カフェの人 -6-

 あのカフェの日の翌日、高尾は午後からのゼミが始まる前にカナに会った。今日は高尾のプレゼンの番だったので準備のために早めに来たのだが、カナはそれよりも早く来て、誰もいないゼミ室で本を読んでいた。もしかしたら、高尾が早く来ることを見越してのことだったのかもしれない。
 今日会ったら、まずは何から言えばいいかと悩んでいたが、カナは高尾の姿を認めると、「おはよう」と言って照れくさそうに笑った。
「おはよう」
 もう日も高かったが、高尾もそう答える。
「昨日、ごめんね」
 カナはあっさりと昨日の話題に触れた。高尾は黙ってカナの隣に腰を下ろした。
「本当は、言うつもりなんてなかったの。高尾くんに彼女ができたのは一目瞭然だったし、このまま黙っていて、何もなかったかのように卒業まで過ごすつもりだった。けど、なんかね……昨日、あのカフェに行って、高尾くんと向かいあって座っていたらなんか……高尾くんが何も知らないままで二人卒業して別れて、そのまま大学生という時を終えてしまうのは悔しいっていうか、かわいそうだなって思っちゃったのよ。自分の恋心がね。気持ちっていうのは生き物だから、生まれたからには生まれたなりに生きないと、浮かばれないなって」
「うん」
 高尾は頷いた。「それはわかる気がする。今の俺なら」
「今の、恋をしている高尾くんなら?」
「うん」
 高尾はもう一度頷いた。
「ありがとな」
 カナは黙って微笑んだ。
「恋してる俺だから、カナちゃんにちゃんと言わなきゃって思ったことがあるんだけど」 
 カナは、心持ち高尾の方に体を向けて座りなおした。
「うん。言って」
「昨日、すぐ近くにいたんだ。俺の恋人。あのカフェに」
「え?」
「最初に出迎えてくれた、あの店員さん」
「……宮地さん?」
「うん。だから、彼女じゃないんだ」
「そう……だったんだ」
 カナはしばらく大きな目を瞬かせていたが、もう一度、そうだったんだ、と呟き、やがて納得したように頷いた。
「むしろ、なんで気づかなかったんだって感じだよね、今になって考えると」
「引かない?」
「引かないよ、そんなことで」
 カナは少し怒った口調で言った後、「話してくれて嬉しい」と微笑んだ。
「カナちゃんがちゃんと言ってくれたから、俺も半端な伝え方じゃ駄目だと思ったんだ。……ありがとな」
「うん。私も、ありがとう。……高尾くんのこと、すごく好きだったよ」
 高尾は口を開きかけたが、他のゼミ生が二・三人連れだってどやどやと入ってきたのでそれきりになった。ただ、「後でタケには言おうと思う」とすばやく耳打ちすると、「それがいいと思う」と頷いてくれた。


 数日後の昼休み、高尾は混み始めた食堂でタケを見つけた。彼は奥の方の窓際のテーブルでカツカレーをかき込んでいた。高尾が隣の席にうどんの乗ったトレーを置くと、「おす」と右手のスプーンを振り上げた。
 彼はカツカレーをかき込みながら高尾の話を聞き、高尾が話し終わってからも黙々とカレーを食べ続けた。そして、米の一粒まできれいに平らげて「ごちそうさま」と丁寧に手を合わせると、スプーンの柄を手持ち無沙汰に弄りながら言った。
「なんて言ったらいいのかなぁ……。カズ、俺はお前と、好きな女子の話したり、猥談したりするの結構好きだったんだ。俺多分、お前の今までの彼女の誰よりもお前のAVの好み知ってるし、多分お前よりもお前の女の子の好み知ってると思う。そういう話がな、多分やっぱりできなくなると思うんだわ。俺正直、お前が男の恋人とどうこうしたとかいう話は聞きたくねぇ」
 けど、とタケは弄っていたスプーンを皿に放り出すようにして置いた。ガチャっと安い食器同士がぶつかる音がする。
「けど、別に猥談するだけが友達じゃねーしな」
 タケはニカッと笑って高尾を見た。「中学までの俺だったら、猥談できねぇ奴は友達じゃねぇとか言ってたかもしんねーが。……ま、よかったら今度会わせてよ」
「……俺、お前が友達でよかったと思うわ」
 高尾が精一杯の感謝の気持ちを込めて言うと、タケは、「よせよ、気持ち悪ぃ」とカレーで黄色くなった歯を剥き出した。高尾はうどんをかき込むふりで顔を伏せ、目を瞬かせた。タケは気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。

* * * * *

 宮地は開き直ったのか、格好つけても無駄だと悟ったのか、あの日以降、以前よりずっと打ち解けた様子で高尾と接するようになった。相変わらずカフェでは微かな笑みを口端に浮かべ、穏やかなトーンで話し、水差しを持って物静かにテーブルの間を歩いたが、普段の宮地はむしろ、どちらかと言うと口が悪く、どちらかと言うと所作も大雑把で、そして、ひどく甘えただった。
「宮地さんって、本当は今までずっと俺の前で無理してたの?」
 高尾は宮地に呆れて聞いたことがある。
「最初はすげぇ大人でスマートでかっこいい人だと思ってたんだけど」
 季節は梅雨の真っただ中で、外はしっかりと地面に染み渡るような雨が降っていた。二人は昼間からベッドに雪崩れこんで、ワンラウンド終えてのんびりとまどろんでいるところだった。宮地は高尾の裸の胸に鼻を埋め、時折思い出したように小さく口づけを繰り返していた。それは愛撫と言うよりは、雛鳥が親に餌をねだっているみたいで、高尾はくすぐったくなって身を捩った。
「動くなよ」
 宮地はそれを咎めて、高尾の背中に回した腕の力を強めた。
「どう……かな。別に、無理はしてなかったとは思うけど。だって、店にいる時だって、無理してああいうふうなわけじゃないから。その場その場に合った自分っていうの? 割と意識しなくてもできちまう方だしな」
「ふうん。じゃあ、家族や友達には昔からこんな感じだったんですか?」
「こんな感じって?」
「いや、なんか、結構がさつですよね、宮地さん、って、痛い! 痛いって! 暴力反対!」
 高尾は、宮地に腕を固められて悲鳴を上げた。「ギブギブギブ!」
 プロレスのようにシーツを叩いて笑うと、宮地も笑いながら腕の力を緩めた。
「年上に生意気言うんじゃねーよ」
「横暴! 乱暴者! はぁ、前はあんなに紳士的で優しかったのに」
 高尾がわざとらしくため息を吐くと、宮地はにやにや笑いで高尾の顔を覗きこんできた。
「セックスは今でも紳士的で優しいだろ?」
「う、るさいですよ、このエロ親父」
 まだ情交の色香の残る顔を、頬と頬が触れそうなほどに近づけて言う宮地は、高尾が自分の顔に弱いのを知っていてやっている。それに毎回赤くなって動揺してしまう自分にいい加減に慣れろよとも思うが、悔しいことに、宮地の格好よさはその言動が多少乱暴になろうとも、少しも損なわれることはなかった。むしろ、生き生きとした表情や何の気負いもない動作は、宮地が本来持つ伸びやかで健康的な美しさを際立たせていて、高尾はますます深みにはまっていくのを感じる。
「……高尾」
 高尾の赤くなった横顔を楽しそうに眺めていた宮地は、高尾に口づけて再びベッドに押し倒した。
「ちょ、宮地さん、もう二回目するの? 俺まだ休みたい」
「だって高尾かわいいんだもん」
「もんじゃねーでしょ! あ、ん、マジで無理だって」
 口内に舌を忍びこまそうとする宮地の頭をぐいっと押しやると、宮地は不満そうに口を尖らせた。
「俺はもう行けるんだけど」
「俺が無理なの!」
 甘えを隠そうともせず「え~?」と拗ねる宮地はとても二十八歳には見えなくて、高尾は思わず笑ってしまった。
「俺の東京行きが決まったのが寂しいの?」
 その日の朝、高尾は第一志望だった会社からの内定通知を受け取っていた。宮地に話した時、彼は思っていたよりずっと冷静にそれを受け止め、そして素直に喜んでくれた。
「まあ寂しくないって言ったら嘘になるけど」
 宮地は高尾の腰に腕を回し、腹に顔を埋めるようにしてしゃべった。宮地の声が、直接高尾の体の中に響く。
「前の俺なら、もしかしたら、お前が東京に行く日を勝手に二人のタイムリミットにして、この世の終わりみたいな気になってたかもしんねぇ。けど……けど今は、お前となら大丈夫なような気がしてるんだよな、例え離れていても。それに、ちょっとやそっとでお前のこと手放す気もないし」
 高尾は宮地の頭を両手で挟み、犬にするみたいに彼のふわふわの髪をかき混ぜた。
「おい、何すんだよ」
「宮地さんかわいいね」
「はぁ? 目医者行ったほうがいいぞ」
 そう言いながらも、宮地は満更でもなさそうな顔をしている。頭を触られるのが気持ちいいのか、うっとりと目を閉じた。
「……俺も、東京行こうかなぁ」
 高尾の腹の辺りでくぐもった声が言う。
「……それは……俺は嬉しいけど。静岡じゃなくてもいいの?」
「うん……俺、この町はすごく好きだけど、別にそんなにこだわりがあるわけでもないんだ。住む場所だけじゃなくてさ、俺は今まで何に対しても特に大きなこだわりを持たずに生きてきた。自分の持つものの範囲の中で、その時一番好きなものを基準に物事を決めてきたんだ。やりたい学問があったから東京の大学に行ったし、卒業後は、その時の俺の中で一番大事なものが生まれ育ったこの町だったから帰ってきた。けど今は……言うまでもないけど、お前がいる。今この時だけじゃない、一生大切にしたい、絶対に手放したくない相手ができたんだ。そうなれば、俺がこの土地にしがみついている理由なんてないんだよ」
 宮地の声は高尾の腹から染みこんで、やがて心臓をじんわりと温めた。
「そ、っか。よかった。しばらくは遠恋になるかなって思ってて、大丈夫だとはわかっていても、やぱりちょっと寂しかった。俺、本当は、宮地さんに東京来てって言いたかったんだ。けど、東京に戻るっていうのは自分で決めたことだし、そんなの俺のわがままかなって」
「バァカ、早く言えよ、そういうことは」
 宮地はごろんとベッドに仰向けに寝転がった。
「あー、なんか、なんかなぁ、口に出して言うと、早く東京行きたくなってきたわ。お前が職場に通いやすい範囲でちょっと大きめのアパート借りてな。お前がいつ来てもいいように。俺はある程度の料理の技術は持ってるし、それ生かして働けるとこ探す。……んでさ、いずれは一緒に住もうぜ」
「うん」と頷いて、高尾も宮地の隣に寝転んだ。
「どんな家にします? 場所は、職場から多少遠くてもちょっと郊外がいいな。ベランダでトマトとか育てて」
「キッチンは対面式にしよう。俺、人と話しながら料理作るの好きなんだ」
「大きいダブルベッド買って」
「二人ともでけぇから、キングサイズじゃないと厳しいだろ」
 宮地は、高尾がベッドサイドぎりぎりに寝転んでいるのを指差して笑った。「もっとこっち寄れよ。落ちるぞ」
 抱き寄せられ、少し冷えてきたからと肌布団を掛けられた。肌をさらさらと撫でる布団の感触が気持ちよくて、高尾はふわぁと小さくあくびをした。
「おい、寝るなよ」
「ん、ちょっとだけ」
 時間はたっぷりとあるのだ。今日の日はまだ終わっていないし、二人には、十年先、二十年先の未来だってある。宮地の手が、布団の中で高尾を抱き締めた。
 サーッと間断ない雨の音が聞こえる。それは優しい肌布団のように二人のアパートを包みこみ、ベッドの上の二人を包みこんだ。ここは、世界でもっとも完璧な、二人だけの世界だった。

* * * * *

 夏の象徴を一つ所に集めてミキサーにかけたみたいな浜辺だった。白い太陽、照り返す砂浜、跳ねる水しぶき、色とりどりの水着に惜しげなくさらされた小麦色の肌。穏やかな駿河湾に半円を描くように突き出したこのM海岸は、夏の海水浴シーズンだけ、一部の隙もなくにぎやかな歓声で埋めつくされる。正面を仰ぐと、海の向こうに堂々とした富士山が、青空に左右対称の美しい裾野を広げていた。静岡に来て最初の頃は、あまりに富士が近くに見えるので、自転車で行けるかなぁとカナとタケに聞いて大笑いされた。静岡で生まれ育った二人には、日本一の山は日常の風景の一部なのだと言う。高尾などは、静岡に来て四年目にして、ようやく夏の冠雪していない富士山を見慣れてきたところだった。
 からりと晴れ上がった完璧な夏の光景の中で、高尾とタケは、パラソルの下からじっとりとした視線を海辺に投げ掛けていた。視線の先には、カナの身長ほどもあるシャチのフロートを膨らませてやっている宮地と、その隣にべったりと座って何やら楽しげに話しているカナの姿がある。
「……なあカズ、どうしてこうなった」
 タケは地面にそのまま胡坐をかいて、頬杖をついた顎から呻き声を漏らした。
「知らねーよ」
 高尾は両手を後ろについて、ぐったりと足を投げ出して座っていた。少し石の混ざった砂浜は、じんわりとした熱と共に重たい塩気を含んでいて、べたべたと裸の体にくっついた。
 八月、夏の真っただ中、高尾、宮地、タケ、カナの四人は揃って近くの海に海水浴に来ていた。タケが四人で遊びに行こうと言い出し、思いのほかカナと宮地も乗り気だったので、高尾も了承したのだ。カナと宮地を会わすのに多少の心配がないでもなかったが、二人はすぐに意気投合した。
「俺は、ダブルデートぐらいのつもりだったんだが」
「……さっきから俺らそっちのけね」
「ほんとだよ。あ、あ、カナちゃん近い、近いってば。いくらそいつがゲイだからって不用心すぎ……あーしかし赤のビキニめっちゃかわいい」
「確かに」
 高尾が深く頷くと、タケは高尾の頭に左腕を巻きつけてヘッドロックをかましてきた。「バカ野郎! お前は見るな!」
「ちょ、痛い痛い、理不尽! いや、見るなとか無理だし!」
「お前は宮地さんだけ見てればいいだろー!」
「や、そりゃ宮地さんかっこいいけど……って、イテイテイテ、マジ痛い!」
 二人で絡まって砂浜に転げていると、パラソルの前をぬっと人影が遮った。顔を上げると、宮地が高い背を屈めるようにして、パラソルを覗きこんでいた。
「二人とも、海、入らないの?」
 宮地はにっこりと笑って言った。
「カナちゃんも待ってるよ」
「あ、う、うん、すぐ行く」
 高尾がタケの肩越しに言うと、宮地はもう一度感じのいい笑みを浮かべてカナの方に戻っていった。その後ろ姿を見てタケが呟く。
「い、今の牽制かな」
「え、そうなん?」
「そうなん? っておまー。案外鈍いんだな」
「はぁ?」
「高尾くーん、竹本ー、早くおいでよ、そんなとこでいちゃついてないで!」
 カナが波打ち際で大きく手を振っている。高尾とタケは顔を見合わせて、それからカナに向き直って同時に叫んだ。「いちゃついてねーし!」
 先に飛び出したタケを追ってパラソルの影から転がり出ると、途端に太陽が目を射って立ちくらみがした。脳みそがぐるりと一回転し、浜辺の喧騒が一瞬遠退く。高尾は目の上に左腕をかざして、まぶたの裏の明滅が過ぎ去るのを待った。暗闇に、太陽の残像がチカチカとする。白い光は不均等な多角形を形作り、次々に高尾のまぶたに現れては消えた。その中に、誰かの後ろ姿が浮かび上がる。暗闇に滲む白いシャツ、ピンと伸びた背中。それはなかなか消えずに高尾のまぶたを焼いた。「宮地さん」
 力強い手のひらが高尾の上腕を掴んだ。「高尾?」
 こめかみの辺りがじんわりと痺れる感覚と共に、白い明滅も、白いシャツの後ろ姿もまぶたの暗闇に溶けていく。ゆっくりと目を開けると、心配そうに高尾を覗きこむ宮地の顔があった。
「大丈夫か?」
 少し遅れて、周囲の喧騒も耳に戻ってきた。そこはさっきまでと同じM海岸の海水浴場で、そこにあるものは一つの例外もなく夏の象徴だった。白い太陽、照り返す砂浜、跳ねる水しぶき、色とりどりの水着に惜しげなくさらされた小麦色の肌。さっきまでと何一つ変わらないその光景が、目を閉じる前と後とで、何か決定的に変わってしまったような違和感があって、高尾は呆然と辺りを見渡した。タケとカナは二人の様子に気づいていないようで、膨らんだシャチのフロートを挟んで何かしゃべっている。
「……大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけ」
 高尾は安心させるように微笑んだ。きっと、急に太陽の下に飛び出したのがまずかったのだろう。もう気分は何ともなかった。
「って言うか、宮地さんとカナちゃん、何でそんな意気投合してんスか」
 高尾が拗ねたふりで言うと、宮地はちょっと目を丸くして、そしてカナを振り返った。 
「何でってそりゃあ」
「好きな子の趣味が合うからよ」
 カナはいつの間にか宮地の背後にいて、彼の肩の下辺りから顔を覗かせていた。
「そうそう」
 カナと宮地は顔を見合わせてうんうんと頷きあっている。冗談にしても、高尾はどんなリアクションを返せばいいか困ってしまってたじたじだった。タケが「このモテ男め」と高尾の膝裏に半ば本気のローキックを打ちこんでくる。
「ちょ、痛い、痛いって」
「痛くしてんだよ!」
 チキショー! 俺もモテてぇー! とタケは叫びながら海に向かって走っていってしまった。カナが大笑いしながら「待ってよー」と追いかける。高尾と宮地は顔を見合わせて笑った。
「俺らも行こうぜ」
「うん!」
 海に入ると、柔らかな波が肌を洗った。白い泡が水面に弾けている。頭上を行き交うビーチボール、歓声、時々聞こえるライフセーバーの拡声器の声、カラフルな水着、赤、青、水色、緑。完成された夏のシーンはスクリーン越しに観る映画みたいに、どこか遠い世界のできごとのように思えた。


 海の家を出て海岸線を右手の方に少し歩くと、途端に人影がまばらになる。宮地と高尾はそれぞれ両手にパイナップルの入った皿とかき氷、コーラとメロンソーダのカップを持って、ぶらぶらと海水浴場と反対側に向かっていた。休憩がてら海の家に行くと言ったらタケとカナにジュースを買ってくるよう頼まれたのだが、少し人ごみに疲れたのと、タケとカナが案外いい雰囲気だったのとで、少し寄り道をして帰ることにしたのだ。
「今の海の家の店員さん、ちょっと木村さんに似てた」
 高尾が思い出してくすくす笑うと、宮地が「マジで?」と反応する。「結構強面じゃん」
「強面……まあそう言えばそうなのかなぁ。坊主だしでかいし、木村さんも知らない人が見たら強面になるのか。木村さんに似たあの顔でパイナップル売ってるから、思わず買っちゃいましたよ」
「あ、それで買ったんだ? 高尾フランクフルト食いたいって言ってたのに、やっぱりパイナップルで、とか言い出すから何かと思った」
「いやぁ、あの顔見てたら思い出しちゃって。俺ら高校の時、バスケ部の夏合宿って海の側のおんぼろ民宿に行くのが恒例だったんですよ。その合宿がきちーのなんの。一年ん時はマジで何度も練習中に吐いたし、もう絶対無理とか思ってたんですけど……そしたらね、二日目の夜、練習終わってもう立ち上がるのも嫌だ! ってなってた時に、一台の軽トラが颯爽と現れて体育館に横付けするんです。トラックには『木村生鮮店』の文字。みんなが何だ何だと言っていたら、木村さんがおもむろに立ち上がって、『悪ぃな父ちゃん』って手を上げた。そこで運転席から木村さんそっくりのお父さんが下りてきて、『信介に頼まれて来た。これ食って元気出しな』って、段ボールいっぱいのパイナップルを」
「なんだそれ、木村かっこいいな」
「ほんとほんと。木村さんの坊主頭に後光射して見えましたわ。んでまたそのパイナップルのうまいことって言ったら……」
「そりゃ絶対うまいわ。あー……なんかいいな、青春って感じだな」
 この辺に座ろうぜ、と防風林の足元のコンクリートに宮地が腰を下ろすので、高尾もそれに倣った。人の姿はほとんどなく、海から吹く風は少し強かったが気持ちよかった。クロマツの繁る頭上からは、クマゼミの声がシャワーのように降ってきて、会話をするのに声を張り上げなければならないほどだった。宮地はかき氷の大きな一匙をためらいなく口に放りこみ、「冷てぇ」と眉を顰めた。赤いシロップはイチゴ味だ。
 高尾はパイナップルを一切れ食べた。夏の味がする。
「宮地さんって、学生時代運動部じゃなかったって本当? 体格いいし、スポーツやってるっぽいのに。タケも興味津々だったじゃん」
 最近細マッチョを目指しはじめたタケは、細身に見える宮地の意外と筋肉のついていることに驚いて、どうやって鍛えたのかを知りたがった。宮地は、特にスポーツはやったことがなくて、定期的にジムに通っていると答えていたが、ただ鍛える目的でつけられた筋肉というよりは、スポーツをすることで自然と鍛えられたバネのある筋肉に見えたので不思議だったのだ。
「学生時代部活は……何やってたのかなぁ」
「何やってたのかって、覚えてないんですか?」
「いや、覚えてないことはないんだけど、随分曖昧なもんになっちまったなぁと思ってさ」
「あー、それはなんかわかります。どんなに大切な思い出も、だんだん新しいことに上書きされていってしまうんですよね」
「いやそうなんだけどさ、お前がそんなこと言うのは、まだちょっと早いんじゃねーの?」
 宮地は笑った。
「それにさ、特に高校や中学ん時に青春賭けて打ちこんだものがあるなら、そういうのは消えないで残ってると思うぜ。例え上書きされたように見えても、記憶を一枚めくってみたら、きっとそのままの形で残っているさ」
「そうなのかなぁ」
「そうだよ。俺みたいにぼんやり過ごしてたら、記憶もぼんやり曖昧になっちまうけどな。まあとにかく、あんま覚えてないってことは、帰宅部かなんかだったんじゃねーの?」
「ふうん、もったいない」
「だから高尾のそういう、バスケ一生懸命やってた話とか聞くのすげぇ好きなんだ。なんか、変な話だけど、俺も一緒にバスケして、青春してたみたいな気分になってさ」
 空を仰いだ宮地の視線の先には緑を濃くした夏の富士山があったが、彼はそれよりももっとずっと遠くを見ていた。その横顔は、まるでありもしない高尾や木村たちとの青春の日々を懐かしんでいるかのようにも見えた。
「……不思議ですね。俺も、なんか宮地さんとは一緒に青春していたような気がします。……ま、ありえねー話だけど。俺があくせくバスケットボール追いかけていた時、宮地さんはもう社会人だったわけだもんね。うわ、そう考えると結構宮地さんおっさんじゃね? 宮地さん高校生ん時、俺まだ小学生っすよ!」
 宮地は高尾の足を軽く蹴とばして言った。
「うっせぇよ、轢くぞ、木村の軽トラで」
「なんスかそれ、物騒!」
 高尾がぎゃははと笑い、宮地も笑った。
「……なあ、パイナップル一口」
 ねだる宮地に、はい、と爪楊枝に突き刺したパイナップルを差し出すと、その右手を取られて引き寄せられた。一瞬触れてすぐに離れた宮地の唇は、かき氷のせいでひんやりと冷たかった。
「……そろそろ戻るか」
「……うん」
 またぶらぶらと歩いて海岸に戻ってきた二人を見つけ、タケが遠くから「遅ぇ!」と怒鳴った。しかし、笑顔で手を振るカナの後ろで(ありがとう)と言うように口を動かして拝む真似をするので、宮地と高尾は顔を見合わせて笑ってしまった。寄り道をして帰ったのは正解だったらしい。


 静岡鉄道の車内はガラガラだった。宮地と高尾は悠々と座席に並んで腰を下ろし、車窓を流れる静岡の風景を見るともなしに眺めていた。カナとタケは路線が違うので途中で別れ、今は二人きりだった。
 ビルとビルの間に真っ赤な夕日が現れては隠れ、また現れる。時折スパッと切り取られたみたいに高い建物が消えると、太陽が不安定に揺らめきながら地平線に沈もうとしているのが見えた。上空はまだほんのりと薄青い。できたばかりの首筋の日焼けはひりひりと夏を主張しているのに、空の模様だけは一歩も二歩も先に秋へと向かっていた。
 心地よい倦怠感に浸された体を電車の規則的な揺れに任せているのは、高尾の幼い頃、今は亡き祖父母の家に遊びに行った帰り道を思い出させた。ほんの一駅か二駅だったと思うが、妹がまだ生まれていなかった時、あそこは唯一高尾が一人で行ってもいい場所だった。宮地は何を考えているのか、真面目な顔で窓の外の夕焼けを眺めている。高尾は、人の少ないのをいいことに、その肩にそっと頭を預けた。
「……高尾?」
「ん……疲れたからちょっとだけ。……宮地さん、今日楽しかった?」
 高尾の頭を乗せた宮地の左肩が微かに前後に動いた。頷いたらしい。
「楽しかった。タケとカナちゃんに会えて、あんなふうに受け入れてもらえたのも嬉しかったし、それに」
「うん?」
「俺さ、高尾と海に来たかったんだ」
 高尾が宮地の顔を仰ぎ見ると、彼は変わらず真面目くさった顔で夕焼けを見ていた。 
「去年、お前と会ってから、海も行きたかったし山にも行きたかった。街で遊んだり、ライブ行ったり、お前の家に行ったり俺の家に連れてきたり……行きたい所もやりたいことも急にたくさん増えたんだ。だいぶ実現したこともあるけど、海は初めてだったよな」
「そっか……そうですね。そういや、宮地さんと初めて会ったのって去年の夏でしたね。もう一年って言うか、まだ一年って言うか」
 宮地は感慨深げな声を漏らした。「一年かぁ」
「主な行事でできてないことって言ったら後は何かな。初詣は今年行けたし、クリスマスも去年やった」
「高尾の誕生日もしたな」
「じゃあ後していないのは、宮地さんの誕生日と――」
「あー、それと俺、ホタルも見に行きたかったんだよな。今年は、お前就活で忙しかったから無理だったけど」
「ホタルもいいですね。じゃあそれは来年行きましょう。俺ら、これからいくらでも時間あるんですから」
 宮地は高尾の額に素早く口づけて笑った。「そうだな。時間はいくらでもある」
 高尾はふと思いついて、スマートフォンを取り出し、通話履歴を開いてみた。そこにはずらりと、「宮地さん◎」の文字が並んでいた。
「見てよこれ。ほら、一年間の俺らの履歴」
「ほとんど俺ばっかじゃん、電話してんの」
「だって他の友達、大体ラインかスカイプで連絡取るし。……宮地さんスマホにしないの?」
 宮地は未だに二つ折りタイプの携帯電話を使っている。持ちはじめてもう五年は経つらしいが、乱暴な所作の割に携帯の扱いは丁寧なのか、ほとんど傷も付いていない。
「特にこだわりはねーんだけど。まだ動くからな。ま、これ壊れたらスマホにするかなぁ」 
 宮地の声を聞きながら、高尾は手遊びに通話履歴をずっと下までスクロールしていく。時々企業からの電話や実家からの電話もあるが、ほとんどが宮地の名前で埋まっている。
「てかなんで俺、宮地さんの名前の後ろに二重丸付けたんだろ」
「知らねぇよ。宮地さんが特別ですって意味じゃねーの?」
「うは、そうかも。じゃあ付けたまま残しておこうっと……って、ん? なんだこれ」 
 意識の端にふと引っかかるものがあって、高尾は画面をスクロールする指を止めた。去年の十二月二十四日、クリスマスイブの夜遅い時間に、「真ちゃん」と「宮地さん◎」に挟まれた一つの電話番号がある。履歴を見るに、夕方に高尾が発信して、その後十一時を回った頃に向こうから着信があったらしい。あの日の夜、忘れもしない、宮地と初めて結ばれた日の夜だ、帰宅してから緑間に電話をしたのは覚えている。内容までは覚えていないが、きっと浮かれた報告か、いつもの他愛もない話をしたのだろう。しかし、高尾にはどうしても、その前に掛かってきていたらしい電話のことが思い出せなかった。間違い電話かとも思ったが、記録を見ると二十分は話している。
(なんだこれ。気味が悪ぃな)
 思い出せないのもすっきりとしないが、それ以上になんだか高尾は薄気味悪かった。その11桁の数字には、どこか高尾の意識を捕らえ、かき乱すものがあった。記憶の下からじわりと滲む黒い染み――。
「高尾、そろそろ駅着くぞ……どうかしたのか?」
 宮地が、高尾の微妙な顔色に気づいたのか顔を覗きこんできた。
「……いや、何も!」
 高尾はその11桁の数字を削除した。なぜか一瞬胸がちりっと痛んだが、その痛みさえも、すぐにどこかへ消え去ってしまった。

5 → 6 → 7


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