カフェの人 -4-
高尾は人ごみをすり抜けながら待ち合わせ場所に向かって走っていた。県の中心部に位置するこの街はいつもそれなりににぎわいを見せているが、今夜はまた格別に、県中の人間が集まったのではないかと思うほどの人出だった。デパートやショップのショーウィンドウは軒並み赤や緑や金色の電飾で煌やかに飾られ、通り沿いのカフェレストランの表看板にはローストチキンやミートローフ、ブッシュドノエルなど、クリスマスの定番メニューがイラスト入りで書き立てられている。
クリスマス・イブ。イエス・キリスト生誕を祝う前夜祭の今日も、多神教徒でイベント好きの日本人にとっては今や恋人の日の代名詞だ。高尾もご多分に漏れず、今日はカフェタイムで仕事を終える宮地とデートの約束を取り付けていた。カフェの仕事はクリスマスに休みなんて取れないだろうと諦めていたのだが、例の女性店員が、「私に稼がせなさいよ」と半ば強引に宮地の半休をねじ込んでくれたらしい。
街路樹にもLEDライトが巻きつけられ、歩道に沿って緩やかなカーブを描きながらチカチカと輝いている。この光の道を辿っていった先に宮地が待っているのだと思うと、二人の未来を祝福するバージンロードのようにも見えて、高尾は照れ笑いを浮かべた。マフラーを少し持ち上げて、口元を隠す。
(祝福されているみたい、だなんて)
去年のクリスマスは彼女に振られた直後で(数合わせの合コンで出会った、気立てはいいがあまり頭のよくない女の子だった)、タケを始め数人の寂しい男どもと夜通し飲みながらカラオケで大騒ぎをしたのだった。あの時は、「クリスマスなんてイベント誰が作ったんだ! 恋人の日って誰が決めた! 今日はただの平日だ!」などと息巻いていたのに現金なものだ。街を彩るクリスマスの装飾、やたらと目につく幸せそうなカップル。ただただ疎ましく自分を呪っているみたいに見えていた象徴的な物事すべてに、今は「メリークリスマス!」と言って肩を叩いて回りたい気分だった。去年も今年も似たり寄ったりなはずのこのクリスマスの光景は、自分の気持ち一つでこうも違って見えるのだ。自分が現実と思っているこの世界は、巨大で流動的な世界のほんの一部にしか過ぎず、そこに生きる人の数だけ無数の現実があるのかもしれない。
(ちょっと遅くなっちまったな……)
高尾は腕時計をちらっと見て眉を顰めた。待ち合わせ時間にギリギリ間に合うか、数分ぐらい遅れるかもしれない。いつも閑散としている古CD屋のバイトが、クリスマス需要のせいかいやに客足が多く定時で上がれなかったのと、ごった返した駅で電車を一本逃したせいだ。宮地は大概高尾より先に来て待っているので、数分でも待たせるのは申し訳なかった。走れば間に合うだろうが、さすがにこの人ごみを押しのけては進めなかった。そして、こんな時に限ってタイミング悪く毎回赤信号で引っ掛かる。
(連絡、入れておこうかな)
手前のスクランブル交差点の信号が赤になっているのを見て、高尾はスマートフォンを取り出した。かじかむ手でアドレス帳を呼び出し、宮地の名前を探す。やがて信号が青に変わり、ゆっくりと動き出した人のかたまりについて高尾も歩き出す。受話器を耳にあてがいながら通話ボタンを押そうとした時、斜め向かいから割り込むようにして進んできた男と肩が接触した。
「っ、ぶね」
よろけかけた体勢をとっさに立て直し後ろを振り返った時には、男の後ろ姿はちょっとびっくりするぐらい遠くなっていて、すぐに人ごみに紛れて見えなくなってしまった。「ちっ」「危ねぇなー」何人かぶつかったらしい人たちが小さく舌打ちをするのが聞こえたが、それも雑踏のざわめきに飲まれて、池に落ちた小石のように沈んで消えた。
(あの人、どっかで見たかなー)
一瞬見えた背中に見覚えがあるような気がして、耳元の呼び出し音を二つ三つと数えながら首を傾げたが、信号を渡った先に人の群れから頭一つ飛び抜けたハニーブロンドを見つけた瞬間、そんな諸々のことは一瞬で頭から飛んでしまった。(宮地さん!)と向こうから見えるはずもないのに伸び上って心の中で名前を呼ぶ。通りすがりの何人かがチラチラと宮地を見ていくのに、「その人はこれから俺とデートするんだぜ」と大声で宣伝して回りたいような誇らしい気持ちになった。宮地は電話には気付いていない。通話を切り、見失わないように宮地に向かって足を早める。すると、まだ少し距離があったのに視線に気付いたのか、宮地はまっすぐ高尾の方を振り返った。途端に、彼のちょっと冷たいぐらいに整った白い顔がぽっと色づき、金平糖を零したような笑顔になる。彼の周りにいた女性たちが、彼を見上げて頬を染めた。
「高尾くん!」
(ああバカ。そんな顔したら、みんなにバレちゃうじゃんか)
なんの躊躇もなく嬉しそうに手を振る宮地に、高尾の胸は大輪の花が一気に開いたみたいにいっぱいになった。
「宮地さん!」
高尾も手を振り返し、人の隙間をかいくぐってスクランブル交差点を渡りきった。
「宮地さん」
「お疲れ」
宮地の大きな手が高尾の乱れた髪を直すように、一瞬撫でて離れていった。
「あの、すみません。遅れて、ちょっと遅れそうになって。電話しかけてた、んですけど」
ほんの十数歩走ったのと、なんだか高揚して胸がドキドキしてしまったのとで、高尾の声は上擦った。
「あ、そうなんだ。ごめん、気付かなかった。俺もちょっと寄るとこあってうろうろしていて、これから向かうところだったんだ。ちょうどよかった」
宮地は気付いているだろうに涼しい顔で、高尾は少し悔しい。高尾の照れも動揺も見透かした上で、あえて高尾の好きなきれいな顔を近付けてくる宮地は本当にずるいと思う。
「顔、赤いよ」
いつものからかいの言葉に、高尾は拗ねたふりで宮地の二の腕を殴った。
「ほっといてください。で? どこ行くんですか?」
「カテドラルでイルミネーションをやっているんだ」
宮地はそう言いながらコートの裾を翻し、「こっち」と歩き出した。
「カテドラル……ああ、古墳の森公園の近くの古い教会堂ですね。そういや、イルミネーションやってるって去年聞いたような気がする」
市中心部から少し歩いたところに、十六世紀、キリスト教が伝来した際に地元の大名が建造したとされる小さな聖堂がある。江戸時代に徳川幕府がキリスト教禁令を敷く前にその大名家は没落し、それが幸いしたのか、森に隠れるようにして建てられた小さな教会堂は取り壊されることなくひっそりとそこに残り続けたという。江戸時代、隠れキリシタンたちの手によってカモフラージュを目的とした改築が施され、さらに大正時代、建物の老朽化のため一度取り壊して当初の姿を再現すべく建て直しているので、建造物としての歴史的価値はそれほど高くはないのだが、ここ数年時流に乗ってイルミネーションに力を入れだし、穴場のデートスポットとして口コミで人気の輪を広げているらしい。すぐ側が鬱蒼とした古墳の森になっていて(こちらも然程歴史的価値のない、よくある小さな古墳群のうちの一つだ)、夜は市内にいながら郊外のように暗く、色遣いを抑えた控えめなイルミネーションがかえってロマンチックで美しいと評判で、大人のカップルを中心に年々訪れる人が増えていると言う。高尾がその噂を聞いたのは例によって彼女と別れた後の去年のクリスマスだったので、すっかり記憶の中から押し出してしまっていた。
「ちょっと歩くけど」
宮地は一瞬高尾の足元に視線を遣った。今日は臙脂色のワークブーツにジーンズをインして履いている。
「あ、全然、全然大丈夫です。これ履き慣れているし、歩きやすいし。つか、長時間歩くの平気なんで」
宮地は時々こうした気遣いを見せるが、女の子のように扱われていると感じたことはなく、むしろ恋人としてリードされているみたいで高尾は気恥ずかしくも悪い気はしなかった。
跳ねるような足取りで宮地の後をついていく。先ほど渡ってきたスクランブル交差点を斜めに横切る。人々の話し声、行き交う気配、多数の足音が渦巻く坩堝の中にいて、宮地の柔らかいスウェードシューズの足音や少し高めの穏やかな声は、高尾の耳に特別によく届いた。ビルの壁面に取り付けられた大型スクリーンでは、最近発売された人気アイドルグループのクリスマスソングのミュージックビデオが繰り返し流されている。それに合わせて宮地が鼻歌を歌うので、高尾は驚いて言った。
「宮地さんもそんな曲知ってるんですね」
コアなロックファンで、流行りのアイドルソングには疎いと思っていたのだ。
「なんで? みゆみゆ、かわいいじゃん」
「ぶはっ、なんスかそれ。チョー意外」
照れもなく言ってのける宮地の新しい一面を見た気がして、高尾はそれすらも嬉しかった。
カテドラルに続く道筋は、つかえて前に進めないというほどではなかったが、街の中心部から外れていくにも関わらず、切れ目なくだらだらと続く長い列ができていた。やがて斜め前方に巨人が蹲ったような黒い森の影が現れ、それを迂回する緩やかな下り坂のカーブを曲がるにつれ、キラキラとした光の片鱗が姿を見せ始めた。溜息のような歓声が、列の前からさざ波のように押し寄せてくる。二人は無言で足を速めて森の端を回った。視界を遮る黒い影が一気に晴れる。二人は同時に感嘆の声を漏らした。
白く小さな電飾が、なだらかな坂に沿ってさながら天の川のように流れ落ち、真っ暗な宇宙の底に建つ小さな建物に向かって収斂されていく。少しずつ金色を濃くしていくグラデーションは教会堂の足元で最高潮となり、小麦の穂のように風に揺れてさえ見える。ずんぐりと丸い小さな建物自体には電飾は施されていなかったが、下に広がる白と金色の光の揺らめきを受け、幻想的な影をその白い壁に映し出していた。
「これは……すごいな」
「……うん」
白と金色のみで作られた光の世界は、高度な天体望遠鏡で覗く宇宙の星雲みたいに果てなく広がって見え、下手すると吸い込まれてしまいそうだった。小さく古い教会に漂う控えめな敬虔さが見る人に伝播したのか、皆言葉少なにその光景に見入っていた。
「高尾くん」
身を屈めた宮地が、耳元で囁いた。
手袋を外した宮地の冷えた手が人垣に隠れた高尾の左手を取り、探るように薬指をなぞったかと思うと、細くて硬い金属が指の先にコツンと当たった。その繊細な金属は高尾の決して細くない指にするすると落ちていった。
「メリークリスマス」
高尾は左手を目の高さに掲げて見た。節くれだった男の手。薬指にほっそりと輝く銀色のリング。
「宮地さん、これ……」
リングは眼前のイルミネーションを反射して、湖のように揺らいだ。
「高尾くんが、俺のものだっていう印」
臆面もなくそう言ってのける宮地はなぜか得意げな表情で、いつもより数段子どもじみて見えた。
「宮地さん」
高尾はリングのはまった左手で、宮地の右手を取った。
「宮地さん、宮地さん」
「なんだよ」
「宮地さん、ありがとう……やっべどうしよ、超嬉しい」
宮地を見上げた顔は、泣きそうな表情になってしまったかもしれない。自分が宮地に求められているのだと、強く感じた。そしてそれは、想像していた以上に甘美な痺れを高尾にもたらした。
宮地は高尾の顔をしばらく熱心に見つめていたが、やがて高尾の手を繋ぎなおし、何かを確かめるみたいに二三回ぎゅっと力を入れて握った。外気に晒されているはずの剥き出しの手は、どちらも熱かった。まさぐるように宮地の指が高尾のリング探り当て、薬指と一緒に握り込んで撫でる。
「サイズ、ぴったりでよかった」
「なんでわかったの?」
「俺と同じくらいかなって思ったから。いろいろ下見してたんだけど、気に入ったやつはサイズがなかったから注文していて、さっき引き取ってきたんだ」
「同じくらい? 俺の方が太いかと思ってた」
繋いだ手を見下ろそうと身をよじると、宮地は二人の隙間を埋めるようにぴったりと身を寄せてきた。繋いだ手はそのままに、宮地の人差し指が高尾の太ももを明確な意図をもってなぞりあげた。高尾のごつめのジーンズの上を、優しく引っ掻くように行ったり来たりする。足の付け根の際どいところを一瞬指が掠め、高尾はぶるっと身震いした。
「み、宮地さん」
うろたえた高尾は手を引っ込めようとしたが、宮地の強い力で握りこまれ、動けなくなった。
「……ダメ?」
高尾はゆっくりと顔を上げて宮地を見た。宮地も高尾を見ている。右半分だけ明るいイルミネーションに照らされた宮地の顔には複雑な陰影が刻まれていたが、その下にはっきりとした欲望が揺らめいているのが見て取れて、高尾は自分の体が急激に熱を持つのを感じた。
「高尾、我慢できねぇ」
わずかに潜められた眉、懇願するような声、余裕のない口調、潤んだ薄い虹彩。すべてが高尾の本能に火を灯した。身体中が心臓になったみたいに、そこもかしこもドクドクと脈打っている。厳かで神聖な教会のイルミネーションを前に二人だけが不道徳な気持ちでいることが、いっそう高尾を興奮させた。
「宮地さん……」
高尾の掠れた声を返事と受け取ったのか、宮地は強い力で高尾の腕を引いて人の輪を抜け出した。夢見るように眩い光を見つめる視線に逆らって、二人はより暗い方へ、暗い方へと足を速めた。宮地は無言だったが、彼らしくない乱雑な歩調と高尾の腕を掴む熱い手のひらが彼の欲望を伝えていて、高尾の足をもつれさせた。早く、早く。それだけが高尾の頭を占めている。郊外の国道沿いによくある寂れたホテルに入り、エレベーターに乗り込んだ瞬間、二人は激しく口づけを交わした。
ブーツを脱ぐのももどかしくベッドにもつれ込むと、宮地はすぐにのしかかってきた。いきなり舌を突っ込まれ、口の中を隈なく舐められる。はっ、は、という二人の荒い呼吸は、しっかりと防音された狭い部屋の中で消えることのないほこりのように床に降り積もった。薄目を開けると、宮地は浮かされたような瞳で高尾を見ていた。いつも穏やかな宮地の見たことのないぎらりとした瞳の色は、見たことがないはずなのにいつか遠い昔に見たような気もして、高尾の頭は混乱してぼやけた。何も考えられない。分厚いコートを乱暴にはだけられ、再び宮地が覆いかぶさってくる。硬いジーンズ越しに下半身を擦りつけられ、その熱い存在感を意識して高尾もじわりと勃起した。
(俺が、抱かれるのかな)
なんとなくそんな雰囲気を感じたが、高尾はどっちでもいいと思った。どっちでもいい。ただひたすら、宮地の熱を直に感じたかった。
宮地は明日仕事だったので、泊まりはせずにホテルを出た。事が済んだ後の宮地は面白いほどうろたえて、あれやこれやと高尾の世話を焼いた。
「乱暴に、したかもしれない」
確かに、初めて他人のものを受け入れたところは切れて痛かったし、拡張された下腹部には気持ちいいとは言いがたい感触がまだ残っている。それでも、宮地が自分を欲しがったという事実と体を一つに繋げたという事実は、言葉よりも雄弁に宮地の気持ちを伝えてきて高尾はとても幸せだったし、それをそのまま宮地に伝えたら初心な少年のように顔を赤くして、少し瞳を潤ませていたのがとてもかわいいと思った。
電車に乗っている間二人に会話はなかったが、ふと顔を上げれば宮地が自分を見つめている。目が合うと少し微笑んで、満員の車内でこっそり手を繋いだ。本当の恋人同士になったと思った。付き合いたての頃みたいにドキドキした。
宮地は家まで送ると言ったが、女の子ではないし大丈夫だと言って断った。家まで送ってもらったら、なおさら離れがたくなって家に上げてしまうかもしれない。そんな心配もあった。
お腹の中にぽかりと空洞ができてしまったような違和感をやり過ごしながら、高尾はゆっくりと歩いて帰った。目を閉じれば、まだあの美しいイルミネーションが瞼の裏でチカチカと瞬いている。その瞬きの中で、キラリと琥珀の瞳が光る。温かな光を灯していたその瞳はぎらついた欲望の色に塗り替わり、やがて、甘く優しくとろとろと溶けていく。
夢のような夕方からの何時間かを幾度も反芻していると再び顔に熱が上ってきて、高尾は仕方ねぇなと一人照れ笑いをした。ビュウと音を立てて冷たい風が吹く。高尾の腰の弱い髪は風に遊ばれるままに乱れ、高尾はマフラーに深く顔を沈めた。気温はまた一段と低くなったようだが、のぼせた頭を冷やすにはちょうどいいかもしれないと思った。
ブーッ、ブーッ。
背負ったバッグの中でスマートフォンがバイブ音を鳴らし、高尾はハッと夢見心地から覚めた。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
切れない着信音はそれが電話であることを告げていて、高尾は慌ててバッグのポケットに手を突っ込んだ。もうすぐ日付が変わろうかという時間だ。誰だろう、と考えて、真っ先に浮かんだのは先程別れたばかりの宮地の顔だった。彼もまだ家には着いていない頃だ。何かあったのだろうか。
凍えた手でやっとスマートフォンを取り出し、着信画面に一瞬だけ目を走らせる。「宮地さん」と表示された文字に深く考えずに通話ボタンを押し、「もしもし」と言った瞬間に小さな違和感を覚えた。
(あれ、今、なにか)
「……もしもし」
しばらくの沈黙の後受話器から聞こえてきた声に、高尾の心臓は大きく一度、ドクリと鳴った。
「……高尾?」
(高尾くん)
最近ではすっかり耳に馴染んだ、恋人が自分を呼ぶ声が一瞬重なり、そして消えていった。よく似ているけど、恋人ではない。これは。
「宮地……さん」
「……久しぶり。なんか……着信あったから。……さっきは、気付かなくて」
あの時だ。宮地との待ち合わせ場所に向かう途中、通話ボタンを押そうとした時にスクランブル交差点で人とぶつかった。指がぶれて、恋人の名前の上にあった番号を押してしまっていたのだ。
「す、すみません、間違えたみたいで……! 俺も、今の今まで気付いてなくて」
「……そっか」
電話の向こうの声は少し遠くて、高尾は受話器をしっかりと耳に押し付けた。
(似てる。声)
ドクン、ドクン。
分厚いコートの上からでもわかるほど、高尾の心臓は大きく脈打っていた。
「お久しぶり、です」
「……おう」
すぐに切ってしまうのも変な気がして言葉を繋いだが、宮地の歯切れは悪かった。
「お元気ですか」
「うん。……そっちは? 静岡だっけ」
「はい。大学、こっちで。宮地さんは、今東京?」
「そうだよ。院に行ってな。まだ学生」
「大坪さんに聞きました。こないだ」
「あー……」
宮地は記憶を辿るように間延びした声を出した。「なんか、誘われたっけな、夏頃」
「連絡あんま取ってねーんスか?」
「まあ、元々用事なけりゃメールしたりしねぇから。俺も、大坪も木村も」
甘い声なのにぶっきら棒な口調。常に不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた顔。緑間と高尾を怒鳴りつける声。
なんで忘れていたんだろう。
声を聞くうちに、五年前の宮地の姿がありありと浮かんできた。
だいたい拗ねたように尖らせていた唇。木村に見せる屈託のない笑顔。まつ毛まで淡い色だった琥珀色の瞳。ユニフォームから伸びる、鍛えられたしなやかな手足。
なんで、忘れていたんだろう。一年間、あんなに追い掛けて見つめ続けていた宮地の姿を、顔を、存在を。忘れるにしては、似すぎているというのに。
「……高尾?」
黙ってしまった高尾に、訝しげな声が掛かる。
「あ、あの、宮地さん」
喉はカラカラに乾いていた。
「宮地さん、今、東京ですよね?」
「? さっき言ったじゃん。東京だよ。実家には帰らねぇで、一人暮らしのアパートだけど」
「こっちに……あの、静岡に来たことありますか? ここ最近」
「はぁ?」
宮地は高尾の質問の意味を計りかねているような声を出した。
「や……静岡は、中学の林間で富士山に行ったぐらい、かな。新幹線で通過したりは何回かしてるけど……え、そういうこと?」
「いえ……や、まあ……あ、ほら、結構こっち、気候もいいし、観光地もあるし、来たことあるのかなって……ちょっと、思っただけです」
ハハ、と取って付けたような笑い声を漏らした高尾に、宮地は「ふーん」といまいち納得のいかない声を出しながらも、深くは追及しないことにしたらしい。
「ふーん……ま、いーや」
再び、二人の間に沈黙が落ちる。高尾は何か宮地に聞かなければならないことがあるような気がしたが、思い出せずに黙っていた。宮地の方から電話を切る気はないらしく、「あー」と無意味な声を出した。
「お前、バスケは?」
「サークル入って、軽く続けていますけど、まあ遊びみたいな感じです」
「そ、か」
「……宮地さんは?」
「俺も……卒業してしばらくはサークルやってたけど、卒論や院試で忙しくなって辞めて以来あんまり、かな」
「あー、やっぱ、そうなりますよね」
バスケ部のかつての先輩と、バスケ以外のことを電話でどう話せばいいのかわからなかった。
「……緑間とは連絡取ってんの?」
「そんな頻繁じゃないですけど、まあ途切れない程度には」
相変わらず仲いーこって。
電話の向こうで、声もなく笑う気配がする。こんな風に静かに笑う人だっただろうか。さっきまで会って抱き合っていた宮地と遠く東京で静かに笑っている宮地が重なって、ぶれたみたいに二重に見える。駄目だ、混同している。二人は別の人間だ。けど、本当に?
高尾は二人の宮地の違いを見つけようと、受話器の向こうのどんな小さな違和感も見逃さまいと耳を澄ました。宮地はそんな高尾の思惑を知ってか知らずか、ぽたり、ぽたりと緩慢に水飴を垂らすような間隔で言葉を繋いだ。五年ぶりの後輩に対する態度や距離の測り方を思い出そうと、苦労しているみたいな口ぶりだった。
「こないだ大坪さんに会った時、年始にまた集まるかって言ってましたよ。宮地さん来られるかなぁって。真ちゃんも、多分会いたがってます」
「多分ってなんだよ、轢くぞ」
そうだ、宮地さんの口癖だ。口を開けばひどく乱暴な言葉ばかり発していたのだ。昔は高尾の首を竦めさせた彼の暴言は、今の高尾を安堵させた。
「ね、新年会、来てくださいよ。俺も、行くつもりなんで」
「だなぁ……。ま、行けたらな」
宮地は曖昧に返事を濁らせ、また黙った。ザッ、ザッと硬い靴底がアスファルトを擦る音がする。時折、はぁと息を吐く音と鼻を軽く啜る音もするので、宮地は今、一人で外を歩いているらしい。高尾と同じで、クリスマスにどこかに出掛け、帰る途中なのかもしれない。しばらく互いの足音を黙って聞いていたが、高尾は(そろそろ)と言おうと思った。(宮地さん、じゃあそろそろ。また新年会で会いましょう)言い出すタイミングを失ったまま、高尾はその言葉を何度も頭に思い浮かべながら歩いた。宮地はきっと新年会には来ないだろう。そして、この先もずっと。
「あ」
不意に宮地が声を上げた。さっきまでかかっていた雲が晴れたような、クリアーな声だった。
「雪だ。雪降ってきた」
「マジすか」
高尾は空を見上げたが、静岡の上空は真っ黒に晴れ渡り、中途半端な楕円に膨らんだ月が西に傾きかけていた。本当に、電話の向こうにいる宮地は今東京のどこかの道を歩いていて、静岡のK町を家に向かって歩いているであろう宮地とは別の人間なのだ。高尾は深く息を吸って目を閉じた。
(当然じゃねーか。バカなこと考えかけた)
口元に笑みを浮かべ、再び目を開けると、高尾は気分を変えるようにことさらに明るい口調で言った。
「いいな~、ホワイトクリスマスですね。こっちは全然ッスよ。月が明るい」
「こっちも、積もりそうな雪じゃねぇけどな」
宮地はまだ空を見上げているらしく、少し声が遠かった。
「宮地さん、またね。新年会来てくださいね」
高尾が言うと、宮地は「うん」と答えた。
「じゃあな、高尾。……メリークリスマス」
「……メリークリスマス」
いつの間にか、アパートの扉の前まで帰ってきていた。通話を切り、のろのろと鍵を取り出してドアを開ける。部屋の中はひんやりとして暗かった。高尾はしばらく戸に背をもたせかけたままじっと突っ立っていた。ひどく疲れた感じがする。
スマートフォンを取り出し、少し迷って緑間の名前を呼び出した。たっぷり十回ほどのコールを聞き、ようやく繋がる。
「高尾、こんな時間に」
不機嫌な声に力なくゴメンねと言うと、緑間は黙った。「……何かあったのか」
「真ちゃん、雪、降ってる? 今、東京は雪?」
何を言い出すのだと問いたげな空気を感じたが、結局緑間は何も聞かずに窓のカーテンを開けたようだった。
「ああ……ほんとだ。気付かなかった。どうりで冷えるわけなのだよ。積もりそうな雪ではないがな。……高尾?」
「いや……何でもね! 悪ぃね真ちゃん。夜遅くに。しかもクリスマス・イブの夜にさぁ。あ、もしかしてお邪魔だったりした? ワリワリ! 気が利かなくてぇ~」
「おい高尾」
「ほんと、何でもねーの。ちょっと真ちゃんの声聞きたくなっただけだから。悪いな」
「気持ちの悪いことを言うな」
緑間は半信半疑の声だったが、それ以上は追及しなかった。「暖かくしてさっさと寝るのだよ」と母親のように優しいことを言うので、「早く寝ないとサンタさん来てくれねぇしなー」と混ぜ返すと、「バカめ」と言って電話を切られた。
切れた画面を見ると、一件メールの着信があった。
From:宮地さん◎「高尾くん、家着いた? 今日はありがとう! とても幸せだった。こんなに幸せな恋をしたのは、初めてかもしれない。照れ臭いけどさ、本当だよ。やっぱり家まで送っていけばよかったと後悔している。女の子扱いしてるわけじゃなく、そうすればもう少し長く一緒にいられたなーって(笑)もうじきに実家に帰るんだよね。年明けまで会えないの寂しいけど、家族孝行しておいで。先輩たちや緑間くんにもよろしく。あ、今日すごく月がきれいだったよ。おやすみ」
(バカめ、だよ。ホントにな)
いつもより長文で饒舌なメール文は、宮地の浮かれっぷりを表しているようで高尾は静かに声を出して笑った。
(ひたすらにかっこいい人だと思っていたけど、案外直情的で素直でかわいいとこあんだもんな。ズリィわ)
この部屋のようにひんやりとしていた心に、火が灯ったようだった。高尾は電気を付けて部屋の奥に向かいながら返信を打った。
To:宮地さん◎「今帰ってきました。月、めっちゃ透明でキラキラしてましたね。俺だって、今日は宮地さんの何倍も幸せでしたから。年明けまでお預けだけど、帰ってきたらまたいっぱいキスして抱き合ってしたい。宮地さん、好きだよ。おやすみなさい」
ばふんとベッドにダイブして、高尾は目を閉じた。風呂は済ましてある。体は冷えているが、今日はこのまま布団に潜り込んで寝てしまおう。いろんなことがあって、今頭の中をぐるぐると駆け巡っているが、一晩ぐっすり眠ったら、余計なことはすべて忘れているに違いない。
体が疲れていたためか、気持ちは一向に落ち着かないのに、すぐに眠気が押し寄せてきた。夢に落ちる直前に、白と金色の美しいイルミネーションが瞼の裏に明滅した気がした。
3
→ 4 →
5
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