愛のリバウンド

「なんでお前がこんなところにいるんだ」
 木村が大学から帰ってくると、店先で常連客の奥さんと立ち話をしていた母親が、「おかえり信介。後輩くん来てるよ。茶の間で待ってくれてるから、早く行ったげな」と店の奥を指し示す。
(後輩? 宮地じゃなく?)
 奥を覗くと、ちゃぶ台の前にちょこんと座った高尾が野菜チップスをポリポリ齧りながら、木村に気付いてヘラリと片手を上げた。
「あ、木村さん、お邪魔してます」
 今日は一限から五限までみっちり講義が詰まっていたので疲れているのだ。面倒事は勘弁してくれ……と木村は思ったが、そこにはもちろん面倒事の匂いしかしない。
「野菜チップスご馳走になってます。これうまいですね~」
 当然だ。それは最近木村生鮮店で発売を始めたばかりのオリジナル野菜チップスで、野菜本来の旨みや甘みをそのままに、時間と手間暇を掛けてじっくり丁寧に乾燥させて作ったものだ。おいしい上に栄養価も高い。が、それはとりあえず置いといて。
「なんで、お前が、ここにいるんだ」
 木村は冒頭の質問を、根気強く繰り返した。高校からの腐れ縁の友人は、しょっちゅう木村の家にやってきては管を巻いていくが、高尾がここにやってくるのはめったにないことだった。
 高尾は、ニッコリと音がしそうないい笑顔で言った。
「宮地さんと、ケンカしました」
 ほら見ろ。嫌な予感は的中した。
 木村はやれやれと盛大なため息をつくと、無言で茶の間に上がり、彼の向かいにどかりと座った。
「なんでまた」
「別に、何があったってわけじゃねーんですけど。まあ、いろいろです」
 話す気はないということだ。
 木村はどうしたもんかと坊主頭をくるりと撫でた。
「お前、なんで俺ん家に来た」
 彼らがケンカをするのは今回が初めてではない。二人とも案外頑固なところがあるので、むしろケンカは多い方だと言ってもいい。特に高尾が大学生になってルームシェアをするようになってからは、俺の家は駆け込み寺じゃねぇぞと言いたくなるほど頻繁に木村の家を訪れては、グダグダと言い訳とも愚痴とも反省ともつかないようなことを話すだけ話して、すっきりした顔になって帰っていく。だがそれはいつだって宮地の方なのだ。高尾がケンカをしたと言ってここにやってくるのは初めてのことだった。
「緑間んとこは」
「真ちゃんは絶対帰れって言うんで」
「俺も言うぞ」
「木村さんは、甘やかしてくれるから」
 たまには俺だって木村さんに甘えたい。
 高校の時でも見せたことのない拗ねたような顔で言うので、木村は何となくきつく言えなくなってしまった。
「……いいのか? 多分宮地、ここに来るぜ」
「いいえ、宮地さんはここには来ません、絶対に」
 いやにきっぱりと言う高尾に、木村は察するところがあり口を噤んだ。
「高尾くん、夕飯まだでしょ。食べていきなよ」
 母親が茶の間に顔を覗かせて言うのに、「いや、悪いですよ。もう帰りますんで」と高尾は慌てたように腰を浮かせかけたが、木村はその腕を引っ張ってまた座らせた。
「いいじゃねぇか、食ってけよ。おふくろの野菜鍋は絶品だぜ」
「けど……」
「遠慮するな。宮地だって来る度に食っていくんだから」
「そうだよぉ、うち上の兄ちゃんが家出てったってのに、今までのくせでつい作りすぎちゃうの。今日もバカみたいに野菜切っちゃってね。遠慮ないから食べてって」
 かわりばんこに勧められ、高尾は眉を下げて笑った。
「ありがとうございます」


 母親が作る野菜鍋は天下一品だと木村は思っている。こだわりぬいた野菜を使い、その特性を知った上でそれぞれの野菜に合った下ごしらえを施し、鍋でくたくたになるまで炊く。何種類もの野菜の優しい出汁が溶け合い、複雑で繊細で絶妙な味のハーモニーが生まれる。肉や魚を欲する育ち盛りの男兄弟たちも、この鍋ばかりは物足りないとは一切言わず、汁の一滴まで争うようにして平らげたものだ。高尾も、最初の方こそ遠慮がちに木村ファミリーのテーブルの端に腰を掛けていたのだが、鍋を一口啜った途端、目の色を変えて「おかわり!」と言った。木村も、下の中学三年の弟も負けじと食らいつく。父親と母親はそれを微笑ましげに眺めている。男三人が競い合うようにして食べている光景は、上の兄が三ヶ月前に結婚して家を出て以来のことなので、嬉しいのだろう。
 食が弾めば会話も弾む。高尾はすっかり木村の家族と打ち解けたようで、特に弟は、高尾がカードゲームに詳しいと知ると一瞬で懐いて、あれやこれやと高尾を質問攻めにし、しまいには自分の部屋に連れて行ってカードを見せびらかして盛り上がっている。
 なんだかんだと引き止められているうちにすっかり遅くなってしまったので、「泊っていけよ」と言うと、今度は高尾も素直に、「じゃあ、お言葉に甘えて」と頭を下げた。
 弟が高尾と一緒に寝たがったのだが、この調子だと夜更かししてでもしゃべってしまいそうだったので、木村の部屋に客用の布団を敷いて高尾を寝かせることにした。パジャマは木村のお古を出してきて渡したが、当然身に余っている。
「宮地、心配してんじゃねーの?」
 この調子では、高尾は宮地に、木村の家に行くとは言っていないだろう。ベッドの上から問い掛けると、高尾は布団から目だけを覗かせて木村の方を見た。虹彩の薄い釣り目が、豆球の薄暗い光を映してぼんやりと見えた。
「別に……大丈夫ですよ。どうせ予想はついてるんじゃないですか? 現にほら、連絡ないし」
 豆球の明かりでは、高尾の目が怒っているのか悲しんでいるのか諦めているのか、それとも何も感じていないのか、読み取ることはできなかった。
「まあ……お前がそれでいいんなら何も言わねぇけど」
「……木村さんのそういうとこ、好きですよ」
 今度は高尾が目を細めて笑ったのがわかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 思っていたより、二人の夜は穏やかだった。

★ ☆ ★ ☆ ★

から始まる、高尾くん家出話。木村さんとデートしています。

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