カフェの人 -5-

 ほんの三日ほど前までと今日の日は、一体どこが違うのだろう。切れ目のない時の延長線上にいるはずなのに、便宜的に名前をつけて区切られた時を跨いだ瞬間、自分を取り巻く空気のすべてが一新されたような心地がする。頬を切る冷たい風は、どこか背筋を正すような厳格さを漂わすとともに、期待に膨らみ先走る心を後押しし、焦燥感にも似た気持ちを運んでくる。
 三が日の最終日だというのに、境内に人は疎らであった。もっとも宮地に言わせれば、三が日の間に普段ここに訪れる三ヶ月分ぐらいの人の出入りがあるらしい。なるほど、民家と民家の隙間に遠慮がちに建てられたこの神社は、鳥居を潜ってぐるりと見渡せば境内を一巡できるほどの広さしかない。
 少し足を延ばして静岡駅まで出れば有名な浅間神社があるのだが、宮地が子どもの頃初詣によく来ていたというこの神社に、高尾が行ってみたいと言ったのだ。高尾は昨日まで東京にいて、今朝早く新幹線に乗って帰ってきた。
「疲れてるんじゃない? 明日でもよかったのに」
 そう言って気遣う宮地に、「初詣は三が日のうちに行かなきゃ意味ないじゃないですか」などと適当なことを言ったが、初めて二人で迎える新年を、ちゃんと正月の間に味わっておきたかったというのが高尾の本音だ。
 この冷たいのに、幼い姉弟が境内の鉄棒にぶら下がって遊んでいる。三才ぐらいの少女は、まだ逆上がりも前回りもできず、精一杯背伸びして鉄の棒に飛びついては、ぶらぶらと体を揺らして笑っている。弟はジャンプしても鉄棒に届かないため羨ましげに姉を見ていたが、側にいた若い父親が抱き上げて鉄棒を握らせてやると、まるで自分の手柄のように誇らしげな顔で姉を見下ろした。
 宮地は懐かしそうにそれを見て、「俺も姉貴とあそこでああして遊んだっけな」と言った。
「宮地さんは、お正月実家に帰ったんですか?」
 高尾の質問に、宮地は曖昧な笑みで答えた。
「姉夫婦が子ども連れて帰ってきてるから、俺は別にいてもいなくても……ま、実家もそれほどいやすい場所でもないんでね」
 高尾は、宮地がゲイであることを思い出して(高尾自身が宮地と付き合っているにも関わらず、高尾はその事実を意識しないことが多かった)黙った。彼は大学生のうちに家族にカミングアウトしたと以前話していた。現在、家族との関係は悪くないと聞いているが、穏やかな表情の向こうには、きっといくつかの苦い経験と様々な葛藤があったのだろう。
 宮地は黙ってしまった高尾を気遣ってか、その空気を払拭するかのようにことさら明るい声で言った。
「そうだ、高尾くん。東京どうだった? バスケ部の人たちと会ってたんだろ。その話が聞きたいな」
 高尾はほっとして言葉を繋いだ。
「あ、そうそう、バスケ部のOB会が年末に。みんな忙しいかなって思ったんですけど、正月休みで実家に帰っている時の方がかえって集まりやすいらしくって」
「東京離れてる人多いの?」
「そんなに遠いわけでもないんですけどね。千葉とか埼玉とか、その辺が多いみたい。あの日俺より遠くから来ていたのは、大阪に行った後輩と、金沢に単身赴任している先輩ぐらいかな。結構たくさん来てましたよ。俺と一緒にスタメンだったチームメイトや先輩はほとんど――」


 年の瀬と言えど、三十日ともなればさすがに忘年会シーズンも過ぎ、居酒屋の店内には数組の家族と今日の日まで仕事だったらしいサラリーマングループが散見するだけであった。
 秀徳高校バスケットボール部のOB会は例年この店でやることが決まっていて、店長も顔見知りで心安い。
「すみませーん、生もう二つ!」
 高尾が座敷から身を乗り出して通りすがりの店員に呼びかけると、隣の緑間がぼそっと「ウーロン茶」と言うので、慌てて「ウーロン茶も一つ!」と追加してやる。
 向かいの席ではすでに赤い顔になった木村と大坪が、「相変わらず緑間は高尾離れできねぇなー」と笑っている。緑間は憤然と、「違います、高尾の世話焼きが治らないだけです」と反論するが、今はそれすらも笑いの種にしかならない。
 最初は学年ごとで固まって座っていたのが、いつの間にか、高尾が一年だった頃のスターティングメンバーが集まっていた。二年の時も三年の時もそれぞれに思い出深い仲間たちだが、高尾にとっては、とりわけこのメンバーが印象深く懐かしかった。
「高尾と緑間には、去年の秋に会ったんだったな」
 大坪が、運ばれてきたビールジョッキを軽く頭を下げて受け取りながら言う。
「そうそう、うち繁忙期で行けなかったんだよなぁ」
 木村はきゅうりの浅漬けを一切れ口に放りこんで、「うん、なかなか」と頷いた。
「高尾就職だっけ? 東京ですんの?」
「あ、はい。やっぱ実家こっちだし、せっかく地質学勉強してるんで、それ生かそうと思ったら地質コンサルタントか建築系か……どっちにしても東京の方が選択肢広いんで、必然的に」
「緑間もいるし?」
「そうそう、真ちゃんと離れているのもうこれ以上耐えられなくってぇ」
 木村の茶々に高尾が悪ノリすると、緑間は露骨に嫌な顔をして「俺はうるさいのがいなくてせいせいするのだよ」
「とか言って寂しいくせに~!」
「知らん、寂しくない。って、おいこら高尾、離せ!」
 じゃれあう二人を懐かしそうにしげしげと眺めていた大坪が、「冗談はさておき、高尾。静岡の恋人はいいのか? ほらそれ」と、にやにやと笑いながら高尾の左手の薬指を指差した。「もしかして、例の人か?」
「あ、あー……」
 高尾は緑間の肩から腕を離して、照れ隠しに頭を掻いた。
「お察しのとおり、実は、めでたく付き合えることになりまして」
「そうか、よかったな!」
「もう指輪をもらったのか。早くないか?」
 大坪は破顔して、テーブルに身を乗り出して大きな掌で高尾の肩を叩き、緑間は父親のような文句を言う。祝福されているのだと思う。
 木村が一人取り残された顔で、「え、何の話だよ。つかお前二年くらい前彼女いなかったっけ? 付き合えることになったって、え、彼女とは別れたの?」と混乱しているので、彼にも宮地との出会いから付き合うに至るまでの顛末を話して聞かせる。高尾の新しい恋人が男だと聞いて木村は驚いていたが、高尾が予想したとおり、「いいんじゃねぇの?」と気にしていないようだった。
「それより宮地っていうんかよ、その人」
「そう、そうなんです。最初顔も似てるなーってびっくりしたんですけど。今はもうあんまそんなふうに思わないですが」
「写真見せろよ写真」
「ヤですよ恥ずい! つかあんま撮ってないんで! マジで!」
 スマートフォンを奪おうとする木村と揉みあっているところで、大坪がふと気づいたように言う。
「そう言えば、こっちの宮地は今日も来てないんだな」
 言われて初めて、高尾も緑間も宴席を見渡し、ハニーブロンドの先輩がいないことを知った。
「木村さん、ちゃんと連絡したんですか?」
「部の連絡網でみんなに行ってるはずなんだが。……俺が連絡してもまったく梨のつぶてでな。アドレス変えてるってわけじゃねーみたいなんだけど、全然返信ねーんだわ。……ま、五年も会ってなけりゃ疎遠にもなるわな」
 木村は少し寂しそうに笑う。「仕方ねーよ」
 高尾はその顔を見てふと思い出して、「あ」と素っ頓狂な声を上げた。「宮地さんと言えば」
 すっかり忘れていた。
「俺、年末に電話で話しましたよ」
 あの時確かに大きな衝撃を受けたことは覚えているのに、一晩寝て起きてみたら、自分が一体何にそれほど大きな衝撃を受けたのかわからなくなってしまっていた。長年音信不通だった先輩から突然電話が掛かってきたのに驚いたにしては、腹の底にすーっと風が吹いたような、背筋に冷や水を浴びせられたような、恐怖にも似た言い知れない感情を覚えたのは確かだった。しかし、彼との会話の内容や電話の向こうの声を思い出そうとしても、波にさらわれたみたいに少しずつ、しかし確実に手の届かない暗い場所へと沈んでいってしまう。悪い夢でも見ていたようだ。起きてしばらくベッドの上で、この説明のつかない不安についていろいろと思いを巡らせていたのだが、結局、あの日は宮地と初めての夜を過ごして、神経が少し過敏になっていたのかもしれないと自分に納得をつけたのだ。きっと、他愛もない挨拶と近況報告をして電話を切ったのだろう。
「マジか」
「年末って、最近じゃん」
「あ、はい、年末って言うか、クリスマスの夜なんですけど」
「クリスマス?」
 緑間が器用に片眉を上げた。「お前から変な電話があった日か」
「そうそう、なーんか、俺ナーヴァスになってたみたいでさ。ごめんね、いらん心配掛けて」
「別に心配などしていないのだよ。お前の頭がおかしいのは、今に始まったことではないからな」
 ひでーよ真ちゃん、と泣き真似をする高尾を笑いながら、「しかし」と木村は言った。 
「まあ安心したよ。元気かどうかはわからんが、どっかでちゃんと生きてんなら。あまりに消息不明なもんで、心配はしていたんだ。連絡がないのは……そういうこともあるだろう。昔のことからはなるべく距離を取りたいと願う人間だっているってことだ。……寂しいけど、俺たちはそれを尊重してやらなきゃならねぇ」
「そうだな」
 大坪は一口ビールを含んで、少し遠くを見るような目をして言った。
「しかしなぁ……あんまり離れてしまうと、忘れちまうぞ、宮地。それはあんまりにも寂しいじゃないか」


「先輩の宮地さんって、そんなに存在感の薄い人だったの?」
 宮地が不思議そうな顔で聞いてきた。
「俺とよく似てるって言ってたから、見た目的には割と派手な感じなのかと思ってたんだけど」
「いや、どっちかって言うと、人目を惹くタイプだったと思いますよ。イケメンだったし、何より背ぇ高かったし。部内でも割と声出す方で……だったと思うんですけど……。なんかね、変なんですよ。宮地さんを、先輩の宮地さんね、思い出そうとすると、いつも顔のところになんかぼやーっと靄がかかったみたいで、うまく思い描けないんです。いくら五年も会ってないって言ったって、一年間嫌って言うほど毎日一緒に密な時間を過ごしてきたはずなのに、そんな簡単に忘れちまうもんなんかなって。それに、俺や真ちゃんならともかく、三年間一緒だったはずの大坪さんや木村さんまで。……これってやっぱ、おかしいですよね……」
 思案顔になった高尾に一瞬ちらりと視線を投げかけ、宮地は事もなげに言った。
「気にすることないよ。人の記憶なんて、不確かで曖昧なもんさ。……それより」と宮地は高尾を睨んだ。
「言ったんだ? 俺と付き合ってるって。先輩たちや真ちゃんに」
 高尾が斜め上の顔を見上げると、宮地は困ったような驚いたような嬉しいような、複雑な表情をして高尾を見ていた。
「うん。あれ、まずかったですか? 木村さんにはその時初めて言ったけど、真ちゃんと大坪さんは付き合う前から知ってた……って言うか、むしろ俺が宮地さんのこと好きなんじゃないかって気づいたの、二人に言われたからなんで、そこはやっぱ報告しとかなきゃなって」
「そうだったんだ……まあそういう、理解のある人ならいいんだけど」
 宮地の視線が、ふと高尾から外れる。
「誰にも彼にも言うのはよした方がいい。不必要な嫌な思いをすることもある」
 そんなこと、と言いかけて、高尾は口を噤んだ。その忠告は宮地自身の今までの経験によるものなのだろうし、彼はできれば、高尾にそのような思いをしてほしくないのだろう。それにもし、高尾がそのことで人から何か言われた時、高尾以上に深く傷つくに違いない。
「……部活の仲間なら――あの人たちなら大丈夫ですよ」
 宮地は少し考えて、頷いた。
「うん。高尾くんの大切なチームメイトだもんね」
「宮地さん、俺、宮地さんがあんまり人に言うなって言うなら言わない。けど、これだけは覚えておいて。俺は宮地さんとの関係を、これっぽっちも恥ずかしいとか隠したいとか思っていないってこと。……むしろ、世界中の人に自慢して回りたいぐらいだ。この人が俺の恋人なんだって」
 宮地はしばらくまじまじと高尾の顔を見た後、ぱっと身を翻して舌打ちまじりに言った。
「寒ぃ。ほら、いつまでもこんなとこで立ち話してねぇで、さっさとお参りして帰るぞ」 
 その耳が薄らと赤くなっていて、高尾はこっそり笑いを零した。この人の照れるポイントがいまいちよくわからない。
「はいはい。あ、宮地さんは神様に何お願いするんですか?」
「ばっか、そういうのは言っちゃいけないんだぜ。高尾くんは、就活うまくいきますように、で決まりだな」
「それは自力で頑張るんで、神様にはもっと他のことお願いしますー」
 軽口を叩きながらも、賽銭を投げ入れ柏手を打ち、何やら真剣に願っている宮地の横顔を見て、高尾は、当り前の幸せに不慣れな彼の幸せを、固く願わずにはいられなかった。

* * * * *

 四年生にもなると、授業の半分はゼミでの活動になる。高尾の選択したゼミは他のゼミに比べると比較的少人数で、穏やかな老教授の指導ということもあり、のんびりとした雰囲気だった。教授のぼそぼそとした声が、窓から入りこむ春の漫然とした空気に溶けこみ、寝不足も相まって高尾の意識をぼんやりとさせる。
 昨日は久しぶりに二人とも夕方から時間が空いて、高尾は宮地の家に泊まっていた。宮地とベッドを共にするのはもう片手では足りないほどになっていて、抱かれることに体は少し慣れてきていたが、それでも心臓は毎回緊張して、破れてしまいそうにドキドキした。宮地はいつも高尾をとても丁寧に抱いた。初めての夜はまるで余裕を失って獣のように激しく求められたが、宮地は基本的には紳士的で優しく、そして意地悪だった。昨日も、恥ずかしかる高尾を宥めながら一枚一枚服を脱がし、明るい電気をつけたまま、じっくりと観察するように高尾を愛撫した。肌が露わになった部分から順に余すところなく宮地の舌が這う。脇に鼻を埋められた時は堪らず「やめてよ」と彼の頭を押し退けようとしたが、ちらっと目だけを上げて高尾を見た宮地の顔が、笑いを滲ませながらもひどく興奮に濡れた色をしていたので、何も言えなくなってしまった。「高尾……」宮地の右手が、高尾の脇腹を辿って下腹部に触れる。「宮地さん、ダメだって……」「本当に? 触らなくていいの?」宮地の意地悪は、高尾を急激に昂らせた。「宮地さん、もう、さわ……」
「高尾くん?」
 ぬっと眼前に人の顔が現れ、高尾は飛び上がった。
「う、わ、な、何?!」
「あははは! 寝てたわけじゃなさそうだけど、随分ぼんやりしてたね。何考えてたの?」
「カナちゃん……」
 高尾は椅子からずり落ちかけた体を起こして、深々とため息をついた。「びっくりさせないでよ」
「別にびっくりさせてないよぉ。高尾くんが勝手にびっくりしたんじゃん」
 彼女とは一年の時からことごとく選択科目が被っていて、当然のようにゼミも同じになった。去年まではタケも含めて三人でつるんでいることが多かったが、今年からタケとはゼミが分かれ、カナと二人で話すことが増えた。もっとも、寂しがり屋のタケはしょっちゅう二人に連絡を取ってくるし、ゼミが終わって三人で時間が合えば、連れだって飲みにいくこともある。
「悪い悪い。ちょっと寝不足でさぁ。……先生気づいてた?」
「ううん。相変わらず自分の世界に没頭してたし、高尾くんも別に突っ伏して寝てたわけじゃないから」
 高尾は苦笑した。ゼミの講義の真っ最中に宮地との情事を思い出すなんて、春の陽気に当てられたにしても酷すぎる。
「高尾くん、今日はこれで終わり?」
「ん? うん、そだよ。今日はバイトもないし」
 水曜日はゼミが二限目で終わりで、教職のコースを取っていない高尾やカナは、午後からフリーになる。そんな日はいつもなら昼過ぎからバイトを入れてしまうのだが、バイト先の古CD屋の店長が仕入れを兼ねてアメリカへ旅行に行っているため、昨日から三日間臨時休業となっているのだ。気ままな店長の趣味の延長線上でやっているような店なので、定休日などというものはない。
「じゃあさ、お昼一緒に食べに行かない? こないだすごくいいカフェ見つけてね。大学からちょっと歩くんだけど……」
「おう、いいよー。タケも誘う?」
「誘ったんだけど、今日は午後からの実験の準備があるから無理だって」
「そっか。んじゃ仕方ねぇから二人で行くかー」
 タケは相変わらずカナにお熱なようで、カナがどう思っているのか高尾は知らないが、たまには高尾を誘わず二人で食事に行ったりもしているみたいなので、カナも満更ではないのかもしれない。高尾は、このまま二人、案外うまくいくのではないかと期待している。


 カナのお勧めの店の前に来て、高尾は内心頭を抱えた。シンプルな白いペンキ塗りの壁に、控えめな打ちつけの銀文字の看板。
(宮地さんの店じゃん、思いっきし)
 別に疾しいことは欠片もないのだが、女の子と二人でレーヴにやってきた高尾を見て宮地はどう思うだろうか。
「先月、たまたま通りかかって見つけたの。落ち着いた雰囲気だし、男の子でも居心地悪くならないよ、きっと」
 宮地のシフトは、今日はどうだったっけ、と考えているうちに、カナはさっさとドアノブに手を掛けて扉を開いた。カラン、といつもの涼しげなベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。二名様で……」
 穏やかな笑顔で宮地が振り向き、カナの背後に焦った顔で立つ高尾を認めて言葉を詰まらせた。
「あ、あは、こんにちは」
 高尾は引きつった笑みを浮かべる。
「……いらっしゃい、高尾くんも来てくれたんだね」
 宮地が言葉に詰まったのはほんのわずかな時で、次の瞬間には、何事もなかったかのように片手を軽く上げた。
「どうぞ、こちらへ」
 メニューを持って、奥まった席に案内する。
「お決まりの頃、お伺いいたします」
 宮地はにこりと完璧な笑みを二人に投げかける。
「あ、あの、宮地さん」
「なに? 高尾くん」
 宮地は少し雰囲気をざっくばらんなものに変えて、小首を傾げて高尾を見た。
「あ、いや、何も……」
「……何かあれば呼んでね。お友達も、ごゆっくり」
 わかっているよ、という意思表示なのか、宮地は軽いウィンクを閃かせて背を向けた。そのいつもと変わらず美しく伸びた背筋には微塵の動揺も見つけられなくて、高尾はほっと安堵の息を漏らした。とりあえず、誤解を受けることはなかったようだ。後できちんと説明すれば大丈夫だろう。
「あの店員さん、知り合い?」
 カナがこっそりと顔を近づけて聞いてくる。
「う、うん。実はこの店、俺も何回か来たことがあって……」
「なぁんだ、常連さんなんだ。店員さんに顔覚えられてるくらいだもんね。……って、もしかして、去年だったか一回大学に来ていた人?」
 そう言えば、カナには去年、二人が付き合う前、宮地と大学内で追いかけっこしているところを見られているのだ。
「あ、あーそうそう。ちょっとね、音楽の趣味とかも合って、個人的に仲良くしていて」
「そっかぁ、道理で、なんか見たことあるなって思ったんだ。すごいイケメンよね。背も高いし。宮地さんって言うの?」
 カナが興味津々といったふうに厨房の方をちらりと見遣るので、高尾は慌てて言った。
「そ、それより何食べよっか。美味いよね、ここの料理! えっと、俺のお勧めは――」
 結局その後、宮地は厨房に入ってしまったのかそれとも休憩しているのか、オーダーを取りにきたのも、水を注ぎたしにきたのも、食器を下げにきたのも、最近雇われたらしい男性店員だった。彼は宮地とはまた違った系統のイケメンで、宮地よりいくらか気楽な調子の笑顔で客に接した。(ここの店員さんの選考基準は顔なのかな、とカナは言って笑った。)
 平日の昼間でも、カフェ・レーヴは相変わらずそこそこの客入りだった。一人で来ている客がほとんどで、二人連れは高尾とカナだけのようだった。静かなボサノヴァが流れる店内で、カナは高尾に顔を近づけて、声を潜めてしゃべった。
 高尾の意識はぼんやりとしていた。厨房から微かに聞こえる皿を洗う音、アストラッド・ジルベルトの歌うÁgua de Beber(おいしい水)、隣の女性が滑らかにノートパソコンのキーボードを叩く音、カナの少し掠れた甘い声――。この、拭い去れない違和感はなんだろうか。あるべきものがなくて、あるべきでないものがここにあるような違和感。体に馴染んだカフェ・レーヴの空気に、淀んだ水の層が一枚混ざりこんでいるような息苦しさを覚える。春らしい花柄のチュニックと薄手のカーディガン、机に身を乗り出したカナの心許ない胸元に、薄らとレースの谷間が覗く。
 高尾は目眩がして、強く目をつぶった。やはり、ここにカナと二人で来るべきではなかったのだ。
「それでね、高尾くん、……高尾くん?」
 高尾がゆっくりと目を開けると、心配そうに自分を覗きこむカナの顔が間近にあった。 
「高尾くん、具合悪そうだけど……大丈夫?」
 高尾はテーブルの上のグラスを掴んで、残っていた水を飲み干した。いつもの、ほんのりとハーブの香る水に、少し意識が現実に戻ってくる。
「……ごめん、大丈夫。ちょっと、ほら、寝不足でさ。……もうなんともない。ごめん、何の話だっけ?」
 カナはまだ気遣わしげに高尾の顔を見ていたが、やがて俯いて手元のグラスに視線を落とした。伏せられたまつ毛は美しくカールして、彼女の白く丸い頬に柔らかい影を映していた。
「高尾くんってさ、彼女いるんだよね」
「え」
「彼女。指輪、してるもんね、冬休み明けてから。ずっと聞きたくて、けど聞けなくて」
 冬休み明けたらすぐにテストで、テスト終わったらまたすぐに春休みだったしさ。カナの細い指が、テーブルの上にさりげなく置かれた高尾の左手に触れた。高尾はそれを、動く植物が無機的な何かに触れるのを見るように眺めていた。カナの手も、自分の手も、まるで人の手ではないみたいに現実感がなかった。カナの指が、掠めるか掠めないかぐらいの弱さで銀色の指輪に触れた。
「ここは、私が欲しかったんだけどな」
 カナは、俯いたままだった。高尾も、カナのつむじを見下ろしたまま、凍りついたように動かなかった。BGMはウェイブに変わっていた。隣の席のノートパソコンの女性はいつの間にか帰り、文学生風の眼鏡の男子が文庫本を開きながらボサノヴァのリズムに乗っていた。
「……ごめん」
 高尾はなんとか声を出したが、ひどく掠れて、カナに届いたかどうかもわからなかった。それに、この場で「ごめん」と言うのははたして適切なのかどうかも高尾にはわからなかった。
 カナは微かに首を横に振った。「いいよ別に」という意味なのか、「言わないで」という意味なのか、とにかく、茶色の柔らかそうなボブがそれに合わせてふわふわと揺れるのを高尾はただ見ていた。
 カナは高尾の左手からぱっと手を離して、顔を上げた。目尻が赤くなっていたが、涙は見えなかった。無理やり作ったみたいな笑みを浮かべている。
「ごめんね、びっくりした?」
「うん」
 高尾は素直に頷いた。
「カナちゃんは、タケなのかな、と思っていた」
 カナは「えー?」と間延びした声を出して笑った。「違うよー。なんでだろ。私結構わかりやすかったと思うんだけど」
「そうなのかなって思った時期もあったけど。確かに」
「その時には、もうその人のこと好きだったの?」
「うん、多分」
「そっかぁ」
 カナはテーブルに頬杖をついた。「最初から見込みなかったね」
 そのままカナは両手で顔を覆い、動かなくなった。
「……カナちゃん?」
「……ごめん、ちょっと、一人にしてもらっていいかな」
 手の下からくぐもって聞こえる声は、静かなボサノヴァにも隠れてしまいそうなほど弱々しく、しかし、従わざるを得ないような厳しさを孕んでいた。高尾はもう一度、「ごめん」と呟いて、伝票を持って立ち上がった。顔見知りの女性店員は休みなのか、姿の見えないのがせめてもの救いだった。宮地もあれっきり出てこない。例の愛想のいいイケメンの店員がレジを打って、「ありがとうございました」と爽やかに扉を開けて高尾を見送る。出る直前にちらりと店内を振り返ると、カナはまだ先程と同じ姿勢のまま、じっと動かないでいた。


 外は、高尾の気分とはまるで関係がなく麗らかな春の日の午後だった。高尾はまっすぐ家に帰る気にもなれず、四半時ほど無意味に町を歩き回って、それから宮地のアパートに行った。もう何度か通った古いアパートの階段を、カンカンカンと音を立てて三階まで上がる。階段を上がったところで右に曲がり、部屋を二つ通り過ぎた一番奥の角部屋。試しにチャイムを鳴らしたが案の定宮地は帰宅していないようだったので、高尾はそのままずるずると扉に背を凭せかけて座りこんだ。合鍵は持っているが、それを使って中に入ろうとは思わなかった。
 通路に座りこむと、転落防止用の柵が嫌に高く見える。味気ない灰色のコンクリートの向こうに、背の高い楡の木が若葉を揺らしている。時折メジロがやってきて、葉陰にせわしなく出たり入ったりを繰り返している。それをぼんやりと眺めているうちに、左手の方からカンカンカンと階段を上がってくる音がした。高尾は楡の葉陰を見上げたまま、その音を聞いていた。やがて足音はこちらへ近づいてきて、高尾のしゃがみこむすぐ手前で立ち止まり、ガチャガチャと鍵を回した。
「入れよ」
 楡の木より高い頭上から声が降ってきて、高尾は見上げた。宮地は扉を開け、今度は黙って入るようにと顎で促した。高尾も黙ったまま立ち上がり、宮地の脇を抜けて部屋の中に入る。
 勝手知ったる家の中、キッチンを抜け、奥のリビングに据えられたモスグリーンのソファに両足を抱えこんで座る。宮地はしばらくキッチンでカチャカチャと音を立てていたが、やがて二人分のコーヒーの入ったマグカップを持って、高尾の隣に腰を下ろした。スプリングが沈んで、高尾の体がわずかに右に傾ぐ。
「ありがとうございます」
 差し出されたマグカップを受け取って礼を言うと、宮地は軽く頷いて、自分のカップに口を付けた。高尾はカップを持ったまま、黒い液体に映る自分の顔を眺めた。掛け時計の秒針と、高尾の腕時計の秒針の音が、わずかにずれて聞こえる。カチチ、カチチ、カチチ。引かれたままの遮光カーテンの向こうで、水底のような光が揺らめいている。
「……彼女、帰ったよ」
 ぶれた秒針が時計盤を何回りかした頃、宮地が口を開いた。
 高尾はマグカップから顔を上げて宮地を見た。
「宮地さん、あの」
「なに?」
 宮地は、表面上はいつもと同じように穏やかな凪いだ表情であったが、その奥には微かな緊張と、無機質な硬さが見え隠れした。まるで、高尾との間に目に見えないバリケードを張っているみたいだった。
「……ごめん」
「それは、何に対して謝っているの?」
 高尾は再びマグカップに視線を落とした。自信なさげな自分の顔が波打って大きく揺らいだ。
「……いくつか、後悔したんだ」
 宮地は眼前のローテーブルを、睨みつけるようにして微動だにしない。
「一つに、カナちゃんを傷つけたこと」
「それは高尾くんのせいじゃないだろう。彼女の気持ちの問題だ」
「けど、俺はカナちゃんと二人でレーヴに行くべきじゃなかった」
「彼女は知ってたんだろう」
「もっとうまいやり方だってあったはずだ」
「傲慢だな」
 ふん、と宮地は鼻で笑った。傲慢。確かにそうかもしれない。高尾は唇を噛んだ。しかし、それはもう起こってしまったことなのだ。
「もう一つに、宮地さんを傷つけたこと」
「俺は傷ついてない」
「俺が、宮地さんを傷つけたと思ったんです。そういう時は大抵、本人が思っているよりずっと深いところで傷ついてるんだ」
「俺は、傷ついてない」
 宮地の言葉にはどこか、迷子になったことを認めようとしない子どものような頑迷な響きがあった。
「で? 後は?」
「後は……」
 高尾はマグカップを強く握り締めた。一口も飲まれていないコーヒーはすっかり冷めて、少しの温もりも高尾に与えてはくれない。
「後、俺、カナちゃんに『彼女できたんだ』って聞かれて、否定も訂正もできなかった。『彼女じゃない。俺の恋人は宮地さんだ』って、聞かれたらいつでも答える準備はできていると思ってたのに、いざその時が来ると、なんか口の中カラカラんなって、どうしても言葉が出てこなかった。俺、宮地さんと付き合ってることむしろ誇らしく思ってるぐらいのつもりだったのに、本当は、自分にも見えない心のずっとずっと奥底では、言えない、言いたくないって思ってんじゃねーかって……そういう、俺の深層意識みたいなのが、俺の知らないところでいつも宮地さんを傷つけてたんじゃないか、もしくは、これから傷つけるんじゃないかって、怖くなったんだ」
 宮地は何も言わなかった。カチチ、カチチ。再び、時計の秒針の音が聞こえだす。宮地の家の掛け時計と高尾の腕時計は、きっかり零コンマ何秒かずつずれたまま、正確に時を刻んでいる。外で、メジロのチィチィと鳴き交わす声がする。一瞬春らしい強い風が吹いて、楡の葉が大きくざわめく。
 高尾は、冷めきったコーヒーを一口飲んだ。宮地がはぁっとため息を吐いた。
「高尾、お前、なんにもわかっちゃいねぇよ」
 彼はゴン、と音を立ててマグカップをローテーブルに置き、ソファの背もたれに身を預けて両手で顔を覆った。
「……よかった」
「……え?」
 高尾は聞き間違いかと思って宮地の方を見た。
「よかった。俺、高尾が俺と付き合ったこと、後悔してんじゃねぇかって、思って」
 両手の下から聞こえる宮地の声はくぐもって聞き取りにくかったが、少し湿っているようにも聞こえた。そういう人の姿を見るのは、今日二回目だな、と高尾は頭の片隅でちらりと思った。
「女の子と二人で時間過ごして、女の子とあんな近くにいて、女の子に好きって言われて、ちょっとでもお前の気持ちが揺らいだんじゃないかって」
「そんなこと!」
 高尾は身を乗り出して反論しようとし、コーヒーが激しく波立ったので慌ててそれをテーブルに置いた。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか! 俺、だって、こんなに宮地さんでいっぱいなっちゃってるのに、なんでそういうこと思うの? わかってないの宮地さんの方じゃん」
 宮地は顔を覆っていた手を外して、高尾の方を向いた。その顔は穏やかで、笑みさえ浮かんでいる。
「だから、お前はわかってないって言ってるんだよ、高尾。……俺は元々ゲイで、お前は元々女の子が好きだ。だから俺はいつだって、お前が女の子の方に行ってしまう未来を想像して生きているんだ。来週か、明日か、一時間後か、十分後か。いつそういうことを切りだされたって、みっともなく縋ったりしないように、無様に泣き喚いたりしないように、お前が好きって言ってくれたスマートな俺のままできれいに別れようって思っている……いや、思っていた。けど、今日、お前が女の子と一緒に来たのを見て、彼女と顔を近づけて喋ってんの見て、俺無理だって思ったんだ。無理だ、絶対俺みっともないとこ見せるし、きれいに別れてやることなんてできねぇ、ってな。……なぁ、わかるか? 傷ついたとか傷つけたとか、そういう話じゃないんだ。俺は、お前が側にいてくれたらそれだけでとても幸せだ。けど、幸せであると同時に、いつだって不安で苦しいんだ。こんなに苦しいならいっそ別れてしまった方が幸せなんじゃないかと思うくらい……。共にある方が不思議なんだ。高尾は、こんな恋愛知らないだろう?」
 宮地は、ソファの上に置かれた高尾の手にそっと触れた。それは、カナが高尾の左手の薬指に触れた時と違って、人の手と人の手の触れあいに高尾には見えた。宮地の温かい指先が、高尾の血の通った指先に触れる。そうして高尾は、ああ、自分にはこの人しかいないんだと、強く思った。その確信は突然、啓示的に高尾の脳裡に現れて、フラッシュを焚いたみたいに、鮮明な光の影を残した。
「宮地さん、確かに俺は、普通の恋愛しか知らない。けど、宮地さんが普通の恋愛を知らないんなら、俺とは普通の恋愛をしようよ。不安になったら、問い詰めて泣いて、その後でなんてことなかったなって笑って仲直りして、傷ついたり傷つけられたりしたら怒って謝って、不機嫌な時もあったり、うまくいかない時もあったり、でさ、その度に二人で越えていこうよ。恋愛ってそういうのだよ。きれいに別れるとか、離れていく覚悟とか、そういうのじゃないよ」
 高尾はそっと宮地の頭を抱き寄せた。宮地は素直に高尾に頭を預ける。甘えるように額を擦りつけてくるので、宮地の柔い蜂蜜色の髪の毛がくすぐったくて、高尾は笑った。
「なんだ、宮地さん子どもみたい」
「うるさいよ」
 そう言いながら、宮地はますます深く高尾の懐に潜りこむ。高尾は宮地の髪を撫でた。
「ねぇ、宮地さん、カナちゃんとタケには、宮地さんのこと言っていい? 二人とも、大事な友達なんだ。自分の周りの大事な人には、大事な人のことちゃんと報告したいんです。誰にも彼にも言うわけじゃなくて」
「けどお前、カナちゃんに言うのはまずいだろ」
 宮地は高尾の腕の中から脱出して、困った顔で言った。
「カナちゃん、俺に彼女ができたって思ってるから。そういう誤解を持ったままでこの後少なくとも一年間一緒に過ごすのは無理だ。だとしたら、変に時間が経ってからじゃなくて、早い方がいいと思うんです。カナちゃんはちゃんと気持ちを見せてくれた。だから、俺も曖昧なことはしたくない」
「けど」
「大丈夫……な気がしてる。カナちゃんは、俺に恋人ができたことでショックを受けていたけど、それが女だったとか男だったとか、そういうことでショックの度合いを変える子じゃないから」
「……まあ、高尾くんが今まで付き合ってきて、大丈夫だって思う人ならきっと大丈夫なんだろうけど」
 宮地は呆れたふうに言って、再び高尾の胸に頭を預ける。
「案外甘えん坊なんですね、宮地さん」
「弟なもんで」
「俺、甘やかすの得意ですよ、お兄ちゃんだから。……ねえ宮地さん。俺、たかだか二十年と少ししか生きてないけど、不変であることの難しさはよくわかっているつもりです。形あるものはやがて失われるし、形のないものは姿を変えてしまう。けど、ある種の物事は本質を損なわれることなく生き続けるんです。地質学の勉強して、毎日土掘って石触ってしてたらわかるんだ。地層の上に地層が折り重なって、川が流れて、地殻変動があって、隆起して陥没して、表に見える大地はどんどん変化していく。けど、そのずっとずっと深い場所には、何十億年も昔から変わらない核みたいなのがある。人の気持ちだって一緒だよ。俺の、宮地さんを好きって気持ちは、きっと俺の心の核なんだと思う。何が起こっても、例え姿が変わっても、きっとその本質は損なわれることはない」
 宮地は目を閉じて、高尾の鎖骨から響く声に耳を澄ませている。高尾も口を閉じ、耳を澄ました。カチチ、カチチ、二つの時計が少しずれた秒を刻んでいる。強い風が吹いて、楡の葉がざわめく。一瞬風に身構えたメジロが、再びチィチィと鳴きはじめる。宮地の心臓の音が聞こえる。
「俺は、ずっとお前のこと好きだよ。今までも、これからも」
 宮地の声は、四月の午後の空気にぼやけて消えていった。

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