ピピピピ、ピピピピ。 高尾は枕元でうるさく鳴るスマートフォンを手探りで掴み、目もよく開かないままアラームを止めた。まぶたの向こうに光が透けて見え、もうとっくに日の高くなっていることがわかった。まだくっついていたいとぐずるまぶたを無理やりこじ開けて時計を見ると、すでに十時を回っている。スヌーズ機能にしていたアラームは、一体何回繰り返して鳴っていたのかと呆れる。高尾はようやく体を起こしてベッドの上にぼんやりと座り、眠気が去っていくのを待った。十一月の朝はまだそれほど冷えこんでおらず、カーテンを通して部屋に差し込む太陽の熱が心地よかった。 起きたばかりだというのに体にも脳にも倦怠感があるのは、何か一生懸命夢を見ていたからだろうか。高尾は夢の内容を思い出そうと少し考えたが、栓ないことだとすぐに諦めた。それよりもひどく喉が渇いていたので、水を飲もうとベッドから重い腰を持ち上げた。 ベッドの前のローテーブルに、湯呑が一つ置かれている。昨日お茶を一杯飲んで、片づける気力もなく寝てしまったのだろう。 「生活がちゃんとしていないと、うまく行くものも行かなくなるのだよ~」 緑間の受け売りを鼻歌交じりに呟いて、高尾は空の湯呑を片手にキッチンへと向かった。 シャワーを浴び、頭を拭きながら、壁に掛かったカレンダーを確認する。今日は十一月十一日。黒い線で囲まれた枠の中は真っ白だ。少し寝すぎたかと思ったが、ゼミもバイトもなく、他の何のスケジュールも入っていないので気が緩んだのかもしれない。それにしても、ゼミのない水曜日は基本的にバイトのシフトが組まれているはずなのに、どうして今日わざわざ休みを入れたのかが思い出せなくて、高尾は首を傾げた。まあきっとこれも、考えても栓ないことだ。何の予定も入っていないまっさらな一日は珍しく、今日は何をして過ごそうかと高尾は少しわくわくした気持ちになった。 遅い朝食を食べ、洗濯をし、軽く部屋の掃除をするとすっかり昼も回ったので、昼食を取りがてら駅の方に出てCDショップへ行くことにする。身軽に財布だけをズボンの後ろポケットに突っ込んで、お気に入りのブルゾンを引っ掛けて外に出た。時折強い風が吹きつけて、黄葉の見頃を迎えたイチョウの葉をカラカラと鳴らす。寒さに身を竦めるほどでもないが、季節は着実に冬の影をちらつかせ始めていた。 「あれ、高尾くん?」 だらしなくポケットに両手を突っ込んで背中を丸めて歩いていると、正面で軽く会釈をする男がいる。 「ああ、ども、こんにちは」 よく行くカフェの店員だった。茶髪でいかにも今どきといった感じだが、物腰が柔らかくて爽やかな青年だ。常連客の高尾に対しては、丁寧さの中にも親しみのこもったフランクさを織り交ぜて接し、そのバランスが見事で好感が持てた。 「買い出しですか?」 白いシャツに黒いエプロン姿で、駅前の高級スーパーのビニール袋を提げているのでそう尋ねると、彼はええ、と頷いて袋をちょっと持ち上げた。 「ちょっとクレソンが足りなくなりそうだったんで……高尾くんは、今日はお休みなの?」 「そうそう、ちょっと寝坊しちまって、これからお昼なんです」 「それならレーヴに来てくださいよ」 彼はハハハと笑いながら言う。 「今日は朝飯も遅かったし、お手軽ランチなの。また今度ね」 彼は白い歯を見せて「お待ちしてますよ」と言うと、また会釈をして、カフェ・レーヴへと帰っていった。カフェ・レーヴは、大学から高尾のアパートへ帰る道を少し逸れたところにあるカフェ&バーで、去年の夏に見つけて以来、足繁く通っている。凝っていておいしいのにほどほどに安いランチと、男一人でも入りやすい雰囲気、物静かだが気さくで優しい店員たちが気に入っている。今週のランチは何だったかな、と高尾は考える。明日は、レーヴで食べてから大学へ行くのもいいかもしれない。 店員と別れた後、適当に近くのファストフード店でハンバーガーを食べ、目的のCDショップに向かった。何か欲しいCDがあるというわけではなく、高尾はよく一人でこうしてぶらぶらとCDショップをうろついた。片っ端から視聴してお気に入りを探すのもいいし、ジャケ買いもまた楽しい。高尾は中古のCD屋でバイトをしているので、新しいものから古いものまで、有名なものからマイナーなものまで、ジャンルにとらわれず幅広く聴くようにしている。知識が増えるのは面白いし、店に来る客や店長と音楽の話をするのは楽しかったが、結局四年間、周りに音楽の趣味の合う友人のできなかったのが残念だった。 人気の少ない洋楽の若手ロックバンドのコーナーへ行くと、珍しく先客が一人いて、視聴機の前で軽くリズムを取りながらCDを物色していた。彼は高尾がやってきたのを目の端でちらりと見るとヘッドフォンを外し、CDを一枚手に持ってさっさと向こうへ行ってしまった。高尾に視聴機を譲ったのか、それとも単に、一人で気持ちよく聴いていたところを邪魔されたと思っただけかもしれない。 男が聴いていたCDが気になって視聴コーナーを覗き、高尾は思わず「おっ」と声を漏らした。高尾の好きなスリーピースバンドの新譜が出ていたのだ。去年の春頃にメジャーデビューしてから、着実に人気の裾野を広げてきている。高尾はそのCDと、レッド・ツェッペリンの古いCDを買って、上機嫌で店を出た。 時計を見ると、まだ三時前だった。大学やバイトのある日は時間が飛んだんじゃないかと思うほどあっという間に過ぎていくのに、一人で過ごす休日はゆったりと時が流れる。 高尾はどうしようかな、と少しだけ悩んで、結局いつものロックカフェへ行くことにした。60年代、70年代の古いロックを中心に、高尾も知らないようなインディーズの若いバンドの曲を流したりもする。集まっているのは主に中高年の男性で、高尾のような学生の客は珍しいせいか、行くと誰かしらが話し相手になってくれた。 思索にふけっていたら、バシッと突然背後から強く背中を叩かれて、高尾はびっくりして振り向いた。 「よぉ、カズ。何ぼーっとしてんの。今日は休みなの?」 「……んだよタケか。驚かすなよ」 タケは自転車に跨って、小さなショルダーバッグを一つ背負っている。 「ああ、うちは休みだけど……お前ゼミは?」 「もう終わって、これから女子たちとカラオケ行くの。ちょっと時間あるから荷物置きに帰ってた。あ、カズも行く?」 「女子たちって、お前カナちゃんいいのかよ」 タケはもう長いことカナに片思いをしているのだ。 「いーのいーの、つかカナも行くから行くんだよ。な、だからお前来て他の女子の相手してくれよ。カズは無駄に歌上手いから、女の子たちも喜ぶしさぁ。な?」 お願い、と両手を合わせて小首を傾げられたが、高尾は「キモい」と言って一蹴した。 「俺今日はこの後、ロックカフェで音楽に浸るって決めてるから」 「え~、んなのいつでも行けんじゃん」 「今日はそっち行きてぇ気分なの」 また今度な、と笑って手を振ると、タケもそれほど本気ではなかったのか、おうまたな、と手を上げて、軽快に自転車を漕いで行ってしまった。 やれやれ、と高尾は苦笑する。いつも賑やかしくバタバタとして、台風のような男だ。そうしてふと、高校時代、緑間や先輩たちは自分のことを同じように思っていたのかなぁなどと思い、おかしくなった。今でももちろん賑やかしいことは大好きだし、ムードメーカーを自任してはいるが、身近にそれ以上のお調子者がいれば、人間多少は落ち着くものらしい。高校時代の同窓会やバスケ部のOB会に出れば、当時のように緑間にちょっかいを掛けては迷惑そうな顔をされるのだけれども。 ロックカフェの重厚な扉を押し開けると、途端に疾走感溢れる派手なギターリフが聞こえてきて、高尾は思わずにやっとしてしまった。ディープ・パープルのバーンだ。高尾の入ってきたのに気づいたマスターが、いつものように物静かな笑みを浮かべて会釈をする。「いらっしゃいませ」 マスターと話し込んでいたらしいハンチング帽の老人が、カウンター席から振り向いて「いらっしゃい」と片手を上げた。彼は別にここの店員でもなんでもないのだが、大体いつ行ってもこのカウンター席に座っているので、他の常連客の顔もマスターと同じくらいよく知っていた。彼はこういった場所にありがちな、音楽に対して一家言持った煙たいタイプの老人ではなく、若いバンドにも関心を持って高尾にあれこれ尋ねてくるので、高尾も彼と会って話すのを楽しみにしていた。 店内は空いていたが、迷わずにハンチング氏の隣の背の高いカウンター席に腰を下ろす。 「コーヒー、アイスで」 マスタはにこりと笑って返事に代え、グラスに氷を入れて一度くるりとかき混ぜた。ここのアイスコーヒーは少し濃すぎるぐらいに濃いのだが、来る度に飲んでいるうちに、いつの間にか癖になってしまった。じゃあ好みが濃いめになったのかと家で入れてみても、やはり舌と胃を刺すだけでさして美味いと思わないので、これはこのマスターだけが入れられる特製コーヒーなのだろう。もうじき卒業して東京に帰ったら、ここのコーヒーも飲めなくなるのかと思うと少し寂しい。 ハンチング氏は高尾の持っていたCDショップの袋に目ざとく気づき、「何を買ったの?」と覗きこんでくる。「お、ツェッペリン。若い頃はこればっか聴いてたなぁ……こっちのバンドは知らねぇなぁ。マスター、これ持ってないの?」 マスターはコーヒーを高尾の前に置きながら、カウンター越しにハンチング氏の手元を見やった。「あー、それは昨日店頭に入ってきたやつでして、すみません、うちにはまだないですね」 今度入れておきますよ、と言って振り向いた瞬間、マスターの手には一枚のCDがあった。マスターの後ろの棚には、レコードとCDが図書館のように美しく分類されて並べられている。マスターはそのすべての位置を覚えていて、いつでも魔法のように目当ての盤を引き出すことができた。 「代わりといってはなんですが、こちらをお掛けいたしましょうか。同じウェールズ出身のミュージシャンで、彼はバンドではなくソロシンガーなのですが、牧歌的なギターサウンドや、陽気さの中に潜む寂寞感のようなものなど、そちらのバンドとの共通点がいくつかあります」 ハンチング氏はほうほうと興味深そうに顎髭を撫でて、「じゃあそれを頼むよ」と言った。ちょうどディープ・パープルが終わったので、マスターは丁寧な手つきでディスクを入れ替える。(ディープ・パープルはレコードもあるが、今日はCDだったらしい。)再生ボタンを押すと、少しのブランクの後、繊細なアコースティックギターの旋律が流れはじめる。その旋律が、高尾の心のどこかに引っかかる。それが何かを見定められないまま、彼は歌いはじめる。 There goes my honey She has gone somewhere last Sunday She took away everything A toothbrush, a dryer, pare glasses, photographs and something else (そうだ、これ、俺ライブで聴いたんだ。知り合いが行けなくなったって言って、チケットをもらって) In my room, there’s nothin’ I’m drinking and waiting for… Whom I’m waiting for? 明るくてのんきなメジャーコード、時々掠れる歌声、人々の控えめな話し声と、ナイフやフォークのカチャカチャと鳴る音、鶏肉のサルティンボッカは美味しかった。そして隣に、光に透けた誰かの美しい横顔……(誰か? 俺はあの日、一人でライブに行ったはずだ) She took away everything Even the memories she took away 高尾の目から、ポロリと涙が零れた。よく磨かれた欅のカウンターに、一つ、二つと涙が玉になって落ちて弾けた。隣のハンチング氏がびっくりして「どうしたの?」と高尾の背中をさすった。高尾は何も言えず、ただ首を横に振る。涙は次から次へと溢れ、カウンターにこげ茶色の染みを作っていく。 (なんでこんなに悲しいんだろう) 高尾は胸を押さえ、シャツが皺になるまで握り締めた。どうしてここがこんなに痛いんだろう。一体ここに何があったんだろう。あのライブハウスの音、空気、におい、ステージのライトの色や飲んだカクテルの味まで覚えているのに、心の真ん中にぽっかりと大きな穴があいていて、そこに何があったのか思い出せない。確かに何かが入っていたはずの空洞に、アコースティックギターの技巧的なメロディーが静かに、激しく共鳴する。 (ここに何かがあった。しかしそれは、永遠に失われてしまった) 高尾は嗚咽も漏らさず、ただ止まらない涙が流れるままに肩を震わせた。ハンチング氏はその大きく分厚い手で、高尾の背を撫で続けている。マスターは気の毒そうな顔で、黙って高尾の前に立っている。 She has gone, has gone She took away everything Even the memories she took away She has gone, has gone She took away evrything… 繰り返されるサビとメロディーは、いつまでも高尾の空っぽの心で鳴り響いていた。 * * * * * 「忘れもんはねーか、駅弁買ったか」 タケの気ぜわしく問う声が、背後のざわめきに紛れて聞き取りにくい。 三月、静岡駅の新幹線のホームは、多くの人でごった返していた。ビジネスマンよりも私服姿の若者が目につくのは、春休みを利用した大学生の旅行者や、高尾のように大学を卒業して地元に帰る、あるいは新天地へと向かう者が多いからかもしれない。 主な荷物はすでに実家に送ってしまっていたので、高尾はリュックサックを一つ背負った身軽な出で立ちだった。タケとカナがホームまで見送りに来てくれている。 「お茶買ってきてやろうか」 タケはさっきから余計な心配ばかりしてくる。 「オカンかよ」 高尾が苦笑混じりに返すと、タケは裏声を使って「だってママ、カズちゃんのこと心配なのよぉ、いつまで経っても手の掛かる子なんだからぁ~」などとふざける。しかしこれもタケなりの寂しさの表し方だとわかったので、高尾はつられてしんみりしそうになって、慌てて「やめろキモい! つかうちの母ちゃんそんなんじゃねーし!」と、タケの膝裏を蹴る真似でごまかし、ギャハハと笑った。隣でカナも涙を拭いながらおかしそうに笑っている。 「はぁ~、あんたたち最後までいいコンビだったわね」 笑いじわの寄った目元から、次から次へと涙が零れ落ちるので、タケは「泣くなよカナ」と困ったように眉を下げた。 「違うよ、竹本がおかしいから泣いてるんだよ」 カナはそう言ったが、俄かに語尾が揺れて、慌てて俯いた。 「もーヤダ。泣くつもりなんてなかったのに。竹本のせいだし」 「カナちゃん……」 カナは、高尾のことが好きだったのだという。去年の春にそう告げられ、高尾が断った後も変わらずこうして友人として接してくれているが、時折こうして寂しげな顔を覗かせることがある。高尾も彼女のことを決して恋愛対象外に見ていたわけではないが、就活だとか卒業論文に向けた研究だとか、そういうありがちな理由をつけて断ってしまった。カナ自身に何か問題があったというわけではなく、むしろ好意を寄せられて嬉しかったのだが、結局はタイミングなのだと思う。 もっとも、去年の夏に三人で海に遊びに行ってからこっちは、タケの気持ちを少しずつ受け入れていっているようにも感じる。(タケがカナに率直に告白したかどうかは知らないが、タケはあまり自分の気持ちを隠そうとはしなかったので、勘のいいカナはきっと気づいているはずだった。)二人は元々静岡の人間だし、来年以降も院に進んで大学に残るので、高尾は、案外二人このままうまくいくんじゃないかという気もしている。 高尾はカナの肩に手を置いて言った。 「カナちゃん、ありがとな」 「また遊びに来てくれる?」 「来る来る」 「言ったなお前。もし来なかったらこっちから東京に押しかけるぞ」 「え、お前も来んのかよ。カナちゃんだけでいいって」 「なにをー!」 こんな他愛もないやりとりも、もうすぐ終わる。プルルルルルル。名残を断ち切るような新幹線の発車ベルが鳴る。高尾は手を上げて新幹線に乗り込んだ。タケとカナは満面の笑みで大きく手を振った。 「またな!」と言ったらしい声は閉まった扉の向こうで聞こえなかったが、高尾も「またな!」と大きく手を振り返した。 ぐんと後ろに引っ張られるように、タケとカナの姿が、静岡の駅が、速度を上げて遠のいていく。二人は見えなくなるまでずっと手を振っていた。高尾はしばらく席に着かず、扉の丸い窓から静岡の風景を眺めた。 高い建物の目立つ市中心部を過ぎると、広い田畑と山の緑が増えてくる。高尾は海側の景色をじっと見ていた。背後にはそろそろ富士山が見えだす頃だ。だが今日は、高尾が四年間過ごした海に近いこの町を目に焼きつけておきたかった。「またな」と言って別れたタケとカナに、次に会うのはいつのことだろう。二人とはすでに別々の道を歩きはじめていて、それぞれに新しい生活が始まろうとしている。新しい生活、新しい環境、新しい人間関係。後ろに遠ざかっていく静岡の風景と同じように、過ぎていったものたちはやがては遠く見えなくなる。いつの間にか当たり前になっていた潮の香りのする風も、やがては忘れてしまうのだろうか。 進んでいくのは悪いことではない。ただ、無性に悲しいのだ。高尾はそっと目を閉じて、四年間を過ごした水色の町に別れを告げた。 東京に来るのは、去年の秋に職場の内定式で来た以来だ。その時は実家に寄る時間もなかったので、家族の顔を見たのは考えてみたら去年のお盆休みが最後だったかもしれない。年末と正月ぐらいは帰るべきかとは思ったが、卒業論文に追われていて、今年はタケやカナと一緒に大学で年明けを迎えることになった。 年末に帰れないことを告げた時、電話の向こうの妹は随分と拗ねた声だったが、まだお兄ちゃんと一緒に初詣に行きたいと言ってくれるのだと、思わずにやにやしてしまった。彼女も今は春休み中のはずだ。四月に仕事が始まるまでは、思い切り遊んでやろうと思う。まだ彼氏なんてできていなければいいのだけど。 内定式の日は少し寒くなりかけていた頃で、街には重たい灰色のスーツ姿のビジネスマンが行き交っていたのを思い出す。今日は休日ということもあってか、春らしい明るい色の服を身にまとった若い男女が、軽やかな笑い声を上げながら闊歩していた。 高尾は軽く一つ深呼吸をした。当然、もう海の香りはしない。機械的で人間的で、新しい物のにおいがする東京の街だ。またここで生活するようになれば、それもすぐに当たり前になるのだろう。 高尾はしばらく東京の光景をしみじみと見渡し、地元に向かう路線に乗り換えようと踵を返した。その時、ズボンのポケットの中でスマートフォンが震えた。一回ではなく、二回、三回と続けて震えるので電話だと知れた。 「はいはいはいっと、ちょっと待ってねー」 高尾は小さく呟きながらスマートフォンを取り出し、動きを止めた。呼び出しを続ける黒い画面に、「宮地さん」の文字。 随分久しぶりの先輩の名前だ。何年ぶりだろうか。卒業以来会ったっけ。懐かしいな。急にどうしたんだろう。 そんなありきたりな感想がいくつか頭を過る。だが、それらは過っていくだけで何の意味も持たない言葉だった。高尾の体は、その名前の何かに反応している。呼吸が止まる。心臓が跳ねる。何も考えられず、その小さな画面に表示される四つの文字をただ見ている。 手のひらの中で高尾を呼び続ける四角い機械が、一瞬誰かの手に重なった。通話ボタンを押す指が震えるのはなぜだろう。 高尾はスマートフォンを耳に当てた。無言の通話口の向こうで、雑踏の気配と車の通り過ぎる音がする。高尾は唇を湿らせて、小さな声で電話に答えた。 「……もしもし」 「……もしもし、高尾」 耳元でささやく声は、二重になって、高尾の後ろから聞こえてくる。高尾は電話を耳に当てたまま、ことさらゆっくりと振り返った。 十歩ほど離れたところに、やはり電話を耳に当てた、背の高い男の姿がある。二人の間を何人かの人が忙しなく通り過ぎていく。顔が見えない。はちみつ色の髪が春の光に透けている。パーッと長いクラクションが鳴る。人の波が途切れて、高尾の正面に彼が立っている。 「……よお、高尾。……久しぶり」 宮地の口がぎこちなく動き、耳元でぶっきら棒な声が聞こえる。太陽がまぶしくて、高尾は目を細めた。 「……宮地さん」 彼はなぜか、泣き出しそうな顔で笑った。
8 → fin.