プロローグ これでいいのだ ふやけたみたいに膨張した月が、天の一番高い所に差し掛かろうとしている。あと数日で満月だろうか。輪郭のぼやけた光は妙に赤々として、辺りの闇をほんのりと鉄錆び色に染めている。 変な色の月だ。 一松はぶるっと身震いした。それは、まだ肌寒い五月の夜に薄いパジャマ一枚でベランダに立っているせいかもしれないし、この不気味な月に怖気をふるったせいかもしれなかった。 「さむおますか」 隣に立つ者が聞く。その声は高くもなく低くもなく、特殊な発声方法をしているのか、どこか地の底から響いてくるような、不思議な聞こえ方をした。 「いや」と一松は答える。視線を落とすと、隣に立つ彼の足元には太く短いシルエット。 またあるいは、悪寒にも似た寒気は、隣に立つこのずんぐりむっくりとした男の慇懃無礼な口調によって引き起こされるものかもしれない。得体のしれないやつ。と一松は思う。 「ほな、参りまひょか、ひち松様」 「一松だよ」 「そりゃ失礼しました、ひち松様」 相手は慇懃無礼な姿勢を崩さないまま、ずんぐりむっくりの体形を感じさせない敏捷さでベランダの手すりを越えた。一度一階の屋根に足をつき、そこからさらにポーンと飛んで、足音も柔らかくアスファルトの地面に下り立つ。そして恭しく一松を見上げて、手のひらで自分の隣を指し示した。下りてこいということだ。 一松は後ろを振り返った。ぴたりと閉ざされた障子戸は、月の光で赤く染まっている。そこに映るのは、猫背でぼさぼさ頭の自分の影。その向こうでのんきに寝ている兄弟たちのいびきも、今は聞こえない。自分たちを隔てるこのたった一枚の薄い壁が、しかし彼らと自分との決定的な境目なのだと一松は思う。 アオォーン…… どこか遠くで犬が遠吠えをし、それにつられて近所の犬も鳴く。 オォーン…… 「ひち松様」 犬の遠吠えに急かされるように、ベランダの下から押し殺した声が聞こえた。一松を見上げる瞳が金色に怪しく光る。 「今行くよ」 一松はもう一度部屋を振り返った。障子戸に映る自分の影。猫背で、ぼさぼさ頭で、その上ににょっきりと三角の耳。 これでいいのだ。 一松は未練を断ち切るように月に向き直る。そしてベランダの柵に手を掛けるやいなや軽やかにそれを飛び越え、音もなく地面に下り立った。金色の目が値踏みするように光り、やがて満足そうな笑みを浮かべる。 これでいいのだ。 もうあとは振り返らない。ずんぐりむっくりの影について、一松は夜の闇に消えていく――
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