翠の宿(前編)

 今年の梅雨入りは例年より遅く、六月も半ばになってようやく気象庁は九州地方の梅雨入りを発表した。東京は今朝も快晴で日差しがきついぐらいだったが、西へ向かう新幹線の中、空は次第に重たい灰色へと変わっていった。
 高尾はスマホを操作し、京都の天気をチェックした。今日は曇り、明日は所により雨、明後日は一日中傘マークだ。関西でもすぐに梅雨入りが宣言されることだろう。
 三日間は、なんとかもってくれねーかなぁ。高尾は新幹線の車窓から空に願った。
 高尾たち二年生は、今日から二泊三日の修学旅行で京都へ行く。昨今、遠く沖縄や北海道、はては海外へ修学旅行に行く学校も多い中、秀徳高校は昔から伝統的に、京都へ行くことが決まっていた。不満を漏らす学生も多いが、高尾は京都へ行ったことがなかったので嬉しかった。
「真ちゃんは?京都行ったことあんの?」
 修学旅行のオリエンテーションの時、高尾は先生の話も半分に、緑間にこっそりと耳打ちした。緑間は、先生の話を聞け、と高尾を横目で睨みながらも、
「この春に赤司を訪ねて行ったのだよ」
と小声で答えた。
 へぇそっか、とか、仲が戻って良かったな、とか言って笑ったような気がするが、喉元でわだかまる言葉を無理矢理飲み込んだ苦味は、今も高尾の口の中に残っていた。
(赤司んとこ行って、何してたの)

 高尾は、窓の外を流れる景色を見るふりで、隣の緑間の横顔をそっと眺めた。新幹線の中で、緑間は静かだった。時々目を瞑って、眠っているようだった。美しいアーチを描いた鼻梁に乗る、無骨な眼鏡、その向こうで伏せられた長い睫毛。しかし、最も美しいのは、今は瞼の裏に隠された翡翠色の瞳だと、高尾は知っている。
 まただ。心臓がざわざわする。なんだか苦しくて、悲しくて、寂しくて、そして少し温かい。
 高尾と緑間は、二年でも同じクラスになった。きっと三年も同じクラスなんじゃないか。そんな気がしている。先生も、緑間は高尾に任せておけばいいぐらいに思っている節がある。
 変わらず側にいて、変わらず秀徳高校バスケ部のエースとポイントガードで、しかし高尾は、自分の緑間に対する感情がどこか徹底的に変わってしまったことに気付いていた。
 面白い奴、一緒にいて案外楽しい奴、頼りになる奴、少々難しくて自分とは正反対だけど、妙に気の合う奴。それが今は、少し眩しくてとても苦しい。呼吸をするように自然と側にいたのに、彼と一緒にいる時、いつも自分がどのように振舞っていたかわからなくなってしまった。
 だから、今回修学旅行の班分けが別々になったことに、高尾は少しほっとしていた。
「残念だったなぁ真ちゃん!班の子に迷惑掛けんなよ、あんまわがまま言うんじゃねーぞ」
 茶化すように言うと、お前は俺の何なのだよ、と不機嫌そうに睨まれた。
 何なのだよ。まったくだ。
 去年一年間変人を貫き通した緑間は徐々に同学年の皆に受け入れられてきており、クラスメイトとも普通に話すようになっていたので、元より何の心配もいらないのだ。
 行動班は別々になったものの、座席指定のなかった新幹線では、緑間は当然のように高尾に「来い」と言って顎をしゃくった。
 俺が断るとは思ってねーのかよ。
 条件反射のように「あいよ」と笑顔で答えながらも内心燻るものを感じたが、同時に、「来い」の一言にどうしようもなく喜んでいる自分がいる。
 ほんっと、どうしようもねーわ。
 嫉妬じみた感情は、小学生や幼児でも覚える。だから一番まずいのは、こういう緑間のふとした言動や、たまに覗かせる高尾への信頼や、小さな笑顔、そういったものに心をぐちゃぐちゃに掻き乱されることだ。
 春に赤司を訪ねて京都に行ったと言う緑間は、「しかし観光はできなかったから楽しみなのだよ」と、高尾にしかわからないくらい微かに相好を崩した。それだけで高尾の胸は台風でもやってきたのかというくらい、平静ではいられないのだ。
「京都だもんなぁ。真ちゃんの好きなあんこのお菓子、きっといっぱいあるぜ」
 いつものように能天気な声を出したつもりだが、高尾は緑間の顔をまともに見ることができなかった。
 まずいな、と思う。高尾は今の緑間との関係が気に入っている。気付かれてはいけないし、気付いてもいけない。高尾は、自分の気持ちに鈍感になることに一生懸命だった。
 思いの外深く眠っていたらしい緑間の薄い瞼が痙攣し、肉厚な唇がもそりと動いた。高尾は吸い寄せられるようにその唇に視線をやり、無意識に喉を鳴らした。唾液が溢れて舌を湿らし、心臓の鼓動が早まり、かぁっと顔に血が上る。
 触れたい。少しだけ。
 高尾が右腕をピクリと動かしかけた時、
「高尾~ポッキー食う?」
 通路を挟んだ隣の座席のクラスメイトが、ビニール袋をガサガサ言わせながら声を掛けてきた。高尾ははじかれたように振り向いた。
「う、あ、ああ、食う食う!サンキュな!」
 心臓がバクバクしている。ヤバかった。
「そんな勢いこんで言わねーでも……そんなに食いたかったの?つかお前顔赤くね?」
「んあーちょっとのぼせたかな。眠くなってたし」
 高尾はへらりと笑みを貼り付けて、差し出されたポッキーに手を伸ばした。指先が少し震えている。
 危ないところだった。触れてしまえば、気付かないふりなんてもうできないのに。
 高尾は再び自分の心に蓋をして、京都に着くまでの残り時間、ポッキーの彼と話すことに専念した。

 京都駅から電車を乗り継いで東山へ。今日は一日、先生曰く「ベタな京都」を観光する。だらだらと上る坂道の両側には、茶碗や骨董を売る店が間を開けずに並んでいる。週のさ中の平日で、桜や紅葉といった観光シーズンを外しているにも関わらず、道には人の波が途切れることなく続いていた。高尾たちの他にも、修学旅行生らしい集団が何組か見掛けられた。ここには一年中修学旅行生がいるという噂は本当らしい。
「すげぇ人っすね」
 道角で勧められたちりめん山椒を試食しながら店員のおばさんに話し掛けると、
「シーズンはこんなもんちゃうで」
とおかしそうに笑われた。ちりめん山椒はおいしかったが、少々高かったので断念する。
 清水寺から三寧坂を下りつつ、アイスや八橋を買い食いし、高台寺、建仁寺、八坂神社へ。散策は班別でコースも自由に決められるが、皆有名所を一通り回ろうとするので、大体同じコースを辿ることになる。高尾たちの班の少し前を行く頭二つ分飛び抜けた緑髪は、常に高尾の視界にちらついていた。
 今緑間は、きんつばを買うか否か真剣に吟味している。その横顔にこっそり笑いを漏らしていたら、
「高尾は本当に緑間のこと好きだねぇ」
と、目敏い女子に呆れられた。
 何の他意もないその言葉に、高尾の心臓は大きくドクリと鳴った。幾重にも布を被せて見えないようにしている感情が過剰に反応し、跳ね起きようとする。
「いやいやいや、心配してんのよ俺は。緑間のお世話係としてさぁ」
 とっさに誤魔化し、大げさに肩を竦めると、女子はおかしそうに笑った。
「大丈夫だよきっと。ほら、案外世話焼いてくれる子いるんじゃない?」
 なるほど、きんつばの前で悩んでいる緑間に、彼と同じ班の女子が精一杯上を向いて声を掛けている。緑間はまっすぐな背を少し丸めて女子に顔を寄せ、ふんふんと頷いて納得したようにきんつばを注文した。二つ買って、アドバイスのお礼にか、一つをその女子に渡そうとしている。女子は焦ったように手と首を振っていたが、やがておずおずと受け取り、はにかんだように笑った。
 あーあ、真ちゃんも罪な男だねぇ。
 心臓の真ん中をぐっと握られたような痛みを感じて、高尾は眉を顰めた。
(胸が痛いって比喩表現かと思っていたけど、物理的に痛むもんなんだな、実際)
 20cm近く低い俺の声を聞く時は、背筋はピンと伸ばしたままで、あまつさえ顎まで上げて見下ろしてくるのに。俺にはお汁粉の一本だって奢ってくれたことないのに。
 女々しくなる自分の思考に嫌気が差して、高尾は重い溜め息を吐いた。やめだやめ。せっかくの修学旅行なのに、せっかくの京都なのに、楽しまなきゃ損だろ。
 視界に映る緑間とその隣に並ぶ女子を排除して、高尾はわざとらしいはしゃぎ声を上げて同じ班の男子に肩をぶつけた。
「いって、おい高尾何すんだよ!」
「ぎゃはは!ちょっとテンション上がっちまって?ってあれみゆみゆのポスターじゃん!アイドルショップみたいなんもあんだなー。京都カンケーねぇけど宮地さんに買ってこーかなぁ」
「え、宮地さんってお前がいつも言ってるイケメンの先輩だろ?みゆみゆのファンなん?」
「うちわも持ってんぜ!」
「え~それガチじゃん」
 鈍感になれ、鈍感になれ。高尾は笑いに紛れて、いつもの呪文を繰り返し自分に言い聞かせた。鈍感になれ。そしたら、まだ大丈夫。

 二日目は、鞍馬から貴船へのハイキングだ。朝早くに街中の旅館を出て一途北を目指す。のどかな山道を走るローカル線に乗ること三十分。降りたらもう鞍馬の山だった。
 重く垂れ込めた雲の下、山は多分に水蒸気を含んでいたが、湿度を感じさせないひんやりとした冷気に満ちていた。危ぶまれた天気はなんとかもちそうなので、ハイキングを敢行する。
 まずは勇壮な雰囲気の鞍馬寺にお参りをする。東京にも寺社仏閣はたくさんあるが、やはりこちらの建物は規模が格段に違う。東京と京都では、都としての歴史が八百年は違うのだと実感する。晴れていたら朱塗りの門が青空によく映えただろうと、少し残念に思った。
 貴船神社には山道を渡って歩いて行けるらしい。元気に溢れた高校生たちは勢いよくスタートを切ったが、山は意外と深く、足下の悪い木の根道に皆次第に無言になっていった。日頃ハードな部活で鍛えられている高尾と緑間にとって、これぐらいの運動はどうってことはなかったが、彼らもまた黙々と歩いた。小鳥のさえずり、キツツキのドラミング、梢の葉が触れ合う音。様々な音が重なり、溶け合い、流れる。それはどんなに統一された音楽より心地良く耳に触れた。
 さすがに汗が噴き出して蒸し暑さを感じ出した頃、清流の脇を通る道に出た。
「涼しい!」
「風が来る!」
 皆口々に歓声を上げている。川からの涼風が、暑気を払っていく。ここは真夏でも涼しいという。単に水際だからというだけではない、山全体に満ちた霊気のようなものも感じられた。
 高尾は少し先を歩く緑間を見た。相変わらずの無言だが、目元を気持ちよさそうに緩めている。
 美しいなぁ。
 六月の濃い緑、瑞々しく水分を含んだ羊歯や苔、緑間の、風に流れるたっぷりとした緑髪、時折きらめく翡翠の瞳。
 目を奪われるほど美しいのに、高尾の心はまた痛んだ。鈍感でいるのも辛いものなのだ。

 今夜は、山中の旅館に宿泊する。年季の入った部屋は畳も襖も変色していたが、清潔で、丁寧に手入れされていることが窺えた。
 十人が寝られる広い和室には所狭しと布団が敷き詰められ、二班の男子が雑魚寝することになっていた。高尾の班と緑間の班は同室になり、早々に出入口に近い端の布団を陣取った緑間は、他の男子に伺うこともせず、高尾に隣の布団を指し示した。
「お前な~」
 呆れた声を出すと、緑間と同じ班の男子が楽しそうに笑った。
「いいじゃん、隣に行ってやれよ。昨日からずっと別行動だったから、緑間寂しがってたんだぞー」
「勝手なことを言うな」
 緑間はひどく不機嫌そうに舌打ちをしたが、今更それにビビるようなクラスメイトはいない。
「マジマジ。お前ら一緒にいるの当たり前みたいになってんもんな。俺らも違和感ありまくりだったわ」
「今日の部屋割り一緒になったんは、やっぱ緑間の引きの良さかねぇ」
「つか高尾もおとなしかったもんな、昨日今日と」
「あらやだ真ちゃん、俺ら噂の渦中よ、パパラッチよ」
 ぎゃははと笑って混ぜっ返しながら、高尾は顔が赤くなるのを止めるのに必死だった。
 勘弁してくれよ。
「うるさいやかましい。さっさと寝るのだよ」
 緑間が問答無用で部屋の明かりを消してくれて助かった。まだ布団に潜り込んでいなかった男子たちは悲鳴や文句を上げたが、やがておとなしく床に就いた。

 それから何時間経っただろうか。先生の見回りが来るまでひそひそと布団の中でしゃべっていた友人たちは、昼間のハイキングの疲れか、一人、また一人と眠りに落ちていった。ぐぅぐぅ、くぅくぅ、ごぉごぉ。気持ちよさそうな鼾の重なる部屋で、高尾は一人まんじりともせず目を開けていた。
 半端に閉じられた障子の向こうに、真っ暗な夜が見える。その暗闇から、ヨタカの単調で退屈な声が延々と聞こえてくる。
 キョ、キョ、キョ、キョ、キョ、キョ、キョ。
 いつまで続くんだろう。高尾は鳴き声を聞きながら、くすんだ天井を見るともなしに眺めた。天井の染みの形を何度かなぞり、眠くなろうと試みたが、目はいよいよ冴えるばかりだ。
 高尾は天井から目を離し、もぞもぞと体ごと向きを変え、緑間の方を見た。
 人事を尽くして一通りの験担ぎを終え、ナイトキャップをかぶった緑間は、部活の合宿で見た時と同じように直立不動で静かな寝息を立てている。
 やっぱ横顔、きれーだな。
 闇に慣れた目に、緑間の高い鼻がぼんやりと白く浮かび上がる。
 睫毛なげー。
 眼鏡に邪魔されずに、長く揃った睫毛の伏せられているのを堪能する。しかし、高尾の一番好きな、宝石のような翡翠の瞳を見ることは叶わない。
 高尾は苦しい息を吐いて、手元のスマホのボタンを押した。暗闇には眩しすぎる人工の明かりが点り、高尾は慌てて手を布団の中に引っ込めた。
 午前二時十四分。
 時計を確認してまた一つ溜め息を吐き、スマホの電源を落としたところで、
「眠れないのか」
と小さな声が掛かった。
 はっと顔を上げると、緑間がこちらを見ている。
「わり、起こした?」
 小声で返すと、いや……と小さく呟き、なおも高尾の顔をじっと見つめてくる。明かりのないはずの部屋の中で、緑間の瞳は光を反射したようにキラキラとしている。
「どったの?真ちゃん」
 耐え切れなくなり、高尾はへらりと笑った。
「寝ようぜ。悪かったよ、起こして。俺もすぐ寝るからさ」
「外に出るぞ、高尾」
「は?」
 繋がらない会話に、馬鹿みたいに目を丸くして問い返してしまった。
「行くぞ」
 緑間は気にした素振りもなく、さっさと起き上がってナイトキャップを脱ぎ捨て、高尾の布団を剥がしにかかった。
「え、ちょっ、待てよ」
「早くしろ、皆が起きる」
 ちょうどその時、一際大きな鼾をかいていたクラスメイトがふがふがと何か言いながら寝返りを打ち、高尾はぎくりと身を強張らせた。
 早く、と、緑間が無言で顎をくいとしゃくり、高尾はあーもう!と諦めて立ち上がった。きっといつものわがままだろう。お汁粉でも飲みたくなったのかもしれない。
 高尾はやれやれと嘆息して、そしてわずかに口元を緩めた。このわがままに付き合うのは、他の班員ではなく、自分でないと駄目なのだ。
 音を立てないようにこっそりと部屋から抜け出し、慎重に襖を閉じる。廊下に誰もいないことを確認して、ほっと息を吐いた。
「あ、財布忘れた」
 高尾が言うのに、緑間は不思議そうに首を傾げた。
「どうして財布がいるのだよ」
「どうしてって……お前お汁粉飲みたかったんじゃねーの?」
「こんな山中の自販機でお汁粉が売っているか、馬鹿め。ちゃんと自分で持ってきているのだよ」
 あっそ、と呆れ、
「じゃーどうしたんだよいきなり」
 それには答えず、行くぞ、とだけ言って、緑間は高尾の手首を掴んで歩き出した。おいおい、と考える間もなく階下に下りる。なぜかフロントは無人で、大丈夫かよと少し思ったが、そうこうしている内に自動ドアが静かに開き、高尾と緑間は宿の外に出ていた。
「っておい!まずいって真ちゃん!戻ろうぜ」
 掴まれたままの腕を引っ張って宿に戻ろうと促しても、緑間は涼しい顔で、
「散歩だ、高尾」
とすたすた歩き出してしまった。
 おいおいマジかよ、とげんなりしつつ、高尾は腹をくくって付き合うことにした。緑間も眠れなかったのかもしれない。高尾も、あのまま部屋で横になっていても眠れる気はしなかったし、緑間の突飛な行動はいつものことだ。これに付き合ってやれるのは、やはり自分ぐらいだ。
 高尾は少し楽しくなってきた。緑間の隣に立つとやはり胸がドキドキするが、久しぶりに自然と会話ができているような気がする。
 玉砂利の敷かれた敷地から、舗装された道路に踏み出す。それほど広くない車道の脇には申し訳程度にガードレールがついており、その向こうには黒々とした森が広がっている。湿気がしっとりと辺り一体を覆い、深呼吸をすると、豊満な緑の香りにつま先まで染められるようだった。
 梅雨の時分にも関わらず明るい月夜で、分厚い水蒸気の層を透かしてぼんやりとした光が道を照らしている。当然街灯はないが、舗装された道路をはみ出さなければ少し歩けるだろう。
 そんなのんきなことを考えていた高尾だったが、緑間が自分の手を引いたままどんどん遠くに歩いていくので、次第に不安が込み上げてきた。
「真ちゃん、あんま行き過ぎるなよ」
「宿もう見えねーじゃん」
「戻れなくなるぞ」
 緑間は何も言わない。
 高尾はじっとりと汗が噴き出すのを感じた。
 少し明るすぎるような気がする。
 道は白く闇に浮かび上がり、木々の葉は昼間に見た時よりも緑の深みを増し、艶やかな水の玉が転がるのまで見えた。
 いくら月が明るいからといって……。
 高尾は空を見上げた。湿度が上がってきたのか、水蒸気の層はますます厚くなり、霧のように上空を渦巻いている。その粒一つ一つが光を反射して、それでこんなに明るいのだ。月の姿は見えない。
 キョッキョキョキョキョキョ。
 すぐ近くで、つっかえたようにホトトギスが鳴いた。思いの外大きな声にびくっと肩を震わせると、緑間が宥めるように手首を握る力を強くした。
 緑間は、迷いのない足取りで白い道をぐんぐん進んだ。
 危ないって、もう帰ろうぜ、なんか変だよ、という制止の言葉は、いつの間にか出てこなくなった。だんだん、大丈夫なような気がしてきた。何もおかしなことはない。緑間は自分の手をしっかりと握り、自分はその熱を感じている。道は明るい。ほら、なんの心配もない。今はただ、緑間と二人きり、この道を歩いていることが無性に嬉しかった。
 葉と葉の擦れる音がする。木の枝の軋む音がする。夜行性の生き物が走る足音、それを狙うフクロウの静かな羽ばたき、遠くの渓流の水音、オケラの鳴き声、バッタの跳ねる音、延々と続くヨタカの単調な声、二人の道を踏みしめる音。
 会話もなく、夜の音に耳を澄ます。とりとめのない思い思いの密かな呟きは、森を渡る風になって二人の鼓膜を揺らした。
 緑間が立ち止まった。目の前にはいつの間にか、一軒の宿が建っていた。
 一階建ての小ぢんまりとした建物で、白壁は多少くたびれ、黒く光る瓦屋根にはびっしりと苔が生えていた。急に現れたように見えたのは、輪郭のぼやけた今夜の山とあまりにもうまく同化していたからかもしれない。それほどこの宿は、慎ましやかに建っていた。
 『翠屋』と流麗な墨字で書かれた看板には、明かりが点っている。緑間はしばらく黙ってその看板を見ていたが、やがて庭に足を踏み入れ、少し奥まったところにある入口へと進み、引き戸を静かに開いた。 

後編


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