カフェの人 -8-
静岡には、霧のような雨が降っていた。傘を差すほどでもなかったが、駅からアパートまでの道を歩く間に、高尾のセットしていた前髪はしっとりと濡れて額に貼りついた。アパートのコンクリートの壁には灰色の大きな染みが、奇怪な生き物のシルエットみたいに高尾を見下ろしていた。
キィキィと音鳴りのする油の切れた門扉を開けると、高尾は薄暗く狭い通路を、革靴の音を響かせながら歩いた。高尾の部屋の前には一人の男が蹲っている。
103号室と書かれた鉄茶色の扉に背を凭せかけて座る宮地は、長時間外を歩き回っていたのか、髪から水が滴っていた。
高尾が鞄から鍵を取り出す気配に、宮地は俯いたままのろのろと立ち上がった。高尾は扉を開けると、無言で中を指し示す。宮地は小さくすんと鼻を啜り、足を引きずるようにして中に入った。以前にもこんなことがあったな、と高尾は思い出した。あの時は、高尾が宮地の部屋の前で蹲っていたのだ。宮地のアパートの前に座って見上げた楡の木の若葉の色は今でも鮮やかに蘇るのに、いつのことだかわからないほど昔のようにも感じる。
玄関に突っ立った宮地の脇をすり抜けて部屋に上がり、電気をつける。人工的な白い光が目を射って、高尾の心はいっそう冷え冷えとした。入ってすぐ左手にある洗面所から新しいタオルを一枚取って宮地に渡し、自分もスーツを着替えて湿った髪を拭く。玄関の方を見ると、宮地はまだタオルを持った同じ姿勢のままぼんやりと立ちすくんでいるので、高尾は彼の手からタオルを取り上げ、背伸びをして頭を少々乱暴に拭いた。
「宮地さん、早く拭かないと風邪引きますよ。……ほら、あったかいお茶入れるから上がって座ってて」
宮地がこくんと頷き、のろのろと靴を脱ぎだしたのを確認して、高尾はお茶を沸かしにキッチンへと向かった。
湯呑を持って居間に戻ると、宮地はベッドの上で、立てた膝の間に顔を埋めて座っていた。ソファーなどない狭い高尾の部屋では、二人はいつもベッドに座ってゲームをし、テレビを観て、本を読んだ。高尾も彼の隣に腰を下ろす。二人分の男の重さに、安いベッドのスプリングが軋んだ音を上げた。
「宮地さん、はい」
高尾が渡した湯呑を受け取ると、宮地はズズッと音を立ててお茶を啜った。香ばしく引き締まった香りがする。高尾は特に茶葉の違いがわかるような繊細な男ではないが、これは宮地が選んだ地元で摘んだこだわりの茶葉だった。
「静岡に生まれ育った俺のお墨付きだ。うちの実家でもずっとこの茶葉を使っているんだ。死んだばあちゃんも好きでさ」
そう言って得意げに笑った宮地の顔を思い出して、高尾はまた悲しくなった。
外にはサーッと静かで間断ない雨の音がする。その音を聞きながら、高尾はじっと自分の指先を見つめていた。握り締め、また開いてみる。この手は確かにこの世界にあり、手のひらに当たる爪の感触も、曲げては伸ばす節ばった指も、一分の疑いもなく現実のものだ。そうだと信じていた。
高尾は左手の薬指に嵌った銀色のリングに触れてみた。十一月の雨にひんやりと冷たくなったその無機的な光は、今までのように高尾に温かい気持ちを運んできてはくれなかった。ベッドがわずかに左に傾いでいる。隣に座っている宮地の重みだ。少し左に顔を向ければ、長い前髪に隠れた白い横顔を見ることもできるし、ほんの数センチ隣にその熱を感じることもできる。しかし、高尾にはそのどこまでが現実で、どこからが手に触れることのできる実体なのかがわからなくなっていた。
高尾は目を閉じた。雨の音、蛍光灯のチリチリという音、時計の秒針の振れる音、体の中の骨が擦れる音。目に見えない物事の方が、よほど現実的で高尾を安心させる。高尾は宮地の肩に頭を乗せた。いつもこのベッドに並んで座った時、二人はこうして凭れあって座った。宮地が身じろぎし、衣擦れの音がする。ベッドの安いスプリングが軋む。宮地の心臓の音が聞こえる。高尾は目を閉じたまま口を開いた。
「宮地さん、俺、東京で宮地さんに会ったよ。……秀徳高校バスケ部の、二つ先輩の宮地さんに」
「……うん」
「後ろ姿しか見てないけど、すぐにわかった。もう六年近くも会ってないけど確信した。そしてまた、わからなくなった。俺が東京で見たあの人は、秀徳の宮地先輩であると同時に、宮地さん、あんたでもあった。俺が見間違えるはずもない。背格好、仕草、歩く速さ、ちょっと右肩を上げて歩く癖。あの時俺には、その後ろ姿に二人の宮地さんが見えたんです。ドッペルゲンガーじゃない。あんたたちはよく似た他人なんかじゃなく、同時に別々に存在することのできないはずのたった一人の人間だ。じゃあ、去年の夏、宮地さんに会ってから経験したり感じたりしたこと、俺にとってリアルだったはずの物事は、一体どこまでがリアルだったんだろう。……そんなこと考えだしたら、そもそも夢と現実の境目なんて本当には存在しないんじゃないかって気さえしてくる。宮地さん、今の俺には、自分自身さえもなんだか曖昧で不確かなんです。宮地さんは、もうわかってるんでしょ? 教えてください。あなたは一体、誰なんですか」
高尾は顔を上げて宮地を見た。宮地はしばらく湯呑を持った自分の手をじっと見つめていたが、やがて意を決したように体を起こし、湯呑をベッドの前のローテーブルに置いて「ごちそうさん」と言った。そして、姿勢を正して高尾に向き直り、一度固く目を閉じて、また開いた。
「高尾」
「は、はい」
高尾の背筋は反射的に伸びた。それは、この一年、何十回何百回と恋人に呼ばれた名前とはまるで違って聞こえた。しかし、高尾のよく知っている自分を呼ぶ声だ。六年以上も前の記憶が高尾の心を揺さぶる。
「宮地さん……」
宮地は微かに笑った。
「久しぶり……でいいのか?」
高尾は肯定とも否定ともつかず、微かに首を振った。
「混乱させて悪かった。……おい、そんな幽霊でも見るような目で見んなよ。とりあえず今は、幽霊じゃない。実体を持ってお前の前に座っている。――ほら」
高尾の前に、宮地の右手が差し出される。ほっそりとして見えて、実は筋肉質でごつごつした腕。高尾を甘やかす節の高い長い指。和食を作るのが得意な手。そして、何千何万回とバスケットボールをついてきた、皮の厚くなった指先。
高尾は両手で宮地の手を取った。温かく、確かにこの場所に存在している。その手のぬくもりと確かさは、高尾にすべてを伝えてくれた。現実に見えるものの不確かさと、目に見えないものの確かさ、そして、そのどちらもが真実であること。高尾は包み込んだ宮地の手に額を押し当てた。
「宮地さん、忘れていてごめん」
押し当てた手が微かに揺れて、宮地の苦笑した気配がする。
「お前は悪くない。すべては俺が――俺の心が引き起こしたことだ」
「宮地さんの心?」
「ああ。弱虫で臆病で、途方に暮れていた俺のちっぽけな心だ。……聞いてくれるか? 高尾。ちょっとかっこ悪ぃ話になっちまうけど――」
* * * * *
お前の言うように、「宮地清志」は同時に別々には存在することができないはずの、たった一人の人間だ。だがどういう訳か、俺は今、静岡の高尾の家のベッドの上にこうして座っているし、同時に東京の街を一人でふらふらとさまよってもいる。だがそれは、表面上の話だ。「宮地清志」という男がたった一人である以上、その中身は、本質は当然ながらたった一つしかなく、俺はその中身を、少しずつ、向こうからこっちに移し替えてきたにすぎない。にわかには信じがたい話かもしんねぇけど、真実は拍子抜けするほど単純で簡単だ。
すべては、高校生三年生の俺が、高校一年生のお前に恋をしたことから始まる。――なに、そんなびっくりした顔すんなよ。今まで散々お前に「好きだ」って言ってきたじゃねぇか。……まあ、気づかなくても無理ねーか。だって俺、必死で隠してきたもんな。え? いつから? 何で? 質問の多い奴だな、黙って聞けよ、埋めるぞ。……きっかけは、覚えている。一緒に行った、一軍メンバーの夏合宿の時だ。あの夏はまた格別に暑かったよな。三年目の俺でも、音を上げたくなるぐらいきつかったんだ。合宿初体験の一年生は、なおさらしんどかったことだろうと思う。一軍の一年生は、お前と緑間と、あと数人しかいなかったけど、軒並みみんなグロッキー状態だったよな。インターバルの十分休憩に入って、俺は体育館の外に出た。その少し前に、お前がよろよろと外に抜け出すのが見えていたから、ちょっと様子を見ようと思ったんだ。案の定、お前は体育館の裏手の茂みに吐いたらしく、その姿勢のまま両手をついて俯いていた。「おい、水分取れよ」俺は、そんな風に声を掛けたんだと思う。お前は返事をするのも辛いのか、黙って頷いたが、やはり俯いたまま顔を上げもしない。俺はお前の肩に手を掛けて無理やり体を起こした。「とにかく早く水を飲め」そう言って、持ってきたボトルを渡そうとした。けどお前は頑なに顔を上げない。俺は腹が立って、半分頭を掴む勢いで顔を上げさせた。そして、息を飲んだ。お前、歯ぁ食いしばって泣いてたんだよな。あ? 今思い出した? はは、忘れたくて記憶を封印してたんじゃねぇの? だってひどい嫌がりようだったもんな。驚いて固まった俺の胸押しのけてそっぽ向いて、「あっち行ってください」って。心配してわざわざ様子見にきてやった先輩に向かって随分な言い草だったけど、あまりにいつもと様子が違ってるから、俺もかえって心配になって聞いたんだ。「何で泣いてるんだよ」ってな。「俺の勝手です、ほっといてください」お前の態度は頑なだったけど、俺にはなんとなくわかった。悔しさ、不甲斐なさ、もうちょっとやれるという気持ちと、追いつかない体。悔しいよな。俺もそうだったから。泣いたってどうしようもねーのわかってんのに、それすらも止められなくてままならない。けど俺、その時までお前はそういうのとは無縁だと思ってたからびっくりしたんだ。お前はいつも飄々としてへらへら笑ってて、そりゃ部活の態度は真面目だったけど、一年では緑間と一緒にレギュラー取るぐらい実力も群を抜いていたし、三年になるまでスタメンになれなかった自分と比較して、僻む気持ちも確かにあった。俺はひたすら努力の人間で、そのことに対して自信と誇りを持っていたけど、やっぱり埋められない才能の差みたいなものには羨望と妬みもそれなりにあった。そして、お前は「そっち側」の人間だと思っていたんだ。けど、お前の涙を見て気づいた。お前も俺と同じ、死ぬほど努力して、天才緑間の側にいて、その埋められない才能の差に吐くほど悔しい思いしてる人間なんだってな。お前吐いた後でさ、臭ぇし鼻水垂れてるし、そりゃあ汚い顔だったんだけど、俺は、なんか心を打たれちまったんだよ。普段のなにたくらんでんのかいまいちよくわからねー顔と違って、お前の素顔に初めて触れた気がした。そんで、まだ部の誰も見たことがないであろうお前のそんな顔を、俺だけが見たことに、すげぇ興奮と優越感を感じたんだ。
その後、お前になんて言ってどうしたのかは覚えていない。多分適当に水押しつけて、体育館に戻ったんだと思う。心臓がバクバク鳴っていた。顔が熱くてな。木村たちに心配されたが、運動した後で暑かったからごまかされてくれた。けど、しばらく収まらなくてやばかったよ。俺は何のためらいもなく信じた。自分がその瞬間、高尾に恋したってことを。
……俺の初恋は、幼稚園の時近所に住んでいた高校生のお姉さんだったぜ。その後も、何人かの同級生の女の子をちょっといいな、とか、好きだなって思ったこともある。ん? 付き合ったことはなかったよ。マジマジ。告る勇気もそこまでの情熱もなかったし。それよかバスケが楽しかったし。だから、その時初めて俺は恋をしたんだと思う。衝撃だった。相手が男だとか、部活の後輩だとかいうことに対する戸惑いはなかった。それほどこの恋は、落ちるべくして落ちた、天啓的なものだったんだ。ただ、この恋はきっと成就することはないのだとも思った。漫然とした悲しさと虚しさを覚えた。きっと俺は自分の気持ちをお前に伝えないし、きっとお前は俺の気持ちに気づくこともないし、きっと俺たちは永遠に部活の先輩と後輩のまま別れるんだと。諦めたわけじゃなく、それが俺とお前のあるべき形だと思ったんだよ。……ま、逃げ道だと言われればそうなんだけど。
そういう訳で、俺は高校の残りの時をお前への恋心をひっそりと抱いて過ごし、そしてその思いを昇華することも消すこともできないまま卒業した。もうお前に会うまいと思った。前にも後ろにも進めない報われない恋は、高校三年生のガキ臭い俺には重すぎたんだ。
大坪と木村は、気づいていたかもしんねぇな。俺は考えていることがすぐに顔に出る方だから、多分お前のこと見ている目とか他と違っていただろうし、バスケしてる時以外だったら割と意識しまくりだったし……あいつらあれで勘がいいから。なんか気ぃ遣われてんなーって思うこともあったよ。ほら、移動バスの席順とかさ、飯食う時のテーブルの席とか。お前の隣は大抵緑間だったけど――腹の立つことに――それでもなんとなく近くに座れるようにしてくれてたんじゃないかな、今思えば。
まあとにかく、高校三年生の俺は叶わない恋心を胸に抱いたまま秀徳高校を卒業した。会わなければ、やがては記憶も薄らいで、それと共にこの強烈な感情もいつかは消えてなくなるだろう。できる限りお前らと距離を置いて、大きな波が静かに凪いでいくのを待って、そしたらいつかまた、何でもない顔でお前の前に立てる日が来るだろうと、そう思っていた。
実際、それは成功していたはずだった。俺は都内のK大学に通って、高校時代の思い出になるべく触れないようにしながら、文学の研究に没頭した。内省的で戒律的で批判的精神に富んだドイツ文学の海は、当時の俺にはひどく心地がよかった。教授の勧めもあって院にまで行った。お前が静岡の大学に進学したことを聞いたのは、その頃のことだった。
教えてくれたのは大坪だったかな。木村も大坪も、俺が高尾と距離を置こうとしていることに気づいていたから、バスケ部の試合結果とか教えてくれる時なんかでも、お前の個人的な近況には極力触れないでいるようだったけど、あの時は思わず口が滑ったって感じだった。どんな会話だったかはよく覚えてねぇが……。「高尾はS大に行ったのか」俺がそう言って黙ってしまったから、向こうもしまったと思ったのか、そのまま別の話にすり替わっていったんだけど、俺はしばらくそのことで頭がいっぱいだった。もう何年も、考えることすら避けてきたんだ。高尾が大学生になっていたこと、静岡で暮らしていること。たったそれだけの情報が、俺がしっかり蓋を閉めて心の奥底に埋めていたはずの箱を叩き壊した。ダムが決壊したみたいに、せき止められていた水が流れ出す。勢いよく、すべてを押し流し、俺の中身を絡め取り、溢れていく。お前に会いたい。好きだって言いたい。話したい、触りたい、愛されたい――
気づいたら俺は静岡にいた。俺よりもずっと大人で、音楽の趣味もお前と合って、物静かで格好よくて、非の打ちどころのない、お前を愛してお前に愛されるためだけに生まれた『宮地清志』として。もっとも俺は――俺も、静岡に生まれた宮地清志も、そんなことは知らなかった。これは本当だ。すべては俺の無意識下で起こり、無意識下で進んだことだ。
お前に会ったのは、去年の夏だったよな。あの頃俺はすっかり静岡のカフェで働く宮地清志としてしっかりとした自我と記憶を持つようになっていた。静岡で生まれ育った幼少時代、家族との思い出、大学のこと、カフェでのキャリア、どれも俺にとっては嘘偽りではなく、俺自身の記憶と経験だった。俺は確かにこの土地で二十八年近く生きていた。家族も幼馴染みも級友もいる。ん? ああ、今もいるさ。静岡の実家に電話を掛ければ、親父もお袋もいるだろう。こんな夜中に掛けたら怒られるだろうけどな。……俺、お前に「ひとめぼれだ」って言ったよな。お前が汗を滴らせながら、恐る恐るといったふうにカフェの扉を開いた瞬間、俺は背筋に電流が流れたように感じた。今まで生きてきた世界がまるでガラッと色を変えたみたいに、空気がいっぺんに入れ替わったみたいに、俺自身が違う人間に生まれ変わったみたいに、俺は大きな衝撃を受けた。そりゃそうだ。この宮地清志はお前を愛するために生まれたんだから。大きな歯車がガチンと噛み合って、止まっていた時が動き出した気がした。そこにお前、「宮地さん!」なんて声を弾ませて飛んでこられてみろよ。俺あの時、動揺を隠すのに必死だったんだぜ。顔色変わらなかった? そりゃまあ、あのカフェにいた俺は、落ち着いた大人の男だったからな。お前のグラスに水を注ぎながら、どうすればもう一度会えるかとか、そんなことばかり考えていたな。だからお前が次の日来てくれた時は驚いたし、どこの誰だか知らない自分と同姓同名の宮地清志に感謝すらした。また来てもらえるように、仲良くなれるように、カフェの人とそのお客様以上の関係になれるように、俺は慎重に慎重を期して素地を作り、チャンスがあれば逃さずに捕まえ、お前が俺を意識するように持っていったんだ。周到にな。
幸せだったよ。いろいろあったけどお前と恋人同士になれて、俺は俺の存在意義を満たすことができた。一方東京にいた本来の俺は、そんなことも知らずに相変わらずお前のことを忘れようと虚しい努力を続けていた。幸せで満たされた俺と虚しく心を空にしようとする俺。月の引力に引かれる海の水のように、宮地清志の中身が新しい殻に移っていくのは時間の問題だった。後は……お前も知ってのとおりさ。静岡の宮地清志はより宮地清志になり、東京の宮地清志はどんどん宮地清志としての中身を失っていった。あそこに残っているのは、ただの抜け殻だ。宮地清志のかつての入れ物だけが、空っぽのまま街をさまよっているにすぎない。人の目にも映らず、人の記憶からも消えていく。
俺は、このまま幸せな日々が永遠に続くんだと思っていた。高尾を愛し、高尾に愛されるための人生を全うすることができるんじゃないかと、そう思い始めていたんだ。あの日、ストバスコートでお前のパスをこの手に受けるまでは。
バスケットコートに立ってお前と対峙した時、俺は不思議な感覚に包まれていた。バスケなんて学校の授業でしかしたことがないはずなのに、俺は何度もああやってお前と向き合ってきたような気がした。繰り返し見た夢が正夢になったような、それともあの瞬間がまるで夢の中の出来事だったかのような、言葉では説明できない不思議な感覚が俺を支配していた。首の後ろから後頭部に掛けてじわっ、じわっと熱くなって、手足や目の感覚はますます冴えていった。お前の動きに対してどう反応すればいいか、お前がよくするフェイントの癖、お前の好きなドリブルのコース、ピリピリとした緊張感。全部体が覚えていた。頭の片隅はじんとしびれたみたいになってまともに物を考えられなかったけど、俺はひたすら神経を澄まして体が反応するままに動いた。そして最後、十投目、お前が俺の脇を抜き去っていった瞬間、俺は逆サイドに走りこんで手を上げた。
「高尾!」
……あれ、何度も何度も練習した、ゴール下でのコンビネーションプレイだったよな。本番でも何回かゴールを決めた、お得意のパターンだった。お前のボールはイメージしていた通りに俺の手のひらに吸い込まれ、その瞬間、俺の脳みそを大きな波が襲った。ありとあらゆる記憶の波だ。俺が、高校三年で高尾に恋をした宮地清志が生きてきた、二十五年間の記憶が、キャパシティーなんてお構いなしに、一気に俺の中に雪崩れ込んできた。俺の体は波に攫われた意識とはまったく別の所で、きれいにダンクを決めていた――。
ボールが転々と転がっていくのを見ながら、俺の意識はどこか遠いところにあった。静岡でも東京でもない、灰色に靄がかった薄暗い場所だ。そこで俺は、もう一人の俺を見た。俺は、ほとんど形を保っていないみたいだった。水みたいに透明になって、流動的で、手ごたえがなかった。「おい」と、俺は彼に声を掛けた。いや、声は灰色の靄に吸収されたみたいに音にならなかったから、心の中で呼び掛けたのかもしれない。彼は何も言わずに、顔だろうと思われる部分をこちらに向けた。「おい、俺は消えるのか」
彼にはもう口がなかったから、しゃべれないんだ。ただゆらゆらと不安定に影を揺らして、向こうを向いて行ってしまった。透明の体が靄に溶け込むように見えなくなっていく。「待てよ」俺は大声を上げようとして息を吸いこんだ。「宮地さん!」お前の呼ぶ声が聞こえて、はっと気づいたらそこは夕焼けの中だった。その時、俺にはもうすべてがわかっていた。永遠に変わらずにいることなんてできないってこと。どちらかを選ばなければならない時が来ていること。これが事の顛末のすべてだ。なんてことはない、俺がお前のことをどれだけ好きだったかって、ただそれだけの話――
* * * * *
「何か聞きたいことはあるか?」
すべて話してしまってすっきりしたのか、宮地は晴れ晴れとした顔だった。
高尾は、重たい頭をゆっくりと左右に振った。意識がバラバラに散らばって、拾い上げるのも億劫だった。聞きたいことはいろいろあるような気もしたが、聞かなくてももうすべてわかっているような気もした。どちらか一方を選ばなければならない時が来たのだ。
「どうしても、選ばなければならないんですか」
高尾はそれでも往生際悪く問う。どちらか一方を選ばなければならないということは、どちらか一方を失うことを意味するのだ。
宮地は少し困ったように微笑んだ。
「そうだ」
「それを、俺が、選ぶんですか」
「そうだ」
「そんなの……そんなのって」
高尾は両手で顔を覆った。「宮地さんはずるいです」
「うん」
「だって、そんなの、俺が選べるわけがない」
「うん」
「けど、宮地さん、わかってんでしょ、俺がどちらを選ぶかなんて」
「……そうだな」
「馬鹿じゃねーの」
「高尾」
宮地は俯いた高尾の両頬に手を添えた。高尾は頑なに顔を上げようとしない。
「高尾、泣くな」
「泣いてねーっす」
「いーや、泣いてるね」
「泣いてない」
宮地の指が高尾の目尻を拭う。その仕草があまりにも優しかったので、高尾の視界はまた滲んだ。
「宮地さんの家族はどうなるの」
「どうもならないさ。今までと変わらない日常が続く。宮地清志がいる世界もいない世界も、それはそれで彼らにとっては当たり前の世界なんだよ」
「だってそんなの、悲しいじゃんか」
「悲しくはない。みんな無かったことになるんだ」
「宮地さんが、悲しいじゃないですか」
宮地が黙ってしまったので、高尾は顔を上げた。
「……宮地さんも泣いてるじゃん」
「泣いてねぇ」
宮地は、見たこともないような優しい顔で笑っていた。(見たこともない)高尾はそう思ってすぐに否定する。それは、高校生だった頃の宮地が見せたことのない顔であったが、カフェで出会った宮地清志が、幾度となく自分に向けてきた顔のはずだった。この時初めて、高尾は二人の宮地清志が分かつことのできない唯一の個であることを実感した。宮地先輩の中には最初から彼がいたし、彼は宮地先輩に内包され、また同時に内包する存在であった。
高尾は手を伸ばして、宮地がそうしてくれたように、彼の肉付きの薄い頬に両手を添えた。
「宮地さん、やっぱり泣いてるよ」
「泣いてねぇって」
目元に少ししわを寄せて微笑む宮地の目じりに確かに涙は浮かんでいなかったが、高尾の両手の触れたところから、温かくてしょっぱいものが流れこんできて高尾の胸を締めつけた。高尾は少し伸び上って、宮地の唇に口づけた。そこもしょっぱい味がする。
「宮地さん、俺を抱いて」
何かを言おうと開きかけた宮地の口を、高尾はキスで塞いだ。宮地の舌を探り当て、いつもそうするように優しく食んでやると、宮地の背が一瞬強張った。口づけたまま彼の首に両手を回し自ら後ろに倒れると、宮地は抵抗することなく高尾に覆いかぶさってきた。
「高尾」
ようやく宮地が泣きそうな顔をしたので、高尾は「それでいいんですよ」と言った。
宮地は、高尾を優しく抱いた。羽毛だとか、うさぎの腹だとか、植物の産毛だとか、そういう世界中の優しいものを手のひらに集めたみたいに優しく高尾に触れた。もどかしくなって宮地の裸の背を掻き抱くと、宥めるように額に唇が落とされ、宮地が中に入ってきた。そこだけは熱くて凶暴で容赦がなく、高尾は喉の奥で嗚咽を漏らした。
「宮地さん、これだけは忘れないで」
宮地の尖った顎の先から透明な雫が垂れて、高尾の頬に落ちる。それが汗なのか涙なのか、高尾自身の視界もぼやけてよく見えない。高尾は宮地の顔を見たくて何度もまばたきをした。
「俺が好きになったのは、去年の夏、あのカフェで出会った宮地さんだった。最高にかっこよくて、大人で、スマートで、俺はあっという間に恋に落ちた。けど、一年と少し一緒にいて、甘えたで、結構嫉妬深くて、寂しがり屋で、感動屋で、ドルオタで、そんな宮地さんが見えてくるたび、俺はますますあんたのこと好きになってったんだ」
宮地がぴったりと体を寄せてくる。ドクドクと脈打つものの存在を感じる。
「宮地さん、俺にはどっちの宮地さんを取るかなんて選択肢はないんだ。ただ……ただ、緑間や木村さんや大坪さんや、秀徳高校バスケ部のみんなが、宮地さんを忘れてしまうのは、やっぱり絶対嫌だ。バスケが好きで、一生懸命努力して、全国大会で一緒に戦った宮地さんが消えてなくなってしまうのは駄目だ――例え、俺の恋人がいなくなってしまったとしても」
高尾は左手を宮地に差し出した。宮地はその手を取り、薬指の指輪に指先を添わせた。大した抵抗もなく、指輪が抜けていく。
「宮地さん」
高尾の声はみっともなくしゃくり上がった。涙の海の向こうで、宮地がどんどんぼやけて滲んでいく。
「宮地さん、愛してるよ」
銀色のリングが高尾の薬指を通り抜け、指先から離れた。
「ありがとう、高尾くん」
穏やかな声をどこか遠いところで聞きながら、高尾の意識は深い海の底へと沈んでいった。
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