Why are you not a cat?
第一章 この世は不条理に満ちている
キラキラとした朝だ。
カラ松は屋根の上で、空に向かって深く息を吸いこんだ。清涼な空気が、肺の中にたっぷりと流れこむ。空は青く晴れ渡り、白い太陽が東の高くに差し掛かろうとしている。光は空気の粒子に反射して、サングラス越しにも眩しいくらいに輝いて見えた。
世界はこんなにも明るくて美しい。
カラ松は思う。
空も雲も、遠く連なる屋根の瓦も、勢いよく伸びる木々の若葉も、日増しに強くなる太陽の光を一身に受けて、来るべき初夏への期待に身を震わせている。自身が五月生まれだからだろうか。カラ松はこの明るくすがすがしい新緑の頃がいっとう好きだった。
それだというのに、地面を見下ろせば灰色のスーツに身を包んだ人々が、携帯電話を片手に眉間にしわを寄せながら足早に通り過ぎていく。彼らは空をちらりとも見上げようとせず、擦り減った革靴のつま先か、手元の携帯電話を一心に見つめている。なんてもったいないことだろう。この世界の美しさに気づきもしないで、あくせく働いたりくよくよ悩んだり、みすみす幸せを逃しているようなものだ。そんなことでは、せっかくこの世に生まれてきた意味がないじゃないか。働くために生きる。生きるために働く。そんなのまったく動物的だと思わないか? 生きることは目的でも手段でもない。この世に生のある限り、愛と幸せを追求するのが文化人。つまり、働かない人生こそが真の人間の生き方だと言えるのだ。ビンゴォ~?
カラ松はそこまで考えて、にやりとニヒルな笑みを口元に浮かべた。今のはちょっと、ニーチェみたいでかっこよかった。いや、ソクラテスと言ってもいい。いずれにしても、これからは哲学人を名乗って生きるのも悪くないかもしれない。
己の新たな才能を発見して、満ち足りた気分で屋根から下りてきたところ、ベランダで洗濯物を干し終えた母親と鉢合わせた。青空を背景に、六人分の白いブリーフが鯉のぼりのようにはためいている。
「あら、ちょうどよかったわ、カラ松。ちょっと一松起こしてきてくれる? 朝ご飯あの子の分だけラップして置いてあるから、お昼までにそれ食べるように言っといて。お母さんこれから買い物に行ってくるから、お願いね」
「お安い御用だ、マミー」
時刻は十時半を回ろうとしていた。カラ松が部屋を覗くと、一松は長い布団の一番端の定位置でまだぐっすりと眠っていた。寝息が深い。起こすに忍びなかったが、母親の頼みだ、許せよ。と心の中で謝って一松の肩に手を掛けた。
「おい、一松、起きろ。もう十時半だぞ」
んん……と一松は唸ると、ゴロンと背中を向けて頭から布団をひっかぶった。
「一松、母さんが、昼までに朝ご飯を食べろと」
こんもりと山になった布団の肩の辺りを掴んで揺さぶると、一松はますます頑なに布団を抱きこみ、ついには俯せに丸まって意地でも起きない体勢を取った。
「一松~」
そうなるとカラ松もてこでも起こしたくなって、力任せに布団を引きはがした。
「起きろ、もう昼前だぞ!」
簀巻きに巻かれた一松がころんと転がり出たと思ったその瞬間。一松は跳ね上がって飛び起きて、体を捻りながら振り向きざまにカラ松の頬を引っ掻いて着地した。そして、「うっせーぞクソ松、殺すぞクソ松」と口の中で不機嫌そうに呟くと、あとは振り返らずさっさと部屋を出ていってしまった。
「い、痛い……」
取り残されたカラ松は呆然とその背中を見送って、引っ掻かれた頬に手のひらを当てた。一瞬の出来事で、何が起こったのかすぐには理解できなかった。ややあってじんじんとした痛みが波のように押し寄せてくる。恐る恐る頬に当てた手のひらをはがして見てみると、うっすらと血の筋が四本滲んでいて、カラ松は涙目になった。
「どったのそれ」
朝からパチンコに出掛けていたおそ松が帰ってきたのは昼前で、カラ松の左頬に走るみみず腫れに気づくと面白そうに尋ねてきた。
「一松を起こそうとしたら引っ掻かれた」
憮然として答えると、おそ松は何がおかしいのかケラケラと笑った。「バカだね~。あいつ寝起きすげぇ悪いのに」
「それはわかっていたが……けどまさか引っ掻かれるなんて思わないだろう」
カラ松は凛々しい眉をハの字に下げて、情けなく訴えた。「すごく機敏な動きで振り向きざまにこう、ブシャーッと……怖かった」
件の一松は、朝食を食べ終えると煮干しの袋を持ってさっさとどこかへ行ってしまった。友達の猫に会いに行ったのだろう。
「一松って、猫みたいだよな」
ふと弟と猫のイメージが結びついてそう言うと、おそ松はなんてことないような口調で、「みたいっつーか猫じゃん。あいつ猫になれるとか、ウケるよなー」
あまりに能天気に言うので一瞬聞き流しかけたが、カラ松ははたと気づいて首を傾げた。
「は? 猫?」
「そうそう。え、お前知らないの? あいつ猫になれるんだよ」
そんな馬鹿な、と言いかけて、カラ松は思い出した。この部屋で、イヤミのシェー拳の大会を応援にいった会場で、他にも何回か一松が猫になるところを、自分は目にしてきたじゃないか。思い出すと同時に愕然とする。なぜ今まで気にも留めなかったのだろう。あまりの不条理さに、脳が錯覚だと思い込もうとしたのか?
カラ松は今更ながらの疑問を、恐る恐る口にした。
「な、なあ、おそ松。人が猫になるのって、よくあることなのか?」
急に何を言い出すんだ、というような顔をおそ松はした。
「さぁ~、よくあることかどうかは知んないけど……他の兄弟は誰も猫にならないわけだし。けどそれそんな重要なこと? つか天皇賞の結果以上に重要なことってある?」
「い、いや……」
おそ松の態度はいたって平然としていて、カラ松はまたわからなくなった。一松が猫になれることは、もしかして普通のことなのだろうか。
なんとなくそれ以上おそ松に聞いても埒が明かないように思ったので、カラ松は他の弟たちに聞いてみることにした。
「なあ、一松が猫になれること知ってるか?」
「知ってる知ってる。もう何でもありだよね」と呆れてみせたのはトド松だ。
「つかお前も見てたじゃん。なんで今更?」とチョロ松。
「はいはーい、僕も知ってるよ!」十四松は元気よく両手を上げてそう答えた。
「猫になった一松兄さんすっげーすごいんだよ! 高い塀とか軽々越えちゃうし、戦闘力めっちゃ上がるし!」
兄弟全員が一松の猫化のことを知っていながら、誰もがさほどそのことを深刻に捉えていない。
なぜだ? 一松が猫になることは、取り立てて騒ぐほどのことでもないのか? なぜみんな、ちょっと驚いたけどまあそういうこともあるよね、みたいな顔で受け入れているんだ? 一松がおかしいのか? 兄弟たちがおかしいのか? それとも俺がおかしいのか?
ぐるぐると思い悩むカラ松を他所に、兄弟たちはもうその話題にすっかり興味をなくした様子で、おそ松が手にした競馬新聞を囲んでああだかこうだか天皇賞のレース展開について予測を繰り広げている。
もしかしたら自分が知らないだけで、人間が猫になることはちょっと珍しいけどまあなくもないぐらいの出来事なのかもしれない。例えば、百人に一人、五十人に一人ぐらいの確率で、そういう体質を持つ人間が生まれてくるものなのかもしれない。そう考えると、まあ六人兄弟のうち一人ぐらい猫に変身できる体質の者がいたところで、それほど不思議ではないのかもしれない。うん、きっとそうだ。自分は小学校の授業もろくすっぽ真面目に聞いていなかったから、教科書に載っているような常識を知らずに育ってきている可能性は大いにある。だとすると、一松の猫化を不思議がる素振りを見せることは、すなわち己の無知をさらけ出すことに他ならない。大体、この広い世界で自分が知っていることなんてたかが知れているとは思わないか? 自分の定める常識の枠にとらわれて枠外の物事を不条理と決めつけるのは、矮小な人間のすることだ。
カラ松は一人納得したようにうんうんと頷いた。己の無知を知ることは、大いなる知の獲得と同義である。一見不条理に満ちたこの世界にこそ、真理は隠されているのだ。やはり今日の俺は哲学的思考が冴えわたっている。平成のソクラテスと呼ばれる日もいよいよ近い――。
「……ただいま」
そこに、猫と遊んできたらしい一松が帰ってきた。
「おかえり~」
一松は競馬新聞に興味を示さず、部屋の角の定位置にもそもそと座り込んだ。カラ松は彼にそっと近づいて、ウィンクをしてささやいた。
「おかえりブラザー。子猫ちゃんたちと遊ぶ時は、お前も猫に変身するのか? ノンノンノン、驚くことはない。お前が猫になれることはこの世の理。エジソンが偉い人であるのと同じくらい、世界中の誰もが知っている常識だ。だから臆せず、もう一度俺にその猫になった姿を見せてくれないか」
一松は、三角に折りたたんだ膝の向こうから心底蔑んだ目を向けてきた。
「お前、頭湧いてんの? 人間が猫になれるわけねーじゃん。マジ馬鹿だなクソ松。お花畑はてめーの中だけで咲かせてろよ」
「え? けどおそ松や他の兄弟たちだって……」
「担がれてんだよ。そんなの信じるとか、ヒヒッ、脳みそ空っぽにもほどがあるぜ」
一松は足を伸ばしてドンとカラ松を蹴とばし、さっさと立って十四松の隣に行ってしまった。
「え……え?」
この世は不条理に満ちている。
その日の夜のことである。
カラ松はふと何かに意識を引っ掻かれるような心地がして、ゆっくりとまぶたを押し開いた。暗闇のフィルターを通して、ちりちりと雑味の混ざった板張りの天井が目に入る。夜中に目覚めるのは、一度寝たらよっぽどのことがない限り朝までぐっすりの彼には珍しいことで、カラ松は不思議そうに見慣れない暗い天井を眺めた。隣からは、兄弟たちの五者五様のいびきと寝息。カラ松はそれをしばらくぼんやりと聞いてから、安心してまた目を閉じようとした。大丈夫、いつもの夜だ。余計なものは何もないし、足りないものも一つとしてない。――いや、なんだこれは?
カラ松は自分の眠りを妨げた違和感の正体に気づき、もう一度、今度ははっきりと目を開けた。
においだ。いつもは成人男子六人分の饐えたにおいしかしないこの部屋に、花を煮詰めたような濃厚な甘い香りが漂っている。それは意識して吸いこんだ途端、どろりとした質量と粘度を持って鼻孔から体内に垂れこめてきた。まずい、と思う理性の残るまま、甘い香りは麻酔のようにカラ松の意識を白濁としたものに変えていく。横になったまま世界がゆっくりと回転しているような酩酊感があって、カラ松の体はその渦の中に吸いこまれていく。早々に意識を手放したくなる気持ち悪さの中で、わずかに残った正常な意識が「何か」を見つけて警鐘を鳴らした。見過ごしてはいけない引っかかり。カラ松はその「何か」を見極めようと、必死でこちら側の岸辺に手を掛けて、混濁した渦に飲みこまれまいとした。部屋に満ちる兄弟たちのいびきが、やけに大きく鼓膜に響く。一際いびきのうるさいおそ松、静かな寝息の中に時折鼻をくぴくぴと鳴らすトド松、意外と豪快ないびきのチョロ松、もはやいびきなのか寝言なのかよくわからない十四松、そして――そうだ、一松はどこだ?
カラ松は手繰り集めた意識を総動員して、重たいまぶたをなんとか持ち上げた。度のきつすぎる眼鏡を掛けたみたいに視界が不安定に歪み、吐き気が襲ってくる。この甘い香りはなんだ。兄弟たちは起きないのか。一松はどこだ。一松――
カラ松は、どこからか風が吹きこんでくるのに気づいた。ベランダの窓が開いている。生ぬるい風が、部屋の中ののったりとした空気をわずかに掻き乱す。カラ松は視線だけをどうにか動かして、頭上のベランダの方を見る。窓の向こうに、二つのシルエット。一つはずんぐりむっくりとした小男のもの。奇妙なことに、彼のお尻の辺りから二股になったしっぽが生えているように見える。そしてもう一つは。
(一松……)
二人はベランダに立ち、窓を閉めて出ていこうとしている。
(待て……どこへ行く……)
カラ松は起き上がって呼び止めたかったが、体が鉛のように重たくて指一本動かすことができない。唇すらもぴくりとも動かず、舌は硬直して上あごにくっついたままだ。一松への呼びかけは、空気を揺らすことなく闇の中に沈んでいく。
(一松!)
声にならないうめき声が聞こえたのか、一松がわずかに後ろを振り返った。
「どないしはりました?」
ずんぐりむっくりの影が問う。その声は高くもなく低くもなく、どこか地底から聞こえてくるような不思議な響きをしていた。
「……いや、別に」
一松は視線をカラ松の上に残しながら、ゆっくりと背中を向けた。カラカラカラ。微かな音を立ててガラス窓が閉まる。二つのシルエットが、ベランダから飛び下りる。最後に二股のしっぽが柵を越えていき、後には茫洋とした赤く巨大な月が残った。カラ松はそれを見ながら、ふっと意識を手放した。
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