カフェの人 -7-
河川敷の舗装された道を、長い影が二つ歩いている。一つは、隣の影より頭一つ分さらに長い。手ぶららしいそれぞれの右手と左手が時々重なりあう。傍らを、近くの高校の運動部の少年たちが、掛け声を上げながら追い抜いていった。
「おうおう、若いのは元気だなぁ」
長い方の影がそう言って、両手をうんと上げて伸びをした。
「宮地さん、おっさん臭い」
短い方の影が肩を揺らして笑うと、すぐさま隣の影から長い足が伸びてきて膝裏を蹴る。
「おっさん言うな、蹴るぞ」
「もう蹴ってんじゃん!」
川を渡る風が、二人の笑い声を川下へと運んでいく。少し明度を下げた黄昏時の空を背景に、電車が陸橋を走り過ぎていった。もう車内には明かりが灯っていて、規則正しく並んだ四角い窓から、柔らかい光が零れていた。
「……気持ちいいなぁ」
じゃれたついでにさり気なく高尾の肩を組んで、宮地が言った。首筋に巻きつくシャツ越しの熱が、心地いい季節になっていた。
二人は行きつけのロックカフェに行った帰りで、秋風に誘われ、遠回りをして河川敷をぶらぶらと歩いていた。この辺りはバスで何度か通過したことはあるが、歩いたのは初めてだった。土手の茂みからは、ひっきりなしにコオロギやスズムシの鳴く声がする。ねぐらに帰るらしいカラスが二羽、カー、カーと澄んだ声を響かせて空を横切っていった。秋の夕べは意外とにぎやかだ。
「今の子たち、何部だと思います?」
「集団で走っていった子?」
「うん。俺、サッカー部だと思うな。なんか今どきっぽい子多かったし」
「えー? じゃあ俺ラグビー部」
「そんながたいよくなかったじゃん」
「高校生なんてそんなもんだろ。まあ、野球部でないことは確かだな。坊主じゃなかった」
「最近坊主にしない野球部も多いらしいスよ」
他愛もない会話は、目的のない散歩によく似合う。
土手の上を、テニス帰りらしい女性の一団がラケットを小脇に抱えて通りがかった。
「夕飯何にしようかしら」「私もうお惣菜買って帰るわ」「旦那は待ってるだけで何もしないから、嫌になるわね」
大方そんな会話をしているのだろう。スズメの群れがさえずり交わしているかのようなにぎやかしさに土手をふり仰げば、そこはいくつかの屋外コートが集まっているらしく、緑色の金網がずっと遠くまでまっすぐに続いていた。その向こうにバスケットゴールの背の高いシルエットを見つけ、高尾は歓声を上げた。
「宮地さん、バスケ! バスケできますよ、行きましょうよ!」
「はぁ? 俺体育の授業ぐらいでしかやったことないからできねぇよ」
「いいからいいから」
渋る宮地の腕を取って引っ張ると、宮地は文句を言いながらも高尾の後について土手を上った。
金網の扉は鍵が掛かっておらず、試しに押してみるとキィと音を立てて開いた。フリーコートらしい。反対側は緑地公園の裏手になっていて、色づきはじめた広葉樹が夕闇の影を濃くしている。
「こんな所にストバスコートあったんですね」
高尾は感慨深げに言った。大学の体育館で遊びのようなバスケは続けていたが、ストリートバスケのコートに立つのは随分と久しぶりだった。宮地は物珍しそうな顔でコートを見渡している。
「バスケのゴールって、記憶の中にあるのより結構低いんだな」
宮地はゴールの下に歩いていって、手を伸ばした。ネットに手が触れる。
「宮地さん、ダンクできるんじゃないですか?」
高尾が、どこかにボールが落ちていないかときょろきょろしていると、宮地はゴールの影に転がっていたバスケットボールを見つけて高尾に放った。「なんかボールあったぞ」
ボールは高尾の手の位置に正確に飛んできて、キャッチするとパシンと小気味のいい音がした。安いゴム製の、表面にぶつぶつのついているオレンジ色のボールだ。両手で挟みこんで力を加えると、少し空気が抜けかけているようだが、使えないこともなさそうだった。誰かの忘れ物だろうが、ありがたく拝借することにする。
高尾は試しにセンターライン付近を軽くドリブルしながら一周し、それから身を低くして一息にゴール下に切りこんだ。一連の動作はもう何千回と繰り返したもので身に染みこんでいる。ジャストなタイミングで放たれたボールは、ボードに当たって当然のようにネットを潜った。
「大したもんだな。プロみたいじゃん」
宮地は感心した顔でパチパチと拍手をした。
「宮地さんもやってみたら」
高尾がボールを渡すと、宮地は「えー、無理だって」と言いつつ、感触を確かめるように、両手の間でシュルシュルとボールを回した。そしておもむろに膝を曲げ、伸び上がると同時にボールを放つ。フリースローラインより少し内側から放たれたボールは、鋭角気味の放物線を描いて一直線にゴールに飛びこんだ。
「すげぇ! ナイッシュ」
今度は高尾が手を叩き、宮地は「入るもんだなぁ」と自分で驚いた顔をしている。
「宮地さん、ほんとに学校の授業でしかやったことないの? なんか妙に様になってましたよ」
「マジで。素質あるかなぁ、俺」
宮地が満更でもない顔で言うので、高尾は少しいたずら心が湧いた。「宮地さん、ワン・オン・ワンしましょ。俺が攻めるから宮地さんブロックして」
日頃、大体のことにおいて宮地は高尾の一枚上手なので、バスケでくらいは宮地に勝って大きな顔をしたかった。
「止めたら宮地さんの勝ち。シュート決まったら俺の勝ち。五本勝負ね」
「よっしゃ。止めるぐらいならできそうだな」
宮地は腕まくりをしてやる気の姿勢だ。二人はセンターラインまで下がって向かいあった。
「そんじゃぁ……行きますよ、っと!」
高尾は身を屈めて深く足を踏みこんだ。宮地が半歩遅れて追いかける。「ちっ」舌打ちと共に伸ばされた宮地の長い手がボールに一瞬触れかけたが、高尾はすばやい切り返しでそれを避ける。そのままゴールまで一直線にドリブルし、見本のようなレイアップシュートを決めた。
「はい、まず一本」
「くっそ~」
宮地は俄然本気の形相で、「次だ次!」と言う。
「何回やっても同じですよ。伊達に小中高とやり込んでないんで」
高尾は余裕の表情でボールをつきながら再びセンターラインに戻る。
しかし、二回戦、三回戦とやるにつれ、宮地は次第に高尾の動きについてくるようになった。体を使って高尾の進路を塞ぎ、体格の利を生かして上を越えるシュートを打たせない。一旦下がってまた切りこみ、フェイクを織り交ぜ、緩急をつけた高尾お得意のトリッキーな動きで宮地の裏をかき、なんとか四本目のシュートを決める。
「マジくっそ腹立つ!」
宮地はネット下で転々と弾む球を拾って、苛立たしげに高尾に放った。
「いやいや、宮地さんなかなか素人の動きじゃないッスよ」
いつしか二人とも汗だくになっていた。
「けど、あと一本スね」
「ぜってぇ止める!」
センターラインで向かいあい、互いに身を低くした姿勢で睨みあう。宮地に隙はない。ボールだけでなく、高尾の動き、目線、筋肉の入り方にまで意識を巡らせているのがわかる。高尾はちらりと左手を見た。宮地は一瞬重心を右に乗せかけたがつられない。高尾は動き出せず、ボールを右手、左手、右手と低い位置でつきながら、宮地の動きを窺った。宮地も、じりじりと高尾の動きを窺っている。息詰まる無言の攻防の後、高尾は重心を右に乗せたフェイクを入れ、すぐさま左に抜けようと動きかけた。
(駄目だ、読まれてる)
一瞬つられたかのように見えた宮地は、素早く反応して高尾の動きを追った。高尾は止められると咄嗟に判断して、レッグスルーでボールを再び右に返す。反射的に伸びてきた宮地の指先が一瞬ボールに触れ、コントロールを失いかけるが、そのまま半ば無理やりに宮地の左から抜き去った。
(よし、決まった……!)
確信した高尾がゴール下に飛びこもうとした時。
「高尾!」
宮地の鋭い声が飛ぶ。その瞬間、ここは静岡の屋外コートではなく、六年前のウィンターカップの体育館だった。ゴールエリアには敵チームの大型センターとガードが両腕を広げて立っている。(止められる)高尾の広い視野は、逆サイドに駆けこむ宮地の姿を捉えていた。
「宮地さん!」
高尾のノールックパスは敵の真横を切り裂いて、宮地の手に吸いつくように収まった。何千回と繰り返された、身に染みついたパス。宮地がドリブルで切りこむ。いつ見ても惚れ惚れとするぺネトレイト。陣形を崩された敵チームがやみくもに伸ばす手を掻い潜り、大きくジャンプした宮地はボールをゴールリングに真上から叩きつけた。
ミシ、ミシと古いゴールが軋んで揺れる。空気の抜けかけたボールは頼りなく二、三度弾み、てててと音を立てて転がっていった。宮地は掴んでいたゴールリングから手を離し、コートに下り立った。
二人はしばらく黙ったままだった。風が吹いて、広葉樹の葉が乾いた音を立てる。カー、カー。コートの様子を見物していたらしいカラスが、明瞭な声で二声鳴いて飛び去っていった。
「す、すげぇ!」
高尾は興奮して手を叩いた。「宮地さんすげぇよ! 今のダンク、なかなかちょっとできませんよ。俺一瞬、試合中みたく思っちゃった。相手チームの姿見えましたもん。ナイスプレイ、ナイスシュート!」
高尾は宮地の元へ駆け寄って、かつてよくチームメイトにしていたように肩を叩いてそのプレイを称えた。
「て言うか、何で宮地さんがシュートしてんスか。俺が攻めのワン・オン・ワンしてたんじゃん! 名前呼ぶから、うっかりパスしちまったわ。ポイントガードの習性が身に染みついてますね、俺も。つか宮地さん、未経験者とか嘘でしょ? いやーマジでいいプレイだった……って、宮地さん?」
宮地は強張った顔で俯いている。高尾の声も耳に入っていないようだったが、高尾が下から覗きこむとはっと顔を上げた。
「どうかした? なんか顔色悪いですよ」
「あ、ああ……いや、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないけど」
「ほんとに、なんでもねぇから!」
大きな声に、高尾はびっくりして宮地を見た。「……宮地さん?」
宮地は両手で顔を覆った。
「悪い……本当に、なんでもないんだ。急に運動して、ちょっと疲れただけ」
宮地はそれ以上何も語ろうとしなかった。空は、見たこともないような橙色に染まっていた。高尾は途方に暮れて、その空を見上げた。バスケットゴールがシルエットになって、黒々とした骨組みを夕闇にくっきりと映していた。
* * * * *
「じゃあ宮地さん、俺ちょっと行ってくるけど、今日中には戻るから」
静岡駅の改札で、高尾が宮地にそう言うと、宮地はにこりと笑って頷いた。「待ってる」
高尾はスーツ姿で、ビジネス用の黒い鞄を持っている。
「そうして見ると、一応ちゃんと社会人らしく見えるな」
宮地は高尾の姿をしげしげと眺めて面白そうに言った。
「一応ってなんですか」
高尾は反論するが、平日朝の静岡駅を忙しそうに行き交う熟練のビジネスマンに比べると、新品のスーツ姿の高尾はいかにも新入社員といった出で立ちだった。ちなみにこのスーツはリクルート用の安いスーツではなく、就職祝いにと宮地の見立てで買ってもらった少しいいスーツだ。控えめな光沢とストライプが、さり気なくおしゃれで気に入っている。
「いや、ほんと、よく似合ってるぜ。……なんか新鮮だな。俺はまともにスーツ着たことないから」
今日は昼から東京で、会社の内定式があるのだ。上役の訓示やら先輩の話やらがあり、懇親会を兼ねてホテルで豪華なランチが振る舞われるらしい。堅苦しい食事の席は苦手だが、新しい人と会い、新しい環境に入っていく緊張感は、高尾は嫌いではなかった。
たった数時間のために東京に行って帰ってくるのもつまらないので、緑間に付きあってもらって、東京のデパートで明日の宮地の誕生日のために、何かプレゼントを買って帰る予定だった。
「そろそろ発車時間なんで」
高尾がひらりと手を振って踵を返そうとすると、「あ」と宮地が声を上げた。
「どうかした? 宮地さん」
「い、いや、なんでもねぇ……。待ってるから」
「? うん」
高尾は宮地を安心させるように言った。
「大丈夫だよ、宮地さん。今日は夜、俺ん家に来てね。そんで、一緒に明日を迎えて、一番に宮地さんに『誕生日おめでとう』って言わせてよ」
宮地は微笑んで頷いた。「楽しみに待ってる」
宮地は、あのバスケをした日以降、どうにも様子がおかしかった。しゃべっていても上の空で、塞ぎこんで何かじっと考えていることが増えた。かと思えば、突然高尾を激しく求めてきたりもした。そんな時は決まって、事が済んだ後、宮地は高尾にしがみつくようにして眠った。高尾は何度か、何か心配事でもあるのかと尋ねたが、その度に宮地は「なんでもない、大丈夫」と繰り返すばかりだった。最近はようやく笑顔も戻ってきたがやはりどこか不安定で、高尾は宮地を水みたいだと思った。形が定まってなくて、不確かで、手には触れるのにどこか曖昧だ。何回もあのバスケをした日のことを思い返して、宮地がそうなってしまった原因を見つけようとするのだが、高尾にはどうしてもわからなかった。
(秋だし、俺の東京行きの日も近づいているし、情緒不安定になっているのかもしれない)
高尾にはそう想像することしかできなかったが、明日の誕生日は、去年祝えなかった分朝から晩まで一緒にいて、盛大に甘やかしてあげて、それで少しは気が晴れればいいと思っていた。
(何か原因があって、宮地さんがまだ話したくないのなら、俺はそれを待っていればいい。宮地さんのどんなことだって、俺には受け入れる準備ができているんだから)
高尾は新幹線の車窓に映る自分の顔を見ながらそう思う。今日外はひどく靄がかっていて、富士山の姿は見えなかった。
(雨が降る予報ではなかったはずなんだけど)
東京に着くまで、少し眠ろうと思う。今日は夜遅くまで起きていて宮地に一番に「おめでとう」を言い、明日は朝早く起きて、宮地に一番に「おはよう」を言うのだ。高尾は目をつぶった。新幹線の静かな振動は、すぐに心地よい眠りを運んできた。
「くぁ~」
あくびを隠そうともせずに大きく伸びをする高尾を見て、緑間は眉をひそめた。「高尾、はしたないのだよ」
ここは日本橋にある東京でも有名な和スイーツの喫茶店で、向かいに座った緑間は白玉善哉(バニラアイスクリーム乗せ)を食べ終え、優雅に煎茶を啜っていた。高尾は豪華なランチを食べてきたところなので、コーヒーだけを頼んだ。緑間に、どうしてこんな所に来てまでコーヒーなんだと心底わからないような顔をされたが、黒豆ブレンドだというコーヒーもなかなかの味わいだった。緑間に買い物に付きあってと頼んだら交換条件としてここの善哉を要求されたのだが、来てよかったと思う。
「せっかくのスーツ姿が台無しだぞ」
「んなこと言ったってさぁ」
高尾は今の伸びで少しずれたスーツの襟を正しながら言った。
「お偉いさんの長い話に、ナイフやらフォークやらスプーンやらが何本も並んだホテルのランチ、慣れないスーツでそりゃ肩も凝るってもんでしょ」
「どれもこれも、いずれは慣れていかなければならないものだろう」
「ま、そりゃそうなんだけど? いやけどさ、先輩の話は面白かったぜ。どの部署に配属されるかは入社してからなんだけど、俺できれば地盤の実地調査がやりたいなぁ」
「お前は落ち着きがないから、デスクワークより外を飛び回っている方がきっと合うのだよ」
「おい言い方!」
確かに今日は多少気疲れもしたが、それ以上に実りのある懇親会だったと思う。規模はどちらかと言うと小さい会社だが、少数精鋭といった感じで、先輩たちは皆気さくながらも優秀で熱心だった。同期はおとなしそうな男子が多かったが、しゃべってみるとなかなか個性豊かで面白そうな面子が集まっていた。四月からが楽しみだ。
喫茶店を出ると、相変わらず外はどんよりとした曇り空で、足早に通り過ぎる人々は皆ジャケットの前を掻き合わせていた。木枯らしが唸りを上げて道を這い回っている。今日は昨日より気温が五度ほど下がる予報だった。
緑間に「うまかった?」と尋ねると、素直にこくりと頷き、「で? どこに行くのだよ」と言った。食べた分は、きっちり付きあってくれる気らしい。
「一応、目星をつけてる物はあって。宮地さんの好きなブランドのキーケースなんだけど。欲しい色があっちになくってさ。こっちはまだ在庫あるとこもあるみたいだから、いくつか百貨店梯子しようかと思ってるんだけど。まあ現物の色見て迷いたいから、真ちゃんの意見聞かせてね」
「ふん」と緑間は眼鏡を押し上げて言った。「今日のおは朝、かに座のラッキープレイスは百貨店とあったのだよ。だからまあ、付きあってやらなくもない」
かに座のラッキープレイスは、高尾はもちろんチェック済みだった。もう緑間のためにおは朝をチェックすることもなくなったのだが、今でも早く起きた日などは何となく気になって見てしまう。高校の三年間続けた習慣というのは、なかなか抜けないものらしい。
日本橋にはいくつか大きな百貨店があって、とりあえず一番近い所を目指して橋を渡る。辺りは都会的ながらも歴史を感じさせるコンクリート造りの高い建物が並んでおり、灰色の空をバックに、重苦しい威圧感を放っていた。空の色を吸いこんだみたいなスーツの男女、流行のファッションに身を包んだ若者たち、上品ないでたちの老婦人。広い四差路の道にひしめく様々な人の間を縫って信号を横断する。背の高い緑間はどんな人ごみでも見失わなくていい。
「ちなみに今日は、さそり座の運気は最下位だったぞ。ラッキーアイテムはスマートフォンだから、間違いなく持ち歩いているとは思うが……」
緑間が振り返ってじろりと高尾を睨むので、高尾はポケットからスマートフォンを取り出して見せてやった。「だーいじょうぶだって。ほら、この通り――」
ドン、と、急いで信号を渡ろうとしたらしいサラリーマン風の太った男が、高尾の持ち上げた右腕にぶつかった。あっと思う間もなくスマートフォンは高尾の手を離れ、カシャンと音を立ててアスファルトの歩道に落ちる。
「すみません」
男は軽く頭を下げたが、振り向きもせず点滅しはじめた信号に巨体を揺らしながら走っていった。高尾は二・三回転しながら横滑りするスマートフォンを追いかけて振り返った。スマートフォンを拾い、走り去った男の背を何気なく見遣る。
「ぼーっとしているからだ」
緑間の呆れ声が聞こえる。「割れていないか?」
高尾は呆然と太った男の後ろ姿を、いや、その向こうにあるすらりと背の高い男の後ろ姿を見ていた。カーキ色のロングジャケットの美しく伸びた背中、人の波の上に飛び出したくすんだ金髪。高尾の心臓は大きく早鐘を打っていた。高尾はその後ろ姿を知っている。よく似た誰かではない、その人そのものを高尾はよく知っているはずだ。記憶の海のずっと深い場所に沈んでいたものが吹き上がり、巨大な波となって高尾を襲う。天井の高い体育館、オレンジ色のボール、響く怒声、海辺の合宿、木村と肩を組んで笑っている誰か、ウィンターカップ、うずくまる緑間と高尾の背を叩いた乱暴ながらも優しい手のひら。一気に吹き出した映像の数々は、渦巻きながら高尾の頬を叩き、皮膚を切り裂いた。その人の名前を呼ぼうとして、唇がわななく。
「宮地、さん……」
舞い上がったピースが、剥がれていた記憶の穴を一枚一枚埋めていく。忘れるはずのない、共に過ごした高校時代の絵が鮮明に蘇ってくる。
「宮地さん!」
道路に飛び出しかけた高尾の腕を緑間が掴んだ。
「おい、何をしている。赤に変わるぞ」
「だって、宮地さんが……宮地さん! 宮地さん!」
信号は赤になった。宮地は高尾の声が聞こえているのかいないのか、一度も振り向かず、またいささかの動揺も見せず、悠々と横断歩道を渡りきった。
「宮地さん!」
高尾の声は、目の前を左右に横切りはじめた車の列にかき消される。
「高尾、どうしたのだよ」
半ば車道に身を乗り出していた高尾を、緑間が強い力で引き戻した。
「だって、真ちゃん、宮地さんだよ。わかんなかったの?」
「宮地さんも静岡から来ているのか? 俺は会ったことがないからわかるはずがないだろう」
「違う、その宮地さんじゃない。俺らの二個上の先輩で、超怖かった宮地さんだよ」
緑間は不思議そうな顔で首を傾げた。
「何を言っている? 宮地さんは、お前の恋人だろう」
高尾は愕然と緑間の顔を見つめた。
「緑間お前、覚えてねぇの? 秀徳高校の、俺ら一年ん時いっぱい一緒に試合戦った、反吐が出るくらいどやされた、人一倍バスケが好きで練習熱心だった、宮地先輩だよ?」
緑間の表情に、心配そうな色が浮かぶ。
「何か思い違いをしていないか? 秀徳高校に、宮地先輩などという人はいなかった。……大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
「真ちゃん、ごめん、俺ちょっと……今日は帰る」
「おい、高尾!」
「ごめん、大丈夫だから。また連絡する」
再び青に変わった信号を、高尾は身を翻して走った。
「高尾!」
一瞬緑間の追いかけてくる気配がしたが、高尾は振り返らなかった。
(宮地さん、どうして、なんで、どういうことだよ)
今や、高尾の脳裏には、ぼんやりとぼやけていた宮地の顔がはっきりと像を結んでいた。いつも不機嫌そうにしわを寄せた眉間、常に上を見てぎらぎらとしていた目、アイドルを熱弁する時の紅潮した頬、たまに見せる屈託のない笑顔。卒業式の日、彼は高尾に何か言いたげな表情を見せ、結局何も言わずに穏やかに微笑んだ。その顔が、恋人の顔と重なっていく。
「じゃあな、高尾」
卒業証書の入った黒い筒を振って踵を返した背中は美しくまっすぐに伸びて、高尾に追いかけることをためらわせた。あの時見送った学ランの背中が、糊の効いた白いシャツに変わる。水差しを片手に、テーブルとテーブルの間を静かに歩く。彼は振り返って穏やかに微笑む。「高尾くん」
違う、そうじゃない。
高尾は首を振った。革靴を履いた足が痛い。いつものように走れないのがもどかしい。スーツがひらひらとまとわりつくのが邪魔だ。宮地の歩いて行った方へ見当をつけて走りながらきょろきょろと辺りを見回すと、やがて人の群れの中に背の高い金髪が見えた。
「宮地さん!」
切れた息の合間から高尾は叫ぶ。何人かが振り返ったが、宮地は歩調を緩めずに歩き続ける。
「宮地さん、待ってってば!」
高尾は人ごみに体を押しこんだ。人にぶつかっては迷惑そうにじろりと睨まれたが、高尾は構わず押し進んだ。宮地はこの人の中を、水差しを持ってテーブルの間を縫い歩く高尾の恋人のように、何の淀みもためらいもなく歩いた。そんなに急いでいる様子も、高尾から逃げている様子もないのに、二人の距離は見る見る開いていく。
「宮地さん、宮地さん」
高尾はなぜだか泣きそうだった。大切なものが、永遠に、決定的に失われようとしているのを感じた。宮地の姿が遠くなっていく。靄に霞む富士のように、確かにそこにあるはずなのに見えなくなる。高尾は立ち止まった。宮地の姿は、いつの間にか消えていた。
道行く人が、迷惑そうに、あるいは不思議そうに高尾を見ながら通り過ぎていく。高尾は歩道の柵に凭れかかって、そのままずるずると腰を落とした。新しいスーツは汗で貼りつき、柵についた砂埃で汚れたがどうでもよかった。
高尾はのろのろとスマートフォンを取り出し、電話帳から「宮地さん◎」の名前を呼び出した。しばらくその名前をじっと見つめ、通話ボタンを押す。長い呼び出し音が耳の奥の方で鳴る。(一つ、二つ、三つ、四つ……)高尾は無意識にその数を数えた。八つまで数えたところで、コール音が途切れる。
長く、二人は黙っていた。その時間は、一分か二分か、あるいは十分ぐらいにも感じられた。電話の向こうで、宮地は息を殺しているようだった。辺りは静かで、ちりちりという無音の雑音が聞こえる。
高尾はようやく口を開いた。心臓が痛くて、変に潰れたような声になった。
「……あんた、一体誰なんだ」
「……高尾、頼む……帰ってきて」
震える懇願の声は、電話の向こうの闇を揺らし、ざわざわとした日本橋の夕べを揺らし、高尾の鼓膜を揺らした。高尾は目をつぶり、唇を噛んだ。そうでもしないと、何かが零れてしまいそうだった。高尾は強くスマートフォンを握りしめた指で電話を切った。
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