カフェの人 -3-

 蹲ったままの姿勢で寝ていたので、目覚めた後しばらくぴくりとも動けなかった。指の一本一本、腕、肩、首、どこもかしこも自分の体から離れてバラバラになってしまったようで、起き上がるのに、意識をそこに持っていって何とか拾い集めなければならなかった。ギシギシと骨の軋む音がして、ひどく痛んだ。
 狭いアパートの部屋には、カーテンを透かして秋の透明な陽光が万遍なく差し込み、外はすっかり日の高くなっていることが窺えた。
(時間……何時だ)
 傍らに放り出したバッグにのろのろと手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。少し躊躇ってから電源ボタンを押すと、電話の着信が二件とメールが一件あった。宮地から、夕べの18時56分と19時15分(昨日帰ってから鳴っていた電話は二回目のものだろう)、そして少し空いて、21時43分にメールが来ていた。
 From:宮地さん◎「何回も電話してごめん。駅で見かけたような気がして、なんか様子がおかしかったから電話したんだけど……勘違いだったらいいんだ。ごめんね。明日、店に来てくれるの楽しみに待ってる」
 高尾は何度かそのメールを読み返したが、文字はただの記号の羅列にしか見えず、読むのにひどく時間が掛かった。
「すみません、ちょっと体調悪くて、今日は行けません。ごめんなさい」
 働かない頭でなんとかこれだけ打って送信すると、電池の切れかけていたスマートフォンはパッと暗くなって落ちてしまった。
 高尾はそれを充電器にも挿さず床に放置したまま、もぞもぞと布団に潜り込むと、その日はご飯も食べず一日中横になって過ごした。何かを食べるのも、立ち上がって歩くのも、腕を持ち上げるのも、何かを考えるのも、今の高尾には何もかもが億劫だった。

 うとうとしたり目を開けたり、眠っているのか起きているのか判然としない状態で昼を過ごし、夜を過ごし、また朝が来る頃ようやくお腹が空いたと思った。
 今日は休めない講義があるし、とにかく起きて動き出さないといけない。
(生活がちゃんとしていなければ、うまく行くものも行かなくなる)
 緑間の言葉を頭の中で呟いて、高尾はなんとか起き上がった。一日で消耗しきった体はふらふらしたが、とにかく顔を洗って、買い置いてあったパサパサのパンと牛乳で朝食を取る。歯を磨いて、髭を剃って、シャワーを浴びた頃には、ようやく自分の体が戻ってきたような気がした。
 昼前に大学に着くと、タケやゼミの女の子たちに「酷い顔」と驚かれた。
「一昨日の実習の後、ちょっと体調崩してて」
 そうごまかすと、タケは、
「あの日はあんな元気そうだったのにな。むしろなんかいつもよりウキウキしちゃって。女でもできたのかと思ってたぜ。熱で頭変になってただけかよ~」
と、一人見当違いな納得をして頷いている。
「あ、そうだカズ。お前携帯電源切れたまんまだろ。今日のゼミの持ち物で連絡あったから電話したのに、『電源が切れております』だもんよ」
「あー……悪ぃ。充電する元気もなくて」
「お前な~、心配すんだろ! 充電ぐらいしとけ! ちなみに持ち物は、親切な俺様がお前の分も持ってきてやった」
「マジ? 超優しい。カズ泣いちゃう!」
 実際、タケの優しさは弱った心に染み入った。
「……俺ってほんと恵まれてるよね」
「はぁ? 何が?」
「いや、うん……人にな、恵まれてるなぁって。俺の周りの人、みんな優しいよ。大学でも、高校でもさ」
「あ、例の『シンチャン』? お前好きだね」
「うん、真ちゃんももちろん……あいつはツンデレだけど実は超友達思いだし、高校の部活で言うなら、キャプテンは厳しかったけど度量のでかい人だったし、木村さんって先輩は、ツッコミは冷たかったけど兄貴みたいにあったかかったし、あとさ、すげぇ怖くて、いつも怒鳴ってばっかで、けれどもめちゃくちゃ優しかった……え、っと……」
 すげぇ怖くて、いつも怒鳴ってばっかで、けれどもめちゃくちゃ優しかった……誰だっけ?
 言葉に詰まった高尾を特に気にする様子もなく、タケが呆れたように言った。
「なになに~? お前の周りツンデレばっか? フツーに優しい人いなくね?!」
「あー確かに。例えば大学の友達の竹本くんとかぁ。普段ちゃらんぽらんなのにいざって時は超優しくてぇ」
「はぁっ?! おいお前、俺はいつだって優しいだろ? 俺の優しさドストレートよ? 優しさが服着て歩いてるような男よ?!」
 肩を掴んで揺さぶってくるタケと笑い合っているうちに、さっきほんの一瞬感じた違和はどこかへ消えてなくなってしまった。
(元気、出さなきゃな。だいたいさ、そんなショック受けることでもねぇじゃん。彼女と決まったわけでもねぇし、それに仮に……仮に彼女だったとして、そのことでこんな世界に裏切られたような気分になる必要なんて全然ないんだ。遅かれ早かれ、こういうことにはなっていたはずなんだから。俺は久しぶりの恋に浮かれて冷静じゃなかったけど、あんなかっこいい人、周りがほっとくわけねぇんだから)
「ん? どした?」
 黙ってしまった高尾に、タケが首を傾げる。
「いやな……触れずにいたら、いつか薄まってなくなっちまうよな、と思ってさ」
「はぁ?」
「なんでもね! 教室行こうぜ」

 傷付かないように生きる方法はいくつかある。傷付けようとするものから遠ざかり避け続けること、正論と自信で武装して身を守ること、あるいは、傷付けられたことにも気付かないほど鈍感になること。
 高尾は今まで、そのいずれかの方法を駆使して上手に生きてきたつもりだった。必要のない争いは避ければいい。自分が正しいと思えば傷付くことはない。くだらない痛みは無視すればいい。だから今回のことも、高尾はうまくやり過ごせると思っていた。
 カフェ・レーヴには行かなくなった。宮地からは時折メールが届いたが、当たり障りのない返事を返すだけで、ライブに誘われても例のロックカフェに誘われても、就活やゼミを口実に断った。会わないように、接点を持たないようにしようと思えば簡単だ。二人はただのカフェの店員とその店の客で、たまたま音楽の趣味が合って、たまたま一度一緒にライブに行っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 十月が過ぎ、十一月になった。空の青さは日に日に純度を増し、透き通るように高くなった。凶器みたいな容赦ない日差しはなりを潜め、人々はありがたそうに太陽を仰いだ。
 宮地からの連絡は、最近はほとんど来なくなっていた。もう二ヶ月近くも会わないように避け続けているのだ。何か勘付いたのかもしれないし、単に一友人としての高尾に見切りを付けたのかもしれない。そうやって、少しずつ距離を置いて過ごしていれば、この感情も胸の痛みもやがて薄まっていくはずだった。アイスコーヒーの氷が少しずつ溶けていくように。
(そのはずだったのに)
 溜息が零れそうになり、高尾は慌てて口を引き結んだ。今は岩石学の講義中だ。
「え~、複輝石かんらん石に含まれる二酸化ケイ素の値について……例えば300℃、500℃、700℃と段階を踏んで熱を与えた場合……もっとも安定感のある構造を持つ結晶相は……」
(うまくいかないもんだなぁ)
 ぼそぼそと話す教授の言葉はちっとも頭に入って来ず、高尾は真っ白なルーズリーフの上に置かれた自分の手をぼんやりと眺めた。軽い運動程度にしかバスケをやらなくなって、心なしか指がほっそりとし、骨が目立つようになった気がする。
 宮地から連絡が来ても来なくても、結局高尾の胸はしくしくと痛んだままだった。気付かないふりをしようとしても、傷の縁に小さな自分が腰掛けて、足をぶらぶらとさせながら無視できない痛みを与え続けている。
 思うようにならない心は体から半分はみ出しているみたいで、じっと見つめる手のひらも、まるで自分の手ではないかのように思えた。
「はい、じゃあまた来週ね」
 しわがれた老教授の声に顔を上げる。今日の最終講義はいつの間にか終わっていた。九十分、ほとんどぼんやりと過ごしてしまったことを反省する。
(やれやれ)
 頭を振って、何も書き込んでいないプリントとルーズリーフを鞄にしまっていると、ゼミの女の子が話し掛けてきた。
「高尾くん、なんかずっとぼーっとしてたでしょ。最近元気ないよね。大丈夫?」
「ん、ああ、ちょっと就活やら何やらで疲れてんのかな~。心配してくれてあんがとね」
「根詰めすぎじゃない? 息抜きもしなきゃ。あ、そうだ。この後ヒマ? よかったら飲みに行こうよ」
 正直、あまりそういう気分ではなかったが、無理やりにでも遊んで気を紛らわした方がいいかもしれないとも思った。
「オッケ、んじゃ行こっか」
 それに、女の子といれば少しは彼のことを忘れられるかもしれない。高尾は空元気を出すように、弾みをつけて勢いよく立ち上がった。
 酒を飲むつもりだったので、自転車は大学に置いていくことにする。彼女は高尾の肩ぐらいまでしか身長がなくて、見下ろすと、ゆったりとしたニットの鎖骨の辺りから小ぶりの胸元が覗きそうでドキドキした。夜風に乗って、フローラルな香りが微かに鼻孔をくすぐった。
「でね、ネットで調べてマンゴーソースを隠し味に入れてみたら、ほんとにおいしくってぇ……あ、高尾くん見て見て」
 楽しげに話していた彼女がふいに袖を引くので、高尾は慌てて彼女の胸元から目を離し、指し示す指の先を見た。
「あの正門のとこに立ってる人、超背ぇ高いよ。金髪だし、ちょっと怖いね。大学生じゃないよねぇ」
 ドコン。
 心臓に太い丸太を投げ込まれたような衝撃があった。急に立ち止まった高尾を、彼女は不思議そうな顔で見上げる。
「どうかした?」
 門柱に凭れかかって立っていた男が体を起こした。
「高尾くん」
「宮地……さん」
 にこっと微笑んで手を上げる宮地に反射的に後ずさり、しまったと思った。別に逃げる必要はないのだ。だが、後ろに引いた足は止まらずに、高尾はパッと身を翻した。
「高尾くん?!」
 宮地と女の子の声が重なって高尾の名前を呼んだ。すぐに追い掛けてくる気配がする。スニーカーの足音。宮地だ。
「高尾くん、どうかした? 待ってよ!」
 高尾は振り返らずに全速力で走った。広いキャンパスを突っ切って、まっしぐらに裏門へ向かう。学生や先生が何事かと視線を向けたが、大学生の行動などいつでも突飛なもので、すぐに興味を失ったように彼らの日常に戻っていった。裏門は薄暗い通りに面していて、この時間になるとほとんど人通りがなくなる。高尾は裏門を飛び出して、どちらを向いて走ればいいかもわからずただがむしゃらに駆けた。
「高尾くん! 待って!」
 宮地はまだ追い掛けてくる。
 胸が締め付けられるように軋んで、うまく呼吸ができない。空気を求めて喘ぐと、なぜだか嗚咽と共に涙が零れた。
(なんで俺走ってんだろう。なんで俺逃げてんだろう。なんで、俺泣いてんだ)
「高尾くん!」
 定期的な運動をしなくなって久しく、高尾の足はもつれがちだったが、宮地の声はほんの少し遠くなっていて安心した。
(逃げ切れるかも)
 そう思った時、
「高尾くん、ハァ、待てってば! チッ、おい待てよ!!」
 普段の宮地からは考えられない激しい怒声に、反射的に足が緩んだ。その一瞬で追い付かれ、ガッと右肘を掴まれる。
「ハァッ、ハッ、ったく、あんま、ハァッ、走らせんな、つの」
 宮地は大きく肩で息をして、しばらくは顔も上げられない状態だった。そこは車三台分の小さな月極めの駐車場で、一番のスペースに白のカローラがひっそりと停められていた。いつの間にか日はとっぷりと暮れて、切れかけた街灯が弱々しい影を落としている。人気のないアスファルトの道に、二人の荒い呼吸の音だけが響いた。
 宮地は時折噎せながらも、掴んだ手を決して緩めようとはしなかった。高尾の肘を一回りしてしまいそうな大きい手に、心臓まで一緒に握り潰される気がして、高尾は言葉を絞り出した。
「痛いッス」
 返事の代わりに、宮地の右手にますます力が籠った。
「離してよ」
 鼻水が出て、随分潤んだ声になってしまった。ズ、と音を立てて鼻を啜る。
「は~、やっと、ちょっと落ち着いた」
 よっこらせ、と年寄りじみた掛け声で宮地は屈めていた腰を上げた。
「ったく、三十路前を全速力で走らすんじゃねーよ」
「頼んでません」
 ぶすっとして言うと、右腕を軽く引いて顔を覗き込まれた。横を向いて視線を逸らす。
「なあ、なんで泣いてんの」
「泣いてねーッス」
 答えた声が奇妙に歪んで、ポロっと涙が零れた。
「泣いてるよ」
「泣いてねーッス」
 宮地の苦笑する気配がした。
「なんで逃げたの?」
 彼の口調は元の優しげで穏やかなものに戻っていて、さっき一瞬見せた荒々しさは駐車場の闇に紛れてどこかへ消えてしまった。それをなぜだか少し惜しく思う。
 黙ってしゃくりあげる高尾を、宮地はそっと抱き寄せた。
「な、言ってよ、高尾くん。俺のことずっと避けてただろ。きっと、あの日の晩から。高尾くん、あの時やっぱりあそこにいたんだろ? なあ言って。なんで逃げたの? なんで俺のこと避けてた?」
 宮地の腕の中は温かくて、走ってうっすらと汗をかいて冷たくなった身にはとても心地よかった。
 トクン、トクンと、宮地の心音が押し付けられた頬から伝わってくる。それは宮地の声と同じように穏やかで優しくて、高尾の涙腺と胸に詰まった塊を緩やかに溶かした。
「だ、だって……ひっ」
「うん?」
 情けなく裏返った声を宥めるように、宮地の手がぽんぽんと背中を叩いた。
「だって、あの日の晩、宮地さん女の人と、レーヴの店員さんと一緒にいて……つ、付き合ってんのかな、とか思って」
「うん、それで?」
「したら、なんかすげーショックで、訳わかんなくなって」
 話していると、また悲しさがこみ上げてきて高尾は声を震わせた。ぽんぽんと背中を叩いていた腕の動きが、そっと撫でさするものに変わる。
「し、しばらく会わなかったら落ち着いて、そんな気持ちも忘れて、元通り、何もなかったみたいに会えるかなって、思ってたのに」
 伝わってくる宮地の心音が、少し早くなった。
「ね、高尾くん、言って。それってどんな気持ち? 俺のこと、どう思ってる?」
 トクトクという心臓の鼓動、遠慮がちに高尾を抱き締める腕、潜められた甘やかな声。感情は決壊したように、高尾の口から零れた。
「好き、好きです、宮地さん、好きです」
 掬われるように顎を取られ、涙と鼻水で濡れた顔を覗き込まれたかと思うと、
「俺も好き」
 言うが早いか宮地の顔が近付いて、唇を塞がれた。チュッと音を立てて離れると、声も出せずに混乱している高尾を見て、宮地は照れ臭そうに笑う。
「俺も、好きだ。高尾くん」
「え? ……え?」
「はぁ~、よかった。夢みたいだ。だってこんな……両想いだったなんて……いや、ちょっとは期待してたんだけどさ」
「え? あの」
「俺、ずっと好きだったんだよ。高尾くんのこと」
「へっ?」
「わりと、一目惚れ」
「え、ちょ、ちょ、ちょ、待ってください。あの女性店員さんは彼女じゃねぇんスか?」
「彼女はいい友達だよ。俺ゲイだし」
「ふぇ?!」
 目を白黒させている高尾を見て、宮地は楽しそうに笑った。
「彼女はそれ知ってて、女友達みたいな感覚で接してくれる。恋バナしたりとかさ」
「そ、そうだったんですか……」
 びっくりして涙も止まってしまった。まだ実感が伴わないまま、喜びだけがじわじわと尻の辺りから這い上ってくる。
「ちょっとずつさ、意識してもらえたらなぁって思って頑張ってたんだけど、努力が実ったかな。避けられてたのも、もしかしてあれが原因かな、勘違いさせちゃったかな、なんてちょっと自惚れてた。まああんまり長く続くんで、さすがに不安になって大学まで来ちゃったわけだけど」
 ごめんね、と宮地は目を細めて言った。
「……俺、諦めなくていいんだ」
 高尾は力を抜いて全身を宮地に預けた。
「勝手に諦められたら困る」
 宮地が声もなく笑う振動が伝わってきて、高尾は目を閉じて宮地の背中に両手を回した。意外に筋肉の付いた胸板に鼻を擦り付けると、羽織った薄手のジャンバーの皮の匂いと、ミントのような香水の香り、そして温かく湿った汗の匂いがした。宮地が身じろぎして、「よせよ」と言った。「汗臭くない?」
 高尾は無言で首を振った。いつも涼しげな佇まいのカフェの宮地とは違う生身の匂いに、高尾は少し興奮した。
「宮地さん、好きです」
 ジャンバーに顔を押し付けたままくぐもった声で言う。宮地が黙ってしまったので顔を上げると、照れたような困ったような怒ったような複雑な表情をしていて、高尾はひどく既視感を覚えた。
「ああ、やっぱり似てる」
「え?」
「俺の先輩の宮地さんと」
 薄れかけていた先輩の顔が、いきなりピントがあったみたいに脳裡に像を結ぼうとした。しかし、それを疑問に思う暇も吟味する暇もなく、宮地の両手に頬を挟まれぐいと上向かされる。宮地が唇を掠めるようにしてささやいた。
「今、他の男の話すんなよ」
 すぐに入ってきたぬるついた舌と熱い呼吸に掻き混ぜられ、浮かびかけた顔は水面に映った月のように、あっけなく揺らいで見えなくなってしまった。

 美しいギターアルペジオのイントロが流れた途端、客の何人かがヒュウと口笛を吹いた。宮地と高尾もすぐに顔を見合わせてにっこりとする。
「ホテル・カリフォルニア!」
「ザ・イーグルス! ぐあー、たまんねぇッスね、このイントロ」
「名曲が名曲と言われるには、それなりの理由がちゃんとあるよね」
 二人はいつものロックカフェに来て、いつもの濃すぎるコーヒーを飲んでいた。高尾は久しぶりにカフェ・レーヴへ行き、ランチタイムで上がりだった宮地を待って一緒に出て来たのだ。宮地は高尾と付き合うことになったことを例の女性店員に話していたらしく、意味ありげにウインクされて変な汗をかいてしまった。
「あーここ、ここのドン・フェルダーとジョー・ウォルシュのギターソロが……」
「めっちゃエッジ効いてますね」
「痺れるな~」
「そして掛け合いからのユニゾン」
 はぁ~と二人してうっとりとため息をついていると、カウンター席のハンチング帽を被った七十がらみの男が、二人の座るテーブル席を振り返った。
「わはは、君ら若いのによくわかってるじゃないか」
「いやいや。本当にいいものは時代を越えますよね」
「その通り。逆に最近の若い子らの音楽だって、本当にいいものは僕みたいなジジイの心にも響くのさ」
 彼は熱心なロック愛好家で、宮地と高尾がこのカフェに来るといつも必ずカウンターの定位置に座っていた。何種類ものハンチング帽を被りこなす、おしゃれな老人だ。
「まあしかしマスター、粋なことすんね」
 老人に振られたマスターは黙ってにこにこと微笑んでいる。彼は大体いつもにこにことして、音楽を楽しむ客たちを嬉しそうに眺めながらコーヒー豆を挽いている。
「今日誕生日だからでしょ? ジョー・ウォルシュの」
「ええ。彼は一九四七年の今日に生まれました」
「あっ、俺と一日違い」
 思わず高尾が声を上げると、宮地が「えっ」と言って腕時計の文字盤の日付を見た。
「今日って二十日?」
「うす、俺二十一日」
「はあ?! ちょ、早く言えよ!」
「だって、改まって言うのもなんかねだってるみてぇで悪いし……」
「バカ、初めての誕生日なのに。え、明日は空いてる?」
 えーっと、と頭の中でスケジュールを思い浮かべる。
「ゼミが五限で終わるので、六時半ぐらいには」
「オッケー。俺明日はオフだから、晩ご飯作るよ。俺ん家おいで」
「え、マジですか! わー嬉しいッス!」
「仲いいねぇ」
 ハンチング氏に笑いを含んだ声で言われ、聞かれていた、と二人して赤面してしまった。

 翌日、宮地とは大学の近くのコンビニの前で待ち合わせた。宮地は大学まで迎えに行くと言ったのだが、先日派手にキャンパス縦断追い掛けっこをした後なので、目撃していた人に出会ったら恥ずかしいと思って断った。ちなみに、あの時置き去りにしてしまった女の子には、その日の晩に電話をして謝った。誤解から気まずくなっていた人だが解決した。気が動転していたから、約束もほったらかしで逃げてしまってごめん。当たり障りなく説明して率直に謝ると、彼女は「最近様子が変だったのも、彼のせいだったのね。解決してよかったじゃない」と、笑って許してくれた。
 ゼミが終わっていそいそと片付けていると、彼女が側に来て「待ち合わせ?」と尋ねた。
「うん、誕生日祝いしてくれるって言うから」
「もしかして例の人?」
「そうそう」
「えーっ、誰だよ! 彼女? やっぱり彼女できたのか?!」
 耳ざとくタケが斜め後ろの席から身を乗り出してきた。タケは最近この女子のことが気になっているようで、こうして高尾と彼女が二人で話していると必ず割り込んでくる。
「ううん。超イケメンのお兄さんだよ」
「まあ、音楽仲間、みたいな?」
 ふうん、と、タケは高尾に彼女ができたわけではないとわかればそれでもう満足なのか、途端に興味のなさそうな顔になった。
「せっかくカズの誕生日祝ってやろうと思ってたのに」
「あはは、サンキュな。あ、じゃあ今日は主役不在で、二人でお祝いしてよ。ここにいないカズくんの誕生日を祝して乾杯~って」
「あ、それ楽しそう」
「マジで?! じゃあ行っちゃう?!」
 二人で盛り上がり始めたのを横目に、「んじゃまた来週」と教室を飛び出した。
 深まった秋の夜風は冷たいが、高尾は風を掻き分けるようにして全速力で自転車を漕いだ。明々としたコンビニの前に、手持無沙汰に携帯を弄っている宮地の姿が見え、高尾は弾む呼吸で「宮地さーん」と呼んだ。気付いた宮地は携帯を閉じ、照れ臭そうに片手を上げた。
「お待たせしました」
「いや、全然。お疲れ」
「宮地さん家ってこの近く?」
「うん、こっから歩いて五分くらい。あそこにちっちゃい公園があるだろ。そのすぐ向こうだよ」
 歩き出した宮地について、自転車を押す。さらりと誘われたから「行きます!」と即答してしまったが、よく考えたら恋人の家に初めてお邪魔するのだ。高尾は今更ながらドキドキしてきた。
 宮地の言った通り、彼の住むアパートは公園のすぐ隣に建っていた。築十年という少し古びた階段をカンカンと音を立てて三階まで上る。西向きの角部屋で、他の部屋よりベランダが広いらしい。鍵を開ける宮地の背を、落ち着かない気持ちで見守る。
「さあ、どうぞ」
 宮地に促され中に入った途端、高尾は「わぁ!」と歓声を上げた。
「めっちゃいい匂い!」
「今日は一日時間があったからね。牛バラ肉と大根の煮込みだよ。一日かけて炊いたからよく染みているはず」
 男一人暮らしの狭いアパートだが、リビングも洗面台もきれいに、しかし使いやすいように片付けられていて、普段からきちんと整頓しているのであろうことが窺えた。
「そこ座って」
 示された椅子を引いて座ると、小さなテーブルいっぱいに次々とごちそうが運ばれてきた。
「レーヴ仕込みの創作フレンチと迷ったんだけど、俺元々和食派でこっちのが得意だから。和食大丈夫?」
「すげー好きッス! 家ではほとんど和食ばっかだったんで」
「うわー、おふくろの味と勝負じゃあ勝ち目がないな」
 宮地は鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から日本酒の四合瓶を出してきた。
「和食にはやっぱこれでしょう。あんま誕生日のディナーって感じじゃないけど」
 グラスに注ぎ合って、「では」と宮地が改まった。
「高尾くん、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
「乾杯!」
 キレのいい口当たりの日本酒が食道を刺激しながら胃に落ちていき、高尾はくぅ~っと唸った。「うまい!」
 続いてとろとろの大根に箸を入れる。よく煮汁が染みて濃い色になった大根は軟らかく、口に入れると「あふ、あふっ」と言っている間に溶けてしまう。
「めっちゃうまい! めっちゃうまいッス!」
 宮地は楽しそうにそれを眺めながら杯を傾けている。「そんなに喜んでもらえて、頑張った甲斐があったよ」
 牛肉と大根の煮込みも、こんにゃくと厚揚げの田楽も、えび芋の揚げ出しも、桜えびの茶わん蒸しも、男の料理とは思えない繊細な味付けで、盛り付けも美しかった。うまいうまいといい食べっぷりを見せる高尾に対して、宮地はもっぱら酒を楽しんでいる。
「宮地さんお酒強そう。顔色変わんないスね。俺日本酒は、あんまたくさんは飲めないかなぁ」
「ふふ、まあ強いけど。いつもの三倍は理性が緩くなるから、気を付けて」
 流し目でテーブルの上の手の甲をするりと撫でられ、高尾は赤くなった。さっきまで冷えたグラスを持っていた宮地の手はひんやりとしている。宮地は高尾の左手の薬指をしばらく弄んだ後、指の股を掠めるようにくすぐってきた。
 変な気分になりかけて、高尾は慌てて話題を変えるように口を開いた。
「ええっと。あ、あ、そうだ。宮地さんは誕生日いつなんですか? こんなに祝ってもらって、俺も何かしたい」
 宮地は仕方なさそうに高尾の左手を離した。
「誕生日ね、実は俺も十一月なんだ。十一月十一日。ポッキーの日」
「ええっ?! って、こないだ終わったとこじゃん!」
「実は二十八歳になっていました」
「ちょっと! 俺には誕生日言えって言ったくせに!」
「だって、あの時まだ高尾くん俺のこと避けてただろ? 寂しい誕生日だったんだぜ」
 高尾はうっと言葉に詰まった。もう少し早く自分の気持ちに素直になっていればとは、あれからずっと思っていたのだ。
「い、今からでもお祝いしますよ」
 宮地はくすくすと笑った。
「いーよいーよ。それに、俺はこうして今日高尾くんに手料理を食べてもらえたことで十分幸せ」
「でも……」
「そうだね……じゃあ来年。来年の誕生日、また一緒に祝ってほしいな」
「もちろんです! 来年、約束ですよ」
 テーブルの上で小指を絡めると、そのまま腕を引かれてキスされた。
「来年の誕生日、楽しみだな」
 高尾は目を閉じて、一年後の二人の誕生日を思い浮かべた。温かな食卓、宮地の甘い声、繋いだ指先。こういう日々の小さな幸せの積み重ねの先に、変わらぬ二人の未来がある。この時高尾は、そう信じて疑わなかった。

2 → 3 → 4


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