翠の宿(後編)

 二人が来るのを待っていたかのように、宿の上がり框には一人の女性が三つ指をついて頭を垂れていた。
「いらっしゃいまし。ようお越しくださいました」
 女性にしては低く落ち着いた声が、滑らかに京の音階を紡ぐ。
「割烹旅館翠屋の女将、夜鷹でございます」
 顔を上げた女将は、浅黒い肌で、痩せぎすで、ぎょろりと目ばかりが大きく、お世辞にも美人とは言いがたかったが、袂の端まで行き届いた着物、乱れなく整えられた豊かな黒髪、自然に伸びた背筋、和服を着慣れた所作が好ましかった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 音も無く立ち上がり、玄関からまっすぐに続く廊下を手のひらで指し示す。
 玄関は広く、簡素ではあったが堂々としていて、廊下は突き当たりが見えないほど長く伸びていた。二人が着ている寝巻き代わりのジャージは明らかにこの場に相応しくなく、高尾は尻込みをしたが、緑間はずっと掴んでいた高尾の右手首を離し、黙ってスニーカーを脱いで上がり框に足を掛けた。高尾も慌ててスニーカーを脱ぎ、緑間の大きなスニーカーの隣に揃えて並べた。塵一つなく整えられた玄関の中、さっぱりと洗われた清潔な緑間のスニーカーの横で、薄汚れた高尾のスニーカーは小さな染みのようにみすぼらしく見えた。
 女将に案内されるまま、磨き上げられた板張りの廊下を歩いた。廊下の両側にはいくつもの部屋が連なっており、いずれもぴっちりと襖が閉じられていたが、中に人の気配を感じる部屋もいくつかあった。廊下も柱も襖も、外観の古びた様を裏切る新しさで、切り出されたばかりの木の匂い、貼りたてののりの匂いが、歩く三人の後ろで立ち昇った。明るい色の材木が使われているためか、天井にも足下にも照明らしきものが見当たらないにも関わらず、辺りはほのかに明るく、三歩先を歩く女将のほっそりとした項も、隣を歩く緑間の左耳たぶのほくろもはっきりと見えたが、どこまでも真っ直ぐに続く廊下の先は、ぼんやりと闇に沈んで見えなかった。
 部屋には一つ一つ名前がついているらしく、襖の脇の柱に、控えめな札が掛かっていた。
 青丹の間、女郎花の間、呉竹の間、海松の間、橄欖の間、山葵の間、裏葉の間、花萌葱の間。
 高尾の視線に気付いてか、女将は少し後ろを振り返って言った。
「各間には、色の名前が付けられております」
「随分たくさんの色があるんスね。読めねぇ漢字も多いけど」
 へぇ~と感心しながら高尾が言うと、
「わかる色から推察するに、すべて緑色系統の名前が使われているのではないか」
と、緑間も興味深そうに言った。
「よう気付かはりましたね。そうどす、うちは翠屋ですので」
 女将が微かに笑みを閃かせると、地味な顔立ちの片頬にえくぼができて、意外と愛嬌のある顔になった。女将の言葉は、京都弁特有の丸みがありながら歯切れがよく、もっと聞いていたいと思ったが、それっきり会話は途切れて女将は前を向いてしまった。
 廊下はさらに奥まで続く。
(こんな広い宿だったかな)
 高尾が小ぢんまりとした佇まいの宿の外観を思い出し、うっそりと背筋を寒くした頃、女将は一つの部屋の前で立ち止まり、流れるような動作で跪いて襖に両手を掛けた。
「お客様のお部屋は、こちらの翡翠の間でございます」
 部屋に入ると、真新しい藺草の匂いに包まれた。中に窓は無く、木目の美しいテーブルと、それを挟んで二枚の座布団が一分の狂いも無く並べられており、床の間には水の滴りそうなカワセミの日本画が掛けられていた。
 二人はおずおずと座布団に腰を下ろした。
「直にお料理をお持ちいたします。どうぞごゆっくりお寛ぎください」
 女将は深々とお辞儀をし、やはり音も無く襖を閉めて去っていった。
 二人の間に沈黙が落ち、高尾は宿に着くまでずっと握られていた手首を摩った。緑間の長い指は楽々と高尾の手首を一周していた。その感覚がまだ残っている。
「いやー、びっくりしたな。こんな宿があるなんて」
 変な気持ちになりかけて、高尾は慌てて笑顔を貼り付けた。
「ああ。しかしなかなか良さそうなところなのだよ」
 緑間は姿勢良く正座し、物珍しげに部屋を見渡している。
「あ、財布持ってねーんだった」
 高尾は呟いたが、なんとなく、大丈夫だろうという気がしていた。緑間も、そのことについては特に気にしていない風だった。
「失礼いたします」
 落ち着いた女将の声が掛かり、するすると生き物のように襖が開いた。
「お待たせいたしました。折敷をお持ちいたしました」
 二人の前に、美しく少量ずつ盛られた膳が置かれる。
「ニジマスの握り、サルスベリの味噌汁――こちらはサルスベリの木の皮を炭火で炙ったものでございます――向付は、モウセンゴケ、スギゴケ、ミヤマコケグザの三種の苔の酢の物でございます」
 説明する女将の控えめな手の動きで、味噌汁の湯気が揺らめいた。
 女将は再び頭を下げて出て行き、二人は膳を覗き込んだ。
 生きた頃のままの鮮やかなニジマスの背、細く削られ、味噌汁に浮かんだ白いサルスベリの皮、瑞々しい緑のぬめりに包まれた苔。
 高尾は、透き通るようなミヤマコケグザに恐る恐る箸を伸ばした。鼻先を苔の匂いが掠める。そして、口に含んだ瞬間、高尾は一面の緑に包まれた。鼻に抜ける水の香り、食道から胃を焼いていく酢の酸味、血液は清流の音となって高尾の耳をさらさらと撫で、体中の細胞は口を開いて生命の喜びを歌った。
 高尾は次々と料理に箸をつけた。若々しいニジマスが口内で跳ねるのを感じ、切り口も新しいサルスベリの皮の香りと香ばしさを楽しんだ。
 顔を上げると、緑間も夢中で味噌汁を啜っているところだった。視線が絡み、あ、と思ったら言葉が零れていた。
「真ちゃん、俺と違う班になって寂しい?」
 緑間は、味噌汁をごくりと飲み込み、左手の甲で口を拭った。
「寂しいか寂しくないかで言えば、別に寂しくはない」
 顰め面で遠回しな言い方をする緑間に高尾は笑い、ニジマスの握りを一口に食べた。肉厚の身をしっかりと噛み締める。
「真ちゃん、俺は、真ちゃんと違う班になってほっとしたんだ」
「……そうか」
「うん、けどさ、ほっとしたんだけど、しんどかった」
「ああ」
「結局さぁ、お前が隣にいてもいなくても、俺はお前のことばっか気になって、心が休まらない」
 緑間はスギゴケとモウセンゴケを一緒に口に放り込んだ。彼の口元から爽やかな緑が香った。
「さっき俺は寂しくないといったが、思うところがないわけではない。隣にいなくてもお前は騒がしいから目に入るし、声も聞こえる。ついでに言うと、お前がいつも俺のことを見ているのにも気付いている」
 高尾は酢を喉に引っ掛けて咽かけた。
「だが偏にそれは、俺がお前の姿や声や視線を、常に意識してしまっているからに他ならない。それが俺には不服で……そしてお前の隣に他の誰かがいることが不満だ」
 高尾は何とも答えられず、再び二人の間に沈黙が落ちた。
 高尾は今、何か考えているようで何も考えていなかった。緑間が言った言葉の意味も、普段なら冗談に紛れさせてしまう感情も、深く考えることはできずに、ただありのままの言葉がすとんと高尾の心に飛び込んでくるのを、若干の戸惑いと共に受け止めるだけだった。
 互いに静かな混乱の中にいて、その混乱の意味を知ることもできず、ただ不安げな瞳を見合わせていると、タイミングを見計らったかのように、女将が次の料理を運んできた。
「カブトムシのサナギの煮付けでございます」
 青菜をそっと寄せると、白磁で作られたようなサナギが、手足をきちんと折り畳んで沈んでいた。丸みを帯びた角の先まで少しも損なわれておらず、固いのかと思って箸を入れてみると、ぷつりと簡単に頭と胸が離れた。中はまだ幼虫のようにむっちりとしていて、口に含むと確かな弾力が舌の上で跳ねた。大人になる前のほろ苦さが、喉の奥に広がった。
 カブトムシの頭を咀嚼し、緑間が口を開いた。
「高尾、最近俺のことを避けていないか」
 高尾は角の部分を飲み込んだところだった。
「だって……最近お前といると変なんだよ」
「避けている方が変なのだよ。俺のことが嫌いになったわけでもないだろう」
「自信満々だな、真ちゃん。そりゃまあ……そうなんだけどさぁ」
「ならば自然にしていればいい」
 高尾は俯いた。備前焼の椀からは、青葉と土の匂いがした。
「わかんねーんだよ。お前と一緒にいた時の俺の自然が。わかんねーから、変なんじゃねえか」
 緑間は少し考えるように首を傾げた。
「俺と一緒にいるのは苦しいか」
「苦しい」
「苦しいのは、なぜだかわかるか」
「一緒にいると苦しいのに、一緒にいたいから苦しいんだ」
 緑間は頷いた。
「それが聞けて、よかったのだよ」
 料理は次々と運ばれてきた。
 アオバズクの香味焼き、松の枝葉添え。オオミズアオの包み餡かけ。サンコウチョウとオオルリの尾羽の天ぷら。ホタルブクロの吸い物。
 どれもこれも食べたことのない食材で、食べたことのない味付けだったが、香りは幼い頃嗅いだような、それとも最近どこかで嗅いだようなものばかりだったので、何の違和感も抵抗も無く口に入っていった。二人は、今が深夜ということも忘れて夢中で食べた。一口含むごとに緑の世界が広がった。高尾は、ここに来るまでの間に見た、森の様子を思い浮かべた。闇で見えないはずの木々の色。葉を転がる水の粒。渦巻く霧の向こうの明るい月。夜を驚かすホトトギスの鳴き声。シーィッという力強いオケラの声。
 きっとここは現実ではないのだろう。高尾にはわかっていたが、不思議と怖くなかった。緑間に対する自分の気持ちに蓋をして、彼を恐れ、自分を騙し、心が泥のように重くなっていたあの世界の方が、よっぽど虚構だった。
 翠の宿の食べ物は直接心に入り込んで、ドロドログチャグチャしたものを丁寧に解きほぐし、希釈し、さらさらの血液を送り出した。凝り固まっていた言葉が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「赤司とはどうなの」
「苦しいのがお前だけだと思うな」
「俺って真ちゃんにとってなんなのかなぁ」
「高尾は誰からも好かれる人間だ。どうして俺に構うのだよ」
「二人の間にバスケがなくなったら、俺たちの間には何もなくなってしまう?」
「俺がバスケをやめて、エースではなくなったら、俺はお前の特別ではなくなるのか?」
 そんなことねぇよ。とは、高尾には言えなかった。バスケで始まり、バスケで繋がっている二人である以上、それは高尾の恐れでもあったからだ。もちろん今や、高尾と緑間が一緒にいる理由はバスケだけではなくなった。しかしそれを継続するには、互いに気付きながら知らぬ振りを続けてきたものに、触れる勇気が必要だった。
 二人は見つめあったまま、押し黙った。瞳はこんなにも雄弁に伝えているのに、あと一言、たったの一言が出てこない。口に出してしまった言葉は、目には見えないけど消えないのだ。
「失礼いたします」
 静かに襖が開かれた。
「ゲンジボタルのゼリーでございます」
 二人の前に、黒光りする漆塗りの器に載せられたゼリーが差し出された。透き通った寒天状の部分がうっすらと緑色で、時折色の濃淡が変わると思ったら、ゼリーの中でホタルが明かりを明滅させているのだった。
 女将は気付けばいなくなっていた。
 高尾と緑間は、ゼリーに目を凝らした。それぞれの器にホタルは一匹ずつ入っていて、ピクリとも身動きしなかったが、腹の明かりだけが強く弱く瞬いていた。部屋はいつの間にか薄暗くなっていて、ゼリーの緑色の光が二人の顔をぼんやりと映し出していた。添えられていたフォークを差し込むと、意外と硬い弾力があり、抵抗するようにぶるんと揺れた。ぷつりと入った切れ目から、青い匂いが溢れた。
 そのままフォークを押し進めると、ホタルの背にコツンと当たった。と、今まで死んでいるかに思われたホタルが俄かに活動を始めた。硬いゼリーの中で、細かく触角を震わせ、折り畳んでいた六本の足を蠢かせる。やがて苦労して体の向きを変えゼリーの切り口から頭を出すと、息をついたように這い出してきた。平らになった上部まで辿り着き、しばらく考えるように触角を忙しなく動かしていたが、やがて前翅を持ち上げ、その下から透明な後翅を広げた。パリッと空気を叩く音がして、ホタルは飛んだ。ややあって、緑間のホタルも飛び立った。
 二人はしばらく黙って部屋を舞うホタルを見つめ、そして、ホタルのいなくなったゼリーを一口掬って食べた。ホタルがいなくなってもそれは薄緑色に発光し、青臭い匂いを残していた。弾力を押し潰すように舌と上顎の間に挟むと、ゼリーは意外なほどあっさりと融けて喉に滑っていった。舌を刺すような苦味の中に、確かに森と清流の気配を感じた。
 もう一口、高尾がゼリーを飲み込むと、言葉はするりと零れて落ちた。
「真ちゃん、好きだよ」
 気持ちを認めてしまえば、こんなに楽なのかと思った。全てが腑に落ち、物事も感情も収まるところに収まった。
 緑間も、肩の力が抜け落ちたように笑った。
「ああ、俺もだ」
 一瞬すこんと軽くなった心に、ドッと熱いものが流れ込んできた。それは胸の奥で膨張した後急速に収縮し、外に出ようと勢いよくせり上がった。胸を撫で摩り、喉の奥でぐつぐつと暴れるものをえづくように吐き出すと、空になった漆の器に、翡翠色の石が硬い音を立てて落ちた。親指の第一関節ほどのそれは、角が無く河原の石のようにすべすべとしていて、手に取ってみると見た目より重く感じた。顔を上げて緑間の方を見ると、彼も不思議そうに自分の吐き出した石を眺めていた。飛ぶのに疲れたのか、ホタルが二匹、彼の前髪に止まって光っていた。

 どちらからともなく帰ろうと腰を上げ、襖を開くと、ここへやって来た時のように、女将が三つ指を揃えて頭を下げていた。
「ごちそうさまでした」
 口々に言うと、
「おおきに、ありがとうございます」
とさらに深く頭を垂れ、上げた顔の片頬には、あの愛嬌のあるえくぼができていた。
 帰りはまた女将が玄関まで送ってくれた。行く道は非常に長く感じられた廊下だったが、今度は随分あっさりと玄関に着いた。玄関には、緑間の清潔なスニーカーと高尾のみすぼらしいスニーカーが、きちりと並べられていた。
 緑間が、「あの、お代は」と尋ねると、女将は微かに頭を下げ、かしこまって答えた。
「翠屋では、お金でのお代はいただいておりません。翠屋は、言われへん想いを抱えた方や、心に迷いのある方、何かの理由で心を誤魔化して、そのために苦しんではる方がお客様としてお見えになります。当館の料理を心にたらふく取り込んでいただくと、自然と溜め込んだ想いは言葉になって零れてきます。料理はきれいになった心を満たして、やがて結晶となって出てまいります。お客様の心にずっと閉じ込められていた、ほんまの気持ちの結晶です。うちでは、その石をお代としていただいております」
 高尾と緑間は、ジャージのポケットから翡翠の石を取り出した。
「美しい結晶でございますね」
 二人が差し出した石を、女将は押し頂くように受け取った。
 気持ちの結晶を渡してしまったのだから、もしかしたら、この気持ちはきれいさっぱりなくなってしまうのかもしれない。高尾は薄々そう思ったが、それでも構わなかった。ここは翠屋。秘められた想いを、壊れる前に美しく取り出してしまう宿なのだ。
 女将は戸口の外まで送ってくれた。随分長くここにいたような気がするが、空はまだ朝の兆しを見せず、真っ暗なままだった。
「お足下にお気を付けて」
 暗闇の先を手のひらで指し示した。
「この道をずぅっとまっすぐ行かはったら帰れます」
 高尾と緑間は礼を言って、玉砂利の敷かれた宿の敷地内から舗装された道路へと一歩踏み出した。来た時と同様に霧が濃い。緑間の手が、高尾の手を探り当てて握った。高尾もしっかりと握り返した。きっと帰ったら、二人の関係は元通りだ。高尾はくだらないことで緑間をからかっては怒られて、緑間はくだらないことで高尾を引き回しては呆れられて、二人でバスケをして、また同じクラスになって、一緒に弁当を食べる。
 少し行ってから振り向くと、霧を透かして翠屋の明かりがうっすらと見えた。あの長い長い廊下の両脇にずらりと並んだ部屋で、今も誰かがひっそりと閉じ込められた想いを吐き出しているのだろう。
 そこから先は振り返らずに、まっすぐ前を向いて歩いた。霧が少しずつ晴れてきて、明るい月が二人の足下にくっきりとした影を作った。
 小さな影が二つ、緑間の影から飛び立った。ゼリーに閉じ込められていたホタルが、緑間の前髪についてきていたのだ。立ち止まって見ていると、月明かりに霞みそうになりながら、人工的な光を明滅させ、二匹はつかず離れずふらふらと森の奥に消えていった。ホタル特有のつんとした匂いだけが後に残り、高尾は鼻をすんすんさせて笑った。
「変なにおい」
 出てきた時と同じように、誰にも見咎められずに部屋に戻ると、皆いびきをかいてぐっすりと眠りこけていた。外では相変わらず、ヨタカが退屈そうに鳴き続けていた。二人は、物音を立てないように少し冷えた布団に身を滑り込ませ、手を繋いだまま夢も見ずに眠った。

 翌朝、高尾はいつもの習いで早い時間にぱちりと目を覚ました。山特有の冴え冴えとした朝の空気が、部屋に満ちていた。障子越しに真っ白い日が差し込み、思い思いの格好で気持ちよさそうに眠るクラスメイトたちを照らしていた。
 昨晩のことは夢だったのだろうか。頬を抓って確かめようとした手は、緑間の布団の下でしっかりと握られたままだった。
 繋いだ手を動かさないように、ゆっくりと首を巡らして緑間の方を向くと、少し高尾の方に身を傾けてぐっすりと眠っていた。髪が少し乱れている。そういや昨日は、ナイトキャップを被るのを忘れて寝てしまったなぁと、珍しいその様に少し笑った。
(真ちゃん、好きだよ)
 その言葉がすんなり頭に浮かんで、高尾は少し拍子抜けした。吐き出して、宿に置いてきたはずの気持ちは、まだ高尾の心にあったようだ。
 本当に大切な気持ちとは、吐き出しても吐き出しても、溢れて尽きないものなのかもしれない。布団の中で絡めた指に力を込めると、緑間は少し眉間に皺を寄せ、何か言いたげに口元をむにむにと動かし、再び深い眠りへと戻っていった。
 その口の端に、薄く緑に光るものが付いているのに気付き、高尾は緑間に顔を寄せた。ホタルのゼリーの欠片だった。緑間の白い肌にそっと舌を伸ばしてそれを舐め取ると、ホタルの青い匂いが舌の先に漂った。
 真ちゃん、早く起きねぇかな。
 高尾は緑間と話すのが楽しみだった。緑間は、昨夜の不思議な出来事を覚えているだろうか。だが、もし忘れてしまっていたとしても虚しくはない。二人とも、もう想いを言葉にする方法を知っているのだから。
 外は雨が降っていた。濃厚な土の匂いと、緑の匂いが舞い込んできた。今日、京都では梅雨入りが宣言された。

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