある。

 翌日、高尾は再びそのカフェへと出掛けた。恐る恐るドアを押し開けると、昨日と同じようにカランとベルが鳴り、ほどよく効いた冷房が高尾を包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
 例の店員が出迎え、一瞬、あ、というような顔をする。さすがに、昨日変なことを聞いてきた客のことは覚えているらしい。
 高尾はヘラッと笑って頭を下げた。
「昨日は、いきなりすんませんでした。すげぇ知り合いに似ていたもんで。しかも同姓同名だし」
 店員は、少し警戒を解いたように表情を柔らかくした。
「そうだったんですね。こちらが忘れていて、失礼をしたのではないかと気になっていました」
 どうぞ、と席を案内する後ろ姿を眺める。ピンと伸びた背筋が美しい。秀徳の宮地も、男子高校生にしては姿勢がよかったなぁと思い出す。
 聞くと、彼はずっと静岡に住んでいて、このカフェではもう五年働いているという。
「え、今いくつなんですか?」
と思わず尋ねると、
「二十七ですが」
と、少々不本意そうに答えた。
「ど、童顔! 全然見えねぇ!」
 それこそ、先輩の宮地と同い年ぐらいかと思っていたのだ。思わずぶはっと噴き出すと、店員は、
「ほっといてください」
と拗ねたような顔をした後、「まあ、よく言われますけど」と仕方なさそうに微笑んだ。高尾の知っている宮地なら、間違いなくここで暴言が飛ぶはずだ。
 店員と客ということを差し引いても、やはり彼は、秀徳高校バスケ部の先輩とは別の人間なのだろうと、高尾は何となく納得した。
 やがて運ばれてきたランチセットを前に、ぐぅと腹が鳴る。本日のランチはハンバーグだった。生地にご飯を練り込んでいるらしく、確かにナイフを入れた切り口から白い米粒がちらほらと覗いていた。最初は驚いたが、これが美味しいのだ。ジューシーな肉の旨みと、噛むほどに滲み出る澱粉の甘み、わずかに酸味の効いたあっさりめのソース。サラダに掛けられたドレッシングも主役を邪魔しない味でありながら食欲をそそり、高尾はカイワレの一本も残さずパクパク食べた。
 昨日は混乱のため味わうどころではなかったが、ここはかなりいい店かもしれない。値段も、夜はコースメニューなどで多少値が張るようだが、ランチやカフェはかなり良心的だ。
(これは通っちゃうかもなー)
 高尾は満足げに膨れた腹を撫でた。空腹が満たされたところで、ようやく落ち着いて周りを見渡す。
 さほど広くない店内に、ゆったりとスペースを取ってテーブルが並べられている。ほとんど空席がなく埋まっていたが、不思議と並んで待つ人間ができるわけでもなく、誰かが立ち去っては次の客が入ってくるという具合だった。高尾と同じように一人で座っている客が多く、静かに本を読んだり、パソコンを開いたり、ぼんやりと壁に掛かった絵を眺めたりしている。彼らは皆、このカフェでの自分に最適な過ごし方を知っていて、互いにそれを尊重し合っているように見えた。それぞれが自分一人だけの世界を楽しんでいるようでもあったが、それらはカフェ・レーヴという一つの空間の中で混ざり合って共有され、自分の家ともどこか余所の場所とも違う、独特の居心地の良さと非日常感を作り出していた。
 高尾は、この店のことは大学の友人の誰にも言わず、自分の特別な居場所にしようと決めた。ここへやって来る人は、きっと自分でこの店を見付けるようになっているのだ。
 
 高尾は自分の予想どおり、週に二三度はそのカフェに通うようになった。宮地は大抵の日そこで働いていて、高尾を見掛けると目顔で挨拶をしてくれた。水を注ぎに来ては、軽く喋ったりもした。天気のことだったり、今日のランチのお勧めポイントだったり、他愛もないニュースのことだったり、二言三言言葉を交わして、他のテーブルの水の減り具合を見に去っていく。広い背中に糊の効いた清潔な白いシャツ、キュッと締った腰に黒いエプロンを纏った宮地は、嫌でも客の視線を集めそうなものだが、不思議と皆、水を注いで回る宮地のことは気にも留めていない風だった。
 今日の日替わりランチは、高尾の好きなイカとアサリのブイヤベースだった。唐辛子がよく効いていて、高尾は熱くなった口の中を冷ますように、宮地が注いでくれた水を飲み干した。ほんのりミントの香りがする。
(さて、今日はバイトもねぇし、帰ったらゲームでもすっかなー)
 そうして立ち上がりかけ、高尾ははたと動きを止めた。
(あ、あれ? 俺、もしかして財布……)
 慌ててポケットを探り、鞄を引っくり返しながら、高尾は財布を家に置いてきてしまったことを思い出した。
(だー、やっちまった! 家出る前にズボン履き替えて、ポケットに入れてた財布取り出してそのまま……)
 諦めきれず鞄に手を突っ込んでいると、気付いた宮地が近付いてきた。
「どうかされましたか?」
「あ、宮地さん! 俺、財布忘れてきてしまって……あの、すみませんがちょっと取りに帰ってもいいですか? 三十分ぐらい掛かるかもだけど、急いで帰ってくるんで!」
 高尾がガバッと頭を下げると、宮地はしばし思案するような顔で首を傾げ、そして、少し声を落として言った。
「あー……いや、いいですよ。俺が立て替えておきます」
「えっ? でも」
 戸惑う高尾に、宮地は微笑んだ。
「俺、今日はもう十五分ほどで上がりなんで、あなたが戻ってくる頃にはいないんです。他の人に説明するのも面倒だし」
 内緒ですよ、と、人差し指を唇に当てる宮地に、高尾は眉を下げた。
「じゃあ、とにかくすぐに財布取ってきます。もしこの後時間あるなら、俺戻ってくるまで待っていていただけますか? あ、学生証渡しておくので」
 別にいいですよ、と言う宮地に、そういう訳にはと学生証を押し付けて、高尾は店を飛び出した。途端に、ジーワジーワという蝉の声と、むわっとした熱気に包まれる。高尾は、今食べた物を一気に消化する勢いでペダルを漕いだ。アスファルトに照り返す太陽に、眉を顰める。
(あーくそ、しくった。なまじ少し顔馴染になりつつあっただけに、余計気まずいわ。宮地さんにも申し訳ないことしたし、行きづらくなったら嫌だなぁ)
 電気も付けぬまま薄暗い家に飛び込むと、予測どおり机の上に財布が放り出されていて、高尾は舌打ちをした。財布を引っ掴み、再びダッシュで来た道を戻る。言い合わせていたカフェの向かいの本屋に駆け込むと、宮地が手持無沙汰に音楽雑誌を捲っているのが見えた。周囲より頭二つは飛び抜けているので、見慣れた制服姿でなくともすぐにわかった。Tシャツにジーンズというラフな格好はスタイルのいい宮地によく似合っていて、なぜか高尾の胸はドキドキしたが、自転車を飛ばして走ってきたせいだと思うことにした。
「宮地さん!」
 すみません、お待たせしました、と息を切らせて駆け寄ると、宮地は眩しそうな目で高尾を見た。
「そんなに急がなくても大丈夫なのに。高尾和成くん」
 ごめん、名前見ちゃった、と、宮地は学生証を高尾に返しながら言った。
「高尾くん、S大なんだ。賢いね」
 店の外だからか、幾分砕けた口調になっている。
「いやいや、んなこたねぇっすよ。あ、これ、本当すみません。ありがとうございました」
 頭を下げてお金を渡すと、
「どうもありがとう。いつも来てくれているし、問題ないよ」
と柔らかく笑った。
 二人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。用は済んだのだが、お互いなんとなく立ち去り難く、目を合わせてぎこちなく微笑んだ。
「あ、宮地さん、もしやUKお好きですか?」
 何か話題……と探した高尾は、宮地の開いていた雑誌のページに気付いて身を乗り出した。そこには最近高尾が注目している、メジャーデビューしたてのイギリスのスリーピースロックバンドが特集されていた。
「そうそう。彼らはデビュー前からちょっと気になっていて……あれ、もしかして高尾くんもUK好き?」
「はい! ちょっとコアな曲ばっか流すFMをよく聴いていて、気になったやつは片っ端からチェックしてます。最近はホラーズとか」
「あーいい、いい! 俺が好きなのはカイトと……あと、ザ・ミュージック」
「わっかる! ポップなのも好きです。スーパーグラス」
「定番もね。ザ・ヴァーヴに、まあ言うまでもないけどストーンズ」
「ちょ、わーヤバい! 語りたい!」
 テンションの上がった高尾が頬を紅潮させると、宮地はああ、と、気付いたように言った。
「と言うか、高尾くん急いで来てくれたから汗だくじゃん。喉乾いたよね。ごめん、気付かなくて。どっかでお茶でも飲もうか。時間、大丈夫?」
「あ、は、はい、全然、大丈夫っす。嬉しいです。えっと、どこ行きましょう。宮地さんのお店……の方がいいですか? そうでない方がいい?」
 宮地はくすくすと笑った。
「どっちでも構わないけど、店の仲間を気にせずにゆっくりしたいかな。通り二つ向こうにいいお店知ってるんだ」
 いいかな? と聞かれて、高尾は一も二もなく頷いた。なんとなく気になるカフェの店員と、ひょんな出来事でこうして接点を持ち、意気投合してお茶をしにいく。女の子なら誰もが夢見そうな展開だ。前に妹がそのようなストーリーの少女漫画を嬉々として高尾に見せたのを、「そんなん現実に起こるかよー」と笑い飛ばしたことがあるが、まさか自分が体験することになるとは思ってもみなかった。
(確かにこれは、男の俺でもちょっとときめくわ。笑って悪かったなー。今度実家に帰ったら、このこと話してやろっと)
と、心の中で妹に詫びる。
 宮地お勧めの喫茶店は、カフェ・レーヴとは趣の異なった、いわゆる純喫茶のような佇まいだった。ビートルズ、ストーンズ、T・レックスといった、60年代や70年代を代表するロックがレコードで流れていて、ロック愛好家と思しき中年から初老の男性が、思い思いに体を揺らしたり、音楽談義に花を咲かせたりしている。
「どう? ここ」
 テーブル席の正面に座った宮地は、少し得意げな顔をしている。
「すっげいいです! 全然知りませんでした、こんなとこあるの」
「割とよく来るんだ、仕事上がりとかに。あ、うちの店の連中には内緒だよ」
 屈託なく笑う宮地は、店で見せる姿よりリラックスして表情豊かで、ますます魅力的に見えた。
「宮地さん、ずっと静岡って言ってましたよね。この辺り詳しいみたいだけど、地元ですか?」
「いや、実家はもっと山寄りなんだ。富士山の麓でね。大学は東京に行って、けどやっぱりこっちで就職したくて、卒業して帰ってきたんだ。レーヴで働くことになって、この近くで一人暮らししてる」
「東京! 俺、実家東京ですよ。大学どこだったんですか?」
「K大。文学部で、ドイツ文学専攻してた。潰しがきかないけど、趣味が高じて」
「すげぇ! K大って、超頭いいじゃん! てか俺の先輩の宮地さんもK大だったような気が……」
「俺に似てるって言っていた?」
 高尾はまじまじと宮地の顔を眺めた。
「うーん、顔なんかはよく似てると思うけど、なんかそれほどでもないような気がしてきました。口調とか雰囲気が違うからかな。ちなみに先輩の宮地さんはドルオタで、マミリンの大ファンでしたよ。ってあれ、みゆみゆだっけ? とにかくそんな感じで、イケメンで口が悪くて超怖いのにミーハーで」
 宮地はおかしそうに笑った。
「なかなか面白そうな先輩だね」
 出されたアイスコーヒーは高尾には少し濃かったが、氷が溶けて薄くなるのも気付かないほど夢中になって喋った。店内の大きなスピーカーから次々と流れる名曲たちは、いくらでも二人に話題を提供した。結局そこで三時間も居座ってしまい、喫茶店を出る頃にはすっかり夕方になっていた。

 家に帰った高尾は、ベッドに寝転がってスマートフォンを開いた。ひとしきり盛り上がったが話は尽きず、帰り際に連絡先を交換した。今、高尾の電話帳には、二つの「宮地さん」の名前が並んでいた。一つはカフェの店員、一つは高校の先輩。ふと思い立って確認してみたが、当然二つの番号は全く違っていて、どことなく安堵を覚える。
 高校の先輩の宮地さんにはもう何年も連絡を取っていないし、今更連絡することもないだろう。向こうだって、うっすらとしか覚えていないに違いない。
 高尾は間違えないように、カフェの宮地の名前の後ろに二重丸を付けた。
『宮地さん◎』
 なんとなく満足してそれを眺めていると、スマートフォンがブルッと震えてメールの着信を告げた。
 From:宮地さん◎「今日は楽しかった。ありがとう。今度一緒にライブでも行きたいね。もちろん、うちの店にも来てくれよ(笑)」
 高尾は顔が緩むのを自覚した。
 To:宮地さん◎「こちらこそ、ありがとうございました! 宮地さんめっちゃ音楽のこと詳しいから、いろいろ教えてもらえてすげぇ楽しかったです。ぜひまた遊んでください。もちろんお店にも行きます!」
 返信してからも、何度も宮地からのメールを読み返してはにやにやした。
「なんだこれ、恋する乙女かってーの」
 自分で突っ込んで笑う。年上の人とこうして交流を持つのは高校の部活以来だったので、その懐かしい感覚に、くすぐったい気持ちになっているらしかった。
 その晩は、興奮していたのかそわそわしてなかなか寝付けなかったが、明け方になってようやく少しうとうとした。

 ダム、ダム、と、ボールをつく音がする。そして、忙しないバッシュのスキール音。
 動け一年! ぼさっとしてんな!
 誰かの怒鳴り声が体育館に響き渡る。その声の反響を追い掛けるように、高尾はぐいと首を曲げて上を見た。高い天井にぶつからんばかりに、オレンジのボールがゆっくりと弧を描いて飛んでいる。
 今は部活の真っ最中で、人とボールが激しく行き交っている音も気配もするのに、ぼんやりと体育館の真ん中に突っ立っている高尾にぶつかるものは何もない。
 足動かせぇ! 声出せ!!
 一際厳しい声が飛び、高尾は天井から目を離して辺りを見渡した。体育館はガランとしている。
 ダム、ダム、ダム。
 ボールをつく音だけが残っている。
 高尾が一歩踏み出すと、体育館の片隅で、ガシャンという音がした。誰かが高尾に背中を向けて、籠にボールを放り込んでいた。
 気付くと体育館の床一面を埋め尽くすように、オレンジのバスケットボールが転がっている。誰かはそれを屈んで拾っては、籠に投げ入れている。ボールはどれも正確に籠に飛び込み、時々中で跳ね返されて籠の外に零れた。ボールの数はあまりに膨大でいつ無くなるともしれなかったが、彼は一心不乱にその作業を続けている。
(手伝いましょうか)
 声を掛けようと思ったが、誰だかわからなくて戸惑った。
(いや、確かに知っているはずなんだ。けど、誰だっけ?)
 目を凝らしても、彼の後ろ姿はオレンジのボールに埋れてぼやぼやと霞んでいくばかりだ。
 ボールをつく音はいつの間にか止んで、体育館は白っぽい建物に変わっていた。
 ボールを片付けていた人が、次のボールを拾おうと高尾に横顔を向けた。
(ああ、そうだ、あれは)
 彼はそのままゆっくりと振り向き、高尾の方を見て穏やかに微笑んだ。
「宮地さん」
 彼はボールではなく、水差しを持っている。そして、おもむろに、水をボール籠にドボドボと注いだ。
「全部注ぐんだよ」
 高尾はコップを持って途方に暮れて立っていた。
「宮地さん、俺喉が乾いた」
「まだ駄目だ」
「宮地さん」
「もうちょっと待って」
 宮地は勢いよく水差しを傾けて水を注ぎ続ける。水差しの中身は、一向に尽きる気配がない。
「これを、全部注いでしまったら」
「ねえ、宮地さん、俺、喉が乾いたよ」
 言葉は白い天井に吸い込まれるように消えた。
 水差しからはまだ、水が途切れることなく流れ続けている。

 高尾はぼんやりと目を開けた。まだ夜が明けて間もないのか、薄明るい窓の外ではカラスがひっきりなしに鳴いていた。何か夢を見ていたような気がする。
(なんだったかな……変な夢……頭の片隅に、まだ残ってるんだけど)
 思い出そうとして、すぐに止めた。栓ないことだ。それより今日は、タケとカラオケに行く約束をしているのだ。
「ちょっと早いけど、起きるかなぁ」
 うんと伸びをする。今日は一際暑く、真夏日になる予報だった。
 酷く喉が乾いていたので、高尾は無性に水が飲みたいと思った。

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