カフェの人 -2-
大学の夏休み最終日の今日は、世間ではもうとっくに仕事が始まっていて、駅の改札からは仕事帰りであろう疲れた顔のサラリーマンが続々と吐き出されてくる。人待ち顔で立っているのは、大学生と思しき若者か、派手な身なりの男女ばかりだ。
待ち合わせのK駅の南改札口で、高尾はそわそわと自分の格好を見下ろした。
(なんか変じゃねぇかな。下ろしたての服じゃなくて、着慣れた服の方が似合っててよかったかな。けどいつもの格好だとちょっと子供っぽすぎるかもだし)
薄汚れた窓ガラスに顔を映して大して乱れてもいない髪型を整えるのも、もう何度目とも知れない。
(これじゃあ俺超ナルシストみたいじゃね?)
仕方なく手持ち無沙汰にスマートフォンを眺めても、次の瞬間にはまた無意味に前髪を触ってしまう。
「急で申し訳ないんだけど」
宮地からそう電話があったのは昨日の夜のことだった。
「明日の晩、空いてる? 友達が彼女と行くつもりでライブのチケットを取ってたんだけど、彼女朝から熱出しちゃったらしくってさ。今日見舞いの帰りに家に来て、行けそうにないからってチケット譲ってくれたんだ。高尾くん、もしかしたら好きかなって思って」
宮地が名前を上げたのはウェールズ出身のソロシンガーで、日本ではまださほど知名度は高くないが、その確かなギターテクニックと朴訥な歌声が本国での評価を上げてきている。高尾もラジオで一二度聴いたことがある程度だが、名前をチェックしていたミュージシャンだった。
「行く! 行きます! ちょうど気になっていたんです」
高尾が二つ返事で答えると、宮地はほっとしたような声でよかったと言った。
「ほんとに急でごめん。俺も好きなシンガーだから、どうせなら彼のこと知ってる人と行きたくて。そしたら高尾くんの顔が浮かんでさ」
「いや、全然。すげぇ嬉しいです、楽しみにしてます」
本当は、今日は「夏休みの終わりを惜しむ会」と称したゼミの飲み会があったのだが、元々乗り気ではなかったし、人数も多いから一人ぐらいキャンセルしてもどうということはないだろう。
「急用って、デートかよ! 彼女かよ! この裏切り者!」
幹事のタケに電話するとやっかみ半分に詰られて、彼女じゃねぇよと苦笑しつつ否定したが、高尾は内心満更でもなかった。
(デート……ではねぇけど。男同士だし。けどなんか、なんかな。やべぇ、初めて好きな女の子とデートした時みたいにドキドキしてる。こういう感覚、嫌いじゃねぇな)
腕時計を見ると、待ち合わせ時刻まであと五分だった。腹の辺りからそわそわとした気持ちがせり上がってくる。
(そろそろかな)
顔を上げると、駅前の横断歩道で信号待ちをしている宮地の姿が目に入った。途端に心臓の鼓動が早まって、高尾は慌てて下を向き、もう一度前髪を少し触ってからスマートフォンを弄っているふりをした。
駆け足で近寄ってくる気配がする。
「ごめん、お待たせ」
その声で初めて気付いたように、高尾は顔を上げた。
「あ、宮地さん、こんばんは。や、全然。俺も今来たところで」
そう? ならよかった。と言いながら、宮地は少し背を屈めて高尾の顔を覗き込んだ。
「なんかちょっと顔赤くない? 大丈夫?」
「え、うわ、えーっと、あああの、時間に遅れそうだったら走ってきて! それでだと思います!」
高尾が慌ててそう言うと、宮地は見透かしたように笑った。
「そうなんだ。俺はちょっとドキドキしてる」
「え」
「ライブは久しぶりでね。これから行く箱にも、昔はよく行ってたんだけど」
さ、早く行こう。と先に立って歩き出す宮地に、高尾はしばらく火照った顔を冷まさなければならなかった。
ライブハウスは高尾たちの最寄りのK駅から鈍行で三駅、S市中心部の街中にあった。表通りから入り組んだ細い道に入り、何に頼るでもなくすいすいと歩いていく宮地は、確かに来慣れているらしかった。
中からズン、ズンと地鳴りのような音楽が聞こえてくる服屋や、怪しげなシルバーアクセサリーを売っている店、ひどい匂いのタバコを吸いながら気怠げに道行く人を眺めている女、下卑た笑い声を上げて客を物色している三四人の黒服たち、道端に落ちているテレフォンクラブのチラシ、タバコの吸い殻、強引な客引き。そういう雑多なものたちの間を、宮地は迷うことなく歩いていった。いつもよりラフなTシャツを着て、ジーパンのポケットに財布を突っ込んだような格好にも関わらず、カフェのテーブルの間を水差しを持って移動するのと変わらぬ美しい背中だった。
ベタベタとライブのフライヤーが貼られた黒い扉を押し開けると、地下へと続く薄暗い階段があり、その狭い階段を肩を擦るようにして下りれば、ライブハウス特有のざわめきとグラスのぶつかる音、コンクリートの壁とタバコの匂いが二人を包み込んだ。
受付でチケットを二枚渡すと、真っ赤なマニキュアをした女が、「本日はチャージ付きワンフードワンドリンク制です~ごゆっくりどうぞ~」と鼻の詰まったような高い声で中を指し示した。
中はまあまあの人入りだったが、二人は運良くステージの斜め前のテーブル席に着くことができた。宮地は高尾にテーブルの上のメニューを渡そうとして手を止め、「お酒飲めたっけ?」と尋ねた。
「飲めますよ! 一応これでも成人済みです」
拗ねたように言うと、宮地はごめんと笑いながら、どれにする? とメニューを広げて見せた。
「ここ、料理も美味しいので有名なんだ。お勧めは鶏肉のサルティンボッカ」
「旨そう! それ頼みましょう。飲み物は……俺、トム・コリンズで」
宮地は通りすがりの店員を素早く呼び止めてオーダーをし、すぐに高尾に向き直った。
「トム・コリンズ。サリンジャーだね」
「『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』」
宮地は驚いたように目を丸くした。
「本も読むんだ」
「たまたまです。俺の高校時代の友人に読書家な奴がいて、『サリンジャーぐらい読んでおけ。教養として当然なのだよ』って言うもんで、こないだ図書館で借りたんです。トム・コリンズはそこに出てたから今頼んだの」
「『なのだよ』ってなんだよ」
宮地はテーブルに突っ伏して笑った。涙の滲んだ目尻には細やかな皺があって、二十七という彼の歳を初めて見た気がした。
「て言うか、そこでライ麦畑に行かないところが面白いね」
「いやー、逆にそういうこと何も知らなさすぎて」
「今度読むといいよ。いい翻訳も出ているし。教養の一つ、なのだよ」
ウインク付きで付け加えた宮地に、今度は高尾がテーブルに突っ伏す番だった。
「そんなオシャレな『なのだよ』……聞いたことねぇ……ぶくくく」
「どんな子なのか気になるな。また教えてよ。ま、とりあえずはお酒も来たことだし」
宮地がいつの間にか運ばれてきていたシャブリのワイングラスを掲げるのを見て、高尾も慌ててグラスを持った。
「乾杯」
爽やかな酸味のレモンが、ジンと混ざり合って喉を焼きながら胃に落ちていく。くいっとグラスを呷った宮地の口元から、華やかな白ワインの香りが漂った。
やがて徐々に照明が落とされ、ギターを下げた若い男がふらりとステージに現れた。客席から拍手と口笛が飛ぶのに頭を下げて答えると、無造作に椅子に座りチューニングを始める。そして徐に一つコードを鳴らして歌い始めた。
There goes my honey
She has gone somewhere last Sunday
She took away everything
A toothbrush, a dryer, pare glasses, photographs and something else
In my room, there’s nothin’
I’m drinking and waiting for… Whom I’m waiting for?
She took away everything
Even the memories she took away
ぼんやりと聴き取れる歌詞から陽気な内容の歌ではないとわかったが、曲調は拍子抜けするほど明るくてのんきだった。彼のギターはざっくばらんとしたメジャーコードを鳴らし、時折繊細で難しい旋律を奏でた。彼の声は時折掠れたが温かみがあって、フォークギターの音とライブハウスの微かなざわめきと食事をする人々の立てる食器のカチャッという音によく馴染んでいた。
高尾は隣の宮地の顔をそっと盗み見た。宮地は真剣な表情で歌に聴き入っていて、時々指で軽く拍子を取っていた。ステージの照明が、宮地の頬にゆらゆらと影を落としている。山吹色の薄暗い光は、宮地のまっすぐに伸びた鼻筋を美しく見せていた。宮地の薄いまぶたがゆっくりと瞬きをし、高尾の方を向いた。そのまま顔を近付けてくるので高尾はひどく混乱したが、宮地は高尾の耳にそっと口を寄せ、囁いた。
「この歌詞と曲調のミスマッチ感が、癖になるんだ。陽気さによってかえって引き立てられる悲哀がいいって」
宮地の柔らかい髪が高尾の頬をくすぐり、甘い声が鼓膜に直接吹き込まれ、高尾はびくっと肩を揺らした。
「み、宮地さん」
「……顔が赤いよ」
くすくすと笑う宮地は絶対に確信犯だ。彼はそれきり前を向いて音楽に没頭してしまったが、高尾は彼の温かい息が耳にかかった感覚が離れなくて、すっかりライブどころではなくなってしまった。鶏肉のサルティンボッカは、確かに美味しかった。
後期授業が始まり、高尾の就職活動も本格化した。ゼミの仲間は院への進学を希望する者が多かったが、高尾は就職して東京へ帰るつもりだった。説明会やら試験やらで東京へ行くことが増え、あのライブの日以降、忙しくてレーヴに行けない日が続いていた。メールは時折やり取りしていて、「~の新譜聴いた?」とか、「カフェに新メニューができたよ」とか、「こないだのあの曲、ラジオで掛かってましたよ」とか、些細な内容ばかりだったが、スマートフォンの画面に「宮地さん◎」と表示されると、高尾の心はどうしようもなく弾むのだった。
今日は説明会兼一次試験のために上京しており、終わってから時間があったので久しぶりに緑間と、そして今年から就職して働いている大坪と会う約束をしていた。
東京駅の近くの居酒屋に先に入って待っていると、入口で出会ったらしい大坪と緑間が一緒にやってきた。二メートル近い二人が並んでいると、自然と周りの視線が集まる。そういうささやかなことを思い出して、高尾は小さく笑った。
「大坪さーん、真ちゃーん、こっちこっち」
奥のテーブル席から大きく手を振ると、二人はすぐに気付いてのしのしと近付いてきた。
「久しぶりだな、高尾」
「お久しぶりッス! 元気ですか?」
「まあな。なんとか仕事にも慣れてきたところだ」
「真ちゃんは? 元気?」
「先日電話で話したばかりだろう、バカめ」
相変わらず仲がいいなぁとのんきに笑っている大坪は、スーツ姿がすっかり板についていて、とても社会人一年目の新入社員には見えなかった。
「木村さんは無理だったんですね。宮地さんは?」
「ああ、木村は今繁忙期らしくてな。宮地には木村が連絡してくれているはずだが、何も言ってこないところを見ると来ないのかもな」
まああいつは院に進んだし、高尾の聞きたい就職の話は聞けなかっただろうが。
そう言いつつ、瓶で届いたビールを二人のグラスに注ぐので恐縮して受けた。
「乾杯」
「お疲れさまです」
グラスを合わせてぐいっと呷る。高校時代、汗まみれでバスケットボールを追い掛けていた時には、こんな未来を想像したこともなかった。あれから五年か……と感慨深く思うのも、歳を取った証拠かもしれない。
「緑間は? 就職はまだだったか」
ええ、と頷いた緑間は、酒があまり得意でないのでビールの泡を舐めるように飲んでいる。
「医大は六年なので。少なくとも後三年と少しは学生です」
「そうか、しっかり勉強しろよ」
と言う大坪は、もはやキャプテンと言うよりは父親のようだ。
「やっぱりなぁ、就職するとなかなか自分の時間を持てないから。学生のうちにやりたいことをやっておくべきだ。まあ医大だと学生の間はかえって忙しいかもしれないが」
それからしばらくは、大坪に仕事の話をあれこれ聞いて盛り上がった。先輩と一緒に営業先へ挨拶回りに行ったら先輩の方を新人と間違われた話だとか、職場の部長が身長は自分の半分くらいなのだが顔や話し方が中谷監督にそっくりでどうにも頭が上がらない話だとか、客人に初めてお茶を出した時緊張しすぎてカップの取っ手を粉砕してしまい顔面蒼白になったが、逆に呆れられて笑い話になった話だとか、高校の時と比べて遥かに饒舌に面白おかしく語る大坪は、あの頃より確かにずっと大人になったのだと高尾は思った。その大坪の話に時折笑いさえしながら穏やかに相槌を打つ緑間の変化は、大坪よりももっと顕著で、その中で高尾に対するぞんざいな態度だけが昔と変わらず、高尾はそれに縋りたくなるような寂しさを覚えた。周りの人間が打ち上げられたスペースシャトルのように見る見る高く遠く上っていってしまう中、自分だけが地面に取り残されてどこにも行けずにいるような気がしたのだ。
酒が進んで話が脱線してきた頃、そう言えば、と緑間が言った。
「高尾の行きつけのカフェに、宮地さんにそっくりな店員がいるらしいですよ」
「あーあれなぁ、よくよく見ればそれほど似てねぇかもって」
「ほぉ、どんな人なんだ?」
大坪が興味津々といったふうに身を乗り出してきた。
「どんなって……最初はほんとそっくりだと思ったんですよ。見間違えたぐらい。身長も190超えてるし、蜂蜜色の金髪だし、デカ目童顔のイケメンだし。しかも驚いたことに同姓同名」
「本人じゃないのか?」
「俺もそう思ったんですけど。でも性格が全然違ってて。穏やかだし、動作に品があるし、超優しいし、気が利くし、それでいてさり気ないし。や、宮地先輩も優しかったけど、もっとストレートな優しさっていうか? 表情とか違うからかな。なんか最近はそんな似てねぇかなって気がしてきました。つかよく考えたら宮地先輩もう何年も会ってねぇし、案外顔もあやふやかなーって」
「おいおい、宮地が悲しむぞ。その人の写真はないのか?」
「ないっすよそんなん。まだ一回お茶して、一回遊びに行ったきりだし。そうだ、宮地先輩の写真はあります?」
待てよ……と言いながら大坪は携帯電話の画像を遡っている。
「高三の時から使っている携帯だからな。卒業式の写真ならあるかもしれん」
「俺も高校まで持ってた携帯なら写真入ってたんだけどなー。データ移行できなかったから。真ちゃんも最近スマホに替えたから同じだよな」
緑間は神妙な顔で頷いた。
「お陰でラッキーアイテムになりそうな小物を撮り溜めたフォルダがパーなのだよ」
「あったあった」と大坪が言うので、三人頭を寄せ合って小さな画面を覗き込む。
「うわ、木村さん懐かしい! ってこれ宮地さん写ってないじゃん」
「本当だな。これはクラスで撮ったやつだ。宮地はクラスが違ってたから……あ、こっちはバスケ部で撮ったやつだぞ」
「ここにもいないのだよ」
「おかしいな……ああそうだ、確かこれは宮地に撮ってもらったんだ」
「写真これだけですか?」
「悪いな。女子みたいにそんなにたくさん撮っていたわけじゃないから」
すまなさそうな顔をする大坪にいやいや、と手を振る。
「今度バスケ部の同窓会でもしましょうよ」
そうだな、と大坪はにこにこと頷いた。「木村と宮地にも声を掛けておくよ」
「それより、高尾はその店員と随分仲がいいんだな。一緒に遊びに行くなんて」
「俺が最初人違いしちゃったのがきっかけで話すようになったんです。そのカフェ自体すげぇ気に入って通ってるうちに、ひょんなことで音楽の趣味が合うことがわかって。そうそう、アイドルとかじゃなくてUKロックのコアなファンでね。そこも宮地先輩とは違うでしょ。こないだ二人で出掛けたのも、一緒にライブ行ったんですよ。まあライブだし、宮地さん喋る時すげぇ顔近いからもうドキドキしちゃって。したら宮地さんの言うことに、『顔が赤いよ』ッスよ! 絶対確信犯だし。くそぉイケメンめ、モテるんだろうな~」
「はは、えらい入れ込みようだな」
「だってなんかもう、宮地さんからメール来るとテンション上がっちまうんですよ。うわーってなって、ちょっとドキドキして、恋かよ~って思うくらい」
「それはもう恋だろう」
緑間が怪訝な顔をして言うのを、高尾は笑い飛ばした。
「ぶはっ! 真ちゃん酔っ払ってんの? 宮地さん男だぜ。つか真ちゃんの口から恋とか……ぶくく」
「茶化すな。それぐらいわかるのだよ、バカめ。だがお前の態度は完全に恋しているそれだろう」
確かに、と大坪も頷いた。
「異性にしか恋をしないというのは固定観念だぞ、高尾。相手が男だからこれは恋ではない、という先入観を捨てて、改めて自分の気持ちを考えてみたら、どう思う?」
「え、相手が男だからって考えなかったら……って、えっと、あ、あれ?」
高尾はポロリと箸を取り落とした。もし自分が、宮地を恋愛的な意味で好きなのだと考えたら。
体の中に収まっていたいろいろな感情が沸騰するように沸き立って、腹の底からぶわっと何かが溢れそうになった。高尾は赤面して、思わず両手で顔を覆った。
「え、うわ、俺、宮地さんのこと好きなの?! ちょっ、待って。いやけど……うわーうわー、ヤベェ、超恥ずかしい!!」
「高尾は案外鈍いんだなぁ」
大坪は意外そうな顔をして、緑間は眉間に皺を寄せて、「うるさいのだよ高尾」と言った。
「しかし高尾が、宮地に似た宮地さんを、なぁ……」
少し複雑な笑みを浮かべる大坪に、高尾は首を傾げた。
「大坪さん?」
「いや、何でもない。気にするな、昔の話だ。まあそれより、いいじゃないか。もうこの歳になるとドキドキしてどうしようもなくなるような恋愛なんてできないからな。俺たちは応援するぞ」
「俺は応援するとは言っていないのだよ」
「しないのか、緑間?」
「い、いや、しないとも言っていないのだよ」
ぶっは! と高尾は噴き出した。
「ありがとうございます。緑間もサンキュな。この気持ちが恋だって、言われて初めて気付いた体たらくだけど、自覚した途端、もう心臓ヤバイっすわ」
翌日大坪は仕事で緑間も実験があると言うので、その日はそれでお開きとなった。高尾は実家に泊まろうかとも思ったが、昼からのゼミのフィールドワークの準備もしたいし、結局新幹線で帰ることにした。何より、宮地の話をしていたら無性に早く静岡に帰りたくなったのだ。
恋をすると世界が変わると言うけれど、そんなものは小説や漫画の中だけの話だと思っていた。もちろん高尾とて大学三回生になるまでに人を好きになったり、女の子と付き合ったりしたこともあった。しかし、今のこの気持ちを知ってしまったら、今までのあれこれはまだ恋と呼ぶにはあまりに幼いものだったと思い知らされた。心臓がいつもより早く脈を打って、喉が泣きたいみたいにキュッと締め付けられる。頭のどこかにずっと彼の姿が居座っていて、それに気付く度にどうしようもなく会いたくなる。彼のいる土地へと近付いていると思うだけで、新幹線の車窓に流れる街明かりはいつもの百倍はきらめいて見えるし、欠け始めた十六夜の月も、線路沿いに走る車のテールランプも、黒々とそびえる工場のシルエットさえ、何もかもが恋心に気付く前と違って見えた。
高尾は少し緊張してスマートフォンを開き、メールを打った。
To:宮地さん◎「明後日、レーヴに行きますね。明日はゼミのフィールドワークで行けないので」
気持ちを落ち着かせるために少し眠ろうと思った矢先、間を空けずにスマートフォンがブーッと震えた。
From:宮地さん◎「ちょうどよかった、明日は俺オフだから。じゃあ明後日ね。待ってる」
高尾はスマートフォンを握り締めて目を閉じたが、静岡に着くまでの後四十分、どうにも寝られそうになかった。
構造地質学のゼミのフィールドワークは、安倍川の下流で行われた。赤茶色の柔らかい土に試験棒をずぶずぶと突き刺して、地下何十メートルもの地層をそのまま採取し、最新のマシーンで分析する。陽を遮るものが何もないだだっ広い河川敷で四時間、少しずつ場所を移動しながら慎重にサンプルを採取していくのは、すっかり秋めいた風の吹く季節とはいえなかなかに堪えた。
秋の夜はつるべ落としとはよく言ったもので、現地で解散した時には燃えるような夕焼けだった空が、バスを乗り継いで帰ってきた頃には、もうすっかり夜の色に変わっていた。ぼんやりと薄明るい紺色の空には、巨大な夏の大三角形が西に傾きかけていた。この時間になると長袖のシャツに薄い上着を羽織っていても少し肌寒いぐらいで、高尾は身震いをしてパーカーのチャックを上げた。
明日は久しぶりに何もない休日だ。約束どおりレーヴに行って宮地と会えるのだと思うと、高尾の鼓動はまた早まった。
(恋してると寿命縮むんじゃねーかな、確実に)
肩から掛けたメッセンジャーバッグのストラップを握りしめるふりで、高尾は心臓の辺りに拳を当て、トク、トクと、服の上からでもわかるほど弾む心臓を押さえつけるように力を入れた。
明日は昼前まで寝坊をしよう。寝過ぎたか? と飛び起きて、時計を見て少し安心して、念入りに顔を洗って支度をする。そんなに生えないけどしっかりと髭も当たって、ちょっとワックスを付けて髪をセットして、お気に入りの服を着て家を出る。ランチタイムは三時までやっているから急ぐ必要はない。遅めに行った方が空いていてのんびりできるかもしれない。宮地だってそれほど混んでいなければ、水を注いだりオーダーを取ったりばかりでなく、少しは高尾の話し相手になってくれるだろう。明日宮地は何時上がりなのだろうか。もしランチタイムで終わりなら、少し待って、一緒にお茶でもどうですかと誘ってみるのもいいかもしれない。
スケジュールと妄想を脳内で組み立てて、口元が緩みそうになるのを慌てて咳払いでごまかした。
(そうだ、晩飯の材料買って帰ろう)
駅前の安いスーパーへ行こうと大通りに足を踏み入れた時、高尾の広い視界の端に背の高い男の姿が映った。慌てて振り返ると通りの向こうにやはり宮地がいて、高尾は自分の視野の広さに感謝した。一気に上がったテンションのままに歩道から少し身を乗り出し、手を振ろうと声を上げた。
「宮地さ……」
高尾の声は中途半端に途切れた。宮地の隣には若い女がいて、宮地に楽しそうに何か話し掛けていた。見覚えがあると思ってよく目を凝らしてみたら、レーヴの女性店員だと気付いた。二人の間には車道を隔てていてもわかる親密な空気が漂っていて、宮地はいつも高尾に向けているのと同じような穏やかな笑みを、彼女に向けていた。
(あの二人、仲よかったんだ。店でそんな素振り見せたことなかったから)
さっきまでキラキラときらめいて見えた世界が一気に色と音を失い、体温さえも冷めていった。
(もう行こう。ここから離れよう)
二人はこちらに向かって歩いてきている。もし宮地が高尾に気付いたら、きっと笑顔で手を振るだろう。隣の彼女も常連客の高尾を覚えているだろうし、微笑んで会釈をするに違いない。そうなった時、高尾はうまく笑って挨拶を返せる自信がなかった。
(ほら、早く行こう。動けよ足!)
焦る気持ちとは裏腹に、足は磁石で道路にくっついたように自分の意思では動かせず、目は高尾に現実を見せつけようとして二人から離れない。
彼女の細く白い手が宮地の腕に掛かりそうになった時、道路に半歩ほど足を踏み出していた高尾はパァンとクラクションを鳴らされた。その音にハッと我に返り、高尾は弾かれたように踵を返し、走り出した。視界の隅に、クラクションの音でこちらを向いた宮地が驚いた顔をするのが見えた。
「高尾くん!」
そう呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、すぐに雑踏の音に紛れて遠くなった。高尾は振り返らずに家まで走って帰り、鍵を閉めて玄関に倒れこんだ。こめかみが嫌な感じに脈を打ってずきずきと痛んだ。久しぶりに全力で走って体は熱く火照っていたが、流れる汗はぬるりと冷たくて、ナメクジが這ったみたいに気持ち悪かった。背中のメッセンジャーバッグの中でスマートフォンがしばらく鳴っていたが、やがてそれも途絶えた。高尾は真っ暗な家の玄関にうずくまったまま、世界から逃げるようにして朝を迎えた。
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