春の陽光が差し込む合同講義室はこの時間空き教室になっていて、午睡を貪る者や次の授業の準備をする者、ただ友人とだべっているだけの者など、十数名の学生が思い思いに時間を過ごしていた。木村は階段状になった教室の後ろの方の席に座り、明後日までに提出しなければならない発生生物学のレポートを書いていた。 「初期受精卵に見られる細胞分裂活動の過程において……ゲノムが多様な生物の発生に及ぼす影響はウンヌンカンヌン」 ノートパソコンのキーボードを、迷いのない手つきで打ちさばいていく。大学生になるまでパソコンなんてほとんど触ったことがなかったのに、いつの間にかブラインドタッチまでできるようになっていた。 「へ~、すげぇな」 横から感心したような顔で覗き込んでくる男がいるが、無視を決め込む。 「α‐チューブリンにβ‐チューブリン? アクチン、マイクロフィラメント……全っ然意味わかんねぇ」 彼はそのままずるずると机に突っ伏し、子どもが駄々をこねるように足をバタバタさせた。 「わかんねぇよー、なぁ木村ー。そんな難しいことやってねぇで俺の話聞けよ、なぁ木村ー」 邪魔をするな。 そんな木村の無言のオーラには気付かぬふりで、彼――宮地清志は「木村木村~」と畳みかけてくる。周りの女子が、「誰、あのイケメン?」「他学部かな? 知らない顔だね」「木村くんの知り合い? 後で紹介してもらおうよ」などと盛り上がっているのがまたうるさい。よく見ろ女子ども、このダレきった姿を。何がイケメンだこのヤロー。 宮地は時々こうして木村の大学に潜り込んでは、聞いてもいない近況や愚痴とも惚気ともつかない話を語っていく。今日のこの調子は、きっとしょうもない相談事だ。 「相談なら後で」 先手を打って言ってやると、よくわかったな、さすが木村! と妙な感心をされてしまった。 「わかってんなら話が早ぇや。な、ちょっとだけ! すぐ済むから!」 「ダメだ」 「なぁ木村~」 「お前、今日大学は」 「創立記念日。なあ聞けよ」 「……」 「おいってば」 「……」 「……無視すんなよ」 木村は深くため息をついた。拗ねられたら後が面倒くさい。レポートをこの時間に完成させるのは諦めて、木村はノートパソコンの蓋を閉めた。宮地がどんぐり眼を輝かせる。大学二年生になるのに相変わらずの童顔は、出会った高校一年の頃とほとんど変わらない。図体ばかりが無駄にでかくなった。 「何だよ宮地」 宮地は機嫌よく「悪いな」と言うと、おもむろに深刻な表情を作った。 「実は……かれこれ一年以上悩んでいることなんだが……」 (また高尾絡みだな) 木村は見当をつけて、温い顔で相槌を打った。「ふん」 「恋人ってさ、普通名前とかあだ名で呼び合うもんじゃねぇ? 未だに名字呼びとかさ、それって距離縮まってねぇってこと? どう思う?」 「高尾に名前で呼ばれたいのか」 あっさりと聞いてやると、宮地は少し顔を赤らめた。 「だってさぁ」 「……真面目に聞こうとした俺がバカだった。勝手にやってろ。なあ宮地、俺はレポートを仕上げたいんだが」 再びノートパソコンの蓋を開けようとした木村の手に、宮地は縋りついた。 「だってよ、もう一年以上経つんだぜ? 付き合い始めて。そろそろ名前で呼んでくれてもよくね?」 ★ ☆ ★ ☆ ★ から始まる、いつもの宮高と巻き添えを食う木村さんの短いお話。
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