いつかは笑顔で君に告げよう

 短く一度だけバイブが鳴った。宮地はチラリと視線をディスプレイにやり、送信者を見て盛大に眉を顰めた。メールを開いて一瞥した後、ベッドの上に携帯を放り投げる。
「どうかしましたか?」
 宮地の膝の上でゴロゴロしていた高尾が、仰向けに見上げて言った。
 白々しい蛍光灯の明かりが高尾の額に落ち、彼の顔を不健康に青白く見せていた。その青白さのせいで、高尾のよく動く色素の薄い瞳が、却って彼の心の不安定さを映しているように見え、宮地は嫌な気分になった。
「何でもねーよ」
 高尾の目を塞ぐように、指通りのいい前髪を撫で下ろす。高尾はふふん、と甘えた息を漏らし、自分の額に触れる宮地の右腕に両手を絡めた。
 高尾と宮地は、恋人同士ではない。断じて。
(断じて違う、俺は高尾の高校バスケ部の二個上の先輩で、高尾は俺の高校バスケ部の二個下の後輩だ。そして今は二人とも社会人になって、偶々二人して福岡に転勤になり、よく飯を食いに行ったりする。それ以上でも、それ以下でもない)
 宮地は高尾を膝に遊ばせたまま、背後のベッドに凭れ込んだ。どうせここには長くいても数年と踏んで買った安物のベッドは、簡単にギシッと軋んだ音がする。高尾が初めて宮地の部屋へ遊びに来た時、彼は何の遠慮もなくベッドに飛び乗って、「これじゃ女の子連れ込んでもうるさすぎて集中できなくないっすか?」とふざけてギシギシ鳴らしたので、余計なお世話だと頭を一発殴ってやった。実際、女の子はそんなことを気にする間もなく別のことに夢中になってしまうので、特に問題を感じたことはなかった。
 軽く息を吐いて、さらに頭をベッドに預ける。再びギシッと音が鳴り、先程放り投げた携帯電話が、宮地の方へ少し滑るのが目の端に見えた。
 東京へ日帰り出張に行ったあの日から、高尾は緑間と連絡を取っていないらしい。

 あの日、夜の9時を回った頃に、このアパートのチャイムが鳴った。怪訝に思ってドアを開けると、どこかぼんやりとした表情の高尾が立っていた。彼はヘラヘラしているように見えて、こんな時間に何の連絡も無しに来るような非常識な人間ではなかったし、多少なりとも付き合いのある人ならわかるほどには様子がおかしかったので、とにかく腕を引っ張って部屋に入れた。引かれるまま玄関の間口に突っ立った彼に、「どうした」と尋ねると、何も映していないような目で宮地を見上げ、
「あー、いや、別に、何もないんすけど……いやほんと。つか、何してんだ俺。すんません、帰ります」
と、何の意味もない笑みを顔に貼り付けたので、結構容赦のない拳骨を落としてやった。いてぇ!と生理的な涙が滲んだが最後、詰まっていた涙腺の蓋が飛んだように、高尾は泣き出した。30分ほど玄関で突っ立ったまま泣き続け、疲れた宮地が促すように腕を引くと、泣きながら靴を脱ぎ、泣きながら宮地に手を引かれてベッドに座り、そのまま宮地の手に縋り付いたまま泣き続け、泣きながら眠ってしまった。
 宮地は辛抱強く、黙って右腕を高尾に貸してやり、やがて高尾が眠ったのを確認すると、舌打ちをして、彼をそっとベッドに寝かせながら自分も横になった。高尾が、他に縋るもののないようにしっかりと自分の右腕を握り締めているので、そうするしかなかったのだ。初めて大の男二人を乗せた安物のベッドは、ここぞとばかりに盛大に軋み、そして黙った。二人は朝まで身動き一つしなかった。(宮地は身動きが取れなかっただけだ。)
 明け方になってようやくうとうととした宮地が目を覚ますと、瞼を腫らしてみっともない顔をした高尾が、俯いてベッドの上に正座していた。
「はよ。……飯食おうぜ」
 以来、高尾は宮地と共にいる。

 宮地は、膝の上の高尾に視線を落とした。高尾は、結局そのまま眠ってしまったようだった。宮地の右腕に、高尾の両手が力無く絡まっている。宮地は高尾の力の抜けた手を取って、彼の腹の上にそっと置いてやった。規則正しく上下する腹、宮地の膝に預けきった頭、微かに開いた唇、時折くつんと鳴る鼻。それらの全てを、宮地は唐突に愛おしく思った。腹の底からわけのわからない衝動が押し上がり、喉元を湿らせ、こめかみを叩いた。宮地はとても高尾にキスをしたかったが、膝の上の彼に口付けるのは少し困難だったので、腹の上に置いた手を再び取り上げ、頬を寄せた。衝動は行き場を失くして、深い溜め息となって口から漏れた。
(先輩と後輩。それ以上でもそれ以下でもない)
 宮地の思考は、再びそこに戻った。
 キスはした。触れるようなものだけでなく、もっと性感を煽るようなキスもした。嫌がられるかと思ったが、戸惑いによる弱い抵抗があっただけだった。その延長で、互いのものを触り合ったりもした。セックスはしていない。
 それらの行為は普通の「先輩と後輩」がするものではないと宮地は理解していたが、ならば二人の関係を表すのに相応しい言葉は何だろう。恋人、セックスフレンド、友人、親友、運命共同体、秘密の共有者……他人同士を繋ぐ言葉を思いつくまま並べてみても、穴から抜け落ちたり、歪ではまらなかったりして、やはり、「先輩と後輩」以外に、二人の関係にぴたりと収まる言葉はなかった。少し特別な「先輩と後輩」。それ以上でも、それ以下でもない。
 手に触れる熱に気付いたのか、高尾がぼんやりと目を開けた。しばらく、ここがどこで、目の前にいるのが誰か理解できていないような曖昧な表情を浮かべていたが、やがて、「何してるんすか」と、寝起きの掠れた声で言って、笑った。
「……お前、携帯は?」
 宮地も、掠れた声で尋ねた。
「あー……家置いてきました。休みの日はどうせ宮地さんとしか連絡取らねえし、宮地さん家に来るならいいやと思って」
 ふん、と、否定も肯定もせず、宮地は再び高尾の前髪を撫でた。
「お前、まだ緑間からのメール読んでねえの」
「ません」
 変な答え方をした後輩の額を平手で叩いてから、少し赤くなったそこを撫でてやった。

 十日ほど前、緑間から電話が掛かってきた時、宮地は既に、高尾が緑間のメールを見ていないことを知っていた。一度、何かの弾みで彼のメール受信履歴を見た時に、緑間真太郎からのメールが未開封のまま溜まっているのに気付いたのだ。思わず高尾を睨み付けると、
「や、だって、もし緑間から彼女できたって報告だったらと思うと、怖くって……すんません」
と、また泣きそうな顔で笑うので、この件に関しては何も言わないことに決めた。しかし、読まないからと言って消すこともできない高尾に、内心苛立ってもいた。
 だから、緑間が珍しく思い詰めたような声で、高尾と連絡が取れないと訴えてきた時、宮地は少し意地の悪い言い方をしてしまった。
 高尾は、お前とわざと連絡を絶っている。俺とは普通に会ったり喋ったりするんだぜ。
 言外に滲ませた宮地の棘に、意外と聡い緑間は気付いたらしく、曖昧に何か呟いて電話を切ってしまった。緑間は、それを宮地の優越感と取ったかもしれない。実際は、激しい劣等感だというのに。

「なんすか、宮地さん、キスしたいの?」
 額を撫でる手を、愛撫する手付きに変えたら、高尾が擽ったそうに笑い声を立てた。
「したい」
 宮地は膝を立てて高尾の半身を起こすと、近付いた顔に唇を寄せた。わずか3センチの距離にある、高尾の瞳を見つめる。オレンジ色にも見える薄い虹彩がぼやけて見えるのは、近すぎる距離のためか、彼の目が潤んでいるためか、宮地には判断できなかった。やがて、高尾は瞳を閉じ、宮地は彼の下唇を優しく食んだ。少し腫れたような唇は冷たく、宮地はそれが悔しくて、温度差を埋めるようにキスを深くした。

 高尾が緑間のことで傷付いているのを、宮地は少し喜んでいた。緑間は誰から見ても高尾の一番の特別で、緑間もそれに応えているように見えた。二人は互いの「特別」の糸の先を結び合い、何者にも侵されることのない「特別」で繋がっていた。しかし、緑間が他の一番特別を作った(と、高尾が思っている)今、高尾の「特別」は、行き先を失くして頼りなく宙に浮いている。ならば、宮地は高尾の「特別」の先を、自分に向けることができるのではないかと思ったのだ。
 宮地は今まで、一番の特別を作ったことがなかった。それなりに好きになり、それなりに大事にしてきた相手は何人かいたが、彼女達は、皆、やがてそれぞれの特別を作って去っていってしまった。宮地も特には止めなかった。彼女達にとっての特別は自分ではなく、自分にとっての特別は彼女達ではなかった。それだけのことだ。
 そんな宮地が、高尾が福岡に来て、必然的によく会うようになり、個人的な付き合いをするようになって、いつの間にか、高尾となら「特別」で繋がれるのではないかと思うようになっていた。自分が高尾の中で緑間の次ぐらいに特別だと、自惚れでもなく知っていたし、高尾のことは好きだったから、高尾を特別に思えたらいいと思っていた。何より、緑間を見ている限り、高尾と「特別」で繋がることはとても気持ちのよいことのように思えたのだ。
 しかし宮地は、高尾と共にいればいるほど、高尾と緑間の「特別」を思い知らされた。それは言葉ではなく、彼の発する雰囲気から、表情から、態度から、自然と溢れているものだった。高尾や緑間のことを考えると、自分の気持ちなど取るに足らないものに思えてくる。宮地は確かに高尾の特別になりたくて、彼のことを大切に思っているが、その思いは、高尾と緑間を繋いでいた「特別」に割って入れるほどのものか、宮地はいまいち自信が持てなかった。
 俺はあんな風に人に気持ちを捧げることができるだろうか。
 あんな風に、誰かのために泣いたり苦しんだりできるだろうか。
 二人の特別が羨ましくて、それを真似てみたくなっただけではないのか。
 自分の隣に立つ高尾、緑間の隣に立つ高尾、想像できてしまうのはどちらだろう。

「ぜってー轢く」
 宮地はチッと軽く舌打ちして、抱き寄せていた体を引き剥がし、高尾の眼前にメールを開いて押し付けた。
「19時半に福岡駅。早く行けよ」
 高尾は呆然とディスプレイを見つめた後、困惑したように宮地を見た。
「とっとと行かねーと埋めるぞ」
 脅すように携帯をもう一度ぐいと押し付けると、高尾は瞳を揺らし、唇を噛んだ。
「ほら」
 かっこよく微笑んだつもりが、頬を抓られたような中途半端な表情になってしまったかもしれない。高尾は一瞬、痛ましげな顔をした。
「……すんません。ありがとうございます」
 そのまま勢いよく立ち上がり、後ろも振り返らず、アパートを飛び出した。もう彼の頭には、緑間のことしか浮かんでいないに違いない。
 宮地は知らずに詰めていた息を吐いて、勢いよくベッドに凭れかかった。安物のベッドは盛大にギシギシ音を立て、宮地は初めてその音をうるさいと思った。

* * * * *
 あれからしばらくして、緑間から電話があった。
「お世話をお掛けしました。ありがとうございます」
 次に彼に会った時、若しくは話をした時、自分は嫉妬心と劣等感を抑えられるだろうかと懸念していたが、あの緑間も人並みに礼を言えるようになったんだなと思うと、どこか突っ張っていた気持ちが解けるのを感じた。
「おう」
 短い相槌を打った後、お互い何か言いた気な沈黙が電話の間に漂った。
「……高尾は、泣き疲れて眠ってしまったので……」
 緑間のぎこちない声が、沈黙に続いて宮地の耳に届いた。
 あいつ、誰の前でもそうなのかよ。子供か。
 内心舌打ちをしながら、宮地は言わずにはいられなかった。
「もう泣かすんじゃねえぞ」
「はい」
「離すなよ」
「はい」
「誤魔化しも駄目だぞ」
「はい」
「素直に伝えろよ」
「人事を尽くすのだよ」
 我ながら、父親か、と思ったので、今度は聞こえるように舌打ちをして、
「まあとにかく、これで清々するわ」
と言うと、思いの外柔らかい声で、
「今度二人で会いに行きます」
と言われたので、
「轢くぞ」
と言って電話を切った。

 それが、二週間ほど前の話だ。いつ二人がやってくるのか、その時自分はどんな顔をして会えばいいのか、しばらく悩んで過ごしたが、まだその時は来なかった。緑間も高尾も、互いに整理したい気持ちがあるのかもしれない。宮地にとってはありがたかった。
 高尾のいない空間が落ち着かなくて、休みになると、宮地は街に出た。何をする当てもなく、ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んで人ごみを歩く。
 日曜日の昼間すれ違う人たちは、多くが誰かと一緒で、偶に一人の人を見掛けても、小走りに待ち合わせに向かっていたり、電話機の向こうの誰かと話していたりした。
 皆が誰かと繋がっていて、自分だけが一人ぼっちだ。
 宮地はそんな思いにとらわれた。
 もちろん宮地にだって、繋がっている人間はたくさんいる。しかし、高尾には緑間がいて、緑間には高尾がいる。大坪には結婚を考えて誰よりも大切にしている彼女がいて、木村には小学校からの親友がいると聞いた。宮地の中学校の仲の良かった友人たちは、宮地を挟まずとも今でもよくつるんでいるのを知っている。
 誰もが誰かと緊密に繋がっている中で、自分だけがどこにも属することができずにいる。話し声、クラクション、店の呼び込み、CDショップのから流れてくる音楽。人間の起こす雑音と体温の渦の中にいて、宮地はどうしようもなく孤独だった。そして、二週間ほど前まで隣にいて、今はもういない、高尾のことばかり考えた。
 高尾と街を歩いた時、隣でひょこひょこ動く頭が愛しかったこと。
 見慣れない高尾のスーツ姿にもごもごしていたら、くるりと一回転してウインクしたのでしばいてやったこと。
 オムライスを作って食べさせたら大げさに感動されたが、悪い気はしなかったこと。
 部屋で飲んで泣きながら寝てしまった高尾にキスしたこと。
 確かに、自分と高尾の間には「先輩と後輩」という関係以外何もなかった。しかし、こうして思い出す度に記憶の中の高尾は宮地の心に爪を立て、内側からガリガリと傷を付ける。痛いので、彼のことを考えないようにしても、宮地の中で高尾は忘れられたくないと爪を立てた。高尾はとっくに、宮地の唯一の「特別」だった。
 宮地は、唐突にそのことに思い当たり、立ち止まった。雑踏の中、突然立ち止まった背の高い男を、人々は迷惑そうに、または不思議そうに、或いは無関心で通り過ぎていく。
 宮地は空を見上げて呟いた。
「あーあ、振られちまった」
 声に出すと、不思議と心に風が通ったような気がした。寂しくも暖かい風が、胸の引っかき傷を撫でていく。思っていたより深かったこの傷はもう消えないかもしれないが、痛みはやがて時間と共に薄れていくのだと思う。
 いつか高尾に、「好きだった」と告げたい。彼は笑顔で、「俺も」と答えてくれるだろう。その隣で、緑間が少し不機嫌になりながらも、高尾に手を取られて、柔らかく微笑むのだ。
 そんな日が、いつか来ればいい。
 宮地は心からそう願った。

フ/ジファブリック 「H/ello」

12 → fin.


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